Eeeeさんのメモ浄紫に感化されたもの 怒りとは燃え上がる熱い感情だと思っていた。怒りを知らない紫苑にとってそれは今まで触れてきたフィクションによる想像に過ぎず、それが如何に空虚で薄いチャチな想定に過ぎなかったかと痛感する。
「許されるかどうか、直接聞いてみたらどうですか。会えるかどうか分かりませんが。」
大切な人を殺した罪人の首を絞めながら、紫苑は怒りで震える声で告げた。これだけの力が湧き上がってくるというのに心は氷のように冷え切っていて、凍えた時のように声も体も震えていた。これが怒りだというのなら、この感情は冬の寒さより酷く残酷な冷たさで他者を殺すのだろう。
その憎き相手は今はぐったりと紫苑の手の中で力無く項垂れていた。普段なら整髪料できちんとセットされた髪はぐしゃぐしゃに解け、顔を隠し、きちんと着こなしたジャケットは紫苑からの暴行によって一部破けていた。酸欠でもはや紫苑の声が聞こえているのかいないのか、そもそも襲った瞬間から今に至るまで、彼は──浄さんは、一度も抵抗をしなかった。一度驚いたように目を見開いて、紫苑の姿を確認して、それきり顔を伏せて一切の無抵抗だ。それが気に食わなくて、紫苑は更に絞める力を強めた。それにも一度背筋を痙攣させたかのように動かしただけで、抵抗する気配は見せなかった。
「っ、は、ぁ……」
いつのまにか息を忘れていたのだろう。紫苑も顔が真っ赤になる程呼吸が出来ていなかった。その一瞬の息継ぎのせいで指の力が緩んでしまった。ずるり、と紫苑のひとまわり大きくて強いはずの男の体が紫苑の手から滑り落ち、崩れる。どさっ、とそれが床に倒れ込んで、紫苑はハッと我に返った。
(あ、あ、あ……)
突発的な殺意では人を確実に殺すには至らないのだろう。たった一息、取り込んだ酸素が紫苑をまともに引き戻してしまった。
「じょ、さん……」
紫苑は慌てて屈み、崩れ落ちた浄の肩に触れた。酷い事をしたのは自分だと言うのに、他でもない自分がこの人を傷付けたという現実に酷く動揺していた。ごほ、と彼は咳を一つした。が、依然として顔は上げなかった。やはり紫苑の力では生身であれ一人の鍛えた男を殺すのは難しかったのだろう。
無様に紫苑の足元にうずくまり、そこからまた動く気配がない。背中が呼吸によって膨張と収縮を繰り返しているというのに、紫苑から何かをしなければ動く気はない、と言いたげで、神に赦しを乞う悪人の姿そのものだと紫苑はどこか他人事のように思った。
沈黙が落ちた。この膠着はきっとずっと終わらない。自分が動かなければ、決して。そしてそれにずっと耐えられるほど、今の紫苑は余裕がなかった。
「っ……」
彼の胸ぐらを掴み、無理矢理顔を上げさせた。それは半ば意地だった。また首を絞めてやろう、殴ってやろうという怒りは確かに煮え滾っているのに、さっきのようにうまく噴出しない。でもそうしなければと死んだあの人のことを思うと手を止めることが出来なかった。
──彼の穏やかな顔を見るまでは。
殺される寸前の、散々暴力を受けた後の人間とは思えぬ安らぎに満ちた顔に紫苑は怯んだ。虚勢でもはったりでもない、この人は本気だ、嘘を何一つ感じ取れない。
(この人、ぼくに殺されたがっている。)
胸ぐらを掴んだ手に力が抜けた。
「……すみません、でした。」
……何に対しての謝罪だ、これは。
謝るべきは彼であってぼくじゃない。でも、紫苑は彼の首をもう絞めたくは無かった。そんなことをしても、何の意味もないことに気付いてしまったからだ。
紫苑が黙り込んでしまって、今度は浄さんが困ったように眉を顰めた。
「殺さなくていいのかい?」
こちらを気遣うような声掛けが不愉快で、紫苑は変わらず冷たい声で唸った。
「……ぼくは、あなたなんか殺したくない。
浄さんが、ぼくに殺されたいんでしょう?」
でも、と突き放す。怒りの籠った冷たい声が、浄さんが確実に傷つく言葉を選んでしまう。
「ぼくは、そこまであなたに優しくなれない。あの人とは違って。」
あぁ、優しい人だ。優しかったから死んだのだ、助ける必要のない悪人を庇って、生き方を変えさせるほど改心させた。自分もそうなれたらよかったのに。息が震える、制御の効かない怒りに任せて、僕はあの人の代わりに吠えた。
「あなたの罪を裁くのはあの人だけだ……だから、だからっ……中途半端に逃げ出そうだなんて、絶対に、絶対に赦さないっ!」
ぼたぼたと涙が溢れて視界がぼやけた。それでも今自分と対峙するあの男がどんな顔をしたのかどうしても見たくって、紫苑は泣きじゃくりながら目を擦って涙を追い出した。
彼は反論するでもなく、動揺するでもなく、ただ黙って紫苑が泣くところを感情の抜け落ちたような顔で見ていた。
「……そうだね。全くもって、その通りだ。」
彼は微笑みもせず、そう呟いて目を伏せた。わずかながらの落胆と嫌悪のようなものを感じ取る。それが何を意味するのか、今の紫苑には考える余裕はなかった。
全力で締めた首筋は真っ赤に腫れて、きっと次の日には青くあざになっているだろう。彼はきっと、その傷も背負って明日も生きていく。