「隈だ。ちゃんと寝てる?」
事務所の廊下ですれ違った拍子に、ずいと迫ってその顔を覗き込む。それらが刻まれた目元へ手を伸ばしかけると、「うわあ」という大げさな声とともに後退られた。
ドッキリでもあるまいし、そんな過剰に驚かなくても。そのように思った懸念な顔が見えてしまったのか、相手は「すみません」と眉を下げた。
「ちゃんと寝てます」
「ふうん。じゃあ昨日は何時に寝て、今日は何時に起きた?」
「昨夜は日付が変わる前に寝て、今日は朝七時に起きました」
間髪入れずに返ってきた答えに隙はない。だが、惜しかった。
「嘘つき。今撮ってる映画、現場が押してるって聞いたよ。このところきみの出番が集中していて、スケジュールも毎日詰まってるって。そんな状況で、零時前なんて温い時間に寝られるわけがないでしょう」
余裕そうだった表情が、途端に険しくなる。この子は昔からこういう素直なところがあったよな、と思い返して、些細な笑いを溢しかけた。
最近のマネージャーの仕事の選び方はともかくとして、彼は、役者の中でも一流の部類に入る人間だ。態度を繕うのが下手というわけでは、決してない。だが、身内の前ではすぐに素を見せる。実はそれもこの世界で生きていくための処世術であって、玄人ほど、擦れていない感覚を持つ者には惹かれることがある。有り体に言えば、素直な性格というのは、他人に気に入られる手段だ。しかし彼の場合は意図していないように感じるので、才能なのかもしれない。
「……零時前は温い時間ではないです。フィガロさんの感覚も、おかしくなってます」
拗ねた表情を浮かべられて、ほらね、と思った。あざとい仕草なのに、彼がやるとあまりそうは見えない。後輩の可愛い表情を見るのは、俺も好きだ。思慮深そうな青紫色の瞳がまるく輝く。美しさが愛らしさに転じるのは、彼特有の魅力だった。
そうかな、と素っ気なく躱しながら、本題を逃さぬように問いかける。
「でも、真面目なきみならパフォーマンスを落とさないように必死になるはずだ。良い子の早寝早起きはできなくとも、相応の睡眠時間は確保するはず。……ねえ、ファウスト。きみ、寝れてないんじゃなくて、寝られてないんじゃない」
ファウストの目が、くっと見開かれる。さながら、探偵役を与えられたようだった。間違いなく図星なので、さらに畳みかけるか迷っていると、ファウストは、少し俯いてから口を開いた。
「実は、そうなんです」
「さあ、思う存分相談していいよ」
それが数分前のこと。ある程度深刻な話になりそうだったので、適当に、空いていた応接室を拝借することにして、場所を移した。「そこまでしてもらわなくても」と焦るファウストを横目にいいからと事を進めてしまったのは、単なるお節介だ。でも、順序正しくここに辿り着いた彼を俺は相当に評価しているので、どうしてもそれくらいはしたくなる。何せ、講師で訪れる機会があった養成所に彼がまだ所属していた頃から「この子は奇麗だし、勘を頼りにせずに演技をしている。根気もあるから絶対に売れるな」と一目置いていたのだ。正統派は嫌いじゃない。
「悩みは、今撮ってる映画に関係があるの」
常備されているお茶に手を出しながら尋ねると、ファウストはしぶしぶといった様子で頷いた。
「ええ。あなたはなんでもお見通しですね」
「まあね。かわいい後輩のことだから」
「もう……」
白い頬がぽっと色づく。女性が俺にときめくときに見せるのと似ていて非なるその変化には、俺への憧憬が滲んでいた。ね、そういうところだよ。
「演じるのが難しい場面でもあった?」
こくりと肯定した彼の瞳に、悩ましさが浮かぶ。少し忙しない表情の移ろいを見守りながら、俺は彼が原因を切り出すのを待った。すると大した間は空けずに、口が開かれた。
「今演じているのは、ある女性に粘着する、ストーカーの役なんです」
「成る程」
「……やはり、あなたは驚きませんね」
「まあね。役者なんて、意外性のある役を演ってなんぼだから。それより、俺は君がどうしてその役に苦手意識を抱いているかのほうが気になる」
「それがわからなくて、僕も途方に暮れているんです。いくら演じても役作りが不足している気がして、毎日、今日こそはと、台本を読み込んでいるのですが」
「それで眠れてないんだ」
ええ、と頷いた彼の途方に暮れる様子を見るに、どうやら、本物のスランプに陥っているらしい。なぜなのかは深く探ってみないとわからないが、随分と真っすぐに問題を受け止めている。それもまた、彼らしい。よし、そうときたら。
「俺でよければ、その解消、手伝うよ。とりあえず、一緒に読み合わせとか、どう?」
ここまで聞いておいて「そっか、じゃあ頑張って」と済ませる気は、微塵もなかった。だから至極当然な提案をしたつもりだったのだけれど。
ファウストは、なぜか固まっていた。
「……ファウスト?」
「……えっ。あ、大丈夫です」
やけにさっぱり、素っ気ない顔で告げられて、面食らう。今までで一番、真意の読めない立ち振る舞いだった。
遠慮とか、意地とか、そういうのではなさそうだ。それにしてはあまりにも呆気のない言いぶりだから。前者だったら「本当に大丈夫です! フィガロさんの手を煩わせるなんて!」と恐縮するだろうし、後者だったら、「いいです」と語気を強めて断じているだろう。なんなら、その様子を容易く演じ分けて見せられるくらい、よくわかる。
不可解な様子に思わず考え込んでしまっていると、先に、相手のほうがはっと何かに気づいたそぶりを見せた。
「あ、いえ。違うんです。決して、嫌とかそういうのでは。ただ、僕なんかがフィガロさんのお時間をいただいて、あまつさえお手を煩わせるのは良くないと思って」
なんだ、やっぱり遠慮だったのか。びっくりした。俺の理解が足りていないだけだった。そうなると悔しくて、余計に、その心を解きたくなる。
「何を今更。昔、共演だってこなしたじゃない」
「……いつのことを言ってるんですか」
「きみが養成所を出たばかりの頃、一緒にドラマに出たよね」
「あれは、売り出しの一環でもらえた役です。正直、今はもう見れたものじゃない。いくらあの頃の自分に出せる全力で取り組んだものだったとしても、とてもじゃないですが、あなたと名前を並べて良い出来ではなかった。余裕もなかったし、監督からのリテイクも、あなたからの指導も、たくさん入った」
ふう、と息をつく。感心半分、生きづらそうに、と憐れむ気持ちが半分だった。
「真面目だねえ。事務所の都合一辺倒で売り出される、基礎のなっていない役者や、話題性で起用される美男美女がいくらいると思ってるの。それに比べたら、きみは最初から……」
「も、もういいです! とにかく、話を聞いてくださりありがとうございました。それだけで大分すっきりしたので」
そんなはずがないだろう、と断じたって良かったが、それではもう少し堂々巡りを続けなければならない気がした。なら、少し違う手段で戦おう。
「一人で悩んだってずるずるといくだけだ。それとも、きみは、それとも、俺の力を信じてない?」
「っ、そんなわけ、」
ないでしょう……と、呟きながら背を丸める彼を陥落させるのに、それほど時間はかからなそうだった。
「なら素直に甘えてよ」
「……でも。台本の内容を出演者以外に漏洩するわけには」
「じゃあ、公開前から決まっている続編の犯人役が、俺に内定してるって言ったら?」
それを覆せる論拠を、彼は持っていないようだった。しばし逡巡の時間を与えてやると、間もなく、「では、お願いします」と細い声で言われ、頭を下げられた。本当に、律儀な子だ。
「うん、よろしく。言っておくけど、俺も楽しんでやってることだからね。そんなに恐縮しないで。あ、そうだ。場所はどうしようか。今みたいに、事務所の空いている部屋を使ってもいいけど、俺、あんまり落ち着かないのは好きじゃないんだよね。もしよければ、、俺の家とか……」
「えっ⁉ そ、それはちょっと、」
なんと、顔を顰められてしまった。まさか、警戒されているのか? 一瞬、弁明の道を探ろうとしたが、そのほうが怪しくないかと気がついて、ううんと唸る。それを発想の転換に必要な間と捉えたのか、ファウストはほっと安堵したような表情を見せた。なぜかわからないが、ショックだった。
「あ、そうしたら、僕の家はいかがでしょうか。それほど立派ではありませんが、ある程度、知名度のある人物が住処に選ぶようなところではあります」
――それはいいんだ?
まったくもって基準がわからずに混乱していると、もちろん、嫌でしたら別の場所に……と眉が下げられる。全然、そんなことはないのだけれど。むしろいいの、と問うか迷ってちらりと視線を送ると、邪気のない顔が首を傾げた。なんだかこちらの心が無性にそわそわとさせられているが、ええいままよ、と覚悟を決めた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「お邪魔します」
「はい。……あ、少しだけここで待っててもらえますか」
「うん」
通された玄関にはそれなりの広さがあって、世間擦れしていない彼も、ちゃんと俺と同じ芸事で食えている側の人間なのだなとぼんやり思った。ついこの前まであどけない様子で忙しそうにレッスンを受けていた彼が、すっかり成功している。なんだか感慨深かった。
良くない我が物顔、彼のファンから見れば古参風な思考を戒めるように、ふうっと息をついた、そのときだった。
――がたがたっ! がつっ。どん、ころころ。
大きくて騒がしい物音が聞こえて、何事かと廊下の奥に目を凝らす。だが、閉ざされた扉の向こうで何が起きているかまではわからない。耳を澄ますと、微かに「いた……っ」と呻く声が聞こえた気がして、どきっとした。さすがに、心配だ。無礼を承知で靴を脱ぎ、進み、声をかける。
「ファウスト、どうしたの」
返事がない。余計にどきどきと心拍数が上がる。
「ごめん、入るよ」
「……あっ! ま、待って!」
彼がようやく返事をしたのと、俺が扉の取っ手を押し引いたのは同時だった。
「……えっ」
意図せず、素っ頓狂な声を上げてしまったのは久しぶりだった。しかし、このような光景を目の当たりにさせられて、反応しないのも無理な話で。
「これは……」
大画面の液晶テレビ。それが収まるほど大きな壁面収納型のテレビボードは、きっと、こだわって選んだ一品なのであろう。そして、その上部の戸棚が、開いていた。
問題はそこじゃない。そこから、雪崩れて落ちたのであろう物たちだ。大量のスクラップ。雑誌や、新聞から切り抜かれたもの。何かのキャンペーンで頒布した写真、クリアファイル。その全部になんと俺が写っている。
ファウストは、その下敷きになって床に転んでいた。その手には、折り畳まれたポスターらしきものが握られていた。一部しか見えないが、デザインからするに、たしかあれは、この前までとあるテレビ局の廊下に貼られていた、俺が主演を務めたドラマのもの。
「あ、あ……」
出演した恋愛作品の、相手役にすら見せていないような表情。耳まで茹で蛸のように真っ赤に染め上げた彼は、呆然としながらわなわなと震えていた。足元には、写真立てが転がっている。そこには、『今はもう見れたものじゃない』演技を連ねた作品のクランクアップで、花束を持って俺と若かりし彼が並んでいる写真が収められていた。
どうしよう。そう思いたいのはファウスト彼のはずで、こちらは気の利いた一言でも言ってやらなければいけないのに。あふれる高揚感がどくどくとものすごい勢いで血液を巡らせ始めて、鼓動が活発になる。
……サインとか、あげるべき?
先輩(おせっかい)×後輩(先輩のオタク)でした!