夏に二人で 日本の夏は暑い。からっとした暑さならまだいいものの、湿気がまざった暑さだとどうしようもない。十分冷房が効いているはずの図書館も廊下を歩くと日差しのせいで少し歩くだけでも汗がにじむほどだ。日本の夏はかなり経験した方だが、年々暑さは酷さを増しているように感じる。まさに酷暑。それは佐藤のみならず、他の文豪も口を揃えて言うことだ。
「入るぞ」
どうぞ、と間の抜けた声がドア越しに聞こえた。
「ああ、春夫先生でしたか。春夫先生なら勝手に入っていいのに」
「親しき仲にも礼儀あり、だ。ほら、書類持って来たぞ」
「どうも、いつも助かりますよ。それにしても、今日は暑いですねえ……」
その意見には同意だ。しかし、この部屋はまだ対策の仕様がある。激しい日差しは窓一枚、カーテンを隔てていて部屋へ差し込んでいる。これが司書室の暑さを助長している原因だ。実際、肌にあたる風は冷たいのにその日差しが外の暑さを連想させる。つまるところ、梅干を見ると唾が出てくるのと同じようなものだ。
今日は風が吹いているようで影が時折ゆらゆらと揺れている。
「なあ、カーテン閉めないか?」
「嫌ですよ、私は夏の健康的な緑が好きなんです。そんなに暑いなら冷房下げてくださいよ」
だが冷房の設定温度は既に適温。これ以上、温度を下げたら次は体調を崩しかねない。
「照り返しのせいだろう。そんなに緑が好きなら、司書室でなにか育てればいいだろう」
「葉っぱの緑が好きなんですよ……特に大木の。ふるさとを思い出すので」
司書がうちわをあおぎながら答えた。丁度、窓から風景が見えるような場所に机を置いているせいで冷房の風よりも日差しの照り返しの暑さが勝っているのだろう。
照り返しのせいで熱いなら冷やす方がいい、そう思い司書室に備え付けられた冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中には冷えた水と冷感タオルが置いてある。
「ほら、これ使え」
「ありがとうございます……でもなんで。これ春夫先生のものでしょ?」
「あんたが俺に好きに使えって言ったんだ、いいだろ」
司書に自由に使っていいと言われたなら、佐藤の自由にしていいはずだ。それが佐藤の使うものでなくても。佐藤は司書と長い付き合いになる。それこそ、七年。図書館の中では徳田と同じく、古株の一人だ。
「春夫先生は自分のものじゃなくて、私のためとか他人のためのものばかり置いてますよね。もっと自分のもの入れたらいいのに。司書室はある意味、春夫先生の第二の部屋なのに」
司書のこの言葉は佐藤にとってまんざらでもないものだ。
「そうだ、今度の休日に親戚の山に行くんです。よかったら一緒にどうですか。結構涼しいですし」
無理にとは言いませんよ、と司書は付け足す。それからさらにこまごまとした言葉が出てきていたが、佐藤は司書からの誘いなら出来るだけ受けるつもりでいた。
「いいのか? 丁度、何処かに行こうと思っていたんだ」
佐藤の返答に司書の表情は一気に明るくなる。普段はのらりくらりとしてみせているが、感情が高ぶると分かりやすく反応してみせる。そういう司書を見ると佐藤も思わず頬が緩む。
「それじゃあ、今から色々決めましょう!」
「まだ仕事中だろ。終わったらまた来るよ」
もう行くのかという司書からの視線を背中に感じながら佐藤は司書室を後にした。
早朝、まだ太陽が本調子ではない時間に図書館を二人は出発した。道中、いつものように司書が佐藤に話しかけ続けていたが、電車に乗るとすっかり口を閉ざしてしまっていた。
丁度四人が座れるボックス席に向かい合わせになって座っていた。窓の外、流れる景色を司書はずっと眺めている。話しかけてこない。
どうにも少し、ほんの少しだが面白くない。ほんの少し、ちょっかいでもかけてやろうという気持ちが湧いてくる。
「どうしました、先生」
司書はようやく佐藤の方を向いた。
「もしかして飽きました?」
「いや……飽きたわけじゃない。何か面白いものでもあったか?」
司書がくすりと笑みを零す。
「春夫先生、もしかして退屈していましたか?」
「違う。あんたがしゃべらないのはどうにも調子が狂ってな……」
「それならお話ししましょうか。そうだ、間違い探しをしましょう! 今日の私には何か違うところがあります、探してください」
突然始まった司書の間違い探しに
だが、仕掛けられたからには仕方がない。それに話しかけたのは自分の方だ、佐藤は座っている司書の姿を眺める。司書自身に大きな変化はない。佐藤が何度か見たことのある司書だ。となると司書の持ち物が違うのだろう……
そう見立ててすぐ、佐藤は一つ大きな違いに気が付いた。
「分かった。帽子のリボンを変えたんだろう。一体幾つ持ってるんだ?」
司書の麦わら帽子のリボンは見るたびに、変わっている。確か前は赤だったはずだ。よく考えれば簡単な問題だった。
「うーん、数えたことないですね。でもこのリボンはね、先生の瞳の色と似ていたから……」
それは、と佐藤が口を開こうとしたところ、ぎぃと金属の擦れる音がした。椅子はその反動を間接的に二人に伝えた。
「ああ、そろそろ降りる準備しましょうか。次の駅ですよ」
目的地は近いようだ。
司書の親戚の家は駅から思っていたより遠くはなかった。到着すると司書はそれはそれは盛大な歓待を受けており、随分と可愛がられていることがよく分かった。まさか自分までその中に入れられるとは佐藤自身、思っていなかったが……
つい先ほどの記憶が頭を巡り、それからスケッチブックに落ちた汗でふと現実に戻される。太陽がすっかり真上で輝いている。ここに来てからどれくらいの時間が経ったのだろう。司書の置いていったブロック型の時計を確認するとゆうに三時間は経っていた。
経過時間を自覚した瞬間、喉の渇きがやってきた。司書にもきつく言われた通り、こまめに水分補給を心掛けていたものの、体は物足りなかったらしい。喉がごくごくと動いているのが分かる。
水を飲み干し、周囲を見渡す。川面は静かに、太陽の光を反射して小さなせせらぎを奏でている。そして後ろにそびえる山の木々を揺らす。
司書は暫く佐藤のスケッチする姿を見ていたが、親戚が来ると彼らについて山菜を摂りに出かけて行った。その時、昼には一度戻ると言っていたが戻ってこない。
(まさか、)
佐藤の頭に嫌な予感がよぎる。何処かで怪我をしたのか、それとも……
それ以上のことが頭によぎったがすぐにかき消す。そんな可能性は考えたくもない。とはいえ、自然の中で下手に動くのもよくない。むしろ、動かずに待つ方がいい。司書は一人で山に入ったわけではない。賑やかに親戚と入っていったはずだ。
自らの気持ちを落ち着かせようと、一度周囲を見渡す。すると、一つ、目についた。樹の下の緑になじまない緑のリボンが付いた麦わら帽子が。横たえるように置かれたそれを手に取ると、上から柔らかいノンビリした声が降ってきた。
「あ、春夫先生。おはようございます。順調ですか?」
木の上からあびせられる視線がささる。まるでチェシャ猫とアリスのような構造だ。
「戻って来たなら一言声を掛けてくれ……心配するだろう」
「帽子置いといたら気がついてくれると思って」
佐藤の手にある麦わら帽子を指さして、また笑った。
「あんたはちょっと俺のことを過信しすぎだ。いつでもそばにいられる訳じゃない」
「過信? 裏切ったことないじゃないですか。信頼が裏切られた時、過信になるからまだセーフです。それに何かあったら先生のこと呼び出すからいつもそばにいてくれるじゃないですか」
本当にこの司書は困る、と佐藤はため息をつく。勘違いしそうなことを平気な顔して言う。
「俺のことを叩き起こしたのはあんただからな。そりゃ呼ばれれば何処にでも行く」
「ほら、過信じゃなくて信頼ですよ」
それに今だって見つけてくれたじゃないですか、と相変わらず危機感の足りない、呑気な声。時折、風と共に木々が揺れると陽が差し込んで司書の表情を読み取れない。
「……ここじゃどうにも話してる気にならない、そろそろ降りてきたらどうだ」
「それもそうですね。それに、そろそろお昼の時間です。一緒に食べましょうよ。皆さんが待ってます」
「そうだったのか⁉ それならなおさら早く声を掛けてくれ……」
「いやあ、先生があまりにも真剣なもので」
木の枝を鉄棒のようにしてくるりと半回転。そして綺麗に着地まで決めて見せた。しかし、その後すぐにその場でうずくまった。すぐに立ち上がるだろうと思っていたが、暫くしても立ち上がらない。
「どうした」
うずくまる司書の顔を覗き込む。ゆっくりと顔をあげた司書の顔はまるで
「足にじわじわ反動が来てて……すみません、手を貸してください」
手を貸したところで反動は変わらないような気がするが、司書に言われるがまま佐藤は手を差し伸べた。
「ありがとうございます、何とか歩けそうです」
「おぶってやるぞ」
「それは流石に……」
佐藤の申し出を断って司書はふらふらと歩きだした。歩き出したのはいいが、どうもその動きは生まれたてのシカのようにふるふると震えている。
「足挫いたんだろう」
「昔は平気だったんですけどね」
「昔っていつの話だ」
「小学生……」
「……まあ、無理するな」
流石に諦めたのか、司書は大人しくその場に座り込んだ。毎度、遠慮するなと言っておきながら自分は遠慮する司書に呆れつつ、抱き上げる。
「あの、これはちょっと」
「足が痛いならおぶさるのも辛いだろう。それともあれか? 米俵と同じように運ばれたいのか」
「それはそれで春夫先生が変な目で見られる……」
「こんな時でも俺の心配をしてくれるんだな……今は自分の怪我の心配をしてくれ」
そう伝えれば司書はこくりと頷いた。司書は佐藤の腕の中で心地よく揺られている。
暫く歩いていると、佐藤の首元にタオルが優しく押し当てられる。
「ありがとう、助かる」
「運んでもらっていますし、これくらいは」
それから司書は時折、タオルで佐藤の汗を拭った。タオル越しに触れる手がくすぐったい。くすぐったさの度に心臓の奥の方までくすぐられているような錯覚を起こすせいで、佐藤の足は自然と早まっていた。
影はすっかり伸び、あたりを淡いオレンジ色に染めている。耳にはセミの鳴き声を聞きながら、司書の隣を連れ立って歩く。平和な光景だ。
隣を歩く司書の上機嫌な鼻歌が、小さな感嘆の声と入れ替わった。
「先生が来てくれて助かりました。沢山食べてもらえたので皆喜んでいましたよ」
「お土産もかなり貰ってしまったな」
「ちょっとおまけしてもらいました。図書館の皆さんで食べなさいって」
佐藤が持つ袋の中は司書とその親戚たちが採って来た山菜が袋一杯に入っていた。風が吹くたびにほんのり山の自然を感じさせるような匂いがする。
「料理好きの皆さんに分けましょう」
「そうだな、檀なんか喜ぶと思うぞ」
「ねえ、春夫先生はどうやって食べたい? 私、頑張るよ」
司書は自信満々に佐藤の顔を覗き込む。
「そうだな、候補が幾つかある。天ぷらもいいし、おひたしにするのもいい。サラダにしてもいいんじゃないか?」
「全部いいですね。天ぷらならお蕎麦も用意しましょう、合いそうなものを全部用意して、皆で賑やかに!」
「皆か。それもいいが、たまには二人でもいいだろう」
ほう、と司書が目を丸くしている。
「驚くことか?」
「そういうわけではなく、嬉しいんですよ」
「そういえば、さっき何を言われたんだ?」
聞くべきか悩んだが、やはり聞いてみたい。佐藤の中でそういう好奇心が勝った。
「……野暮ですよ、そういうこと聞くの。先生の豊富な経験をもってして考えてください。ほら、親戚の子供が異性を連れてきたってなったら聞くことが大体決まってるじゃないですか?」
意図を理解した佐藤が、すまん、と蚊の泣くような声を零した。