純真な愛 曖昧な秋は、アンバランスな関係にピリオドを打った。
「あれ、大寿? 久しぶり!」
「……三ツ谷」
五年前の秋。激しい金木犀の香りとともに、三ツ谷隆は柴大寿の前から姿を消した。
当時のことは、今もまだ生々しい傷として大寿の心に残っている。一度裂けてしまって、歪な引き攣れになって塞がった傷は、時折血潮が溢れていると錯覚するほど熱を帯びた。
「……久しぶり、なんざ軽々しく言うんだな。お前が」
「アハハ、怒ってる? ごめんごめん」
渋谷の外れにあるバーで、想定外の再会を果たすまで、大寿は当時の日々を忘れようと必死だった。そんな努力も、泡のように弾け飛ぶ。
不幸なことに、週末のバーは混んでいた。三ツ谷の左隣一席を残して、恋人や同僚とのひとときを楽しむ人たちで埋まっている。
「……ごめんね、オレが居て酒が飲めなさそうなら、もう、出るから」
「いい。気にしてねえ」
「そ、っか。じゃあ、お隣失礼します」
あの日々と何もかも違う。二十代前半だったふたりも、もう三十の壁が見えて来た。それだけではない。
短かった三ツ谷の髪が、肩まで伸びている。襟足だけ少し軽めにカットされた、あの頃と変わらない薄紫を帯びた銀糸は、仕立ての良い黒のジャケットに広がっていた。
「……そういうのは普通、後から来たオレが言うセリフだろ」
「そう、かもね。でも、普通ってなんだろ。そんなの、オレたちには似合わないでしょ」
普通が似合わない、と言ったのは。不良が絶滅しつつある時代に特攻服を身に纏っていた過去を指すのだろうか。それとも、二十歳で飲食店オーナーとなり、いまや都内一等地に複数店舗を持つ大寿を指すのか。クソだと宣言して賞を蹴ったのに、再び業界に戻った三ツ谷のことか。
あるいは、そのどれも全部、世間からしたら普通では無いのかもしれない。
「置いてあるオクトモアは?」
「……珍しいものでしたら、オクトモア12のアイラ・バーレイがございます」
「ストレートで貰おう」
酷く酔いたい気分だった。数あるアイラウイスキーの中でも、群を抜いてピートスモークの香るもの。大寿の中に浮かんだ銘柄といえば、オクトモアだった。
「どんなお酒?」
「アイラウイスキーだ」
「あぁ、オレはちょっと苦手」
数えきれないほどウイスキーが並ぶ棚の、とりわけ奥の方から取り出したボトルからメジャーカップ1杯分の酒を注ぐ。
手元を照らす照明の下に差し出されたそれは、大寿の瞳に近い色だった。
「一応乾杯しとく?」
「そうだなぁ、五年前、突然姿を眩ませた友人との再会を祝して」
「……意地悪だね」
グラスは合わせずに、少しだけ掲げた。何かのロングカクテルを飲んでいる姿は、当時の三ツ谷といまいち結び付かなかった。
酒を覚えてから何度も一緒に飲んで、色んな味を経て、この男は日本酒に落ち着いたはずだった。この五年で、好みの味が変わったのだろう。あるいは、誰かに、洋酒の味を教えてもらったのかも知れない。
空白の日々が、姿かたちを帯びていた。
もともと、味の強い酒だ。鼻腔を抜けるピートのにおいも、群を抜いて刺激的なのに。どうしてか、ちっとも味がしない。
「大寿は、どうしてた?」
「は?」
「5年前も忙しかったけど、今も相変わらず?」
少しだけ伏し目がちな表情も、見覚えのないそれだった。カウンターのダウンライトに照らされて、顔に影を作っている。オレがどういう5年を過ごしていたか、消えたそちらが問うのかと口の中が苦くなった。
「変わらねえよ」
突き放すのは、きっと簡単だ。
お前に教える義理はねえ、なんのつもりだ、お前こそ何してた。
たぶん、どれを選んでも、隣の男は煙のように姿をくらませる。
「そっかあ」
人生で、今ほど言葉を探したことはないだろう。
何かあったのか? どうして姿を消した? また、どこかへ行くのか?
浮かんだ疑問は、どれも適切でないようなかみ合わなさを覚える。
「……今度、新しい店を出す。それで、最近は少し忙しかった」
「おお! すごいね! 二十八歳にしてバリバリの社長だ」
「たまたま、恵まれただけだ。店のことは、店員らの裁量で決めてもらうことも多い」
「そのバランスがいいんじゃないの? そっちの業界のことは詳しくないけど、大寿だからできることだよ」
カラン、と三ツ谷が手にしていたグラスの中で氷が音を立てた。煽っていたそれは空になったようで、近づいてきたバーテンダーに「同じのを」と小声で注文している。何を飲んでいるかは、やっぱりわからなかった。
「……何も、聞かないんだね」
「聞いても居なくならないって保障はあんのか?」
視線を横に流せば、小さく首を振っていた。その目じりに、少しの迷いが表れているように見える。
「ちがう、かな」
「は?」
「ねえ、聞いてくれる? オレのコッカイ」
よく知る言葉のはずだ。
ただ、三ツ谷と「告解」があまりにも縁遠いと思って、そいつの口から滑り落ちた言葉が意味を持たないただの音に聞こえた。
「ああ」
「オレ、愛しちゃいけない人のことを愛しちゃったんだ」
どこからか漂うたばこの煙が、三ツ谷を遠くへ連れていくようだ。
「……そうか」
「うん。そんなつもりはなかったのに、大切だと思ったのは自分の欲で、気づいたら後戻りできなくて。何度も忘れようとして」
息が詰まりそうだった。二十八年間、ただの一度も忘れたことがない呼吸のしかたを、うまく思い出せない。
「……でも、無理だった。わざとらしい恋はどれも失敗して、結局、自分ではどうしようもない代物に育っていたって」
深く沈むような声色が、二人の間に横たわって壁を作っているようだった。
心の奥深くまで浸食した思いは、何よりも三ツ谷の本音であるはずなのに。聞けば聞くほど、知れば知るほど。手の届かない距離まで遠のいていきそうな予感さえあった。
「ごめんね、大寿」
限りなく透明な、告解だった。
「チェック。……コイツの分も一緒に頼む」
マスターに言いつけて、万札を二枚ほど一枚板のカウンターに叩きつけた。
たぶん、おつりはあるけど受け取る時間が惜しかった。
――はやく、二人になれる場所へ。
きっと今日、こいつを掴んでおかなければ、また消えてしまう。それだけは、許せなかった。
何かを言いかける三ツ谷を無視して、記憶よりも少しばかり細くなった腕を掴んで店を飛びだした。
「ちょっと、大寿、痛いって」
「鈍ったんじゃねえのか」
「は? 鈍るもなにも、もうあの日を最後に喧嘩なんてしてねーっつうの」
半ば衝動のままだった。連れ出したはいいものの、あてがあるわけではない。家まで戻るか。それでは警戒されるだろうか。ぐるぐると考えながら、ただ止まることだけはせずに突き進んだ。
渋谷はどこもかしこも坂だらけだ。オレのペースで歩いていたら、すぐに後ろから愚痴が飛んできた。
「も、なに……」
潜在意識にはこの場所が浮かんでいたのかも知れないが、少なくとも意識的にここに向かって足を動かしていた自覚はない。
見慣れた十字架と白い石造り外壁が視界に飛び込んできて、苦笑いが漏れた。
「……告解するならちゃんと教会で、ってこと?」
「さあな」
「さあなって、ここまで連れてきたの大寿じゃん」
少しだけ上がっていた息を整える三ツ谷を見て、ああ、五年ぶりだと実感する。影の落ちた横顔でも、憂いを帯びた伏目でもなく。真っ直ぐに前を睨みつける力強い薄紫。
「……言っておくけど、オレ、入らないよ」
「別に、良い」
「はあ? 付き合ってらんない、帰る」
その手を掴んで引き寄せたのは本能だ。
曖昧な秋に唆された。
「オマエの告解がどこであろうと、オレはそれを聞き入れるし、――許す。だから三ツ谷、もう、オレの前から居なくならないでくれ」
「は……、なに、それ」
唇をわなわなとさせ、怒り、悲しみ、絶望。そのどれをも、この小さな体で、一身に受け止めようとする三ツ谷を抱きしめた。
「……オマエが愛したのは、オレじゃないのか」
「っ」
「そんな告解も懺悔も、とうの昔に済ませている。たった一人愛した人が男で、絶望したのはオマエだけじゃない」
あの時と違って、確信があった。
一緒にクレープに誘い出した三ツ谷の真意も、二人の交流が誰にも知られていないと告げられた時の衝撃も、その理由がひとつも分からなかったのに。
五年前の自分と同じ表情を浮かべているこの男が、どんな罪を背負ったかなんて、手にとるようにわかるのだ。
「……アンタ、敬虔なクリスチャンなんだろ」
「ああ、そうだな」
「どうして、そんなに」
「簡単ではなかった。ただ、オレはいつも、失ってから気付く」
柚葉と八戒への愛が間違えていたと、教えてくれたのはこの男だ。
「……オレは、都合の良い男なんだ」
「はあ? アンタを都合良く扱える人なんて」
「父が寄り付かなくなった家で、子供しかいない世界で、二人を守るために。オレには絶対に揺るがない道標が必要だった」
それが、オレにとっての聖書だった。読み込めばそこには、己の律し方が記されてあった。
「……そもそも、神は暴力を許していない」
「はは、……だめじゃん」
少しばかり和らいだ声色に、ようやく自分の体から力が抜けていくのがわかった。いつのまにか力が篭っていたことに、気が付けないほどに必死になるのは。
「オマエだけだ」
「……でも、オレ、大寿が思うほどきれいじゃない」
「それも含めて三ツ谷隆なら、全部諦めて寄越せ」
神の前には辿り着けなかった。
それでも、これを愛と言わずして、なんといえば良いのか分からなかった。揺るぎない信念をもって、答えられる。
「愛してる、三ツ谷」
「……オレも、大寿のこと、ずっと」