気持ちの話 ※ivti「あいつら、いつかぶっ殺す」
ティルは昨夜、寮に戻っていなかった。朝食の時間になって、目の下をいつにも増して暗くした彼が姿を見せたので、おかえりと呟きながらじっとその顔を見つめる。
今日も、赤かったり、青かったり、忙しい。目の下のかすり傷にはまだ新しいかさぶたがくっついていて、周辺も、ところどころ腫れ上がっている。いちばんひどそうな唇の横の青紫色のところは数日前にこしらえてきていたもの。血の色が見えている頬へ、今日はここを叩かれたんだなと手を伸ばす。そっとなぞるように指先を滑らせた、そのときだった。
ぱし、と手首ごと掴まれた。すぐに振り払われるだろうと思ってぐっと肘から先に力を込める。だが意外にも、解かれない。おかしいなと思っているとティルがなにやら口をもごもごとさせはじめた。
「ずっと思ってたけど。おまえ、そういうのさ……」
――そういうの?
首を傾げる。ティルは俺のことなんかどうだっていいはずだ。なのに、『ずっと』考えるほどのことってなんだろう。
落ち着いていない視線を捕えるように、ただじっくりとその顔色を観察する。血や痣の色が邪魔をしてくるが、俺は、その下にある白い肌に浮かぶ色、それがなんなのか知りたかった。するとティルが、眉間にぎゅっとしわを寄せた。
「んん……」
「何? 早く言ってよ」
焦ったい。すぐそこにある壁か地面に押さえつけて、手っ取り早く吐かせたいほど。だがそうしないのは、ティルが自分から伸ばしてきている指の先の温かさが俺の腕にまとわりついているからだった。
そしてそこから、もう数秒待って。ティルはようやく、はっきりとしなかった口を開いた。
「……おまえ、オレのこと好きなの」
ようやく定まった視線が、こちらを向く。いつも蔑むようにくすんだ緑色が、興味なのか、戸惑いなのか、わからない光を持って、明るくなる。ティルのそんな視線は滅多に俺に向けられないものだから、味わおうと見つめ返していると、下へ俯いて去っていってしまった。
ああ、なんだっけ? 好き。好きか。好き……?
「なんでそう思うの」
心の底から疑問に思う。ティルには、そうだと決めつけられる理由があるのだろうか。だったら不思議だ。俺は自分のこともわからないのに、ティルは俺のことがわかる。それってなんだか……笑ってしまいたくなるけど、少し、気に食わない感じもする。自分にもわからないお前に対する気持ちを、簡単に一言で表されてしまうなんて。
「いつもオレにベタベタくっついてくるから」
それは本当だ。間違ってない。
「でも、俺、ティルのこと好きって言ってないよ」
「……」
だが、こちらも事実を言い返すと、ティルは黙った。
「ティルは、ティルがミジを好きなように、俺がティルのことを好きって言いたいの」
ティルは黙ったままだった。でも、腕を掴む力が少しだけ弱くなった。まるで、そこから伝わってくる脈の音がうるさくなるのを誤魔化すように。
お前が、あいつを好きなようにだって? どうしたらそう思うわけ。はははっ、と、気がついたら笑いが溢れていた。だって、あまりにも的外れすぎる! そんなわけないだろ。お前がミジを見るまっすぐな眼差しに、俺からお前へのそれは重ならない。だって、俺のはもっと……。
「それなら、違うから」
ティルの顔がぎゅっと歪む。眉間に皺が寄って、観察しなくてもわかるくらい、素の肌の色が赤く染まっていく。俺はただ間違っていることを否定しただけだ。なのにどうして、怒るときの顔をするんだろう。
ぎりっ、と噛み締められた唇に元々あった傷から血が滲む。ああ、そこは治ってきていたのに……。堪らず拭いたくなって、掴まれていない方の指先を伸ばして、同時に、問い詰める。
「ねえ、なのに、なんでそう思ったの。教えてよ、ティル。俺……」
ばっとティルの顔が上がった。影がない顔を見ると、尚更真っ赤になっているのがわかりやすい。
重なった視線。その先で、葉についた雫のように、浮かんだそれがきらきらと輝く。弾けるような光。ずっと、目に焼きついて離れていかないもの。そこにも手を伸ばしたくなった、そのときだった。
「……っ、うるっさい! 死ね!」
手を振り解くのと同時に思いきり胸を押されて、尻もちをつく。
「……ってて。うるさいのはティルの方じゃ……」
ん、と、言いきる頃には、ティルの背中はもう目の前になかった。
遠くの方で、銀色がつんつんと揺れている。雨の日に光ったら綺麗だろうなと思うけれど、そういえば、この青空に雲が浮かぶことはない。見られないものを想像しながら、手を離される拍子に爪が引っかかった跡がついた手首を掲げ、見つめる。もう片方の手の指先を這わせると、窪んでいるそこを確かめられて、触れるのに夢中になった。
ほら、違う。ティルは、ミジに拒まれたら、嫌だろ。俺は……しばらく、これでいいって思える。だから、やっぱり、ティルが思う『好き』は、当てはまらない。でも、じゃあこのささやかな満足が何かと言われると。
「……ほんとにわかんないのに」
ふうと大袈裟に溜息をつく。去っていった背中にはもちろん、此処にいる誰にもこの呟きは聞こえていないだろうが、それで良かった。