クッキーを焼いて渡す話(公式) 室温で柔らかくなったバターと粉砂糖をすり混ぜる。空気を含まないようにゴムベラでしっかりと切るように手を動かして、白っぽくなったら予め溶いた卵黄を入れる。もう何度も作り慣れているはずのシンプルなアイシングクッキーの手順のはずなのに、分離したりしないか、分量を間違えてはいないかとどうしてか引っかかりを覚えて、メモに書かれた分量を何度も反芻した。
彼には安っぽいかもしれないけれど、とスーパーで奮発して買ったバニラエッセンスを三滴香り付けに入れる。不思議と味はしない隠された甘い香り。振るった薄力粉を一気に入れて誤魔化すように練り混ぜて仕舞えば、よっぽど敏感な人でない限り匂いは分からなくなってしまうだろう。ベースが出来上がったので、ラップで生地を包んで冷蔵庫にしまった。
すでにその中にはアイスボックスとガレット・ブルトンヌの生地が寝かせられていて、扉を開ければ甘い匂いがふわりと漂った。
「何してるんだ」
背後から慈玄の声がした。紫苑が振り返れば不審そうな顔をした彼が腕を組んでこちらを見ていた。寝る前に手早く生地の仕込みだけしようと思っていたのだけれど、もしかしたら騒がしかったかもしれない。
「寝る前にうるさくしてごめんね、クッキー作ってるんだ。仕込みだけだから焼くのは明日になるよ」
別にそれはいい、と素っ気なく返事をした彼は不思議そうに首を傾げて更に問いかける。
「そんなに沢山菓子を焼いてどうするんだ。ハロウィンは先月だぞ」
「あはは……確かに」
言いつつ紫苑は余った卵白に砂糖を加えて泡立て器でかき混ぜ始めた。くるんと丸まったメレンゲクッキーも作ろう。チョコがけの物を自作したことはなかったので前から試してみたかったのだ。
「誕生日プレゼントだよ。どんなクッキーが好みか分からなくて色々試作してたら絞れなくて」
今の段階で作ろうと思っているのはチェック柄のアイスボックス、周りをグラニュー糖で覆ったディアマン、アイシングクッキー、同じ生地で作れるステンドグラスクッキー、レモンシトロン、バターと粉が同量入った贅沢なガレット・ブルトンヌ、そこにジャムを乗せたジャムサンド、それから今作っているメレンゲクッキー……
「わ、八種類も作ろうとしてる」
紫苑は我ながら驚いた。手当たり次第思いつく限り手を動かしていたからか、いざ数えてみるとかなりの量だ。
「……誰に贈ろうとしてるんだ。気持ちは買うが分量は考えろよ」
「うーん、余ったらライダー屋のみんなにお裾分けだね」
でも、あの人なら全部食べ切ってしまうような気がする。初めて会った時のクッキーの食いつきを見れば、甘いものは別腹ってタイプだって一目で分かったので。
夜中にうるさくしないように、手動で泡立てるのは苦労したけれど、なんとかツノがピンと立つくらい綺麗なメレンゲが出来上がった。この生地だけは萎む前にすぐに焼いてしまわなければならないので、絞る前にオーブンの予熱スイッチを入れれば、いつのまにか苦虫を噛み潰した顔をした慈玄がキッチンの中に入ってきた。
「もしかして、あの男か?」
「──ええと、あの男というか……浄さんだよ」
その名前を聞いた途端、はぁ……とあからさまに溜息をついた。眉を顰め、パッと見れば怖い顔になっていたけれど、彼から滲み出る感情は心配が大半を占めているようだった。
「わざわざ浄にそんなに作る必要あるか?普段から接点がある訳でもあるまいし……」
「んー、そうでもないよ?
商業地区でばったりあった時とか、美味しいケーキ屋さん案内してもらったり、先輩として親切にしてもらってるからお礼くらいしないと。それに、四枚ずつ作ればウィズダムシンクスの皆さんにも食べてもらえるかなって」
特に、宗雲さんや皇紀さんは料理関連でかなりお世話になっているし、颯さんは──こちらから歩み寄りたいとは思っている。向こうが嫌っている限り難しいだろうとは思うが、それでもそれが彼にクッキーを食べて欲しいと思ってはいけない理由にはならない。
クッキングシートにメレンゲクッキーの生地を絞っていく。丸みを帯びた円錐台にコロコロと並べられていく彼らは、どう見ても四つ以上は作れてしまいそうだった。
「……それでも余った分は食べてくれる?出来立ては美味しいし」
バツが悪そうにそう言葉を続ければ、蒲生君は仕方ないと言わんばかりに溜息をついた。
「俺一人じゃ食い切れないから、明日は陽真と才悟も呼ぶか」
***
もくもく、もくもく
ウサギの形に抜いたクッキーに、薄桃色のアイシングを絞る。周りを一周ぐるりと硬めの砂糖で固めてから流し込んで、それからココアパウダーで作った黒いアイシングで顔を描く。これが最後の一枚だった。
後ろにあるオーブンはフル稼働しながらアイスボックスクッキーとディアマンを焼き上げている。そして紫苑の隣には大きなケーキクーラーが置かれ、花の形に型抜きされ、色とりどりのキャンディが詰められたステンドグラスクッキーとガレットブルトンヌが並べられている。
さぁ通常アイシングは終わった、レモンシトロンをやらなきゃ……と思った瞬間、オーブンが大きな音を立てて焼き上がりを告げた。余熱で焦げては大変と慌てて振り返り鉄板を取り出せば、なかなか綺麗に焼けた二種のクッキーが鎮座していた。
(これとこれはちょっと焦げてるから渡せないな……これは形がイマイチ……)
ケーキクーラーになんとかスペースを作って、今しがた焼けたクッキーを並べていく。その上でプレゼントとして合格な物を内心選り分けて行く。ここまできちんとお菓子作りをするのは初心に帰るような気持ちでとても新鮮だった。
ここまで真剣に手をかけてしまう理由は簡単だ。実直で優しい慈玄やなんでも明るく捉えてくれる陽真ならきっと何を作っても「うまい」と心から誉めてくれるだろう。才悟は美味いものは美味い、不味いものには不味いと言うけれど、その正直さに悪意はない。
けれど、今日渡すのは美食家の好感度がイマイチわからない先輩だ。きっと紫苑が普段掛けている食費の何倍もするようないいものを常日頃食べているし、良いものと悪い物を見分ける舌を持っている。その上で社交辞令も上手いタイプとなると本心から喜んでもらえたか感じ取るのがとても難しい。
──それでもプレゼントを『手作りのクッキー』にしようと思ったのは、紫苑が彼に渡せる贈り物の中で一番良い物だと言う確信があったからだ。常日頃、料理の腕は手放しに褒められてばかりなので、そこに関しては自信を持とうとしている。だからこそ、最善を尽くしたい。もはやプレゼント云々というより深水紫苑のどこまできちんとやり込めるか、紫苑の腕で彼をどこまで満足させられるかの好奇心の方が優っていた。
さて、残りのレモンシトロンアイシングをレモンの形にくり抜いたクッキーに塗り、削ったレモンの皮を乗せ、ジャムサンド用のジャムバターを作っていく。比較的安めだけれど味の良いいちごジャムを贅沢に練り込みながら紫苑はただひたすら黙々と手を動かした。
朝早くから作業していたというのに、全部のクッキーを仕上げる頃には昼を回ろうかという時間になっていた。
八種類×四枚のクッキーを箱に詰め終わり、ほう、と息を吐いたところで玄関のチャイムが鳴る。
「俺が出る」
「えッ!」
返事ではなく驚きの声が出てしまった。蒲生君は朝から依頼で出ていたはずだったから。
「……集中してたから声を掛けなかっただけだ。帰ってきたのは30分前位か」
「ごめん、気付かなくて──」
別にいい、と彼は本当に気にしていない様子で玄関へと行ってしまった。そんなに集中していたんだろうか。とにかく素敵なクッキーを仕上げるのに必死で、紫苑の手元にある白いリボンの掛けられた深緑の箱以外の場所はなんとまぁ悲惨だった。様々な使いさしのボウルや皿、鉄板が無造作にキッチンに広がっており、洗い物頑張らなくちゃな、と一仕事終えた後の開放感でぼんやりとする。
「おっじゃまっしまーす!」
「失礼する」
クッキーにありつけると聞いて腹を空かせた友達の声がして、紫苑はハッと正気に戻り、失敗作や及第点が玉石混合に入り乱れているクッキーの大皿を持ってリビングへ向かった。
色とりどりのクッキーたちを見せればおおーッと陽真は歓声を上げた。才悟は目を輝かせ、慈玄もおお、と声を漏らす。
「見た目はどうかな?違和感は?」
「全然!やっぱり店出せるぜ!」
「これだけ努力したんだ、美味いに決まってるだろう」
「美味しそうだと思う。いい匂いだ」
食べてもいいか?と言わんばかりに目配せをする。まるで待てをしっかりと守ろうとする犬みたいだとおかしくなって、紫苑はくすくす笑いながら召し上がれと三人に声を掛ければ我先にとばかりに三人は手を伸ばした。
「美味い!この宝石みたいなクッキーすごいな?」
「甘いのに酸っぱくて、口の中がスッキリする。不思議だ、いくらでも食べられてしまう」
「やはり深水のお菓子は凄いな。この装飾のされたウサギのクッキー、プロのものと遜色ない」
三人とも思い思いに感想を言い合いながら、あっという間に大皿のクッキーは空になった。少なくとも味に致命的なミスはないみたいで、それだけでもとてもホッとする。自分も貰おうとキラキラ光る中にキャンディーを溶かしたステンドグラスクッキーを一口齧る。パリパリになったオレンジキャンディーの薄い層と生地が混ざり合って、脳天に甘さが貫いた。
「いやぁご馳走になって悪いな!」
「いいんだよ、みんなに味の感想聞きたかったからさ」
「相変わらず君の料理は絶品だ。今日も美味しかった」
「……よかったぞ」
うん、少なくとも大事故にはならない味だと自信を持てる。持っていく前にみんなに食べてもらってよかった。
「というかどうしたんだよこのクッキー?俺たちのためってわけでもなさそうだったし」
「え、あぁ……プレゼント用なんだ。みんなには味見してほしくて」
「プレゼント?なぜ、誰に贈るものだ?」
「ええと……」
紫苑の隣に座る慈玄が渋い顔をした。そういやあんまりいい顔をしないんだよな、と思いつつ隠し立てるのも変だろうと紫苑は正直に告げた。
「浄さんの誕生日なんだ。いつもお世話になってるし、甘いものが好きだってこの前聞いたから日頃のお礼も兼ねて、ね」
それは何も隠し立てることのない事実だった。なのに、不思議そうな顔をしている二人の前でそれを口にする時、妙に喉に突っかかった。
「へぇ〜……」
陽真も才悟も驚いたような顔をしていた。悪い感情は感じられなかったが、それでも二人とも意外だと思っていることを隠しもしていないようだった。
「浄と深水紫苑はそんなに仲が良いのか?」
「約束とかしてる訳じゃないんだけど、ばったり会った時に声を掛けたり、そのまま話し込んで喫茶店に寄ったりとか……そしたらいつのまにか仲良くなってて」
話しながら確かに不思議な縁だ、と思った。初めて会った時こそいきなりVIPルームに侵入した不審者、と思っていたが、あの胡散臭い振る舞いや本心を悟らせない口の回し方は、彼なりの処世術なのだろうとなんとなく感じ取っていた。そのことをどのくらいの人が分かっているのだろうか。そう勘付いた時に、妙にこの寂しい人を放って置けないと思ってしまったのだ。紫苑は上の世代の人たちの内事情を殆ど知らない、彼の人生にとって殆ど部外者だ。彼ともっと仲良くなって色んなことを知りたいと思う、でも自分の手で過去を暴き立てる事が彼を傷付けやしないか、そんな予感がして身動きが取れなかった。ただ穏やかにスイーツを食べながら日々の平和なことを語り合うだけの日々にもどかしさを感じていた。そんな風に連綿と平坦な関係性を紡いでいると思いきや、紫苑の誕生日に「心穏やかに過ごしてくれ」と祈ってくれる、あの願いは特別の気配がした。
──だからこの贈り物が、少しでも突破口になればいいだなんて下心がある、それが後ろめたくて口篭ってしまったとたった今気が付いた。
「君の作ったクッキーはどれも美味しかった。喜んでもらえると思う」
「そうかなぁ……」
そう思うと急に恥ずかしくなって、才悟の後押しも急に耳に入らなくなってしまった。だって、もっと仲良くなりたいからって本気で手作りのクッキーを作ってわざわざ味見までして失敗を避けようとするなんて、そんなのまるで──
顔が赤くなる。慈玄が昨日から渋い顔をしていた理由がようやく分かった。気になっている人に手作りのお菓子を渡すだなんて、側から見たら甘酸っぱい恋の一幕以外の何者だというのか。
「あの、その……」
三人の顔が見られない。いきなり呼びつけられたと思ったら人に贈る為のクッキーの味見に付き合わされて、どんな気持ちでいるだろう。
「変、じゃないかな……ただの後輩が手作りのクッキー渡すのって。ぼく、全然気が回らなくて……」
ぽそぽそと話している内に、どんどん渡す勇気がなくなっていく。どうしよう、こんなはずじゃなかったのに。
「別に変じゃないだろ」
汗が滲む中、その空気を割ったのは慈玄の声だった。
「クッキーを渡したいと思ってあそこまで一生懸命作ってたんだ。喜ばなかったら俺が怒ってやる」
「そうだよ!こんなに頑張ったんだから絶対大丈夫!誕生日にプレゼントくれたら信じられないくらい嬉しいぜ!」
「深水紫苑のクッキーは贈り物に相応しいくらい出来がいいと思う」
思い思いに庇われて、顔を上げる。三人とも紫苑を1ミリもバカにする様子もなく、当然だとばかりに肯定していた。
「そうかな……なら、よかったぁ……」
まだ少し怖いかもしれない。でもやっぱり、先ほど気付いた下心は紛れもない本心なので、彼に近づく為の勇気を出してみることにする。
***
「よし、俺と魅上は茂みで待機。伊織と深水は自然な様子を装ってあの男に接近しろ」
「蒲生くん、別に渡すだけなんだからみんなでついて来なくても……」
「でも緊張してるって分かるぜ、俺がついててやるからさ!」
「何かあったら大変だろう、ただでさえあの人混みだぞ。なんでアイツはあんなに女性と……」
「たくさんの花束を持っている。珍しいものも混じっているな」
「才悟は呑気だなぁ」
商業地区のラウンジウィズダムの入り口から少し離れた垣根に、四人はコソコソ隠れながら様子を伺っていた。一人でウィズダムは行こうと思っていた紫苑を、なぜか三人が見届けたいと言い出してゾロゾロとついてきたのだった。着いてこなくていい、と言いつつもやはり心細かったので見守ってくれるのはありがたい。
「ほら、行ってこい」
ぽん、と背中を叩かれる。綺麗に包んだ箱をしっかりと大事に抱えて、紫苑はこくりと頷いた。
「あのッ──」
「こんにちは浄さん!」
ウィズダムの開店時間ギリギリのタイミングまで、浄は女性と何やら話し込んでいた。ようやく人がはけてきたところで紫苑と陽真は声を掛けた。声に驚いたようで、彼はこちらを振り返る。
「今日誕生日だったんですね!おめでとうございます!」
「やぁ伊織に深水、ありがとうね」
「あ、そのメガネ普段と違いますね!もしかして誕生日仕様ってやつですか?」
そういうこだわり、いいですよね。服とのトータルコーディネートも考えているんですか?紫苑がまだ緊張していることを察したのか、場を繋ぐように陽真が代わりに雑談で場を繋いでくれた。眼鏡の話が嬉しかったのか、浄も隣で黙りこくっている紫苑ではなく陽真と話している。二人の会話がポンポンと弾む中、きゅっと、箱を抱える腕の力を強めてしまう。
(お誕生日おめでとうございます、普段お世話になっているので……)
無難な挨拶、おめでとうの一言を脳内で反芻する。でもそれではしっくりこない。どうすればいいんだろうか、どう伝えれば彼にうまくクッキーを受け止めてもらえる?いつもお世話になっててありがたい、これからも仲良くしてほしい、でもあなたのことをもっと知りたい……手作りのクッキーにその思いを詰め込んだことを悟られたら、彼はどう思うだろうか?
「……それで、二人はどうしてここに?」
ふと、会話の流れがこちらに向いたことが分かった。はっと顔を上げれば、普段とは違う金縁のメガネをした彼が伺うように紫苑に視線を投げかけている。その琥珀の目が紫苑を貫いた時、頭の中で浮かべていたデモンストレーションは全部消し飛んでしまった。
「あのッ!」
そう言いながら紫苑は箱を両手で差し出して頭を下げた。
「甘いものが好きだと聞いたので、浄さんにクッキーを焼いてきたんです」
だから、受け取ってほしくて……言葉がうまくまとまらない。でも緊張や動揺を悟られたくなくて、必死に普段の様子を保った。
「これはこれは……」
浄もまた動揺をしているのを過敏な心は感じ取ってしまった。もしかして嫌がられた?少しの心の揺らぎだけでもマイナスに捉えてしまう自分の弱さが憎い。
と、両手に抱えられた箱が受け取られた気配がした。
「すごく大きい箱だね。どれだけ焼いてきたんだい?とっても嬉しいよ」
クス、とからかいと喜びの混じった声がして、紫苑はようやく頭を上げる事が出来た。
「八種類のクッキーを四枚ずつ焼いてきました。食べきれなかったらウィズダムの皆さんでよければ……」
ごにょ、と言い訳のようにそんなことを言ったが、別に浄が一人で全部食べてしまっても良かった。
「そんな勿体無いことはしないさ、他でもない君から贈られたプレゼントを他の男に渡すだなんてッ──」
グ、と彼は一瞬口篭った。動揺だろうか、またまた彼の不審なところが出た。
「──クッキーは大好物だからね、独り占めさせてもらうよ。それにしてもどうしてクッキーを?好物だと言った記憶は無いが……」
彼は不思議そうに首を傾げた。背筋がヒヤッとした。初めて会った時の印象だったから妙に記憶に残っているのに、やっぱりこんなくだらないことを覚えているのはこちらだけだろうか。
「あの、初めて会った時クッキーを喜んでいたでしょう。でも、あの時食べた物のどれが一番好きだったか分からなくて、僕が作れる限りのクッキー全部詰めてきたんです」
一番喜んでくれるものを渡したい、という気持ちを叶えるには本人に好物を聞けばいいのに、そんなのにもいちいち勇気がいる。
「よければ、今日作ってきたものであなたが一番好きなもの、後で教えてください」
せいぜい、こう言葉を添えるのが精一杯だ。しばらく、沈黙が続いた。やはり図々しすぎただろうか。胡散臭い親しみを振り撒きながらも、決定的なところを誰にも見せない人に手を伸ばしてしまったのは、紫苑のわがままだっただろうか
「……俺が一番好きなのは──」
いきなり、彼はそう呟くように声を発した。そして紫苑のかじかむ左手を取る。え、と抵抗する間もなくそれが持ち上げられ、そして──
「じゃあ!俺らそろそろ!」
陽真が咄嗟に紫苑の腕を引いた。ビクッと肩が震えたが、彼は強引に後ろへと足を向け、距離を取らせるように動いた。
「また今度!」
去り際になんとか彼に別れの言葉を告げる。彼はひら、と軽く手を振った。その仕草一つを取ったってとても優雅だった
(え、え、え?!)
そんな中、紫苑の頭は混乱に包まれていった。だって、あとちょっと、陽真が止めなければきっと手のひらにキスをされていた。あんないとも簡単に、紫苑が手を伸ばして傷付けはしないかと心配していた心の内に、彼は簡単に触らせようとしてきた。
(ぼく、もっと触れてもいいのかな……?)
クッキーだなんて言い訳を作らなくても、もっと彼のことに触れていいと許されているのかもしれない。新たな関係性の予感に、ただただ紫苑は陽真に引き摺りれながら、慈玄と才悟が待つ垣根へと連れ戻されたのだった
【幕間】
(……伊織、作戦会議だ。一人であの男と深水を合わせたくない)
(えぇ〜、じゃあ慈玄が行けばいいじゃん)
(あぁいうナンパな男は俺みたいなのを丸め込んできて厄介なんだ、こういう時こそヘラヘラしてるお前の出番だろ)
(まぁスーパーポジティブですし?でも何をそんなに心配してるんだ?)
(──おそらくだが、深水はあの男に心を配っている。そしてその優しさにあの男はつけ込みかねないと思っている。)
(……愛とか恋とかそういう話?)
(そういう話にすり替えて深水を陥落させないか心配している。本当に愛なら止める気はないんだが)
(なるほど……)
(とにかく、告白もまだなのに手を出してこようとしたら、絶対に阻止しろ、そして深水を安全圏まで連れて帰れ)
(分かった分かった、まぁ心配しすぎだと思うけどなぁ)