兎にも角にもかわいいのは 前編 宇宙まで巡った旅から戻って変わったことといえば、数え切れないほどある。
王国騎士団の在り方、フーガによる街の発展、旅で絆を深めた仲間たちとの交流。変わっていないものを上げる方が難しいかもしれない。
戦闘ひとつ取っても変わった。旅の間は相性の悪い相手にはアイテムを使用して対策したり、事情があって抜けた仲間の穴を皆で埋めたりと、様々な戦法を取った。得手不得手をお互いに補いながら、強敵に立ち向かってきたのだ。
店で調達できるものはもちろんそうしている。ただ、それぞれの道を歩む中で『今あれを調合してほしい』、『これはあんな場所まで行かなければ手に入らない』とどこかもどかしさを感じていたのは、皆同じだったようだ。
バルダー大聖堂を貸し切りにして、旅の仲間は久々に集まった。話題は広がるばかりで、一向に尽きる気配はない。もちろん、その不便さも話の種となった。
空が別れの時間を意識しないといけない色に染まってきた今は、誰の手も誰かのために何かを作っているという、実に忙しない状況であった。
「マリエルさん! ヒロイックポーションを五つ、お届けにきました!」
聖堂内から中庭に続く開きっぱなしの扉から、本人の姿に先行して元気な声が届く。
ほどなくして、散らかった(主にミダスによるものである)地面を飛び石の上を伝い歩くようにしながら、ニーナが姿を現した。いつも持ち歩いているのか、掲げた右手にはマーキスの施療院で使用しているものに似た紙袋が揺れている。
聖堂内に傷がついてしまう可能性を考慮して、鉱石や機械を扱う組は中庭で作業をしていた。
アベラルドから少し離れた場所で細かな部品を組み立てていたマリエルが、すっと立ち上がる。長時間同じ体勢でいたせいか、凝った肩が痛そうな音を立てた。
「助かります! この間の実践訓練で切らしていたのをすっかり忘れていて……」
「訓練はとーってもえらいですけど、怪我には十分、注意してくださいね。この薬の効果もひとつひとつは短いですし。ところで、レイはどうしてアベラルドさんを拝み倒してるの?」
マリエルへの配達が完了して得意げなニーナの興味は、彼女の背後で作業をしている男ふたりへと移った。
集中力を切らすわけにはいかないアベラルドは、レイモンドに『説明しろ』と無言で訴える。目線すら投げてやる暇もない。
「……ソーアのポーンを作ってたんだが、見事に失敗続きでな……」
レイモンドは擦り合わせていた両手の動きを止めて、今度は懺悔するような姿勢で己の罪を告白した。彼の隣には、灰色の何かよくわからない塊が山を築いている。
約束の数はきっちり揃えたと突っぱねてやろうかとも考えたが、マリエルと一緒に作業していたエレナに『これで最後にさせますから』と頼み込まれては、アベラルドも断れなかった。
「ああ、せっかくアベラルドさんがくれた鉱石を鉄くずにしちゃったから、最後の一個だって頼み込んで、作り直してもらってるんだ」
ニーナは妙に平坦な声で、たった今見てきたかのように真実を述べた。
「すごい、一字一句そのとおりです」
「……」
レイモンドの『ミーティアライトをもう一回頼む……っ』という呻きにも似た欲塗れの願いにも、マリエルのニーナへの感嘆にも触れず、アベラルドはただ手の中の鉱石に集中した。
ここまでは段階的にうまくいっている。あとはこのムーナイトに銀の光が差す瞬間を強く思い描くだけ。
一度深く息を吸って、さらに深く意識を――
「――? どうした、大丈夫か!?」
開けたままになっている扉から、聖堂内の声が微かに聞こえてくる。
中は音が響きやすい構造にはなっているが、話し声程度では中庭まで届かないはず。にも関わらずアベラルドに届いた声は、明らかな異変を意味していた。
「ひめ……?」
「アベラルドさん? どうしたんですか?」
手の中の鉱石から手を離し、周囲など目にもくれず、聖堂内の姫の元へ駆け出す。扉まで一直線に突っ切ったせいで何かが足に当たったが、そんなことはどうでもいい。
レティシアはマルキアとニーナとともに調合をすると言っていた。JJが持参したレシピを試した結果を、テオが武器の手入れの合間にまとめてくれるのだ、と。
ざわつく胸を何も心配はないはずだと宥めすかしながら、半端に開いている扉を勢いよく開け放つ。
「姫っ!?」
「っ、アベラルド……っ!」
ステンドグラスの下に人が集まっている光景が真っ先に目に入る。その輪の中心から、すぐさまレティシアの声が返ってきた。
筋骨隆々の腕や重工装備の隙間から、振り返った彼女の瞳が覗いている。
傍に頼れる仲間がいるというのに心細そうに揺れる瞳に、アベラルドは息を整えるのも忘れて駆け寄った。波が引いていくように、レティシアまでの道が開けていく。
「いったい、どうされたのです……か……」
そうして全容を見せたレティシアの頭にある見慣れないものを見留めて、アベラルドの足は動かなくなった。姫の元へ辿り着くには、あと少しの距離だというのに。
「どうしてこうなったのか、わからないの……」
レティシアの白銀の髪には、雪のように白く、ドレスの装飾に使う布のように大きなふわふわの耳がふたつついていた。
いや、ただついているのではない。動いている。彼女の頭上でぴんっと立って、周囲の音を集めるように細かく角度を変えている。
どうか、そういった髪飾りだと言ってほしい。動いたように見えたのは、ずっと鉱石に集中していて目が錯覚を起こしただけだと、誰か証明してほしい。
未だ混乱の中、アベラルドはすっかり言葉の発し方を忘れていた口をようやく動かした。
「それは……バーニィの耳……ですか……?」
「そうみたい……試してみたけど取れな、っくちゅ、……くて……どうしよう……」
祈りは届かず、レティシアが俯くと同時に、立っていた大きな耳もしょんぼりと垂れた。
髪飾りでも錯覚でもなかったどころか取れないとは、いったいどうすればよいのか。
「調合素材に変なものは、っくしゅ、な、なかったはずだが……」
調合組のくしゃみが止まない聖堂内に、マルキアの戸惑い混じりの分析が響いた。
アベラルドの慌てた様子を見てか、JJの驚くほど豪快なくしゃみが外まで届いたのか、中庭で作業していた組もステンドグラスの下に集まった。
くしゃみの協奏曲が収まった今は、レティシアの体調を確認する者、原因を究明しようとする者、不審な点がないか今日の出来事を思い返してみる者と、十人十色である。
アベラルドはもちろん、ニーナとエレナから診察を受ける姫に付き添っている。
聞こえてくる断片的な情報を繋ぎ合わせた結果、素材の割合が重要な調合において、その割合を狂わせる出来事が起きたことだけはわかった。
「やはり素材におかしなものは混じってなさそうだ。考えられるとしたら……今日のメイン素材のこのパウダーか?」
調合結果リストを照合していたマルキアがJJとともに戻ってくる。彼女の手には黄色い粉が入った袋が下がっていた。調合で多くを使ったのか、風に靡きそうなほど中身は残り少ない。
ひみつのパウダーと呼ばれるそれは、星の世界では一般的な調合素材だった。中身の配合成分はありふれたものばかりだが、その配合率が宇宙に名を馳せるとある企業の極秘ゆえに、そんな呼び名がついたらしい。レイモンドが『ここだけの話だぞ』とアベラルドに話したことなので、真偽のほどは不明である。
しかし今日まで何度も問題なく使用して旅の手助けとなってきたことを、調合には明るくないアベラルドも知っていた。
「確かにそれが空気中に舞って、素材の割合が予定していたものと違った可能性はあります。俺たちもくしゃみがなかなか収まらなかったわけですし……しかし、どうしてレティだけにこんな作用が」
テオは講壇に置かれた件の袋をじっと観察しながら、唸るように考え始めた。
「え……? ま、待ってください! 私だってずっと調合してたのに、ひとりだけくしゃみも何もないってことは、もしかして……」
眉尻を下げたニーナが診察の手を止めて、調合組が集まる講壇側を振り向く。
体調を確認している対象が違うのではないかと思うほどに青ざめていくその顔に慌てたマルキアの「い、痛くはなかったから」という慰めが決定打だった。
「お前が中庭に出たときにぶつかったかなにかして零れたようだな。まったく、マーキスにも周りをよく見ろっていつも言われてるだろうが。調合に限らず、繊密な作業のときはなおさらだ」
髭を撫でて考え込んでいたミダスが静かに言い放つ。年長者として、ここはきちんと言っておくべきだと判断したのだろう。
慕っているレティシアが大変な目にあっている。しかもその原因が自分にあるかもしれないとなって、ニーナの目にはついに涙が滲み始めた。
大切な友人がかわいそうなほど気落ちする様に、診察中で会話を控えるよう言われていたレティシアも、もう口を閉じていられなかった。脈を測るエレナに断りを入れて、落ち込む背中に声を掛ける。
「ニーナさん。周囲に気を配ることは確かに大切ですが、そのパウダーが原因だと確定したわけではないのですから、ご自分を責めないでください。もしそうだったとしても、こんな作用があるなんて誰にもわからなかったんですから」
「……だな。誰も予想できなかった。防ぎようがなかったってことだ。今はレティの身体に他に変化がないか、調べてもらうしかない。ほら、ニーナさん。診察の続きを頼む。それは俺にはできないことだからな」
「……っ、はい」
王族ふたりに宥められて、ニーナは浮かんでいた涙の粒をようやく拭った。声を震わせても力強く肯定を返し、エレナの手伝いへと戻っていく。
ミダスとマルキアが最後の乳鉢を片付け終わった頃に、レティシアの診察はやっと終わった。
心音が少しだけ早く、体温がやや高いが、大きな心配はいらないだろうとの診断だった。耳の影響ではなく、恐らく不安からくるものと考えられるのだという。
「調合で得る効果は、そのほとんどが瞬発的なものです。しかし、診察が終わっても、レティシアさんのこの耳に変化はありません」
「それは……ひと晩様子を見て自然に治ることを期待するしかない、ということでしょうか」
アベラルドのやるせなさを含んだ問いに、エレナは静かに目を伏せた。
「……残念ながら、今提案できる解決方法はそれだけです」
途端に聖堂内は蜂の巣を突いたように騒がしくなる。スコピアムネットワークに役立ちそうな情報はないのか。いや、完全に一致する情報はない。古の文献にも手掛かりがないか当たってみよう、と皆が次の一手を探している。
本音を言えば、アベラルドにも姫の従者として思うところは当然ある。しかし、主人たるレティシアが誰かを責めることを望んでいない。テオの発言も姫に倣ったものだ。
ゆえに、アベラルドはただレティシアを見ていた。バーニィの耳以外に体調に変化がないか、皆を心配させまいと何かを隠していないか。
見落としそうな姫の微かな変化は、周囲が再び騒がしくなったことで確信に変わった。これ以上誰にも責任を感じさせまいとしているのだろう。
レティシアの想いを汲んで、アベラルドは彼女だけに聞こえるように声を落とした。
「……姫。もしや、聴覚が過敏になっているのではありませんか?」
「……」
レティシアは一度アベラルドを見て、それから目だけで周囲を探るように見渡した。誰も見ていないことを確認して、もう一度アベラルドに視線を戻し、小さく首を縦に振る。
診察を見守っている間、渦中のバーニィの耳が怯えるように何度もぴくぴくと跳ねていた。最初こそ診察で身体に触れられたせいかと思ったが、振り返れば、それは調合組のくしゃみが止まらないときからずっと続いている。
レティシアの聴覚がどれほど過敏になっているのかは、推測の域を出ない。しかしフーガにしろ徒歩にしろ、夜も人の動きが活発な王都まで戻ることが今の姫にとってどれほど負担になるのか、想像に容易い。
(ならば、解決策を見つけてくれると信じて賭けてみるしかない)
覚悟を決めて、サーコートのボタンに指を掛けた。目眩ましが上手くいくように祈りを込めて、ひとつ、ふたつと外していく。まだ不安の影が差す瞳で見つめてくるレティシアに大丈夫だとやわらかく微笑んでみせて、脱いだサーコートを彼女の頭にふわりと被せる。
「姫、失礼しますね」
「アベラルド? わ……っ」
「これで少しは音がましになりますか?」
「……! うん……とっても楽になったわ。でも……」
防音とお守りを兼ねたコートにレティシアの瞳がふっと綻んだのは一瞬で、視線はすぐに、アベラルドの露になった左腕の肌へと落ちてしまった。白い指はサーコートの襟をちょこんと摘んでは離し、受け取ってよいものか迷っている。
心配する必要はないと声を掛けようとしたところで、テオが進展しない議論を抜け出してきた。ふたりの元へ近づき、コートを頭から被るレティシアと、いつも隠している左腕の肌が一部見えているアベラルドを心配そうに見比べている。
「おい、どうしたんだ?」
腕のことなら心配無用だ、とアベラルドは軽く肩を竦めて見せた。今は何より、姫の体調が最優先だ。
「今はここだけの話に留めろ。この耳がいつもより音を拾ってしまうそうだ。今日中に王都に戻るのは、姫にとってあまりにも負担が大きい。宿に一泊して、エレナさんの案を実行するしかない」
「……そうか。レティもそれでいいか?」
テオは腰を屈めて、今はサーコートの奥に隠れた瞳と視線を合わせた。
「ええ。でも、私がアベラルドのコートをもらってしまったら……」
「姫、大丈夫です。少し不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、案はあります。ここで待っていてください」
心配を滲ませる声にもう一度笑みを残して、アベラルドはなお左腕に留まるレティシアの視線をそっと外した。
「テオ、皆への説明を頼めるか」
「ああ、任せとけ」
テオに後を任せ、アベラルドは再び大聖堂中庭の芝生を踏んだ。作業中に使っていた水場に近づき、傍にあった桶に水を溜める。
小一時間前までここで鉱石と向き合っていたのが、ずいぶん前の出来事のようだった。
ぴょこんと立ったふたつの耳。それをサーコートの内側に収めて、見上げる瞳に自分だけを映す姫が。張り詰めていた表情をふっとほどいた姿が、ぎゅうっとアベラルドの胸を締めつける。
――こんな緊急事態に、騎士として姫の体調を第一に考えなければならないのに。
溜まっていく水の表面が、心のざわめきを映し出すかの如く揺れている。
これからするのは、宿を取る理由を不審に思われないためだ。しかし場違いな感情を冷やすためにも好都合だと、息を止めて桶の水を被った。
ぽたぽたと髪から滴り落ちる雫が、濡れた服をさらに濃く染める。
先ほどとは違い、聖堂内に戻って見渡した顔は、どれも頼もしい面持ちに変わっていた。必ず解決法を見つけて見せる、と皆が意気込んでいる。
聴覚に優れたバーニィの耳のおかげか、真っ先に足音に気づいたレティシアが顔を上げた。続いて彼女と話していたマリエルが青いポニーテールを揺らして振り返り、連鎖して皆の視線がアベラルドに集まる。
「ア、アベラルドさん!?」
「花壇の整備中に通りかかって水を被ってしまったことにします。〝雫が落ちてしまうかも〟しれませんので、姫はしっかりコートを頭から被って、決して離さないでください」
「……っ! そういうことね、わかったわ」
レティシアは受け取るか迷っていたコートを今度はしっかりと被り直して、足早にアベラルドの隣にやってきた。
きっちりとアベラルドの意図を汲んだ姫が差し出すコート左側の裾を受け取り、それをくるくると巻きつけていく。そうしてグローブとコートの裾ですっかり肌を隠した左腕を、彼女の左肩へと回した。もちろん実際には触れていない。身体には触れないように浮かせて、その〝振り〟をする。
多少不格好だが、これなら『濡れてしまった服を隠すためにコートをふたりで分け合っている』と周囲はまやかされてくれるだろう。
後のことは任せろ、と頼もしく胸を叩くテオに力強く頷き返す。
コートを頭からすっぽり被っていても別れのお辞儀を忘れないレティシアの姿には、この事態にずっと気を揉んでいた皆も、不可思議なことが起こってもいつものレティシアだと、硬い表情をいくらか和らげていた。
宿までの道中、アベラルドは不在の間の出来事をレティシアから聞いていた。
「効果があるかはわからないけれど、できるだけ温かくして、栄養を取って過ごしてくださいって」
「それは……まるで風邪を引いたときの過ごし方ではありませんか?」
そんな対処療法でよいのかと訝しむアベラルドの胸に、レティシアはぽすっと頭を預けた。
コート越しにバーニィ耳の存在も伝わってくる。
「灰化病の薬を見つけたときと同じで、私たちが理由のすべてを知るには、まだ少し早いのかもしれないわ。最初は正直訳がわからなくて、どうしようって気持ちでいっぱいだったけど……アベラルドがすぐに駆けつけてくれて、すごく安心したの。今は少しずつ落ち着いてきた気がする。コートも……ありがとう」
「……っ! ひ、姫の騎士として当然のことですから……っ」
レティシアの言葉は、アベラルドをどうしても浮き立つ心地にさせた。しかし、張り詰めた心の内を明かしてくれたのだから、とその胸の高揚を姫の騎士としての使命感にすり替えて、足を動かすことに専念する。
舞い上がりそうな気持ちが顔に出ていないだろうかと心配しているうちに、バルダーを南北に分ける壁を通り抜けていた。
一度立ち止まって、目的地の宿までの道順を目で追う。ここからさらに階段を下りて、大通りをやり過ごさなければならない。
「きゃっ!」
「っ、姫!」
階段へ向かおうとした矢先、びゅおっと風が強く吹きつけた。
目隠しのコートをはためかせるその強さに、アベラルドはすぐさま動く。右半身を前に出し、レティシアを腕に抱え込み、姫を守る盾となる。
風は様々なものを吹き上げて、やがて鳴り止んだ。恐る恐る片目を開けて見下ろした大通りには、滑空してきた帽子を捕まえる王国騎士の姿があった。
身体から緊張が抜けていくのが伝わったのか、レティシアもアベラルドの腕の中でほっと胸を撫で下ろした。乱れたコートを整えつつ、アベラルドを見上げている。
「ありがとう。北側はそうでもなかったけど、南側は風が強いわね……」
「そうですね……。コートは絶対に離さないで……ん?」
距離を元に戻そうとした刹那、コートの裾を巻きつけた腕に、レティシアの手がそろそろと伸びてくる。マフラーでも整えるような自然な動きで引き寄せられて、風が煽るまで触れないように細心の注意を払っていた華奢な肩を、さらに抱き込む形となった。
状況を理解した左手が、コートの下でぴくりと跳ねる。レティシアはそれを緊張ゆえと受け取ったのか、触れた腕をあやすようにゆっくりとさすった。
「こんなに風が強いと、コートが落ちてしまいそうで怖いわ。雫なんて気にしないから……もっと傍で、ぎゅっとしてほしい」
「っ、は、はい」
突風が再び吹きつける。先ほどはコートを剥がしにきていると感じたそれは、今は不思議と、もっと距離を縮めろと言っているようにも思えた。
(……すべては今の姫の姿を誰にも見られないためだ。いつ吹くかわからない突風からも、周囲の目からも守らなければならない)
アベラルドはレティシアに引き寄せられた腕で、今度は自らそっと、そっとレティシアの身体を抱き寄せた。
*
宿の従業員とのやり取りは、驚くほどアベラルドの思惑どおりに進んだ。
生垣によく出没する猫がいるらしく、お客さんたちも災難だったなと言いながらわざわざカウンターから出てきて、追加のタオルとなぜかクッキーまで持たせてくれた。彼もつい先日被害にあったのだという。
両手がレティシアとタオルで塞がっていたアベラルドの代わりに彼女が受け取った部屋の鍵が一部屋分だったことも、今回の非常事態に限っては問題ではなかった。
バルダーの宿には泊まったことがあるので、大まかな構造は知っている。
レティシアが起きている間は彼女の体調の変化に目を配って、眠りにつく間は万一に備えて別室に控えていればよいだけの話だ。
「アベラルド、私のデバイスを持ってきてくれるかしら。宿で落ち着いたら連絡がほしいって、エレナさんから言われているの」
「わかりました、今お持ちします」
アベラルドは壁に掛けたコートに当てたタオルの状態をもう一度目で確認してから、レティシアの荷物からデバイスを取り出した。
そういえばもうひとつもらったはずのタオルはどこに行ったかと部屋を見渡すよりも早く、その行方は判明した。
レティシアのデバイスを携えて、テーブルの傍に立ったままの彼女の元に向かう。
空っぽの椅子の前でタオルを広げて待ち構えるレティシアが何をしたがっているのかは一目瞭然だったが、かまわずデバイスを差し出した。
「自分で乾かせますから、これと交換しましょう」
「いや。私のために水を被ってくれたんだから、私に拭かせて」
早く、とレティシアは腕の中に迎えるようにさらにタオルを広げた。周囲の音が落ち着いたからか、人目を気にする必要がなくなったからか、レティシアはこの非常事態を受け止めつつあった。
身体は十分鍛えてはいるが、それでも万が一風邪を引こうものなら、姫を悲しませてしまう。アベラルドの選択肢は早々にひとつに絞られた。
小言は喉に仕舞い込んで、レティシアが準備した椅子に身を収める。待ちきれないと言わんばかりに小さく上下し始めたタオルに頭をすっと差し出すと、すぐにふわりとした感触が覆う。
「もし痛かったら、すぐに言ってね」
「お手柔らかにお願いします。エレナさんに繋げばよいのですね?」
「ええ。皆と話せるように設定を変えてくれるそうなの」
髪の雫を拭うやさしい手つきを受け入れながら、レティシアと違ってまだまだ慣れないデバイスを操作する。まだ到達していない技術の乱用を避けるため、レイモンドが仲間に配ったデバイスは、普段は地上組同士の通信に制限がかかっていた(それでもミダスなら解体しかねないとマリエルは難色を示していた)。
操作があっているか、念のためレティシアを見上げて確認を取る。大丈夫と言ってもらって通信開始のボタンを押せば、すぐにエレナの名前が画面に表示された。
『おふたりとも、無事に宿に到着されたのですね。これから皆さんと通話できるように、設定を一時的に変更します。レティシアさんの体調に何か変化はありませんか?』
アベラルドはタオルの隙間から垣間見えるレティシアに向けて、デバイスを軽く持ち上げて目配せした。音のことを打ち明けるには、今をおいて他にない。
片手でバーニィの耳を真似てみせると、レティシアはこくっと頷いて応答した。
「体調に問題はありませんが、音が……いつもより少し、聞こえやすいですね」
『そうだったんですね……大変だったでしょうけど、無事に静かな場所に移動できたみたいで、安心しました』
いつの間に繋がっていたのか、マリエルが特大の安堵の溜め息を届けた。
手元のデバイスの画面にも変化が現れていた。レティシアとエレナの下に、マリエルとレイモンド、JJのアルダス調査組の名前が連なっている。テオたち地上組はまだ移動中のようだ。
『そういえばその耳、動いてたよな。飾りじゃなくて、ちゃんと機能してるってことか』
『動く……それは自分の意思で動かせるということだろうか』
デバイスからはどこか感心したようなレイモンドの声に続いて、JJの冷静な分析も届いた。
「どうでしょうか……試してみますね」
髪の雫を拭っていたタオルの動きが止まる。レティシアは、むむっと口を結んだ難しい顔をして、自分の頭の上に意識を集中させている。動かそうとしているようだが、長い耳は後方に垂れたまま。くしゃみの音に過剰に反応していたときと違って、ぴくりとも動かない。
どう?とレティシアが首を傾げるとともに、バーニィ耳も顔横の髪と同じように重力に従って横に流れる。これは自発的な動きではないからと、アベラルドは|首を横に振ってみせた。
「だめみたいです。動くには動きますが、自分の意思で動かすのは難しいです」
『承知した。ご確認、感謝する。これも手掛かりになるかもしれない』
『レティシアさんの体調ばかり気にしていて、その耳が機能しているとは思いも寄りませんでした。宿での過ごし方はお伝えしましたが、バーニィの生態は念頭に置いておく必要があるかもしれません。生態調査の結果をあとでデバイスに送るので、アベラルドさんも確認をお願いできますか?』
「もちろんです。姫のためなら、なんなりと」
アベラルドは髪の水気をすっかり移したタオルをレティシアから受け取って、ゆっくりと立ち上がった。
笑みを浮かべた唇を『ありがとう』の形に動かすレティシアに、こちらこそ、と胸に手を当て、頭を垂れる。
『よし、進む方向は決まったな。地上組と連絡が取れたら、エレナは調合時の様子について、もう一度情報のすり合わせを頼む。それまでは俺とマリエルを手伝ってくれ。バーニィの生態を調べる。JJはさっきの情報も考慮して、もう一度スコピアムネットワークで聴き込みを頼めるか』
レイモンドの的確な指示が飛び交う。
『では、通信は一旦終了ということでよいかな』
『そうですね。おふたりとも、また後で連絡しますね』
「わかりました。皆さん、ありがとうございます」
「お待ちしております」
画面からはエレナ、レイモンド、少し間をおいてマリエルと人が減っていき、レティシアとJJだけが残った。そして何も操作しないうちに明かりが消える。
ということは、これで通信が切れたということなのか。やはり姿が見えない通信とやらは苦手だと、アベラルドは睨んでいた画面から顔を離した。
「テオ兄たちはもう王都に着いた頃かしら」
レティシアが壁の時計を見上げて、ぽつりと呟いた。
「フーガならもう着いていてもおかしくありませんが、移動よりも状況説明に時間がかかるかもしれませんね」
一市民であれば体調不良で大事を取って一泊すると言ってしまえばそれで済むのかもしれないが、レティシアは一国の王女である。正直に話すにしても、事実をありのまま理解してもらえるには時間を要するだろう。
大変な役目を任せてしまったテオの苦労を推し量ると、アベラルドは今さらながら、気が遠くなる思いがした。
「無事に解決したら、皆にお礼をしなくてはいけないわね。こんなに心配をおかけしているんだもの」
「そのためにも、今はきちんとお身体を休めて朗報を待ちましょう。お掛けになられてはいかがですか? いただいたクッキーもありますし」
「……ん、そうね。そうしようかしら」
ならばと手の中のデバイスを持ち主に返そうとしたとき、雑音とともに再び画面に明かりが灯った。誓ってボタンには触れていない。
雑音の中に遠い声が混じっている。デバイスに向けた話し声というよりは、デバイスが認識できた音をたまたま拾ったような声だった。
通信は終わったのではなかったのか。アベラルドとレティシアは互いに顔を見合わせて、そろって首を傾げた。無意識のうちに息を潜めて、遠い声にひとまず耳を澄ませる。
それは頼もしいと感心したばかりのレイモンドと、通信中ほとんどずっとおとなしかったマリエルの声だった。
『――』
『――れ、アベラルドに聞かれるなよ。絶対怒られるぞ』
『何よ。こればかりはアベラルドさんも否定しないと思うわ』
『否定するとかしないとか、そういう問題じゃなくてな……』
目の届かない場所でいったい何を人が怒るような話をしているのかと、アベラルドの眉間には皺が寄っていく。それを指でぐりぐりとほぐし始めると、隣で見ていたレティシアはデバイスに拾われないよう口元を隠して、アベラルドだけに静かな笑い声を聞かせた。
画面は暗くなる前と変わらず、レティシアとJJの名前しかない。レティシアの傍でデバイスを共有するアベラルドのように、ふたりもJJの近くにいるのかもしれない。
短い間滞在したアルダス艦内の様子を推察しているうちに、レイモンド曰く〝絶対アベラルドに怒られる話〟の中身が判明する。
『それにお前、猫派じゃなかったのか』
『猫ちゃんとバーニィ、どっち派かと聞かれたら絶対に猫派よ! でもバーニィ耳のレティシアさんがかわいかったのは事実なんだから、しょうがないじゃない!』
「へっ……!?」
『わかったからそんなに興奮するな、って、…… 今、誰か喋ったか……?』
レティシアの口から困惑を含んだ声が漏れた。
それが微かに聞こえたのか、何か違和感を覚えたらしいレイモンドの声はやんだ。
しかし、興奮したマリエルの主張は一向に冷めない。猫がかわいい話、レティシアのバーニィ耳姿がかわいい話、また猫が素っ気ない(それがかわいいらしい。アベラルドには理解しかねた)話が早口で延々と続く。
はっきりと猫派を宣言しているのはニーナだが、立ち寄った街で猫を見つけてはかまうマリエルの姿はよく目撃されていた。本人は隠しているつもりでも、仲間内で彼女の猫好きは周知の事実だった。
『猫ちゃんみたいに猫じゃらしに反応するのかしら……いやでもバーニィだから違うのかも……? 気になってきた……』
「あう……」
デバイスに話し掛けるべきなのか。それとも聞かなかった振りをするべきなのか。
おそらく聞かせるつもりのない主張を届け続ける機械を手に、アベラルドはすっかり困り果ててしまった。デバイスを握った手を下に下ろし、指示を仰ぐように視線を上げる。
見上げた先で、レティシアは両の手のひらを頬に当てて、熱が肌に浮き出たそこを必死に冷まそうとしていた。気のせいに違いないが、バーニィ耳の白い毛並みまで薄ら桃色に染まっているように見える。
そのうち向けられた視線に気づいたのか、ふと顔を上げたレティシアと目が合った。お互いになんとも気恥ずかしくて、合ったばかりの視線をふいっと反対の向きに逸らしあってしまう。
また始まった猫の話を遠くに聞いていると、今にも消え入りそうな声がアベラルドの耳に届いた。
「マ、マリエルさん、もしかして最近、猫に触れていないのかしら……」
「……な、なぜそう思われるのです?」
「だって、猫派のマリエルさんがバーニィの耳……を、か……かわいいなんて、珍しいから……」
姫の意見にはかねがね賛同――しなくても従うアベラルドだが、こればかりはつゆほど支持しかねる。
逸らしていた視線をぎこちなく、だが確実に元に戻し、瞳にレティシアを映す。
「……姫はかわいらしい、ですよ」
「えっ……? あ、ありがとう……」
呟くような声でも近くにいた彼女にはきちんと伝わり、薄く桃に色づいていた頬はさらに朱を深めた。
顔を見て安心したと表情を緩めたり、『かわいい』と言われて頬を赤らめたり――そんなレティシアのかわいらしい姿を見ているのは自分だけだと思うと、アベラルドの胸は無性にくすぐったくなる。
しかし、ずっとこうしているわけにもいかない。レティシアが顔を隠す原因を止めるべく、アベラルドはデバイスの向こう側に届く大きな咳払いをふたつ続けた。早口の主張はそれでも止まらず、意を決して口を開く。
「マリエルさん。その、先ほどからお声がこちらに届いています」
デバイスの向こうが水を打ったように静まり返る。
『…………う、嘘!? デバイスは切ったはず……っ、切れてるわ……アベラルドさんに聞こえてたってことは、もしかしてレティシアさん……も……』
「……聞いておられます。JJさんのお名前が画面に表示されているので、もしや」
恥ずかしくてとても無理だと首を横に振るレティシアに代わって、アベラルドが答えた。
『嘘だろおい……』
『JJさん……!!』
『? 何か御用かな』
デバイスの向こうでごそごそと、何やら騒がしいやり取りが続く。
しばらくして、JJのはっきりした声が届いた。再びデバイスを取り出して話しているようだ。
『いやあ、すまない。私が通信を切り忘れていたようだ。同胞とのやり取りはデバイスを必要としないのでな。うっかりだった。許してもらえるだろうか』
『だ、大丈夫です! 悪いのは私なので、そんなに気にしないでいただいて……』
独り言を聞かせていたと知って狼狽えていたマリエルは、JJの真摯な態度にさらに慌てふためいていた。
今度はこちらから通信を終了するべきか切り口を探すよりも先に、デバイス越しにすうっと大きく息を吸い込む音が聞こえてくる。
『レっ、レティシアさん!』
「は、はい!」
急に話の矛先を向けてきたマリエルの声に、レティシアは頬を覆っていた手をぱっと離して顔を上げた。
『大変なときにごめんなさい。体調は悪くなってないって聞いたら、何だか安心しちゃって……ね、猫のことは……猫のことも含めていろいろ……忘れてください』
居たたまれないとばかりに尻すぼみに小さくなる声に、レティシアはゆるゆると頭を振る。
「マリエルさん……いいえ、ご心配ありがとうございます。驚いてしまいましたが、マリエルさんの意外な一面を窺えて嬉しかったです。猫の話はまた今度、ゆっくり聞かせてください」
『……っ! 楽しみです! 今度私の秘蔵コレクションをお見せします!』
しばらくして、予期せず続いていた通信は今度こそ本当に終わった。
レティシアの唇からふっと息が漏れた音を合図に、ふたりの笑い声が重なる。
「マリエルさんったら、やっぱり猫の話をすると嬉しそう」
「頼りになるJJさんでも、デバイスの切り忘れなんてうっかりをすることがあるのですね」
空気が緩んだような間が一拍あって、レティシアは髪を手で梳くようにして、長いバーニィ耳を手に取った。親指で撫でてみたり、ふにふに押してみたりして、耳先が形を変える様子を眺めている。
「この耳の謎はまだ解けないけど……バーニィの耳でよかったわ」
バーニィでよかった、とは。アベラルドは一瞬言葉の意味を図りかねたが、ラーカスでの出来事を思い出して、すぐ腑に落ちた。
『どちらもかわいいと思いますが』との前置きはあったものの、猫とバーニィどちら派かとの談義で、レティシアもバーニィのもふもふを気に入っていると言っていた。
「姫もバーニィがお好きとおっしゃっていましたよね」
「あなたとテオ兄とよく遊んだあの丘にたくさんいたから、馴染みが深いもの。それに、バーニィだったら……」
不意に言葉が途切れた。そのままおとなしく続きを待っていると、そろそろと耳先から顔を上げたレティシアと視線がぶつかる。
途端に小さく跳ねた肩に、アベラルドは首を傾げた。
「……姫?」
「え……っ、う、ううん、何でもない。それより、湯浴みのことでちょっと相談したいことがあるの」
「は、はい」
レティシアは慌てて耳からぱっと手を離して、首を横に振った。アベラルドに背を向け、どこか足早にソファーへと向かう。
湯浴みのどんな相談なのか少しどきりとしながら、アベラルドも彼女の後ろを続いた。
「エレナさんは、風邪のときと同じように過ごしてって言っていたでしょう? ということは、今日の湯浴みは控えておくべきかしら」
「確かに……そのお耳に湯が入ってしまう可能性もあるので、避けた方がよいかもしれませんね」
初めて見たときはぴんっと立っていたバーニィ耳は、上からコートを被せてしまったせいか、宿に着いてしばらくしてからはずっと垂れたままだ。
人の耳であれば頭を傾ければよいが、生え際が垂直なこの耳にもし湯が入ったらどうすればよいのか。これから送ってもらう予定のバーニィの生態調査にも、そんなことは書かれていないだろう。
それに、雨が降ると軒下に避難するバーニィの姿は城下でもよく目にしている。個体差はあれど、基本的にあまり水に濡れるのは好きではないと思われた。
「身体は拭きたいんだけど、この耳の根元の方は全然見えなくて……自分で触るのは少し怖いの。耳だけでいいから、手伝ってもらえないかしら」
おずおずと見上げるレティシアに対して、アベラルドの答えは決まっていた。
「もちろんかまいませんよ。お任せください」
途端にレティシアの表情が和らぐ。
「本当? よかった、お願いね」
いつの間にか左手を緩く握っていたことに気づいて、レティシアに気取られないようにそっと肩の力を抜いた。突然自分の身体の一部となった箇所に触れる怖さを、アベラルドは知っている。
そうでなくとも、胸の内側はまだ不安でいっぱいだろう姫を支えられるなら、どんな些細なことでも手伝うつもりだった。
*
デバイスに送られてきたバーニィの生態について話しながら過ごしているうちに、アベラルドには気づいたことがあった。
耳は確かにバーニィのものだが、行動が市中でよく見かける大きなバーニィのものではなく、成長する前のいわゆるミニバーニィに近いのだ。
ソファーの隅も隅に座りたがったり。アベラルドに腕を絡めてぴとっと密着しては、時々頬をすりつけるような仕草をしたり。心臓が持たない状況に救いを求めて時計を見ると、どこを見ているのと言いたげに、腕や手をつんっとつついてきたり。
一部は不安からくる行動とも考えられるが、レティシアのバーニィ耳はずっと後ろにぺしょりと垂れたまま。普段見かけるバーニィの耳とは少し様子が異なる。生態調査によると、これは安心しきって警戒を解いている状態なのだという。
耳の生態に行動が引っ張られているのだと、頭では十分理解している。
それでも、全幅の信頼を置いて頼りにされると、理性を掻き集めて平常心を保つことに精いっぱいだった。
健気なことに、夕食に使った食器をカウンターに返し終えて部屋に戻ると、レティシアはドアの傍でアベラルドの帰りを待っていた。胸の前でデバイスを大事そうに抱えている。
向けられたデバイスの画面には、一緒に確認していたバーニィの生態調査ではなく、何名かの名前が表示されていた。つまりは通信中である。
声を落とした「戻りました」の報告には、同じく小声の「おかえりなさい」が返ってくる。部屋にはふたりしかいないのに内緒話をするかのような仕草がどこかおかしく思えて、どちらからともなくそっと笑い合った。
ともに早めの夕食まで一緒に過ごしていたソファーへと戻る。
レティシアはまたソファーの隅っこにちょこんと座って、テオ、マルキア、そしてエレナと通信ができている状態だと教えてくれた。
地上組にとっては、複数人で声のみの通信は初めての体験となる。アルダス組と情報をすり合わせる段階で収集がつかなくなり、代表を選出する運びとなったらしい。
「それで、原因がわかったかもしれないって、ちょうど話していたところだったの」
「本当ですか!?」
聞かせたつもりはなかったが、デバイスはひと回り大きくなったアベラルドの声をきっちり拾った。
『アビー、戻ったんだな。叔父上たちへの説明に手間取ったのと、ロラにも何か知らないか話を聞いていて遅くなった。レティは大丈夫だって言ってるが、本当か?』
「アベラルドに聞かなくても、私がそう言っているのに。テオ兄ったら、こうやってずっと信じてくれないのよ」
アベラルドだって、もし今ここにいなかったらテオと同じことをしていたから彼の気持ちはわかるし、心配ないと何度も言っているのになぜ心配し続けるのかというレティシアの気持ちもわかる。
要は元気な姿を自分の目で見ない限りは安心できないのだ。両者の気持ちがわかる分、苦笑いを零すしかない。
「ああ、姫の体調にお変わりはない。悪くなっていないかとの心配なら、これ以上は不要だ」
『そうか。アビーがそう言うなら、本当に大丈夫なんだな。何度も聞いて悪かったよ、レティ。……本当によかった』
「テオ兄……」
「それで『わかった〝かもしれない〟』ということは、姫のこの耳の原因ははっきりしなかったということでしょうか」
従兄妹間の想いがお互いにきちんと伝わったところで、アベラルドは問題の核心へと話を戻した。
『ご明察です。残念ながら結論には至りませんでした。しかし、あのときの聖堂内の状況や様々な情報を鑑みて、原因はひみつのパウダーとギャンブルベリィの組み合わせではないかとの仮説が立ちました』
「ギャンブルベリィ、ですか?」
アベラルドはエレナが教えてくれた情報におうむ返しに尋ねた。
それは驚異的な回復効果の代わりに看過できない負の効果もあるため、旅の間は一度も使用したことがないベリィだった。何とも言えない味だが好む人間もいるらしく、もし手に入れたら譲ってほしいという店もあった。
『JJさんがスコピアムネットワークを使って集めてくださった情報によると、今回のレティシアさんと似通った事例がいくつか見つかりました。いずれも原因不明で終わっていますが、ひみつのパウダーを使った調合時にベリィの種類を取り違えた可能性が指摘されています。原因とは言い切れませんが、無関係とも言い切れないかと』
「ベリィ……ああっ!? もしかして、私がアクアベリィと間違えてしまったのではありませんか!?」
調合当時の記憶を手繰っていたレティシアがはっと顔を上げる。
しかし、その推理はすぐにマルキアが否定した。
『いや、私が調合した数と持ち帰った数は一致していた。それはないから安心していい。しかし、レティシア王女の近くでギャンブルベリィを調合していて、何らかの形で摂取させてしまった可能性は残っている』
レティシアはすっと鋭く息を吸い込み、凛とした声で今にも謝罪に繋がりそうな流れを断ち切る。
「原因は断定できないのでしょう? ニーナさんにもお伝えしましたが、これは誰にもわからなかったこと。誰のせいでもありません。もしそうだったとしても、マルキア様が手伝うとおっしゃってくださったから、私も調合に挑戦してみようと思えたんです。怖気づく私の背中を押してくださいました」
「姫……」
アベラルドもレティシアの意見に賛成だった。ひみつのパウダーとベリィは確かに無視できないが、似た事例で取り違えが指摘されていることからの推測にすぎない。
このふたつが条件なら、それはマルキアにも、状況によってはテオとJJにも当てはまる。レティシアだけにこんな作用が働いた明確な理由はわからないのだ。
「ですから、マルキア様。次は私がきちんと目的のものを調合できるまで、とことんお付き合いくださいね」
ぐっと拳を握る彼女らしい言葉は意気込みと一緒に伝わり、デバイスの向こうの空気がふっと和らいだ。
『わかった。今回は中断せざるを得なかったが、次は必ず最後までやり遂げよう。そうだな……今度会うときは、レティシア王女が好んでいたニルベス名物のミラクルパイを振る舞うとしよう。少年はまだ食べたことがなかったか?』
「あのスパイスが果物の甘さを引き立てていて、また食べたいと思っていました! アベラルドもきっと好きよ。ニルベスでしか採れない木の実が使われていて、とってもおいしいの。形もかわいいし」
こんな形よ、とレティシアの人差し指が宙に星を描く。
懸命においしさを説明しようとする姿に、固唾を呑んで一連の会話を見守っていたアベラルドも思わず頬を緩める。
「はい、楽しみにしております。……って、ではなくてですね、」
姫の憩いの時間に随伴できる。それはもちろん心弾むことなのだが、アベラルドが今最も気になるのはそれではない。
最初にアベラルドに話しかけて以来、ずっと会話を控えていたテオが快活な笑い声を立てた。
『一番知りたいのはその耳がどうやって治るかだよな。安心しろ、時間経過で治るそうだ。風邪を引いたときと同じように温かくして過ごしていれば、あー……何て言ったか……』
『免疫、です』
言葉を詰まらせたテオにエレナがすかさず補足する。
『それです。それが高くなって、なお良し。早く治るってことみたいだ』
「……! よかった……っ、」
「姫……っ、本当に……!」
アベラルドを見上げるレティシアの瞳には薄ら水の膜が張っていた。
レティシアの体調は悪くなっていないとはいえ、仮説どおりにひと晩経てばバーニィ耳が消えている保証などなかった。それが治るとはっきりわかったのだ。
胸の内側をうす雲のように覆っていた漠然とした不安が晴れて、アベラルドにも込み上げるものがあった。
通信の代表が決まった(誰も譲らずなんと口頭のじゃんけんで決めたらしい)とき、治す方法を伝える役は自然とテオが務める流れとなった。早くふたりに伝えて安心させてやりたい。
しかし別の場所にいる顔の見えない相手、しかも複数での通信中となると口を開く時機がわからず、ずっとデバイスを片手に口を開けたり閉じたりしていたのだ、と。
テオはそう明かして皆の笑いを誘った。
*
今日はここが棲み家とばかりにまたソファーの隅に身を収めたレティシアの視線を一身に受けながら、アベラルドは少し熱めの湯からタオルを引き上げた。
桶から零さないように気をつけてぎゅっと絞る。広げて手のひらでも温度を確認しながら、ソファーに座るレティシアに近づいた。
「もふもふの毛があるので大丈夫かとは思いますが、熱すぎると思ったら我慢せずすぐにお知らせください」
「わかったわ。じゃあ……まずは耳の先からお願い」
「承知しました」
レティシアはアベラルドに背中を向けて、ソファーの背に置いたクッションに覆い被さるように上体を預けた。
触りやすくなったバーニィ耳の先を、髪を一房すくい取るようにしてそっと手のひらに乗せる。三又に分かれている特徴的な耳だ。毛が白いバーニィの耳先は紫であったはずだが、レティシアのそれは淡い水色をしている。彼女に似合ったその色は、ふわふわの手触りと相まって、空に浮かぶ雲を想像させた。
この耳は明日にはなくなるし、手伝ってほしいとはレティシアが望んだことである。とはいえ、姫の身体の一部に触れることに、アベラルドが緊張を抱かずにいられるわけがなかった。
雲をタオルでやわらかく包んで捕まえると、そんな緊張も吸い込まれるように次第に薄れていく。
「痛くはありませんか?」
「全然。もっと強くても大丈夫よ」
「ええと、これくらいでしょうか」
「ん……気持ちいい」
タオル越しにバーニィ耳の感触がわかるくらいの加減に変える。そのままやさしく揉み込むように拭いているうちに、レティシアはうっとりと瞳を閉じた。
耳の根元に向けて徐々に拭く場所をずらしていくと、タオルで作った洞窟を通り抜けた耳先が見えてくる。タオルの端を捕まえるようにくるんと丸まる様子は、アベラルドに幼い頃の記憶を思い起こさせた。
遊び疲れた姫が服を掴んだまま眠ってしまうから、よく抱っこをせがまれていたテオが毎回離してもらうのに苦労していた、と。
思い出すと、テオが少し羨ましくなった。――ほんの少し、だけ。
ずっとレティシアより背が高かったとはいえ、ひとつ年上なだけの幼いアベラルドは姫を腕に抱えたことも、抱っこしてとねだられたこともないのだ。
気がつけば、耳先に左手を伸ばしていた。タオルと耳先の隙間に人差し指を添えて、そっと滑り込ませていく。
タオルとは違うもふもふを感じた次の瞬間には、指先がやわらかく包まれていた。恐る恐る指先を動かして応えると、指全体を大きく包み込まれる。
自分の意思では大きな耳を動かせないと言っていたのだから、これが反射的な行動だとはわかっている。それでも、指だけでなく心までふわっと包まれたような心地になって、頬が締まりなく緩んでいく。
ふとレティシアの様子を窺う。長い睫毛は伏せられたまま、眠っているのではないかと思うほど穏やかな表情を浮かべていて、アベラルドはほっと息を吐き出した。
密かな戯れの時間を人知れず終えて、またバーニィの耳を清めに戻ろうと――。
「ひゃあっ!」
「っ、す、すみません! あの、耳の先がくるんとしていて、その、」
唇から小さな悲鳴が上がる。
アベラルドは出来損ないの言い訳をそれらしく成形しながら、飛び退くように左手の指を耳先から離した。
「ん……っ、ちが……、ぁっ」
「え……?」
両手に乗る長い耳を確認する。戯れていた指はもう耳先から離している。では原因は右かと恐る恐る退けたタオルの下には、予想した白いもふもふではなく、血管が多く通っている耳介があった。
やさしくしていたとはいえ、人と同じで敏感であろうそこを、同じ力加減で拭いてしまった。痛かったに違いないと焦って、思わず大きな声を出してしまう。
「痛くしてしまいましたか!? ……それとも熱かったでしょうか……」
手の中のバーニィ耳がぴくりと跳ねたことに気づいて、荒げてしまった声の音量をすぐに落とす。
「ち、違うの、痛くはないわ。耳の先より感覚がわかりやすいというか……くすぐったくて、びっくりしちゃっただけ。ごめんなさい、気にしないで」
「そう、でしたか……安心しました。続けるのはかまいませんが、大丈夫ですか?」
この部屋で過ごしている間、レティシアは時折バーニィ耳を触っていたが、思い返せばそれはいつも耳先の方だった。彼女も初めて耳の根元側に触れて、耳先とは違う感覚に戸惑ったのかもしれなかった。
「くすぐったいのは我慢できるわ。明日にはなくなっていると言っても、やっぱりそのままベッドに入るのは気になるから、続けて」
「わかりました、そっとしますね」
タオルで長い耳を再び包み込む。
生態調査によると、バーニィは駆けることで風を耳に当てて体温調節をしているという。耳介のある根元近くを拭くには、話している間に少し冷ましたくらいがちょうどよいのかもしれない。
先ほどのように揉みこんだりしないよう、撫でるようにタオルを滑らせていく。しかし。しかし――。
「っ……ふ、ぅう……っ」
「……」
「ゃ、……んっ」
「…………っ」
(くすぐったがっているだけ。それだけ、だ)
拭き進める度、やさしくなぞる度に、レティシアの唇からは何かに耐えるような声が漏れた。
今しがた交わしたばかりの会話でその理由は理解してはいるのだが、自分が手を動かす度にレティシアの身体が小さく跳ね、吐息で構成された声を上げているのだと思うと、アベラルドも一介の男子として、情けなくも反応してしまうものがあった。
ゆっくりせずに、早く拭き終えてしまった方が姫にとっても楽なのではないか。そうは思っても、集中できずにまた力加減を誤ってしまうのも恐ろしい。
くすぐったがっているだけだと、頭の中を埋め尽くすように何度も唱える。息すら止めて手の中の耳だけに集中し、やがて耳の根元に辿り着いた。
タオルを一度外して端を待ち直す。拭いているうちにタオルが髪と耳介に触れないように、根元付近は慎重にしなければならない。
汗が伝う感覚を背筋に覚えながら、拭く場所の近くを左手でそっと押さえた。
「ひゃんっ! ん、んん……ぅっ」
レティシアは自分の口から飛び出た声に驚いた様子で、咄嗟に手のひらで口を覆った。
「し、失礼しました! タオルが髪に当たらないようにと……っ」
「……い、からぁ……、ひぅっ?! ぅ、ん……っ」
事前に伝えておけばよかったと眉を下げるアベラルドを見やる余裕もなく、レティシアは気にしないでと伝えたい一心で、ふるふると首を横に振った。
しかし、耳を押さえた状態で頭が動いたために、アベラルドの手が耳をこする形となってしまう。余計な刺激になってしまい、バーニィ耳がびくびくと跳ねた。
(早く終わらせなければ……っ)
姫のために――己のためにも。
手早く無心で、だが加減は忘れずに根元を拭き、掴んでいた耳を離すと同時に息を吐き出す。一生分の労働を終えたような、重く深い息だった。
いつからか前屈みになっていた姿勢を元に戻すと、バーニィ耳だけに集中していた視界が開けていく。
声を抑えるために口を覆っているせいか、レティシアは背中で息をしていた。もうそうする必要はないのだと、息苦しそうな背にそっと声を掛ける。
「ひめ、終わりましたよ……姫?」
「はぁ、ぅ、ん……?」
何度か呼び続けてもレティシアは気づかず、顔を覗き込んで呼び掛けるとやっと顔を上げた。ずっとくすぐったさに耐えていた瞳は表面に水を湛え、頬はほてっている。唇から漏れ出る吐息すら熱を帯びていた。
姫がこんな表情をしているのは紛れもなく耳に触れた自分のせいだと思うと、申し訳なさや心苦しさとは違う感情が胸にふつふつと湧いてきて、喉の渇きを感じる。
緩慢な動きで身を起こすレティシアとの境界線を自身に意識させるように、アベラルドはタオルを持った手をぱっと身体の前に掲げた。
「っ、も、もう終わりましたよ」
「終わ、り……」
「次はお身体……ですよね。先に浴室に行って準備をしてきますので、……っ!」
起き上がったと思ったレティシアの身体がへにゃりと力をなくし、胸に傾れ込んでくる。離れる力もまだ戻っていないのか、レティシアはそのままアベラルドの胸にくてっと頭を寄せた。
(姫の身体の内側も、こんなに熱いのだろうか)
服越しに肌を舐める吐息に、そんな邪な想像を抱いてしまう。
平静を取り戻すべく、アベラルドもレティシアを胸に受け止めたまま、傍にあるソファーに身を沈めた。
見下ろした背中はまだ息苦しそうに上下している。呼吸を整える手伝いをするべきかとタオルを持っていない手を近づけてみたが、項まで真っ赤に染まっているのを見つけてしまい、さするのも逆効果かと躊躇う。
しばらく手を宙で彷徨わせていると、胸元から顔を上げたレティシアとばっちりと目が合った。荒かった呼吸も幾分か収まっている。
もう良くなったのなら、早くいつもの距離を取り戻さなければならない。これ以上は持ちそうにない。心臓も、他のいろいろも。
「あの、姫……っ」
「アベ、ラルド……えっと……もう片方も、お願い……」
「…………え」
バーニィの耳はふたつ。当たり前のことであった。
「で、ではまた後ろを向いて、」
「こっ、このままじゃ、だめ? あなたの方が背が高いんだから、この方がよく見えると思うの」
「」
バーニィの耳は上向きに生えているので、この体勢の方が耳の根元がよく見える。
レティシアの言い分は正論であった。正論ではあるの、だが。
「それに……」
「っ!」
一向に熱が引かないらしい頬のやわらかな感触が、そっと胸にやってくる。白い指が胸をつつっと登ってきて、縋るようにきゅっと服を握る。
「手で押さえていても、へ、変な声出ちゃうから……いやだったら、すぐに退くから、」
「そんなわけ……っ」
いやだなんてそんなこと、あるわけがない。ただこのままの状態でいるには、理性やら騎士としての矜持やらを総動員する必要があるというだけで。
期待と不安が入り交じった瞳が、助けを求めるように見上げている。
ならば、アベラルドの答えはひとつしかない。
「お手伝いすると、約束しましたしね」
「……ん。ありがとう」
レティシアはそれだけ口にすると、再びアベラルドの胸に顔を埋めた。照れ隠しなのか、さらに額をうりうりとすりつけている。
アベラルドは現れた頭のてっぺんとこれから触れる側のバーニィ耳を見下ろしながら、まだ熱さを保っている湯にタオルを浸した。絞ったそれを耳先に当てれば、胸元の服を握る指に力がこもる。
まだ耳の先の方だからと、最初と同じ揉み込むような動きで拭いていると、熱い吐息が心臓の近くをくすぐる。
一度感覚の鋭い場所に触れたせいか、レティシアは先ほどは心地よさそうに瞳を閉じていた動きにすら、今は敏感に反応してしまっていた。
ほどなく空色と白の毛並みを拭き終え、再び薄桃の耳介に辿り着く。
「姫、また……近くに触れますね」
「う、ん……あっ! ふ、ぁ……っ」
「……もうちょっとの辛抱ですから、がんばって」
艶のある声が胸で押しつぶされて、くぐもって聞こえる。
それが、ともすれば抱きしめてしまえる距離で身体を震わせるレティシアに対しての言葉なのか、そんな彼女に良からぬ疼きを抱える己に向けてのものなのか、アベラルドには定かではなかった。
*
やっとの思いで今度こそバーニィ耳を拭き終わると、レティシアはぽーっとした真っ赤な顔のまま、消え入るような声で礼を告げた。その彼女が消えて行った浴室のドアを背にして、アベラルドは座り込んでいる。
ただタオルを絞るだけなら、こんな傍に控えておく必要はない。レティシアの『心細いから少しでも近くにいてほしい』との願いを受け入れてのことだった。
布が織りなす音がドア越しに耳を、背筋をくすぐる。ボタンが穴をくぐる音。服から腕を抜く音。布が床に落ちる音。脱いだ服を畳む音。
――このたった一枚のドアで隔てられた向こう側に、無防備な姿の姫がいる。
落ち着かない。落ち着きようがない。目を閉じてみても、研ぎ澄まされた聴覚が拾う音が増えただけ。
考え抜いた末に、ならば他の音で打ち消してしまえばよいではないかと思いついた。なかなかの名案だと、早速背中越しに話しかける。
「そういえば、姫はあのとき何を作ろうとなさっていたのですか?」
「えっ……、ええっと、うーん……だめ。まだ秘密よ」
「気になります。……まさか、姫もギャンブルベリィを……」
マルキアはその手本を作っていたのではと危惧するアベラルドの苦々しい声に、レティシアはドアの向こうでおかしそうに笑った。
「それは違うから安心していいわ。うまくできたらアベラルドに一番に見せてあげるから、まだ秘密。誰かに探りを入れるのもなしよ?」
「承知しました。その時を楽しみにしていますね。それで、そろそろタオルを準備しようと思いますが」
「ええ、お願い。ちょうどそう言おうと思っていたところ」
湯冷め防止の蓋を外して、桶の中で温めていたタオルを拾いに行く。
袖を捲くった腕に纏わりつく湯はまだ熱い。身体を拭くにはこれくらい熱い方がいいだろうかと思いながら、ひとまず絞る。
「まだ少し熱いかもしれません」
「そうなの? じゃあ触って確かめてみるわね。……貸してみて」
「どうぞ。……えっ」
とんとんっと肩を叩かれて、アベラルドは何気なく後ろを振り返った。振り返ってそして――身体の動かし方を忘れてしまった。
頭が目前の光景をゆっくり処理している間に、レティシアは固まったままのアベラルドの手からタオルを攫っていく。
「これくらいが好きよ、ありがとう。もらっていくわね」
熱さも気に入ったらしい。レティシアはにっこりと笑みを残して、タオルを受け取った腕でドアを閉めていった。
「いえ……」
何拍も遅れてやっと絞り出した返事はドアにぶつかって下に落ちた。
姫はいつの間にドアを開けたのか。タオルから絞った湯が水面に落ちる音で掻き消えてしまったのか、まったく気づかなかった。それよりも、
(肩も腕も、首筋も。何もかも想像以上に華奢で、やわらかそうだった……)
手を伸ばすだけでは届かなかったのだろう。振り向いたとき、レティシアは薄く開けたドアから顔を覗かせていた。
そこから続く細い首筋、布ひとつ纏っていない肩から腕、指の先までのしなやかな曲線。その肌を、ドアで見えなかった肢体を、アベラルドが絞ったばかりのタオルが滑る――。
必死で逃れたはずのあられもない想像を再び強く掻き立てられて、アベラルドは力なくドアにもたれかかった。
身体を拭き終わって出てきたレティシアと交代で入った浴室で、冷水で顔を洗い、額を壁に打ち付け、瞼に鮮明に焼きついた光景をなんとか、なんとか振り払った。
いい加減、姫の騎士としての役割に専念しろと気を引き締め直して、浴室を後にする。
部屋に戻って、アベラルドはまず最初にソファーを確認した。ここの隅を今日のレティシアはずいぶん気に入っていたからだ。
しかし当ては外れて、姫の姿はベッドの上にあった。二度目の通信が終わったとき同じように、バーニィの耳先を手のひらに乗せて、じっと見つめている。
「姫、戻りました。もうご就寝の準備が整っているようですね」
「あっ、アベラルド! 早く眠った方が、きっとその分早く治ると思うの。風邪を引いたときはよく眠るといいって言うし」
レティシアはぱっと顔を上げてアベラルドを振り返った。身体の動きに釣られて、バーニィ耳がぴょこぴょこと揺れる。
「私もそうした方がよいのではと考えていたところでした」
治るとわかれば微笑ましくも思える耳の動きに目を細めつつ、アベラルドはベッドに近づいた。
今日は予想外の出来事に巻き込まれて疲れただろう姫に、おやすみを告げるために。
「部屋の隅に控えていますので、何かあれば迷わずお呼びください」
「っ、待って」
少し大きめの寝間着からちょこんと覗く指が、アベラルドの袖を引く。
「ぁ……えっと……」
レティシアは自分でも驚いた様子で、引き留めたアベラルドの手を見つめていた。袖を引いた手は再びバーニィ耳の元に戻り、心許なげに毛並みを撫でつけている。
言葉を探している様子を珍しく思っているうちに、アベラルドには袖を引かれた理由にふと思い当たるものがあった。
風邪を引いたときと同じように過ごせばいいと判明しても、だからといって同じ感覚でいられるわけがないのだ。
反省を込めた手を胸に宛てがい、睫毛が影を落とす瞳を覗き込む。
「……のつもりでしたが、もしよろしければ、姫がお眠りになるまで傍にいてもよろしいでしょうか」
「……いてくれるの?」
ぱちぱちと目を瞬かせるレティシアに、アベラルドは寄り添うようにやわらかく微笑みかける。
「風邪を引いたときと同じように過ごすのが効果的なのでしょう? そういうときは、誰かに傍にいてもらいたいものですから。もちろん不要でしたら、」
「そ、そんなことない! ……あなたがいいの」
言葉を遮る勢いで伸びてきた手に、今度は袖ではなく手を取られた。そのままゆっくりと持ち上げられて、手のひらにはまろい頬が触れた。
「アベラルド、今夜はずっと傍にいて」
「もちろんです。朝までお供しますとも」
目だけでなく肌からも感じられる微笑みのやわらかさは、手のひらを伝ってアベラルドの胸に愛しさを灯していく。
約束よ、と甘えるように手のひらに頬をすりつけて、一転していそいそとベッドに身を横たえようとするレティシアを微笑ましく思いながら手を貸す。枕の角度を整えてやり、冷えないように掛布を首元までしっかりと被せる。
姫の就寝の準備をすっかり整えて、アベラルドも近くにあった椅子を引き寄せた。ここが明日、少し寝惚け気味のレティシアから朝の挨拶を聞くまでの居処になる。
後はもう、レティシアが瞳を閉じるだけ。かと思いきや、彼女はもぞもぞと落ち着きなく、何度も頭の位置を変えて不思議そうな顔をしていた。原因は言うまでもない。
「耳の先が枕の間に挟まっています。動かしてもよろしいでしょうか」
「あ……そうだったのね。気がつかなかったわ」
アベラルドはお願い、とレティシアがおもむろに持ち上げる頭の下敷きになっていたバーニィ耳をそっと引き出した。ふわふわした肌触りにソファーでの刺激の強い出来事を思い出して、一瞬動きを止めてしまった。気を取り直して、慎重に枕に下ろす。
「これで……いかがでしょう」
「よくわからないけど、変な感じはなくなったわ。ありがとう」
この大騒動を巻き起こした耳もそろそろ見納めだ。
もうやることは残っていないだろうと、アベラルドも引き寄せたままになっていた椅子に腰掛けた。
風は収まったかと窓の外に目を向ける。向かいの旗を揺らす様子もなく、宿に辿り着くまでのコートを攫ってしまいそうな強風が嘘のようだった。
口を開こうとしたとき、ベッド側で何かが動く気配があった。顔を窓に向けたまま目線を送ると、膝の上に下ろした手に向けて、ベッドから再びそろそろと手が伸びている。
どこか遠慮がちなその指は、アベラルドの存在を確認するように手の甲の形に添ってすーっと空気を滑った。触れることも重なることもなく、静かに離れて行こうとしている。
(朝まで傍にいると誓ったのだ。こうすれば、もしかすると……)
心細さから伸ばされた指先を、アベラルドはもう片方の手でちょんっと軽くつついた。動きが止まった隙にそっと手首を取って引き寄せる。
熱を伝えるように両手で包み込むと、レティシアは花開くように顔を綻ばせて、アベラルドの手をきゅっと握り返した。
「もしかして、夢の中でもこうして一緒にいてくれるの?」
「ご招待いただけるのでしたら、ぜひ」
「もちろんよ。アベラルドだけに、とっておきの招待状を送るわね」
「ありがたく賜ります」
ベッドの中で鈴を転がしたように笑うレティシアに穏やかに微笑んで、寝物語に今日一日の出来事を振り返る。
いくつも話題を渡り歩かないうちに、レティシアはゆっくりと微睡みに誘われていった。はふ、と小さなあくびが唇から漏れた後に、少し恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。
「そろそろ目を閉じられてはいかがですか」
眠りの縁から引き上げてしまわないよう、レティシアが『落ち着く』と評してくれる低めの声で問いかけると、「ん……」と吐息の肯定が返ってくる。蒼い瞳が姿を見せていなければ寝息と違えそうな小ささに、アベラルドは笑みを深めた。
「おやすみなさい、姫。ずっと傍にいますから」
「ん……あの、ね……アベ、ラルド……」
眠気に抗う瞳がまだ見上げて、予想した四文字とは違う言葉が返ってくる。
何か伝え忘れたことでもあったのだろうか。呼吸ひとつ聞き逃がさないように、ベッドに横たわるレティシアとの距離を縮める。
両手で包んでいた手を親指の腹でそっとさすってみると、蒼い瞳が緩やかに弧を描いた。
「ほんとうに……あなたが好きな、ばーにぃの耳でよかった……」
「え……」
「だって、あなたから、って……めずら、し……」
だからこうしてくれたんでしょ?とでも言うように手の内側で指が動いて、爪先が手のひらのやわらかい部分をこする。
くすぐったさに思わず外れてしまった手を包み直すわずかのうちに、レティシアは今度こそ深い夢の中へと引き込まれていった。
『バーニィの耳でよかった』とは、単に幼い頃から馴染み深いから、だけではなかったらしい。
マリエルの言葉に顔を赤らめていたときに伝えたつもりだったが、お互いに小声だったせいか、少し行き違いがあったようだ。
健気な理由に胸を締めつけられながら、アベラルドはあどけない寝顔に向けてこっそりと訂正する。
「かわいらしいのは無茶ばかりして振り回してくれる、いつものレティですよ」
被せたサーコートの奥から自分だけを見上げる大きな瞳。もっとぎゅっとしてほしいと、そっと引き寄せる腕。縋るように胸元の服を握る手。心臓をくすぐる熱い吐息と声。ふわっとやわらかい微笑み。
この耳がきっかけとなってもたらしてくれた表情を愛おしく感じたのであって、バーニィ耳があるからかわいらしく感じたのではない。
それに姫を愛おしいだなんて――そんなこと、初めて出逢ったときからずっと思っている。
包んでいた手をゆっくりと持ち上げて、そっと開く。窓から漏れた月明かりに照らされるレティシアの手は、白くか細い。
そういえば、せっかく招待状までもらって夢に招いてもらったのに、まだ返事ができていなかった。
とっておきの招待状には少し勇気を出して、幼馴染でも、姫の騎士としてでもない気持ちを忍ばせた唇で応える。
夢でも傍にいられるようにと願いを込めて手の甲を撫でた。そこにひとつ、触れるか触れないかの軽い口づけを落とす。
寝息を漏らす唇は、先ほどよりもほんの少し微笑んでいるように見えた。
すっかりいつもの様子に戻ったレティシアがその唇でおはようを告げるまで、アベラルドは片時も離れることなく手を握っていた。
NEXT