黒き海の落とし子 陽真が住んでいる小さなアパートの良いところの一つに、海が程々に近いというのがある。徒歩三十分の所にある遊泳には向かない汚い海岸線に向かう時、決まって陽真はゴミ袋とトングを持っていく。美化活動或いはボランティア精神、と言えば聞こえはいいが、嫌なことがあった時、とにかく身体を動かすと気持ちの整理をつけられるという長年の習慣によるものだった。
だから今も、夕日の沈んだ後の寒い冬の日に、誰もいない海岸線を独り歩きながらゴミを黙々と拾っている。
さく、さくとグレーの荒い砂利のような砂浜を歩く。彼の前には、打ち上げられたペットボトル、ビニルの紐、大人のおもちゃ等々が無数に落ちていて、たった一人の力では到底綺麗になるはずがない、と万人は口を揃えていうだろう。陽真の目的は海を綺麗にすることではないので問題はないのだが。
(……さむ、上着持ってきてよかった)
空気の澄んだ十一月の夜だった。雲ひとつなく、左側が半分ほど齧られた名前のない月だけが黒々とした海を照らしている。懐中電灯の光がなくとも足元がはっきりと見えるように思えた。一人で持ち帰れる大きさのゴミをなるべく選り分けて拾う。ざっと視認したものをブツブツと口に出した。
「空き缶、ペットボトル、シリコンの物体、タイヤ、空き箱、ガラス瓶……」
拾えるもの、拾えないもの、自分が出来ること、出来ないこと……
分別していくたびに自己と世界の境界がくっきりしていくようで、その度に多少は凹んでいた事がマシになる。切り替えるにはやはり、こういった単純作業が性に合っていると、思ったその時だった。
「モニター、うおッ……マネキン……?!だよ、な……?」
陽真の視線の先に映ったのは、人の形と大きさをした物体だった。月の光に照らされ、キラキラと光を反射する様子から、ついさっき流れ着いたと思われる。流石にあんなに拾うことは出来ない、が……
(……本当に、マネキンか?)
彼が懸念したのはヒトの死体である可能性である。何かしらの事情で遺棄されたヒトであるのなら、これは事件の可能性がある。ゴミ拾いのことなど頭からすっぽ抜け、恐ろしいと思いながらも彼は早足でその物体へと駆け寄った。
月の光ではシルエットしか分からなかったその物体は、近づけば近付くほど美しいヒトの形をしていた。少なくとも崩れた死体には見えないし、どちらかと言えばうつ伏せになった人形のように見える。上半身が陸へと乗り上げ、下半身は海に晒されており、もし生きているのであればこの気候では死んでしまう!と陽真はパッと懐中電灯の光を向けた。
「ッ──!?」
そして、息を呑んだ。
陽真の光によって新たな光源を得たその──生き物は更に美しく乱反射した。濡れているからだけではない、白銀の美しい鱗がプリズムのように力強く跳ね返したからだ。その鱗は背中から所々付いているが、下半身に向けてどんどん割合を増していき、足はすっかり魚の尾のような形をしている。
「人、魚……」
御伽話でしか知らない美しい未知の生物が、陽真の前に無防備に倒れていた。恐ろしい、と思う前に、その美しさに魅かれるように一歩近づき、うつ伏せになった彼の上体を起こした。
その生物の体は氷のように冷たく、肌は日本人のものよりかなり白かったが、外国人とも形容し難い不思議な色をしていた。頭は夜の海のように深い青色をした髪に覆われている。胸に手を当てれば確かにそこには鼓動があった。
「……とりあえず、男……の人魚だよな?」
身体的特徴からそう判断して、陽真は彼を海から引き上げた。ぞり、と砂利が彼の肌と鱗を擦って、そこから赤い血が緩やかに滲む。と、下半身の先の方に、何かが絡まっているのが見えた。
(網……?)
漁には明るくない陽真ではそれがどんなものかはよくわからないが、金属のような棘のある網が彼の美しい尾に食い込んで痛々しい。ゴミ拾いのために軍手をしていてよかったと心から自分の行いに感謝して、陽真はそれをゆっくりと引き抜き、海へと放り投げてしまった。
そうしてようやく、この美しい人魚は自由になった。
「……ッ、ぁ……」
痛みを感じたのだろうか、何か小さな吐息と声がして、陽真はバッと声の先へ目をやる。
「っ、大丈夫か?今、網を取ったから……」
パチ、と緑と青が混じり合った不思議な色をした瞳と目があった。美しい人は目の色まで美しいのかと感嘆すら覚え言葉を失う。そんな陽真の様子に彼はキョトンとした顔をした。
「……君は、誰だ?」
***
お人よしの善人である伊織陽真はこの人魚を決して放っておくことが出来なかった。取り敢えず自身の着ている上着をの下半身に掛けてやり、二、三、質問をする。
「俺は伊織陽真、大学生だよ。君こそ名前は?」
「──分からない、気が付いたらここにいた。俺はなんなのだろうか。」
「人魚に見えるけど、海の下に人魚の国があるんじゃないのか?」
「──分からない、が、俺には家族がいない。忘れたのではなく、初めからいないように思える。」
「そっ……かぁ……」
まさか美化活動で行く当てのない未確認生物を拾うことになるとは、と頭を抱えた。この場合、警察に通報?それとも海洋生物の研究所にでも連絡したほうが良いのだろうか、と頭を悩ませた時──
ぐぅ〜〜と、大きな腹の音がした。
目の前の彼も音に驚いているようだった。
「お前、腹減ってるのか?」
その声かけに、彼はぺたり、と自身の腹を触った。
「よく、分からないが、ここのあたりがムズムズする……」
きょとん、と彼は困ったように視線を下に向ける。食欲、というものすら知らないようだった。あまりに美しく、この世のモノではないと思えた恐ろしさが、その間抜けな仕草で吹き飛んで、胸の中で何かが弾けた。
「ッ──」
弾けたそれはあっという間に陽真の視線を彼の元へと向けさせる。キラキラと輝く彼の鱗が魅了するように陽真の間抜けな顔を反射した。
「じゃ、ウチ来いよ」
元来真っ直ぐな男は、衝動に任せてそう言ってしまった。
「美味しい陽真特製オムライス食わせてやるからさ!後のことは食べてから考えようぜ!」
この素敵な生き物を寒空の中放っておくことはどうしても出来ない、何より少しでも手元に置いてみたい、と邪な心が働いた。とりあえず一時的に保護するだけだから、と心にごまかしを一つして、陽真は人魚の腰に手を差し入れる。よっ、と横抱きにすれば、水分を吸った重たい尾鰭がずっしりと陽真の体に纏わりつき
これが現実だと如実に告げている。
「何故?」
「腹が減っては戦は出来ぬっていうからだ!」
ざく、ざく、人魚一尾分の重さを抱え、行きより深くなった足跡を付けながら、おおよそ平凡で善良な大学生、伊織陽真は一等美しいその人魚を、家に持ち帰ることにした。月明かりが二人を照らしていたけれど、人間一人と人魚が一尾、隠れるように陸へと暮らし始めたことを、その夜は他の誰も知ることはなかった。