春のかたちその女は、まるでソラを裂くカガセオのように現れた。
代わり映えのしない日常。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。完璧で完全に閉じられた、完結した世界。龍は大自然の厳しさそのものであり、自我はあれども機構的な思考回路しか存在しない。
悠久の時を生き続ける機構であった彼にとって、それは目を焼くほど眩く鮮烈な光だった。
ソラを切り裂くカガセオのように現れたその女は、己を薪にしながら残り少ない命を激しく燃やして彼に挑む。当然、神である龍には遠く及ばぬほどの矮小な存在だ。川に向かって刃を振り下ろすように、大地に向かって鉛の弾を打ち込むように、女が己の自我を確立させる前より積み重ねた鍛錬など、龍の前ではまったくの無意味だった。
愚か、と切り捨てるべきだろう。人が神に挑むなど、本来なら相手にするまでもなく指の一振り吐息の一吹きで呆気なく潰せる程度のものでしかない。
しかし、なぜか。龍はこの愚かな女から目を離せないでいた。
龍にとっては、変わらない一日も永劫続く千年も皆同じ。一つの起伏もなく淡々と流れ続けていた時間が、突如速度を上げて通り過ぎていったのに気付いたのは、女が血を流して凍り付いた大地の上に倒れ伏したそのときだった。
清廉な白雪を鮮やかな朱色が染めてゆく。女の生命が流れていくその様を見て、不意に龍の胸の中で何かが鎌首をもたげた。
全てにおいて一切の綻び無く永遠に回り続ける秩序。そこに小さな亀裂が入る。
足元で虫のように這いつくばって、惨めにのたうち回る力でさえ失ってなお、女は力に固執した。己を弱いと嘲笑った者たちを見返してやりたいという、あまりにも切実な願いを口に出しながら。
「……美しい女だば」
気が付いたとき、龍はこの女に向かって感嘆の吐息を漏らしていた。正直に言えば、女は大八洲一の美女かと言われれば首を傾げざるを得ないだろう。確かに女は、人の中では間違いなく美しいと称される容貌をしているが、これと同じかそれ以上の美を持つ女人など常世には掃いて捨てるほどいる。
龍が無意識のうちに呟いた言葉は、女の容貌に向かって発されたものではなかった。己が人生で得られるであろう幸福も考えずに、ひたすら届かぬ願いに向かって走る。そのように燃え尽きるまで駆け続ける生命を選んだ女の生き様を評した言葉だ。
それは千年も変わらず生きる龍にとって、あまりにも眩く美しい奔星であったのだ。
この生命の輝きを永遠に留めたい。もっと見ていたい。終わってしまうことが許せない。
チリチリと胸の内を焼く奇妙な感覚。綻んだ秩序に打ち込まれた小さな亀裂が、徐々に大きくなっていく。それはゆっくりと、静かに、だが確実に閉じた世界で歪みを生み出していた。
(嗚呼……)
青い炎で焼き潰される寸前、龍は身の内を焦がす衝動に胸を掻きむしる。
大蛇の身体を解いてカタチだけ借りていた龍に、ヒトの指なんてものはない。しかしそうとしか言えないような奇妙な感覚があった。
あれが、かつて己が「美しい」と忖度なく評価した女ではない、なんて。
幼い同胞のあまりにも無垢な発言に失笑が漏れた。脈動する厄災の幼体に向かってのものではない。これはこのような事態に陥ってなお女に執着することを止められない己に対しての失笑だ。
あれがあの女では──辰子ではない、なんて。そんなこと、そんなこと、龍はとうの昔に理解していた。
でも、そこまでしてでも龍は女がそこに在り続ける事実に拘らなければいけない理由があったのだ。
自身がいつか老いて死ぬ定めが人には当然であるのと同じように、龍にとっては変化が無い日々こそが世界の規則。龍にとっては代わり映えのしない毎日が世界の秩序で、決して変えることのできない規則だから。
そんな龍にとって、女は秩序を乱す悪性腫瘍でしかなかった。
永遠が当たり前であった龍の在り方と、短く鮮烈なゆえに強烈な輝きを放つ女の生き方は、あまりにも相性が悪すぎたから。
龍が女を「美しい」と評価し、手を伸ばした時点で結末は決まっていた。
完璧であったはずの龍はいつしか壊れ、砕け、破綻し、そうして増殖した不具合にまみれて消えていく。病巣が進める末路は自滅だけなのだ。
……終わらない冬で閉ざされた世界に春が来る。
龍にとっての春は、美しい女のかたちをしていた。
END
2025/04/08