おとぎ話をあなたに サンプル①月蝕と残り香
仕事に励む人々の活気ある声や奏でる工具の音を掻き消さんばかりの不安を孕む老若男女の声が、あちこちで飛び交っている。
大陸西部をほぼ横断した流星の目撃者は、当初想像していたよりも遥かに多かった。国内政治の影響か、流星は不吉の象徴だと捉える声も多い。
ここディベルも例外ではなかった。街の門をくぐってすぐの広場は、陽が真上に上がるよりも前にライタールへ出発したときと変わらず、流星の噂で持ち切りだった。
三歩先を歩いていたニーナが頭の上で手を組みながら、まだ門の近くにいるアベラルドとレティシアを振り返る。
「これからどうします? 腕……施療院に行くなら、私も一緒に行きましょうか?」
「いえ、マーキス様に診ていただくほどではありません。もう痛みはありませんし、少し休めば大丈夫です」
心配は無用だと伝えてもなお左腕に注がれるふたりの心配そうな視線から逃れようと、アベラルドは左半身を一歩後ろに引いた。
「……申し訳ありません、今日中にラーカスまで戻れればよかったのですが」
「無理は禁物だって言ったでしょう、アベラルド。ぽっどのあった場所からライタールまで行って、ここまで戻ってきたのよ? もうガルカの祠を目指すだけだし、今日はゆっくり休みましょう」
「そうですよ! おかげで私は、自分の家のベッドでゆーっくり眠れます。明日はエダリ方面まで、びゅーんと行きましょう!」
「……ありがとうございます」
明らかに気を遣われていて、曇り続きのアベラルドの心にはまた暗雲が立ち込めた。
だが角の男との戦闘で予想外に時間を食ったのは事実で、不調を抱えたまま野営をするはめになる事態は避けられたのだと、無理にでも前向きに捉えるしかなかった。
ニーナがレティシアとアベラルドの方を向いたまま、後ろに一歩、また一歩と踏み出す。危なっかしいその様子に、レティシアが心許なげに両手を握っている。
「それじゃあ、私は失礼しますね。集合は宿の前でよかったですか?」
「え、ええ……ニーナさん、足元お気をつけて!」
「大丈夫ですよー。レティシア様もアベラルドさんも、ふたりともおやすみなさい!」
おやすみなさい、とお辞儀をして丁寧に挨拶を返すレティシアの背後で、アベラルドは片手を軽く挙げて応えた。
満足げなニーナはレティシアの心配などどこ吹く風で、ぶんぶんと勢いよく手を振りながら、自身の家に向かって駆けて行く。
「ニーナさん、人にぶつかったり、転んだりしないかしら……」
「街の人からはマーキス様の助手として慕われているようですし、周囲も慣れているのではありませんか?」
「だとよいけれど……」
元気のよい後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、レティシアはずっと見守っていた。
ふと目を向けた黄金色の空の端からは、既に夜が侵食し始めている。
このまま往来に立っていても仕方がない。そろそろ宿へ向かうべきだろう。
アベラルドはニーナの姿が見えなくなってもまだ通りをずっと見つめているレティシアの背を通り越して、彼女の視界に入る。その双眸は濃く染まっていく空の色とはまた異なる、憂いの色を帯びていた。
長く緊張状態にある帝国との関係、特効薬のないヘルガー灰化病再流行の兆し、協力を得られるかわからない打開の一手。そして何より――。
左手がぴくりと動いた。
為政者たるレティシアにかかる憂いを晴らすことが役目であるはずなのに、余計な心配を増やしてしまうとは。アベラルドの心には、暗雲とともに忸怩たる感情が吹き荒れる。
「姫、我々もそろそろ宿に移動しましょう」
「……そうね。たくさん移動したから、おなか空いちゃった」
いつもの調子を装って声を掛けると、レティシアはまだ憂いの沈む瞳でやっとアベラルドを映した。
その瞳でもう一度ニーナが消えた通りを一瞥して、不安を振り払うように小さく頭を振る。口元を笑みの形にきゅっと引き上げ、宿に向かって歩み出した。
アベラルドも一歩引いてすぐ後ろに続く。
「ここの宿のメニューには、姫がお好きなステーキがありましたね。今夜はそれにしましょうか」
前を歩む心細そうな背中を慰めるように声を掛けた。
「ええ、そうするわ」
「ですが」
アベラルドは歩幅を合わせて歩むのを止め、造作もなくレティシアの隣に並ぶ。
「その前に、先の戦闘後に気にされていた手を見せていただきます」
「ぇ……えっ、気づいていたの!?」
レティシアの肩が大きく震えた。右手の指を左手で隠すように覆っている。
ディベルの門の前で難なく敵を蹴散らしたときのこと。颯爽と双剣を納めた後、生じた違和感の正体を確かめるように右手の指先に触れては首を傾げていた姫の姿を、アベラルドはずっと気にしていた。
すぐに声を掛けようとしたのだが、目の前の門をくぐれば安全圏だと考え直し、今まで心に留め置いていたのだった。
「当たり前です。指を痛めたのではありませんか?」
「そういうわけではないのだけど……そう言っても、あなたは心配してくれるのよね。宿できちんと見せます」
「そうしていただけると大変助かります」
アベラルドは礼をしながら、わざとらしく感謝を伝える。
「もう、なぁに? 改まって」
レティシアはおかしそうにくすくすと笑う。さっきまでのぎこちない笑みは、もうそこにはなかった。
*
人の波を掻いくぐって着いた宿の扉を閉めれば、響動すようなディベルの街特有の喧騒が遠ざかる。
「手続きをしてきます。掛けて待っていてください」
「わかったわ」
ロビーの空いているテーブルを手で示しながら、扉の前に立ったままのレティシアに伝え、アベラルドは部屋を取りに受付へ向かった。
受付の女性が高齢だったためか何度か聞き返されたものの、無事に夕食の手配も終えてロビーの共用スペースへ戻る。
そこでは椅子に腰掛けたレティシアが右のガントレットを外し、指先をじっと見つめていた。戻ってきたアベラルドに気づくと、まるで隠すように指を手のひらに握り込んだ。
「ア、アベラルド……お部屋は取れた?」
気まずそうな声だった。アベラルドに隠れてお菓子を摘んだときのような。
「はい。夕食の手配も済ませています」
「ありがとう。それじゃあお部屋に……」
すっと身体を滑らせて「姫」とロビーから部屋に通じる道を塞ぎ、上擦った声で矢継ぎ早に礼を言って席を立とうとするレティシアの行く手を阻む。
「大人しく見せてください」
「う、うぅ……わかっているわ……」
椅子へ逆戻りすることになったレティシアの前の席に座り、右手を彼女の前に出して、患部を見せるよう要求する。
しばらく小さな唸り声が続いた後、レティシアの指の第二関節から先が、差し出した手の先におずおずと乗った。
貝殻のような桜色の爪に一部混じる赤に、アベラルドは思わず眉を顰める。薬指の爪先の白い部分の根元から、見るからに痛そうな亀裂が入っていた。
「血が……かなり深くまで亀裂が入っていますね」
「違和感があっただけなのだけど……」
「見てしまった今は痛い、ですか?」
爪から引き上げた目でまっすぐレティシアを見つめて問う。
「そんなこと……ううん、ちょっとだけ」
「すぐに消毒しましょう」
立ち上がって部屋に向かおうとするアベラルドをレティシアが制す。
「大丈夫。湯浴みをしてからきちんと手当てするわ」
「……わかりました。利き手ですし、もしお困りでしたら迷わずお呼びください」
「ええ、そのときはお願いね」
アベラルドは立ち上がりかけた腰を渋々下ろし、手に乗ったままになっているレティシアの指を見つめた。
(いたわしい。どうすればこんな怪我を防げる)
どの指の爪も、怪我をした指だって滑らかに切り揃えられていて、見た限り引っかかりや角張ったところすらない。
「伸びすぎている印象はありませんが……敵の攻撃が当たったのではありませんよね」
「ええっと……」
それなら爪に亀裂が入るだけでは済まないだろうし、と思いながらも口に出す。すぐに否定の言葉が返ってくるかと思いきや、煮え切らない態度のレティシアにアベラルドは顔を上げた。
レティシアは手を引っ込めて膝の上に戻しながら、言葉を続ける。
「ち、違うの。王城から持ってきていたハンドクリームを切らしてしまっただけよ」
「そうでしたか」
だったら新しいものを使えば再発は防げる。早々と問題が解決し、アベラルドは部屋へ続く扉へ目をやった。そろそろ部屋へ向かってもいいだろう。
視線をレティシアに戻して声を掛けようとしたところで、彼女は膝の上に戻した指で形を成さない図形をいくつも作りながら、唐突に話を変えた。
「その……今晩のお部屋は二つで大丈夫なの?」
「っな、」
――まさか、同じ部屋でふたり一緒に一晩過ごしたいと? 久しぶりにふたりきりになって、人寂しくなったのだろうか。それとも、腕の件でそこまで心配をおかけしているのか。……いや、ニーナさんの部屋も必要なのではという意味か?
わざと大きく咳払いをして、いくつか混じった邪な想像を掻き消した。
「私と姫、一部屋ずつで間違いありませんが」
「路銀は足りているの?」
「――えっ?」
城を発つときに、装備や持ち物の管理はふたりで、路銀の管理はアベラルドがすると決めていた。それは旅の供が増えても変わらない。
レティシアだってよく城下町に出かけていたのだから、適正な物の値段は知っている。ひとりで買い物をさせたって平気だと、頭ではわかっている。
こういったことは従者がするものですと旅立つ前に言いくるめたが、明らかに地元の人間でない女性が大金を持って歩くことの危うさをレティシアがこの旅で知ることのないように、と思ってのことである。
「だって、前に怖い顔でレイに言っていたでしょう? 十分な路銀を用意しているが、それでも限りはあるのだからなって」
「言いました、が」
「今は三人も仲間が増えたし、エレナさんもきっと治ってご一緒することになるわ。となれば、六人での旅になるのよ?」
「まさか……」
アベラルドは膝に落ちた腕を肘で支えて、続いてくらくらと重く下がった頭を受け止める。全く以て唐突な話などではなかった。
施療理術士であるニーナが仲間に加わってからはいくらかアイテムを節約できていることもあり、最も新しい記憶では皆で寄った店で防具や武具を一新しただけ。
では、姫がレイモンドとミダスに渡した大量のアイテムや消耗品の購入資金は、いったいどこから。
「姫。もしや、お渡ししていた路銀を崩されましたか」
「……あんな勢いで落ちてきたんだもの。きっとどこか怪我をしていると思ったの」
「確かにひどい怪我でした。ニーナさんが我々とともにきてくださっている分、レイモンドたちにアイテムが必要だったのも事実です。しかし……」
あれは万一、億万一、旅の途中ではぐれても近場の宿で落ち合えるように渡していた、いわば緊急用の路銀だったのだ。それに手をつけるほど、いや自身に必要なものを我慢してしまうほど以前から、姫は言い出せずにいたのだ。
アベラルドはさらに深く、深く頭を腕に預けた。
「言ってくださればよかったのに……!」
「ご、ごめんなさい」
レティシアがあたふたしながら、俯いているアベラルドの顔を覗き込む。顔を上げて、と目が訴えている。
姫が謝ることではない。路銀など要らぬ心配をさせた自分の落ち度だ、とアベラルドは自分を戒める。とにかくこんな怪我は二度とさせまい。
「いえ、今頃レイモンドたちも姫に感謝しているでしょう。私では考えが及びませんでした」
アベラルドは重い頭を上げるついでに立ち上がる。
「もう部屋に向かいましょう。使われた分は明日の出立前にお渡しします」
「そ、そうね。今度からきちんと相談するって約束するわ」
「ぜひ。ぜひ、そうしてください」
立ち上がったレティシアから外したガントレットを受け取り、彼女を今晩の部屋へ案内する。
起きているかわからない受付の老婆の横にある扉を開けて廊下を進むと、ところどころ床がぎしっと鳴った。
胸元にしまっていた鍵を二つ取り出しながら、ふと思いついてレティシアに告げる。
「一つ買い忘れを思い出したので、少し出てきます」
「……明日一緒に行くのはだめなの?」
「姫のお手を煩わせるほどではありません。そろそろ店が閉まり始める頃ですし、急いで行ってきます」
鍵の番号と同じ部屋の前に辿り着いた。要望通り隣同士である。ディベルは比較的日雇い労働者の多い街のため、今空いている部屋の広さはどこも同じとの説明を受けていた。
初めてディベルの宿に泊まったときと同じように、奥の部屋へレティシアを案内する。
「じゃあ、帰ってきたら教えてくれる?」
何でもなさそうにレティシアが聞く。大きな瞳は今は陰っていて、ひとりにさせるのは心配だと語っている。
アベラルドは気づかない振りをしてドアの方を向き、錠穴に鍵を差し込んだ。
「承知しました。私が戻ってくるまで、おひとりで部屋を抜け出したりなさらないでくださいね」
「しないわよ。子ども扱いしないで」
念押しすると拗ねた声が返ってくる。
「……早く戻ってきてね」
寂しさを含んだ笑みを残して、ぱたんとドアが閉じられた。もう一言二言続くはずだった小言は、聞かせる相手を失って形にならない。
――子どもではないから言っているのですが……。
宿のこの短い廊下であっても、いきなり開いたドアの向こうに連れ込まれでもしたらどうするのか。
とんだ拾いものをして戻ることになったラーカスの夜を思い出す。あの夜だって、レティシアはアベラルドが小言を零すのを承知で、外に出ると声を掛けた。今夜が例外でないことくらい頭ではわかっている。
それでもこの先、こうやって彼女を隣で諌めることすらできなくなるかもしれないと思うと、言葉は形になれずにしまい込まれることをいやがって、勝手に溢れ返りそうになる。
どこにも行けなかった言葉を伝えるように、ただ目の前のドアを左手で静かに撫でた。グローブの下に広がる黒ずみが、気を抜けば心まで蝕むようだった。
朝を迎えて、ガルカの祠で待つ三人と合流する瞬間が怖い。
墜落によって大怪我を負ったエレナの左腕。応急処置すら施せなくても、レティシアの言う通り、彼らの技術ではそれすら〝きっと治る〟のだ。
それを目の当たりにするのが、アベラルドは恐ろしかった。
*
右手をノックの形に作って下ろす。また上げて、今度は形にすらできずに下ろす。ぐしゃぐしゃと髪を掻いて、その手で目の前のドアを一撫でしてから拳を作る。今度こそと振りかざすが――やはりドアに届く前に解けてしまった。
用事を済ませて寄り道もせずまっすぐ戻ってきたレティシアの部屋の前で、アベラルドはずっと目の前のドアを叩けずにいる。
左腕に抱えている包みがかさりと音を立てた。サプライズならと店員が気を利かせて持たせてくれたシンプルな角底袋の中には、姫へのささやかな贈り物が入っている。
騎士として自分が姫のそばにいられる時間は僅かでも、これは少しでも長くレティのそばにいられる。そう思った。
そんな気休めに何の効果もないと頭ではわかりつつも、せめて本当は城の誰よりも繊細な彼女の心の御守りになれればと願いながら選んだ。
(これ以上姫を待たせるな。戻りましたと伝えて、さり気なく渡してしまえばいい。いや。やはり慣れないことをして、忍ばせた願いに気づかれてしまったら、姫を余計に悲しませてしまう)
埒が明かず一旦部屋に戻って包みを置いてこようかと再び床をぎしりと踏み鳴らしたとき、撫でるに留まったドアの向こうから声が聞こえた。
「アベラルド? もしかしてそこにいる……?」
「っ、姫」
反射的に声を出してしまい、鍵を外す音にはたとドアに向き直って顔を上げる。
やはり陰ったままの蒼い瞳が一つ、細く開いたドアから廊下を覗いている。アベラルドの姿を確認すると、対の瞳も姿を現した。
「ごめんなさい。考えごとをしていて気づけなかったわ。待たせてしまった?」
「いえ、そんなことは」
アベラルドは居心地の悪さに眉を下げて謝罪を否定するが、ノックすらできずに佇んでいたとは明かせなかった。
「ただいま戻りました、姫」
「おかえりなさい、アベラルド。用事は無事に済んだのね」
レティシアの視線がアベラルドの腕の中の包みへ滑る。
包みはアベラルドが身動ぐとかさりと音を立て、渡すのは今だと言わんばかりに存在を主張している。
「明日も早いし、今度こそゆっくり休んでね」
「あの、姫」
「ん?」
微笑む唇がおやすみの挨拶を紡ぐ前に引き留める。
何の装飾もない無愛想な角底袋を右手で掴み、角張った折り目を爪でなぞった。腕に抱えて散々迷っていたせいで、底の角は少しつぶれてしまっている。
「もしよろしければ、こちらを受け取っていただけませんか」
「私に? な、何かしら……開けるわね」
レティシアはぱちくりと瞳を瞬かせた後、どこか緊張した面持ちで包みを受け取った。
アベラルドはその姿にどこか引っかかりを感じながらも、贈り物なんて珍しいと思われているからにちがいないと片付けた。
細い指が慎重にテープを剥がしていく中、アベラルドは記憶を手繰る。最後に姫に贈り物をしたのはいつだったか――いや、あれは贈り物と呼んでよいのか――。
ごそごそと鳴っていた音が止み、記憶の海から顔を上げた瞬間、包みを渡したときに一度は散った緊張感が戻ってくる。
レティシアが袋の開け口から中身を覗き込んで、声もなく息を飲んだ。中に手を差し入れ、宝物を拾い上げるようにそっと贈り物を取り出す。
その姿がなぜだか妙に眩しく感じて、アベラルドは思わず視線を逸らした。
「これ……」
「花だとか食べ物だとか、香りがたくさんあって迷ったのですが」
「ハンドクリーム……ホワイトティーの香りね」
「紅茶は姫も好んで飲んでおられますし、おやすみになる前に使われるものですし、あまり強い香りというのもふさわしくないと……」
緊張感から、香りを選んだ理由が口を衝いて出る。
ふとレティシアの反応が気になって逸らした視線を戻せば、安心したようにほっと息を吐く彼女が見えた。
「……姫?」
「ううん、何でもない」
贈り物を包む透明なフィルムを、白い指がまるで本物か確かめるようになぞっている。やがて結んでいた飾りのリボンの端を掴み、しゅるりと解いた。
輝く銀糸を纏める髪飾りと同じ色にするか。それともアベラルドの前ではころころと形を変える瞳と同じ色にするか。散々迷った末、腕の一件で陰らせてしまっているからと反省の意を込めて選んだ、澄んだライトブルーのオーガンジーリボン。
「いい香り……」
レティシアがハンドクリームのキャップを外し、ホワイトティーの香りがアベラルドの元にも届く。みずみずしさの中に爽やかさと華やかさを含んだ、心地よい香り。
店頭で吟味したときにも同じ香りがしたはずなのに、姫がそばにいると、より甘さが引き立って香るように感じる。
「アベラルドが選んでくれたの?」
「はい。旅の間は姫がお好きな紅茶もなかなか楽しめませんし、気分転換になればと。嫌いな香りでなければ使ってください」
「あなたが選んでくれたんだもの、嫌いなわけないわ。……だいすきよ。とっても嬉しい、ありがとう」
「……っ!」
幸せを纏う『だいすき』は香りに向けられた言葉なのに、その向こうにいるアベラルドにまで届く。やさしくアベラルドの心をくすぐり、抱えた大きな不安の隙間に入り込んで、ふわふわと包み込む。
アベラルドは思わず胸に手を当て、今にも溢れて香りと混じってしまいそうな歓びを抑えた。
「気に入っていただけたのなら光栄です」
「大袈裟よ。本当にありがとう。今日から早速使うわね」
「ええ、ぜひ。では、私はこれで部屋に戻ります。引き留めてしまい申し訳ありません。姫も早くおやすみになられてください」
「そうね、明日もたくさん移動するし……それじゃあ、おやすみなさい」
名残惜しそうにゆっくりとドアが閉まる。レティシアが鍵を掛ける音をしっかりと聞き届けて、アベラルドも今度こそ自身の部屋へ足を踏み入れた。
その日は久しぶりに腕の軋みも痛みもなく、纏わりつく重さも感じなかった。
贈り物を選んだ本当の理由は胸の中にしまい込んで、厳重に鍵を掛ける。ただ花のように綻ぶレティシアの顔を思い浮かべ、ささやかな幸福とともにベッドに身を沈めた。
王城の謁見の間で、テオが決意新たにラインバウトに向き合っている。
有り体に言ってしまえば無謀でしかなかったテオ将軍の釈放は、レティシアが多少(多少)の強引を以て集めた声で成った。
アベラルドは最低限しか口を出していない。コトの執務室でゲーテルが姫に手合わせを申し出たときも、当然の意見だとして行方を見守った。
未知の戦いのため剣を振るってほしいとレティシアが願うことも、最も古い犠牲者だという国王の考えも。釈放によって生じるテオの懸念も、命を散らした兵を想うからこそ出たゲーテルの厳しい意見も、民衆の責める声も、それでも手を携え団結しなければならないことも。わかってしまうからこそ、ただ見守った。
――姫が恐れを乗り越えて自ら迎えに行ったのだ。必ず応えろよ。
アベラルドも追いかけ続けた背を今は後押しするように視線を投げながら、レティシアがもたらした成果をより良いものにしようと、宇宙への旅立ちを前に気持ちを改めるのだった。
「アベラルド」
手を上げ、アベラルドの元へやってくるレティシアの姿が視界の端に映る。向き直ると、彼女は王城では久しくその鎧を脱いでいた。もうすぐ私室に戻るのだろう。
「今日はお疲れでしょう。もうおやすみになられてはいかがですか」
「そうするつもり。でも、その前にあなたに伝えたいことがあって」
「何でしょう」
心当たりを頭で探す暇すらなく、ぱしりと手首を取られた。
「え」
「こっちにきて」
「ちょっと、待ってく……ひめっ!」
レティシアに急に右手を引かれ、静粛な空気が佇む夜の謁見の間に、焦りで生じたアベラルドの声が響いた。
足を縺れさせながら慌てて玉座を見上げると、話をしていたはずのふたりは、レティシアと、その彼女に手を引かれるアベラルドを見ていた。
玉座のラインバウトは深く頷き、その手前では振り返ったテオがやれやれといった顔で首を横に振っている。
国王の頷きの意味を図りかね、テオに見てばかりいないで助けろと念じても、祈りは届かない。
クーデターを受けて新しく配置された姫の私室の警備兵(顔見知りである)の「アベラルド殿は今日も大変ですな」すら通り過ぎ、とうとう彼女の部屋が目前に迫る。
「姫っ! 止まって、止まってください!」
「どうしたの?」
必死に呼び止めれば、変わらず部屋へ引き入れようとするレティシアがやっとアベラルドを振り返る。
「こ、ここらへんでよいのではありませんかっ」
話をするだけなら、既に謁見の間にいるふたりからは見えない場所にいる。
「あら。あなた、きっと恥ずかしがるし、ほかの人には見られたくないと思うのだけど」
「な……、な、ぁっ……うわ、ぁっ!」
いったい何をするつもりなのか。喉の奥で絡まってぐしゃぐしゃになった咎める言葉の代わりに、素っ頓狂な声が飛び出る。
レティシアは気にせず、掴んだままのアベラルドの手首をさらに引っ張って、自らの部屋に招き入れた。
部屋の半ばほどで立ち止まったレティシアにたたらを踏み、彼女にぶつかる最悪の事態だけは回避した。
「大丈夫?」
「ご心配いただくくらいなら、引っ張らないでいただきたいですがっ!」
「ごめんなさい。でももうここまで来ちゃったんだから、ソファーで待っていて?」
「……わかりました。失礼します」
苦々しさの滲む返事を聞くや否や、レティシアはアベラルドをその場に残し、ドレッサーへと歩み出した。
ここまできたらもうできることは何もないと諦め、アベラルドは勧められたとおりに、広い部屋の奥にある大きなソファー、その端へこぢんまりと身を収める。
そこからは部屋の角とテーブルしか見えない。ゆえに近づいてくるレティシアの姿も見えないが、邪な想像しか生まない天蓋ベッドも視界から外れた。
レティシアの部屋は長らく主不在であったからか、今度は想像もつかないほど遠くの宇宙に旅立つ主の束の間の帰還を喜んでいるような、そんな温かさに満ちていた。
耳元に存在しているのではないかと思うほどうるさい心臓音に鎮まれと念じていると、何かを片手に持ったレティシアがやってきて、アベラルドの隣にすっと腰を下ろす。
レティシアの手元にある見え覚えのあるそれが、彼女の動きに従ってふわりと空気と遊んでいる。
「それ……」
「あなたがくれたものよ。大切に使っているわ」
レティシアの手の中には、流星の噂を確かめにディベルへ寄った際にアベラルドが贈ったハンドクリームと、タオルが握られていた。
小さなキャップのくびれには、悩み抜いて選んだリボンが結ばれている。包みを飾っていたはずのそれは、居場所をハンドクリーム本体へと移していた。
「そのリボンも、取っておいてくださったのですね」
「たくさん迷って選んでくれたんだろうなって思ったから、捨ててしまうなんて少しも考えなかったわ。リボンもそうだし……渡すか渡さないか、すごく迷って渡してくれたんでしょう?」
「……気づいておられたのですか……」
アベラルドは気づかれていないと思っていた意気地のなさを言い当てられて、一瞬反応に遅れた。
「やっぱり? もらったときは気づかなかったの。でもあなたと別れた後に眺めていたら、すぐに渡してくれたにしては袋に跡が残ってるなと思って、もしかして、って……」
レティシアの人差し指が結んだリボンをちょん、と揺らす。
「一緒に連れて行ってくれなかったし、本当はひとりでマーキス様の元へ腕の治療に行ったんじゃないかって、部屋でずっと考えていたの。そこにあなたが戻ってきて、これをくれた」
薄ら水膜を纏って灯りを滲ませた瞳が、贈り物からアベラルドの左腕へと移る。
あの日、包みを受け取る際にレティシアの表情が硬かった理由に、いくつもの夜を越えて解が出された。
贈り物を入れていたのは店のロゴも何も入っていない、飾り気のない角底袋だった。それこそ、マーキスが薬を処方する際に使うような。
「全部私のために選んでくれたんだって、本当に嬉しかったの。言葉だけじゃ、全部伝えられないくらいよ」
懸命にあの日の心を打ち明けてくれていたレティシアがその場に座り直して、よりしっかりとアベラルドに向き合う。
「もしよかったら、左手を見てもいい?」
「左手ですか? かまいませんが……」
膝の上に置いていた左手を持ち上げると、あっと小さな声がレティシアの口から漏れる。
「私が外したいの。……だめ?」
レティシアがまっすぐにアベラルドを見つめる。
「え、ええ……どうぞ」
アベラルドは戸惑いながらも、持ち上げた左手をレティシアに差し出す。
「痛かったらすぐに言ってね」
「もう痛みはありませんよ。ご安心ください」
新しい腕を授かってから、息を吐く暇も、心が落ち着ける時もなかった。
姫はきっと新しい腕の様子が気がかりで、一時の休息のうちに確かめたかったのだと、ここまで連れてこられた理由を結論づける。
普段は何人も着付け係がいるうえ、恐る恐るといった様子で触れるレティシアの手の動きは、お世辞にも手際がよいとは言えなかった。だがアベラルドが手順を教え、何度も大丈夫ですよと伝えていくうちにいくらか慣れ、左腕が珍しく人のそばで空気を感じた頃には、すっかり遠慮もなくなっていた。
右腕とそっくり同じ形に整えられた左腕をレティシアが手で支え上げ、コートの袖から覗く前腕から指の先まで、視線を何度も往復させる。
視線に撫でられてくすぐったくなり、もぞもぞと身動ぐと、満足したらしいレティシアが左腕を離して、ようやく口を開く。
「……さっきはありがとう」
「……さっき、とはテオのことでしょうか」
テラヌスのことではないだろう。レイモンドの胸に飛び込むレティシアの姿を思い出して、一瞬だけ胸に錘が乗る。
「アベラルドにもいろいろ思うことがあるでしょうけど、コトまで付き合ってくれたわ」
「姫の露払いは私の役目です。未知の力と戦うために、テオの力が必要だとお考えなのでしょう?」
「私が決めたことならあなたは背中を押してくれるって、知ってた。それももちろんだけど、もうちょっとだけ前」
レティシアが言葉を切る。
あの場所に足を踏み入れたときかと、合点がいった。
「地下牢に入るとき。手を繋いでくれたわ」
「あんなことが起きた場所です。恐ろしいと思うのは当然です」
「宇宙から帰ってきたら、本当に探検しに行こうかしら」
「何でしたらテオに案内してもらいましょう」
「いいかもしれないわね。ふふっ、こういうのってすごく久しぶり。本当に……」
庭園で別れた後、自責の念から再び牢へ戻ったテオの様子を見に行ったとき。
会いにいきましょう、と力強く言ったレティシアの足が止まったのは、地下牢に続く扉の前だった。
どうぞお通りください、と平然と言ってのける兵士を叱り飛ばしてしまいたかった。それ以上に、ここでレティシアが足を止めるまで、彼女がどれだけの恐怖に支配されていたか気づけなかったことに、アベラルドは己を恥じた。
どこまでも王女レティシア・オーシディアスであることを貫き、ここから連れ出されて――そして恐らく、帝国からの輿入れの提案を蹴って――処刑を待つ彼女の姿を。何もできない過去の自分の残像を振り払って、姫を守るための左手と、変わらない温かさのレティの右手を繋いだ。
こんな見つかれば大人に怒られてしまう場所で、探検ごっこをしていた昔と同じに。
「大丈夫って……今度は一緒に行って戻ってきましょうってあなたが言ってくれたから、私はテオ兄を迎えに行けたの。だから。だからね、」
開けた場所に出る頃には解いてしまった手に込めたアベラルドの想いを、レティシアはきちんと汲んでいた。
「お礼に、アベラルドにも塗ってあげる」
「――は」
突然の申し出にアベラルドが動けなくなっている間に、レティシアがずいっと迫る。
慌ててレティシアが近づいた以上に身体を反らした。左手を身体の前に掲げ、それ以上距離を縮めてくれるなと訴える。
「い、いえ! これは私が姫に差し上げたものですので、姫がお使いください」
「使っているわ。でも、これくらいしかお礼の方法がわからないもの。……いや?」
「いえ、そんなことはありません!」
少しだけ曇った瞳を見て、アベラルドは力強く否定する。
悲しませたいわけではない。触れられるのがいやなわけでも。
「じゃあ、いい?」
「お言葉だけで、姫のお気持ちは十分伝わっていますから」
「それじゃあ全然足りないわ」
「ぅ……」
さらにふたりの距離が縮まった。
レティシアが身を乗り出した分、アベラルドは仰け反って距離を保つ。背中には柔らかくも硬いソファーの背が当たった。
――姫を悲しませたくない。でも触れられたら、きっと平静を保っていられない。どうすれば……!
こうなれば最善でなくてもいい。この状況から抜け出す方法を部屋のあちこちに求めているうちに(レティが普段眠っているベッド……!)、レティシアがまた無防備に身体を近づけ、ソファーとその身の間にアベラルドを閉じ込める。
身体はレティシアから距離を取ろうとして勝手に後ろに動くのに、ソファーはもうこれ以上は無理だと、手入れの行き届いた背で無情にもアベラルドを押し返す。
〝あと一回〟があれば、近づいてくる身体に手が触れてしまいそうな距離。
それでもなお、レティシアは既に逃げ場を失っている騎士に近寄ろうとまた――
「わ、わかりました! 姫のお気持ちはよくわかりましたから!」
「……いいの?」
もう一歩を踏み出そうとしたレティシアの願いを受け入れて、その場に踏み留まらせることに何とか成功した。
きょとんとした顔がアベラルドを見上げている。
「ぜ、ぜひ……お願い、します……」
「! ええ、まかせてっ」
仰け反った体勢のまま掠れた声で〝お願い〟すると、レティシアはぴょんぴょんとその場で跳ねているのかと思うほど嬉しそうに声を弾ませて、満足げに元の位置に戻った。
悲しませずに済んだことにはひとまずはふうっと大きく息を吐き、アベラルドも仰け反っていた体勢を整える。
「塗った後にグローブをまたつけるのもあれだし、右手にするわね」
「はい」
仰せのままに、と心の中で呟いて、自らグローブに手をかける。五指半ばまで覆うグローブを少しずつずらしてすっと抜き取り、剥き出しにした右手を差し出す。〝もうお好きにどうぞ〟である。
すぐにハンドクリームを塗られるのかと思いきや、手を取られ、ぴとりと手のひら同士が触れ合った。
「っ!?」
「ふふっ、小さい頃から比べたら背の高さも違ってしまったけど、改めて見たら手の大きさもこんなに違ったのね」
「ひ、姫……」
レティシアの手のひらのやわらかさとは反比例して、アベラルドの身体は硬直する。
慣れている、はずなのだ。
晩餐会や日常でちょっとしたエスコートをするとき。旅の間はガントレットに阻まれているが、手と手が触れ合う機会なんて、数える必要もないほどあったはずなのだ。
それがどうしてこんなに過剰と言っていいほど反応してしまうのか、平常心とは程遠い場所にいるアベラルドはまだ気づけなかった。
「ん……あなたって指が長いのね」
「そう、でしょうか……」
「一目瞭然じゃない」
ほら見て、とレティシアは手のひらだけでなく、五本の指すべてを鏡合わせのようにしっかりと触れ合わせてしまう。
整った爪先が指の腹を掠めて引っ込めそうになった手を、レティシアは押すように追う。
「こうやって指まできっちり合わせたら、私の手なんて全部隠れちゃうわ」
そう言われて、アベラルドはかつてないほど熱を持つ手にじりじりと視線を向ける。重ね合わせたレティシアの手は見えない。
右手に感じるぬくもりだけが、確かに今、ふたりの手は引き寄せられるかのようにぴったりくっついているのだと教えてくれる。
「そう……かもしれません」
紛れもない事実ではあったが、熱の理由も認めてしまうようで、曖昧に肯定した。
しばらくその温かさに身を任せていたが、満足したらしいレティシアはふと重なりを解いてしまった。
縋るような湿った声が出てしまいそうになり、アベラルドは慌てて唇を引き結ぶ。
「じゃあ、塗っていくわね。んー……これくらいあれば足りるかしら」
レティシアはテーブルに転がっているハンドクリームを手に取り、さっきまで触れ合っていた手のひらに少量を出した。このいつもと違う量が、ふたりの手の大きさの違いであるらしい。
このままじっと黙っていては、手が触れ合う心地よさに耐えられる自信はない。アベラルドは苦し紛れに、今まで疑問に思っていたことを尋ねた。
「なぜ一度手のひらに出すのですか?」
「ああ、これ? こうやって」
手の甲や爪の周りに塗るものなのでは、と首を傾げている間、レティシアは手のひらに出したハンドクリームを抑えるように両手を合わせている。野営中に時々見かけた仕草だった。
「温めると伸びがよくなって塗りやすいし、肌に浸透しやすいの。湯浴みの後に身体が温まってから塗る人が多いみたい」
「ああ、成程」
「まず手の甲につけるわね」
クリームを乗せた手のひらが、アベラルドの右手全体を温めるようにふんわりと包む。
体温でハンドクリームを溶かしていたのか、と心の中でひとり納得しながら、やわらかさを享受する右手から少しずつ視線を逸らしていく。
「でも私は髪の毛をいろいろやらなきゃいけないから、全部終わらせて、眠る前に塗ることが多いかしら」
「は、はあ……」
温まったハンドクリームがレティシアの指でするすると伸ばされていく。手の甲の出っ張りを乗り越え、関節の皺にまでじっくりと塗り込まれていく。小指、薬指……。短い親指は握り込むように支えられ、指の腹がハンドクリームで湿ったレティシアの肌をこする。
指が終わったと思ったら、次の標的は爪であった。レティシアと比べると平べったい爪の周りをくるくるとマッサージするように揉まれて、さっきとは逆の順番で一番小さい指まで戻っていく。
小指の爪まできて、ふっと詰めていた息を吐いた。終わった。いや、違った。
(まだ続くのか!?)
指の両サイドを二本の指で挟まれる。ぴくっと跳ねたせいで、一度外れた。仕切り直しとばかりに挟み直されて、指の根元から先に向かって、軽く引っ張られる。
ディベルでの怪我の跡をもうすっかり治した爪の先が水掻きに触れる。くすぐったさを通り越した感覚が腰に集まって渋滞を起こす。
(これ以上は気づかれてしまう……)
左手で指をきつく握り込んで、その動きが親指に戻ってくるまで必死に耐えた。
「はい、終わり」
「あ……ありがとう……ございます……」
息も絶え絶えに礼を言うと、レティシアが首を傾げて〝お願い〟する。
「左のグローブ、つけてもいい?」
「いっ、いえ! そこまでしていただかなくても自分で……っ」
「でも右手を使ったら、せっかく塗ったハンドクリームがついちゃうわ」
「う゛……」
「大丈夫よ、さっきは外せたもの」
レティシアは手に残ったハンドクリームをテーブルに置いていたタオルで拭き取っている。アベラルドにはもう、故意としか思えなかった。
外したときとは勝手が異なるため時間は掛かりながらも、左腕はレティシアの手によってまたグローブを纏っていく。
「本当は湯浴みの後に塗るのがいいのよ」
仕上げにぽふぽふと軽く叩かれて、解放された左腕を膝に下ろす。ぐー、ぱー、と手を閉じて開く。きつくも緩くもない。
「そう……らしいですね」
先ほどレティシア本人から得た知識に相槌を打ち、直視はできなくともきちんと話は聞いていたのだと示す。
「このまま泊まる? そうしたら左手にも塗って――」
「――は……〜〜っ!?」
「へっ!?」
(どういう意味だ。泊まる? どこに。この、姫の部屋に? 私が男だとわかって言っているのか。私は姫の騎士だと言い続けながら、あなたにずっと、ずっと身を焼くほどの想いを抱えている男だと)
畳み掛けるように次々と湧き上がって重なる疑問と感情は、震える唇から音になって出ていくことはなかった。
ただ顔が燃えているかのように熱く、それはきっと目の前のレティシアにも伝わってしまっている。これ以上耐えられない。
「し、失礼します! 姫も早くおやすみください!」
「えっ、ええっ!? アベラルド!?」
矢継ぎ早に言い残して、アベラルドはレティシアの部屋を早足で突っ切る。入口の垂れ幕に身体が触れる頃には駆け出していた。
*
行ってしまった。だんだん揺れが収まって元の形に戻っていく垂れ幕を見て、レティシアの心には灯りが一つ消えてしまったような寂しさが残った。
本当に伝えたいことはこれからだったのに。順番を間違えた気がして、少しだけ後悔した。
レティシアとしては、個室の風呂が備わっている城の客室にという意味で、泊まるかどうか尋ねたのだが。
いくら湯船に浸かってもここまでにはならないと思うほど真っ赤に茹立ったアベラルドが、泊まると聞いて客室ではなくこの部屋を想像したのは、火を見るより明らかだった。
(急ぎすぎたかしら……)
確かに、そう捉えることもできるかも。レティシアは今日一日の行動を振り返る。
未知の旅を前にして、テオが力を貸してくれることになって、自覚がないくらいに興奮しているのかもしれない。
地下牢の前で手を繋いでくれたこと。それが昔のようにやさしくて、竦んでいた足を動かしてくれたこと。昔、探検中に見つけた通路の話をして、ここは恐ろしい以外にも思い出のある場所なんだと思い出させてくれたこと。やさしさもぬくもりも、遠慮がちな力加減も全く変わらないのに、ずっと男の人らしくなった手のこと。
今日のアベラルドを思い出せば出すほど、レティシアの心にはぽぽっと愛しさが灯って、どこまでも広がっていく。
指一本一本を挟んで引っ張るあんなマッサージみたいなこと、普段のレティシアはしていない。
離れがたくなっているうちに、そういえばハンドクリームを塗るときに一緒にマッサージもしてしまえばいいって、前に使用人の皆さんが廊下で話していたわね、と思い出したのだ。少しでも長く一緒にいたくて、ほとんど思いつきで触れてみた。いつも、今日だって誰よりも長く一緒にいたにも関わらず。
水掻きに爪が当たってしまって、痛くなかったかと一瞬手を止めてアベラルドの表情を盗み見たとき。
(すごく、すっごくかわいい顔だった)
次の指からはわざと掠めるように当てていたのは、レティシアだけの秘密だった。
ついさっきのアベラルドみたいに顔にまで熱が広がってしまったようで、頬に手を当てた。冷やそうとしたはずが、ハンドクリームを口実にずっと触れていた手が頬に添えられている気がして、余計に熱くなる。
頬と手のひらの熱が同じくらいになった頃、廊下から警備の衛兵が声を掛けた。一度は引退したものの、クーデターを受けてラインバウトが再登用した、幼い頃からよく知る老兵だった。
「レティシア様、国王陛下がおいでです。お通ししてよろしいでしょうか」
「お父様が? ええ、もちろんです。お通ししてください」
返事をしながら、蹲るように座っていたソファーから身を起こし、入口へと向かう。垂れ幕の向こうには、既にラインバウトの姿があった。
「レティシアよ、夜分に押しかけてすまないな」
「そんなことはありません。テオ兄とのお話はもう終わったのですか?」
膝を折ってお辞儀をする。それを制す手は、国王ではなくひとりの父として顔を見せてくれたのかも、と予測させた。ゆっくりと、ソファーではない入口近くのテーブルセットへと案内する。
「もうよい時間だからな。明日に備えよと帰した。ところで、アベラルドはどうした? 中庭辺りでテオを追い抜きそうな勢いであったが」
ラインバウトが訝しげに聞く。
「ええっと……いろいろあったのですけど、テオ兄のことで感謝を伝えていました。私がテオ兄を迎えに行けたのは、アベラルドが手を引いてくれたからです」
「……そうか」
ラインバウトは膝の上に置いていた手をテーブルに上げて姿勢を崩した。
「それで、何を話したい?」
「えっ」
「わしはアベラルドが走り去る姿を見て、何かあったかと様子を確認しにきただけだ。ここに通したということは、聞いてほしい話があるからではないか?」
「そう、なのですが……。お気を悪くされるかもしれません」
俯いて言い淀むレティシアを、ラインバウトは慈愛に満ちた笑みで受け止める。
「気にするな。父に言ってみなさい」
「……はい」
目の前にいるのは一国の王ではなくひとりの父なのだと明確に口に出されて、レティシアもやっと尋ねる気になった。
「今回、私が帝国との縁談を台無しにしてしまったでしょう? やはり国民の皆さんにとって、王女レティシア・オーシディアスの結婚は、国にとって最大限の利益をもたらすものでなくてはいけませんよね……」
尻窄みの声だった。
まだ復興の最中。帝国との戦いの勝利と講和に祝賀ムードではあるものの、受けた傷は完全には癒えておらず、こんな話をするのは時期尚早、なのかもしれない。
それでも、『レティシアが決めたことなら皆応援してくれると思うぞ』と背中を押してくれた頼もしい友人の言葉に、誰かから輪郭を与えてほしかった。
ふむ、と短い返事が聞こえて、無意識に身体が強張る。
「難しいな。国の利益を考えることは確かに大事だ。だがな、ニーナから聞いた話では、巷では帝国との婚儀を喜んでよいものなのか、疑う声も多かったのだそうだ。民が望んでいるのは利益優先の結婚よりも、王女の幸せな結婚なのではないか」
「しあわせ、な……」
「お前はこの国に、世界に、平和をもたらしてくれた。利益というなら、それだけで有り余る」
議会でもしそんな反論が出れば、わしならそう主張して退ける、と続けた。お前の功績を知る多くの者が賛同してくれる、とも。
「それよりも、アベラルドから騎士でない気持ちを引き出す方が大変なのではないか?」
「あっ、アベラルドだとは、私はっ、一言も……!」
レティシアが慌てると、ラインバウトは朗らかに笑って受け流した。
「よいよい。元より最初はそのつもりもあったのだ。複雑な理由があって、お前の騎士はそれはそれは厳しい目で選んだ。アベラルドなら、誰よりも安心してお前を任せられる」
「お父様……」
「レティシア」
穏やかな目、穏やかな声だった。
「わしは一番に祝福する。お前がそうなりたいと望むのなら、励みなさい」
「……ありがとうございます、お父様」
今日は伝えられなかったけれど、「あなたが隣にいてくれるから私は私でいられるのよ」と伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。
宇宙で伝える機会があるかしらと思いながら、レティシアは父を部屋の外まで見送ったのだった。