七日の夜「…………アヴ、ドゥル?」
「…………ポルナレフ……なの、か?」
そう口にしたのは、ほぼ同時だった。
*
その質問は実に唐突で、直前までしていた会話はなんだったろうかと思い返してしまうほどだった。
「会いたい人?」
「そうです。会いたい人、です。」
オウムのように聞き返すと、テーブルを挟んだ向かいのソファで優雅にカプチーノカップを傾ける少年、ジョルノ・ジョバァーナは一つしっかりと頷いた。
「会いたい人と言われてもなぁ……」
「会いたい人がいなければ、願い事でもいいですよ」
「なんで急にそんなこと聞くんだよ、ジョルノ」
思いがけない質問に困惑していると、ジョルノの横でアマレッティを齧っていた青年、グイード・ミスタが口を挟んだ。
「カレンダーを見て、急に思い出したもので……」
「何を?」
「七夕です」
「タナ、バタ? なんだそりゃ??」
首を傾げ、怪訝な顔をするミスタにジョルノは「タナバタ」について簡単な説明を始めた。
七夕――どこかで聞いたことのある響きに、ふとある記憶が呼び起こされた。
七夕とは、日本に伝わる風習らしい。
なんでも、牛飼いの男と機織りの上手い神の娘が結婚した途端、それまで働き者だった二人は仕事しなくなってしまった。それに腹を立てた神は天の川を挟んで二人を離れ離れにしてしまう。しかし、今度は悲しむばかりで一向に仕事は進まない。それを見かねた神は「以前のように働くのであれば、年に一度、二人を逢わせよう」と許しを出した。すると二人は、以前のように仕事に精を出すようになり、一年に一度、七月七日に逢えるようになった。
元々は中国の神話が日本に伝わり、やがて日本で昔から語り継がれていた伝説や豊作を願う風習と合わさって今の形になったという。
そして、その夫婦が逢瀬を楽しむ「七月七日」は、機織りの上手かった神の娘にあやかり、「芸事が上達しますように」と願いを書いた紙を笹という植物に飾る。もっとも、現代では芸事などの上達だけではなく、自分の願いを書くだけになってしまっている。
と、かつて旅の仲間であった日本人の青年が、今にも降ってきそうな星空を見上げながら話してくれた。
それはエジプトに辿り着いてすぐの夜、話のきっかけはやはり旅の仲間であった占星術師の男が星座や星に関しての逸話を聞かせてくれたことだった。
「はぁ? 新婚なら浮かれても仕方ねえだろ。日本の神様って心が狭いのか?」
「元は中国の神話です。でもまあ、言わんとすることはわかりますよ、ミスタ」
二人の会話に思わず笑ってしまう。何せ、ミスタの感想は、この話を聞いたかつてのわたしの感想そのものだった。
あの頃は神なんてものは信じておらず、愛し合う二人に神様は随分なことをしてくれる、と憤ったのを覚えている。
今も信じてはいない。
だが時折、願いが叶うならば――と、思わなくもない。
静かに笑っていたつもりでいたが、声が漏れてしまっていたらしく、ジョルノが小さく咳払いをし、場を仕切りなおす。
「……それで、どうなんですか?」
「ん?」
「ポルナレフさんの、年に一度でもいいから会いたい人、もしくは願い事です」
改めて訊ねられた言葉に、やはり戸惑ってしまう。
もし、神とやらがいて、本当に年に一度、逢わせてくれるのなら。
年に一度とは言わない。
一度だけでもいい。
「そう、だなぁ……もし、逢えるのなら――」
そう、思ってはいたのだが――。
*
その日頼まれた仕事を終え、一息ついたところでこの執務室とその奥にある私室へ続くドアの辺りで僅かに人の気配を感じた。
この場所の存在を知っているのは、パッショーネの幹部――それも、ボスであるジョルノ直属の本当に限られた者のみ。そして、ここへの出入り口は一つしかない。
それはわたしの頭上、このスタンドの本体である亀の甲羅に取り付けられた鍵の宝石部分のみで、そこからでしかこの場所へ入ることはできない。
となると、入ってきたのはそこからになるのだが、宝石の真下にわたしが気づかないはずがない。
――では、この気配は?
身体が一瞬で強張り、口の中が乾いていく。
――誰が、どうやって?
ジョルノの話では、ここはスタンドの影響を受けたとしても、鍵の宝石を使って入る以外方法はないという。
それならば、扉の向こうにある明らかな気配は一体何なのか?
こちらの様子を気取られぬよう、ゆっくりと車椅子の向きを扉の方へと変え、何があってもいいように距離を取るため、後ろへと下がる。
キィ……という車椅子が軋む小さな音さえ、今は煩わしい。
細心の注意を払いつつ車椅子を動かしていると、二つの部屋を隔てる扉のノブが回った。向こう側の相手も警戒しているのだろう、その動きは実に慎重だ。
以前であればこんなことさほど気にもしなかったのだが、今は身を守る術がない。車椅子の操作に慣れてはいるが、この限られた空間では分が悪い。
浅く、速くなる呼吸を落ち着かせるため、静かに息を吐く。鼓動が耳まで届きそうなほどなのに、妙に冷静で居られるのは踏んできた場数と今までにも同じような状況に立ったことがあるせいだろう。
その時――ギッ、と音を立て、扉が開く。
――新手のスタンド使いか何かか?
その隙間から黒く大きなシルエットが現れる。ドアの高さと比較しても、その相手は大柄だ。
――ええい、ままよ!
思わずハンドリムを握る手に力が入り、汗が滲む。いざとなったら、このまま車椅子ごと突っ込んでしまえばいい、そう覚悟を決め、こちらの部屋へと入ってくる影を見据える。
そして、その影が室内の明かりに照らされた瞬間、わたし、そして相手も息を呑んだのがわかった。
「なんで、あんたが、ここに――」
「おまえ、その体はどうした!?」
あり得ない人物の姿に声を上げると、それを遮るように低く太い声が室内に響き渡る。
「また、無茶をしたのか!? どうしたらこんな――」
「ちょ、ちょっと待て、アヴドゥル! なんであんたが、ここにいるんだ!?」
わたしの元へと駆け寄り一気に捲し立てる男――モハメド・アヴドゥルを制しながら、その勢いに思わず車椅子を後退させると、彼は我に返ったように動きを止め、黙り込んだ。
「すまない、アヴドゥル。君にも言いたいことや訊ねたいことはあるだろうが、どうか少し落ち着いてくれないだろうか?」
眉を顰めこちらを見つめるアヴドゥルを宥めるように話すと、寄せられた眉根がさらに中央へと寄っていく。まあ、無理もない。彼が知るわたしと今のわたしはかけ離れてしまっている。
「まず、一つ確認をさせて欲しい。君は、モハメド・アヴドゥル本人で間違いないだろうか?」
「あぁ、間違いない」
「そうか……それならば、いいんだ。疑うようなことを言ってすまない」
相変わらず、こちらを不審そうに見つめる彼が一度しっかりと頷き、言葉を返すのを聞き胸を撫で下ろす。
過去に身長や体重どころか対象の体臭までも完璧に真似てしまうスタンドがいたという報告もあったが、今この目の前にいる彼に関しては、「本物である」という確信がなぜかわたしの中にあった。その根拠は訊ねられても困るような、とても曖昧なものではあるが。
「いや、構わないが……ここは?」
「ここは、わたしの仕事部屋だ。少し特殊な場所なのだが……アヴドゥル、どうして君はここに居る? どうやってきた?」
「どうして、とは?」
「言っただろう、ここは少々特殊だ、と。で、どうなんだ?」
含みを持たせて告げると、納得はせずも心得たようにひとつ頷く。
「どうなんだ、と聞かれても、正直わたしもよくわからない。気がついたら隣の部屋の……あの扉の前に居て、そこから光が漏れていたのと、何か小さな音がきこえていたから人がいるのだろうと思ってな」
「気がついたら……か」
「ああ……壁の文字とスタンドに気が付いて、おまえとイギーを突き飛ばしたことまでは覚えているんだが……」
「は?」
なんて言った? 今、こいつは「壁の文字」と言ったか?
それにアレは、「突き飛ばした」ではなく、「殴り飛ばした」が正しいと思うのだが、そんなこと、今はどうでもいい。
今聞いたことが確かなら、彼は死んでは居なかったのか?
「あの時、わたしは死んだものだと思っていたんだが、ここに来てそれに確信が持てずにいた――が、おまえの反応を見るに、それは間違いないようだな」
「……」
「そもそもおかしいとは思っていたんだ。あの時、飲み込まれたわたしの腕は落ちたんだろう? それがほら――」
確かめるように拳を開閉する様子に、ハッとする。
確かにあの時、彼の腕は落ちた。だが、その残された腕もあのスタンドが飲み込んでしまっていた。
「もし、あの時のままここに来たのであれば、腕は無いはずだからな」
自分の腕を見つめ、淡々と当時のことを口にするアヴドゥルは控えめな笑みを見せていた。その様子は自分の記憶と、この不思議な事態の相違を解消し、どこか安堵しているようにも見えた。
「幽霊ってものは、死んだその時のままじゃあないんだな」
そう言って笑う彼を見ていると、なぜあの時助けたのかとかあの時の約束を反故にしやがってとか……言いたいことが山ほどあって、横っ面の一つでもぶん殴ってやろうかとあの頃は思っていたし、今もその気持ちはどこかにあったのだが、どうもそんな気は失せてしまった。
昔の私であれば、一にも二にも抱きついて、再会を喜んだ後に思いきり拳を頬へと叩き込んでいたことだろう。
「……それで? ポルナレフ」
「……」
感慨深そうに自分の腕を見ていたアヴドゥルが不意にこちらを見る。その視線に思わず、小さく体を跳ねさせてしまう。彼の何でも見透かすような大きな琥珀色の目で見据えられると、どうも決まりが悪い。それは年を重ねていても慣れないらしい。
「お前の方はどうなんだ? その怪我と現況を詳しく聞かせてくれないか?」
*
わたしの話をするにあたり、立ったままではなんだろうと、いつもミーティングなどに使っているソファへと案内をした。
そこに身を乗り出すように座りながら、アヴドゥルは黙ってわたしの話を聞いている。
彼がスタンドに飲み込まれた後、あの館で起こったこと、イギーのこと、花京院のこと。
DIOを倒した時とその後の承太郎たちやわたしのこと。
あれからどれだけ時が経ち、その間に起こったこと。
わたしが「矢」について調べ、行き着いた先の戦いで右目、右腕、両足を失い、再起不能になったこと。
義手・義足での生活と、その果てに見つけたブチャラティ、ジョルノを始めとする「彼ら」とのこと。
そして、今わたしが関わっているパッショーネという組織のこと。
もちろん、組織の関係上、口外してはならないことは話していない。わたしの現況を説明するにあたり、当たり障りのない事実だけを彼に伝えた。
話の途中、アヴドゥルは何度も眉間の皺を深くし、何か言おうと口を開きかけていた。だが、彼はそれを飲み込み、相槌を打つにとどめ難しい顔で話を進めるわたしをじっと見つめていた。
「…………」
「………………」
話を終えると、重い沈黙が待っていた。
まあ、明るいばかりの話ではないし、どちらかといえば重い話が多かった。だが、こうも部屋が暗い沈黙と静寂はどうにも辛いものがあった。
「……あれだけ、あんたに言われていたのになぁ」
わたしの言葉にアヴドゥルが、片方の眉を上げた。
「油断していたよ、あんたにも花京院にも『考えが甘い』『思慮が浅い』と散々呆れられていたのに」
上手く笑ったつもりが頬が引き攣っているのがわかる。年を重ねて取り繕えるようになったかと思ったが、どうもだめらしい。続く言葉が出てこず、アヴドゥルから目を逸らしてしまう。
「それは、おまえの短所ではあるが、長所でもあるだろう?」
近くで聞こえた声に顔を上げると、少し距離をあけて座っていたアヴドゥルがすぐ横まで来ていた。先ほどまで険しく、鋭かった眼差しが穏やかなものに変わっている。わたしにとっては何処か懐かしく、愛おしいその表情に目の奥が熱くなる。
「それに……ポルナレフ、お前のことだ、きっと何か理由があったんだろう? おそらく、自分自身のことじゃあない。他の誰か、何かを護ろうとしたんだろう、違うか?」
そっと左手にアヴドゥルの右手が重なる。お互いもうこの世のものではないはずなのに、触れたその手はひどく温かく、彼に触れられ、触れていた頃のままだった。もちろん、彼はあの時のままなのだから、当たり前のことなのだが、その当たり前なことは今のわたしたちには不可思議で、それと同時に胸がいっぱいになり、込み上げてくるものがあった。
「…………アブドゥル……」
「まあ、おまえのことだ、うぬぼれももちろんあったんだろうがな!」
「……なっ!?」
どっしりとしたよく響く笑い声に声が上ずり、更にアヴドゥルが笑う。
せっかく良い雰囲気で重苦しかった室内を立て直せると思ったのに、それはないだろう。まあ、彼なりに悲観に囚われそうになるわたしを励ましてくれているのだろう。
「話を聞いて、言いたい事は山ほどある。ひとりで抱え込まずもっと人を頼れとか、最悪の想定をしてことに臨めとか……だが、反省はあるだろうが、後悔はないんだろう?」
左手に重なった手に力がこもる。穏やかに、だが確信を持ち、力強い瞳がわたしをじっと捉えている。
嗚呼、いくつになってもこいつには敵わない。
「……ああ」
「なら、わたしからは何も言うまい」
「…………」
「むしろ、責められるべきはわたしの方だろうな……約束を守れず、すまなかった」
両眉が寄せられ、その両端が情けなく下がるのを見て、胸が苦しくなった。そんな顔をさせたいわけじゃあない。
言ってやりたい事はたくさんあった。
何故、あんな約束をしたのか。
自分で言ったくせに何でおれたちを助けたのか。
何故、おれと生きてくれなかったのか。
だが、それをアヴドゥルにぶつけたところで、どうにもならないことぐらいわかっている。あれは、わたしやイギーを護るため、咄嗟の行動であったこと、そして、それが彼の性分であること。咎めたところで変えられないだろうし、わたしやイギーでなくても同じようにしていただろう。だから、これに関しては責めるつもりは微塵もない。
それに、わたしがアヴドゥルの立場であれば、きっと――同じことをしただろうとも考えたから。
「年をとっても変わらんな、ポルナレフ」
「…………?」
「相変わらず、涙脆い」
頬にそっと手が触れ、その親指がわたしの目元をぐい、と端へと撫でた。
「そんな顔をするな……おまえに泣かれると、どうしていいかわからなくなる」
困ったように笑うアヴドゥルと彼の指が濡れていたことで、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。左目から溢れたそれが頬を伝い落ちていく。
気づいてからは早かった。自分でも情けないほどぼたぼたと涙がとめどなく流れ落ち、言葉にならない、なりきれないものを発し、息苦しくなるほどだった。
その間もアヴドゥルは、良い年をして嗚咽も堪えきれず泣き続けるわたしに呆れる事なく、背を撫で抱きしめてくれていた。時折聞こえる彼の相槌のような短い返事や言葉は穏やかで、どこまでも優しく柔らかかった。
*
しばらく泣き続け、ようやく涙が止まった頃にはアヴドゥルが着ていたコートは、わたしの涙やら何やらで大惨事となっていた。それすらも豪快に笑い飛ばしてくれる彼に、少し胸を撫で下ろす。
年齢を重ね、上手く感情を押し殺し取り繕えるようになっていたはずなのだが、自分自身が情けない。
少し落ち着いたところで何か飲まないかと提案をした。散々泣いたせいで喉に痛みを覚えていたのもあるが、何よりもわたし自身が冷静になる時間が欲しかった。なにせ、アヴドゥルの顔を見てからここまで、感情の起伏が激しく、あの頃に戻ってしまったようでどこか決まりが悪かった。
せめて年上らしく振舞えればよかったのだが、あれだけ取り乱しては言い訳すらも見つからず、気恥ずかしい事この上ない。まして、ジョルノたちと出会ってから、年長者として振る舞ってきているのだから尚更だ。
用意したのは紅茶だったが、それを準備している間もアヴドゥルは心配なのか、わたしの後をついて歩いた。
S・チャリオッツが居たとはいえ、この体との付き合いも長く、身の回りの事は一通りできる。その説明もしたはずなのだが、元々世話好きな性分のせいか不自由なわたしに気を遣ってか、先回りをして手伝ってくれた。そうしているうち、戸棚に置いて忘れかけていたビスコッティを目ざとく見つけたのは、さすがだなと思わず声を出して笑ってしまった。
「しかし、どうして今頃になってあんたがここに現れたんだろうな」
ビスコッティに合うように淹れたミルクティーに砂糖を4つ落とすアヴドゥルを見ながら、疑問に思っていたことを口にした。
ゆっくりと数回、スプーンで白茶色の液体をかき混ぜながら、アヴドゥルは肩を竦めてみせる。
「さあなぁ……それをわたしも考えてはいるんだが、理由もきっかけも思い当たらなくてな。ポルナレフ、おまえの方はどうだ?」
「おれ? おれもこれと言って理由は――」
「どうした?」
ミルクティーにビスコッティを浸していたところでふと、ジョルノの言葉を思い出した。
確か――机の横、書類や本を置いているオープンシェルフの上にあるカレンダーを見た。
――ああ、なるほど。
それに気づいた時、図らずも体中が熱くなったような気さえした。
「ポルナレフ?」
急に黙り込み、机の方を向いたまま動かなくなったわたしにアヴドゥルが訝しげに声をかけてきた。それで我に返り、心配そうなその声の方へと向き直ると、彼は小さく息を吐き出した。
「すまない。まさか、神話が現実になるとは思っていなくてな」
「……神話?」
「覚えていないか? エジプトで花京院が話していただろう?」
あぁ……と何か思い当ったような小さな声が、横から聞こえた。
「タナバタ、といったか? 確か、離れ離れの恋人だか夫婦が年に一度逢えるという……」
「そう、それ。まあ、偶然やこじつけかもしれないが、もしそうだとしたら、随分とロマンチックじゃあないか」
「なるほど、お前らしいこじつけだな」
そうだろう、と得意げになりながら、ふやけたビスコッティを口に運ぼうとした時、アヴドゥルがこちらを見つめているのに気がついた。その琥珀色の瞳に思わず、ドキリとして動きが止まる。
「そうなると……おまえと逢えるのは年に一度、次に逢えるのは来年ということになるな」
「あ――」
そうだ、忘れていた。離れ離れの2人が逢えるのは年に一度、七夕と言われるその日だけだ。それが過ぎてしまえばまた離れ離れになってしまう。
せっかく、アヴドゥルと再会できたのにまた離れ離れになってしまうと考えた途端、体温などないはずなのに、体が一気に冷えていく気さえした。
「……それ、は…………」
また、独りになってしまう。独りには慣れたはずなのに、否、今はジョルノやミスタ達もいる。決して独りではない、そのはずなのに胸が、喉が押し潰されるよう苦しく、出るのは掠れたような声だけだった。
「すまない、そんな顔をさせるつもりで言ったんじゃあない」
今、わたしはどんな顔をしているのか。わたしの顔を見たアヴドゥルがはっとした表情を見せ、慌ててカップを置くと、わたしのそばへと移動してくる。
「ただ、もしそうならもう少し、この時間をどうにかできないかと思っただけなんだ」
「…………?」
先ほどの言葉が残ったまま、頭の回らないわたしに穏やかな笑みを向けながら、アヴドゥルがわたしの左手を取り、その甲へと唇を寄せた。
「もう少し、近くへ行っても構わないだろうか?」
突然のことに思わず手を引くと、それを強く、逃さぬとでも言うように掴まれた。咄嗟にアヴドゥルの方を見ると、その真っ直ぐな瞳に身が縮む。
「おま、何を……。おれを幾つだと……」
「さっき聞いたのは三十六だったか。それが何か問題でも?」
事もなげに言いながら、惚けたように小首を傾げる仕草が忌々しい。
「問題ありまくりだろう!」
「そうだろうか? お前が年上にはなったが、あの頃となんら変わりはないだろう? 何が問題なんだ」
眉間に皺を寄せ、大きく深いため息をわざとらしく落とすアブドゥルの目には明らかな苛立ちが見てとれた。
そんな怒ることか?
考えてもみろ、あの頃と全て同じと言うわけにはいかないのはわかるだろう。
「だって、アヴドゥル……あれから何年経ったと思ってる。あんたは今のおれを知らないから……あの頃のおれとは違――」
「違わない」
「……ッ」
「お前は、今も昔も違わないし、変わってもいない。わたしが知るジャン=ピエール・ポルナレフで間違いない。もちろん、占い師の勘でもなんでもない。今まで話を聞き、言葉を交わして、それに間違いはない。わたしが心を寄せ、未来を託した男だ」
握られた手が熱い。それどころか、一気に冷えた体のあちこちが熱を持っている気さえする。
喉がヒリつき声も出せず固まって動けずにいるわたしと、笑みを浮かべ余裕たっぷりの様子でわたしを見つめているアヴドゥル。これではどっちが年上で年下かわからない。
「……ポルナレフ」
黙ったままでいるわたしに、アヴドゥルの声が低く重く響く。
「近くに行っても?」
もう一度同じこと訊ねながら、アヴドゥルは握ったわたしの手を返し、今度は掌へ、そして手首へとキスを落とす。その声と視線は、拒否も反論も許さぬという強い意志が滲み、その瞳は彼のそばにいたスタンドを彷彿とさせる熱を孕んでいる。
こうなっては頑固なこの男のことだ、何を言っても聞かないだろうし、引くこともない。そして、わたしはこの状態で勝てたことは一度もない。これは多分幾つになっても、どうあっても変わらず、わたしはアヴドゥルには敵わないのだろう。どんな時でも好きになった方が負けなのだ。
「…………わかった、わかったから! そんな目で見るな。ouiって答えしか認めねえ癖に」
「………………」
嗚呼、その余裕のすまし顔が忌々しい。
「ただ、これだけは言わせろ。どんなにあんたが否定してもおれはあの頃と違う! 同じだと思うな! それだけは理解しろ、期待もするな」
「oui……」
本当に、憎たらしい。
あの頃のあんたもこんな気持ちを抱いていたんだろうか。いや、おれはもっと可愛げがあったはずだ。
せめてもの仕返しにと、身を乗り出し右腕で相手の首を引き寄せ、唇を押し付ける。多少なりともやり返せたかと、アヴドゥルの顔を見た。
その瞬間、自分の愚かさと浅はかさを呪った。
「……やはり、変わらんな、ポルナレフ……相変わらず、考えが浅い」
*
神なんて信じてはいない。
だが、信じてもいいと思ったのは過去に一度だけあった。
その時は、いるかいないかもわからない神やらに感謝をした。
でもまあ、その存在を信じるのも悪くはないのかもしれない。
ただ、相変わらず神とやらは、人間にも死者にも優しくはないらしい。
どれぐらい寝ていたのだろう。何やら部屋の外が騒がしく、その音で目が覚めた。
覚醒しきらず、ベッドに沈んだ身体は、魂だけになったというのに重く、時間を確認しようと起き上がるのも一苦労だった。
なんとか起こした身体で、ふと隣を見るとそこにあったはずの体温はすでになく、シワになったシーツが彼がここにいたという事実だけを残していた。
「……また来年、か」
シワを撫でながら思わず口をついた言葉は、思った以上に胸の奥深くにのしかかる。
来年なんてあるのかわからない。もし、昨日の出来事が神様がくれた奇跡とかいうギフトの類だとしたら、それは一度きりで、二度も起こりはしない。たった一度あり得ないことが起こるのだから、奇跡と言うんだろう。
だが、今回はそれを信じてもいいのかもしれない。昨日という日の出来事は、まだ続いてる、続いているから奇跡なのだ、と。
ふと見た時計はいつも目を覚ます時間よりだいぶ遅い。
外の騒がしさはジョルノかミスタが今日の仕事を持ってきたのだろうと、慌てて義手と義足に手を伸ばす。
今日からまた変わりのない毎日が始まる。
だが、そこに一つの楽しみが加わった。
年に一度、たった一度ではあるが願いが叶う日があるとしたらと思うと、それはまた違う毎日になる。
また来年、この日、この場所で。
その約束は死者の毎日を彩るのに十分なご褒美になりうるのかもしれない。
――なーんて、思っていたんだが。
その考えが吹き飛ぶような出来事を目の当たりにするまでは。
――――Fin.