おとぎ話をあなたに サンプル②玉響の休息
総統派スコピアムによる侵略の手を跳ね除け、長い旅から戻ってきたレティシアとアベラルドを待ち受けていたのは、想像を絶するほど堆く積み上がった戦後処理の山であった。
城下の一部市民の間では、譲位が間近なのではないかと噂が立っている。
星の世界で受けた治療で気の持ちようにまで変化があったのか、娘にはまだ自由でいてほしいと奮起する国王の姿を、アベラルドはよく知っていた。
ゆえに噂はただの噂にすぎないとすぐにわかるのだが、深く事情を知らない者なら信じてしまうのも頷けるほど、今のレティシアは政の中枢にいた。
フーガによって勝利をもたらしたことや、その身を呈した時間稼ぎ、何より双剣を手に帝国に乗り込む果敢な姿に、諸将軍から理術士、市井の者に至るまでがレティシアを中心へ引き上げた。
あろうことか、帝国にも妙な(お叱りがほしいらしいという変わり種もあるから本当に妙である)支持者がいるという噂も聞くが、自由に国境を跨ぐことが難しくなった今となっては、真偽を確かめようもない。
アベラルドもそんな彼女の隣で忙しくしている――というのは過去に描いた姿だ。
旅から戻ってきたアベラルドは武術の向上訓練、フーガの操縦訓練と改良機製作のための手伝い、そして数少ない星の世界を知る者として各地を飛び回る任務に大半の時間を費やしている。
反比例して、姫の騎士としての仕事が減っているどころか、アベラルドにはレティシアとまともに逢う時間すらなかった。
この状況に疑問を呈したこともあったが、ミダスが「お前以外に適任がいるか」と新型フーガの設計図に吐き捨てただけであった。
適任。そう言われてみれば妙に納得がいった。
一度瓦解しかけて人手不足の騎士団では、今いる人材をさらに鍛え上げる必要がある。フーガを広く普及させるための改良機に必要なのは、初級理術の心得しかなくてもそれなりに頑丈な操縦士。王国民かつ星の世界を知る者といえばほかにもいるが、その中で最も自由に動かしやすい駒といえば、アベラルドほど〝適任〟はいなかった。
戦後処理が最優先だと状況を甘んじても、王都にいる間は毎日夕刻頃になると理術監理院を訪れるレティシアに連れられて庭園へ向かい、同じ時間を共有していた。
予定していた任務がまるで取り上げられたかのように立ち消え、珍しくレティシアから呼び出されたアベラルドは、目的地である執務室へと向かった。
普段は各地に赴任している諸将の顔が城内で多々見受けられる。疑問に思いながらも、重要な会議でもあったのだろうと片付けた。
辿り着いた執務室では複数人が集まっており、ちょうど話を終えたところといった雰囲気が流れていた。
そこからレティシアに半ば引っ張られながら理術監理院まで連れられ、にこにこ顔のニーナに見送られ、何も知らぬまま監理院の理術士が操るフーガから降ろされ、そしてラーカスで頭を抱えたのである。
今は降り注ぎそうな星空の下、メドゥームの遺跡を眺めながら、ぱちぱちと爆ぜる火でレティシアとふたり、暖を取っている。
「あっ……焦がしちゃった」
「大丈夫です。ちょうどいいくらいですよ」
火で炙られて表面が狐色に染まったマシュマロがとろりと落ちそうになっている。
前触れもなくいきなり連れて来られたアベラルドとは反対に、レティシアの準備は万端であった。
マリエルさんから聞いて一度食べてみたいと思っていたの、と彼女がうきうきで荷物からマシュマロを取り出したときには、小言だとか、苦情だとか、もうすべてを飲み込むことに決めたのだった。
「そうなの? じゃあこれで完成なのね。はい、あげる」
「ありがとうございま……、あつっ!」
てっきり串ごと渡されるものと思いきや、唇に熱いものが触れて、驚きで半開きになった口にマシュマロを捩じ込まれた。
「ご、ごめんなさい、冷めちゃうといけないと思って……」
慌てて手渡された水を流し込んで口内を冷やす。幸いにも火傷はしていない。
「ん、っぐ、美味、ですが……ん、いきなり口に押し込むのはやめてください」
「ええ、今度はきちんと冷ますわね」
隣に座っていたレティシアは早速改善点を実行しようと、マシュマロをまた二つ串に刺した。
「自分で焼きます」
「だーめ」
串に手を伸ばすも、ふいっと逆側に避けられて失敗した。届かなかった手を引っ込めて、立てた膝の上に置く。
王国に仕える騎士である。小さい頃から一緒に過ごした幼馴染である。そんな建前に一滴ずつ垂らしてきた複雑な愛情に気づいているわ、とラーカスに着いてすぐに教えられたアベラルドは、静かな感情の嵐から抜け出せずにいた。
「本当にそれだけ?」と想いを揺さぶられただけ。ただそれだけ。それでもずっと心に秘めてきた愛は、強く抑えていなければもっと認められたいとすぐにレティの元へ羽ばたこうとしてしまう。
――レティがおよめさんになってくれたら、ずっといっしょにいられる?
世界が両手で数えられる数の人間で構成されていた頃に、そんなおとぎ話を夢見たこともあった。身分も世の制度もよく知らない、それこそレティに会って間もない頃の話。
だがあの事故以来、姫の騎士としてレティシアを支えることにひたすら邁進してきたから、想い人本人に気づかれたとて、恋心は手折るしかできないのだ。今までと同じように。
これまで以上に民から愛され、またその民のためにと心を尽くす彼女の姿を見れば見るほど、レティには広大な宇宙の誰よりも幸せになってほしいと、アベラルドは切に願う。
マシュマロがまた砂糖の焦げる香りを漂わせている。ただ火で炙っただけだが、度々料理に挑戦しては失敗してきたレティシアは楽しそうにしている。
ゆえに気が引けたが、心置きなく旅をするために、連れ去られる前に気になったことを尋ねることにした。
「メルティア院長の協力があったということは、この旅は陛下も皆もご存知なのですよね?」
レティシアを探しに行った執務室で旅の話をしていたにしては、妙なことにロラの背中が震えていたような気がしたのだ。
まさか急に旅に行くと言い出して、ロラを怒らせたのではあるまいな、と危惧する。
彼女は今、王国中を駆け回っているアベラルドに代わって、最も近い場所でレティシアの公務をサポートしている。日々新たな課題が積み上がる今、レティシアとともにいる時間が長いのはロラの方であった。
「もちろん事前に伝えているわ。たくさんの方々が協力してくれているのよ? あのときは、お父様が改めて尋ねてくださったの。これから私が、何をしたいかって」
「姫がこれから成したいこと……」
――聞きたい。聞かせてほしい。でも、聞いてもいいのだろうか。『ただのレティとアビーで旅がしたい』と言われた今。
アベラルドの躊躇いを感じ取ったレティシアが、何でもないことのように話す。
「まずは灰化病の撲滅。これはニーナさんのおかげでもう一歩手前まできているわ。帝国にもより効果の高い治療薬のサンプルをお渡しできたし、フーガのおかげでオーシディアスには十分行き渡ったはずよ」
「灰化病の蔓延は帝国との関係悪化の一因でもありますから、悲願ですね」
レティシアは頷いて、それから首を振った。
「でも治療薬だけじゃ、本当の解決とは言えない。帝国の施療理術士の数の少なさも一端だと、ゲラルト陛下はおっしゃっていたわ。ニーナさんも帝国での講義に熱心になってくれているし、近いうちに留学制度を復活させようと思うの」
「そういえば、メルティア院長やマルキア様もその件は楽しみにしておられました」
迎える側も久しいな、と声を弾ませたマルキアと、いいなあ私も……、と呟いたメルティアの姿が目に浮かぶ。
「フーガを平和運用するために、運送経路の整備も進めなくちゃ。この星の歴史を記すためには王国のことをもっと知らないといけないし、帝国のことも、ニルベスのことも、新しく王国の一員になったヴィープスの皆さんのことも、いろんな面からもっと知る努力をしなければならないわ」
「はい。そのための軌跡の旅、なのですよね」
「……ええ、それも理由の一つよ」
少しの沈黙の間に、レティシアはアベラルドをしっかりと見つめる。
「だから、私はアベラルドと見て回りたいの。ずっとそばにいてくれた、あなたと」
「姫……」
アベラルドの返事は決まっている。
「もちろんです。たとえ姫がおひとりで出かけてしまっても、世界中を探し出して姫の元へ馳せ参じますとも」
「ふふっ、ありがとう。そういえば、ずっと聞きたかったのだけど」
「何でしょう」
「私のドレス姿、どう思った?」
ぱち、ぱち。火が爆ぜる音がうるさい。なのに、どくどくと脈打つ心臓の音はそれすら掻き消す。
大聖堂のステンドグラスを背景に、王国のみならず、知らぬ間にこの星に住まうすべての人の運命を背負ったレティシアの姿が浮かぶ。浮かんで、そして――気づかない振りをした。
「……ドレスとは、どのドレスでしょう」
「あの婚儀のときのドレスよ。レイに聞いたら、私のドレス姿なんて見たことないから、この鎧の方が見慣れてる、なんて言うの。アベラルドは私のドレス姿なんてたくさん見ているでしょう? だから、あなたの意見が聞きたいなって」
レティシアは荷物の横で炎に照らされている鎧を、戦友を見つめるような目で見やった。
「そう、ですね」
いつものように、本当の気持ちを少しだけ織り交ぜるための言葉を探す。口の中で一度転がして、問題ないと確かめる。
何年も繰り返してきたことだから慣れているはずなのに、姫の婚儀の話となると、なぜか途端に難しく感じるのだった。
許せ、と心の中でテオに謝罪する。
「テオが言っていましたが、あれは元々、故タチアナ妃が婚儀で着用されたドレスだったのでしょう? ドレスに身を包んだ姫が美しかったのは事実ですが、夜会などで着用されている、姫のためだけに誂えたドレスの方が何倍もお似合いでした」
「……そっか」
篝火に照らされたレティシアの表情の変化はわからない。だがさっきより少しだけ火照って見えて、言葉選びを間違ったかとアベラルドは不安になった。
降り注ぎそうな星空を仰ぎ見る。
誰かのためのウエディングドレスなんて引き裂いてしまいたかった、なんて本心を押し留めたことについては、よくできた方だと評価した。
*
明日も移動するのだし、レティシアにそろそろ眠ってはどうかと促そうとしたとき、彼女の横に積み上げた荷物から耳慣れない音がした。
チャクラムを手に取り警戒するアベラルドを他所に、レティシアは彼女が使うには見慣れない――レイモンドはよく使っていた――通信機を耳に当てて、難なく応答した。既に様になっている。
「こんばんは、ロラさん。……それはっ、……ちょっと、もう! からかわないでください! あっ、待ってください、今すぴーかーにしますね。……ロラさんったら!」
(何だ。ロラはいったい姫に何を言ったのだ。すぴーかー、とはいったい何だ)
アベラルドはやや面食らったが、すぴーかーへの疑問はすぐに解消した。
レティシアが耳から通信機を離し、ふたりの間に荷物を手繰り寄せる。荷物のてっぺんに鎮座するマシュマロをクッションにして通信機を置いた。ボタンを押すと、通信機からザザッという雑音の後に人の声が聞こえた。
『――聞こえている?』
「ロラさん、さっきのは意地悪です」
『……なんのことだかわからないわね』
「もう!」
すぴーかーにする前にロラは何を言ったのか。アベラルドには知る由もないが、レティシアは妙にやけになっている。
『すごい。本当にレティシア様の声がします』
「メルティア院長?」
ロラのほかに、メルティアもそばにいるらしい。ロラとメルティアは何人かの理術士を連れて帝国を訪れており、貸し出しているフーガの引き上げ時期を検討していた。
『おや、アベラルド殿もそばにいらしたんですか? さっきのは聞こえて』
「ません!」
『ないから安心して』
「……何なんだ……」
アベラルドは痛みすら覚える頭を抱えた。
「ロラ殿、姫に用事があったから連絡されたのでは?」
『そうね、ちょっとからかいすぎたわ。本題に入るわね』
からかいすぎた、のところでまた口を挟もうとしたレティシアに向かって口に指を当て、お静かに、と手振りで伝える。
通信機の向こうのふたりにも似たやり取りがあったのか、ロラではなくメルティアが話を繋いだ。
『先ほど、帝国とフーガ引き上げ時期についての話し合いが終わりました』
「先ほど? ずいぶん白熱した話し合いだったのですね」
『いえ、時期については帝国側も納得されて、早速ですが半数を明日持ち帰ることになりました。監理院の理術士たちを何人か連れてきていてよかったです。問題は、その……』
一気に声に疲れを滲ませたメルティアに代わってロラが続ける。
『留学を再開する話が出ているでしょう? 留学希望者が我先にとメルティア院長にアピール合戦をし始めて、それは凄まじかったのよ』
「た、大変でしたね。今は安全な場所にいらっしゃるのですか?」
レティシアが心配そうに眉を下げて言った。それは声にも滲み出ていた。
『危うくつぶされるところでしたが、ロラ殿に助け出されて無事です』
『今は私が元使っていた部屋で持ち出す品を選んでいるところよ。ほとぼりが冷めたら客室へ責任を持って送り届けるわ。安心して』
「ああ、頼んだ。そして、我々は明日あなた方が持ち帰ったフーガの点検に立ち会えばよいのだな」
『帝国への貸し出しは姫の後押しあってのことですから、それがよいかと。アベラルド殿との旅を楽しみにしておられたのに申し訳ありませんが、迎えのフーガを飛ばします。どちらがよいでしょう?』
メルティアの提案にたっぷり一思案した後、レティシアは答える。
「……わかりました、必ずその場に立ち会います。ラーカスからメドゥーム遺跡、エダリに続く分かれ道はわかりますか? 実際にフーガを運転できる方に、あの場所を一度見てもらいたいと考えていました」
『分かれ道……ラーカスから向かえばきっとわかるでしょう。では明日、お迎えにあがります』
「ええ、お願いしますね。おふたりとも、よい夢を」
「失礼いたします」
姿の見えない会話だけの終わり方というものがわからず、アベラルドは通信機に向かって礼をした。
レティシアの手が通信を切ろうとマシュマロの上に伸びたが、画面が暗くなる前に再びロラの声が聞こえた。
『……レティシア姫』
「ロラさん?」
『私物の持ち出しを許可してくれて、感謝しているわ。大佐と……ガストンの分まで』
ロラの声は震えている。
「持ち出せるのは、帝国の皆さんがそのままにしておいてくださったからです。私は何もしていません」
『……ありがとう』
しばらくして、通信機は勝手に画面の光を落とした。ロラが通信が切ったのだ。
ロラのそばにいるはずのメルティアは口を挟まなかった。だから、アベラルドもそれに倣った。
銀河連邦監視の元で厳重に封鎖されたテラヌスからは、新たに何かを持ち出すことは禁じられたのだという。たった三人で遠く離れた未開の惑星に逃れてきたヴィープスたちが生きてきた証は、オーシディアスを除いては帝国にしかなかった。
通信機を荷物にしまいながら、レティシアは呟く。
「こんなに短いだなんて、思ってもみなかった……」
レティシアが用意した荷物は、優に一週間分に相当する量であった。
夜風に熱を奪われ、表面だけが焦げたマシュマロが落ちそうになっている。
軌跡を巡る旅は始まったばかりだというのに、一日も立たずに終わってしまった。
おとぎ話の終わり
ロラとの通信を切った後、残された時間を堪能せんとばかりにひっついてきたレティシアを、アベラルドが拒否できるはずがなかった。膝に彼女のぬくもりを感じながら、アベラルドは星が朝陽に溶けるまでずっと寝ずの番をしていた。
仮にこの場に誰かもうひとりがいて寝ずの番をしてくれたとしても、こんな密着した体勢では同じく一睡もできなかっただろう。
辿り着いた集合場所――レイモンドのポッドの落下地点である――で迎えがくるまで少しだけ微睡んだものの、足りないものは足りないのである。
理術監理院の敷地に降り立つと、既に帝国から戻ってきていたメルティアとロラがふたりを迎えた。持ち帰ったフーガの点検は既に始まっていた。
「レティシア様、アベラルド殿。急ぎ戻らせてしまい申し訳ありません」
メルティアが点検していたフーガから顔を上げてレティシアに近づく。
「いえ、旅に出るには時期が悪かったと反省しています。帝国から戻ってきたフーガに変わりはありませんか」
「最後の一機の確認が今終わったところです。どこも弄られた形跡もなく、綺麗なままですよ」
「よかった……」
「正直に言うと意外でした。その……留学希望の皆さんは熱烈な方ばかりでしたので、当然フーガにも興味があるものと」
昨晩押しつぶされそうになったというメルティアが、思い出して苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「ゲラルト陛下が自ら管理されていたそうよ。レティシア殿下からの信頼の証だからって」
点検の記録を手伝っていたロラは、記し終わった記録簿をメルティアに渡した。
「この信頼関係を私とゲラルト陛下だけでなく、両国の皆さんにも、そしてゆくゆくはニルベスの方々にも広げていくことが、今後のこの星にとって大切なことだと思います。メルティア院長、ロラさん、引き続き宜しくお願いします」
レティシアがふたりに頭を下げる。慌てるメルティアの横で、ロラは「そういえばオキャクサマが外でお待ちよ」とたった今思い出したように知らせた。
ロラのわざとらしい〝オキャクサマ〟で客人が誰なのか察したレティシアは、早速監理院から庭園へ続く扉へ向かう。
メルティアがレティシアに付き添い、アベラルドはそのふたりのすぐ後ろを続く。ロラはやはり銀河連邦司令官への苦手意識が消せないようで迷ってはいたが、ともに監理院の外まで見送りにきた。
「アベラルドはマリエルさんに会っていかないの?」
「そうしたいところですが、陛下とベルトランド大佐に姫の帰還を報告しに行こうと思います。貸し出していたフーガの件もありますし」
「そうね、ご心配をおかけしているかもしれないわ。お願いね」
「無論です。では、よいひとときを」
木々の隙間から覗く特徴的な青いポニーテールの元へ、レティシアは足取り軽く向かう。庭園を一望できるレティシアもお気に入りのベンチで、彼女はずっと待っていたらしい。
花を愛でるふたりが合流するまで見守っていたアベラルドにメルティアが呼び掛けた。
「私は信憑性の低いものが好きではありませんし、レティシア様ご本人のお耳に入れるのはどうかと思ったので、アベラルド殿にご報告しますね」
アベラルドはずっとレティシアの背に注いでいた視線を引き上げてメルティアに身体を向けた。
「帝国で何かあったのですか」
「実際に何か事が起きたわけではありません。ただ、帝城にいる間に妙な噂を耳にしました。レティシア様とゲラルト陛下の間に、改めてご婚約の話があると」
メドゥーム遺跡で聞いた、姫がこれから成したいこと。直接的な言葉はなかったが、帝国との良好な関係の構築が含まれていることは明白だった。
前皇帝の統治下とはいえ、帝国との関係に苦慮したレティシアがそう考えるのは当然のことで、その考えにはアベラルドも大いに賛同していた。
この突拍子もない噂を聞くまでは。
「――は」
心臓が動きを止めた気がした。メルティアの横でロラが補足する。
「ボルドール前皇帝とタチアナ妃のこともあるのか、帝国の人たちはそういう話が好きよ。でも、今回はほとんど帝城にしか滞在していない。それなのにそんな噂が耳に入るのは妙だと思ったから、念のため」
「そんな話、私は聞いていない……っ!」
「よかった。アベラルド殿がご存知でないということは、やはりただの噂でしかないということですね。レティシア様のそんな重大なお話を、姫の騎士であるあなたが知らされないはずありませんから」
メルティアは「色恋の話が好きなのはヴァイルの国民性なのですかね」とどこか呆れたように首を傾げながら、理術監理院へと戻って行く。
アベラルドは悄然とした気持ちのまま、王城に向かって足を動かす。ロラも監理院へ戻るのかと思っていたがそうではなく、王城に続く階段の前でアベラルドが立ち止まるまで、道は一緒だった。
立ち止まった場所からも、レティシアとマリエルの横顔が遠目に見える。久しぶりに会うふたりの会話は弾んでいるようで、後ろ姿からも楽しげな様子が伝わってくる。
(姫は何を話している? 婚約のことか?)
普段であれば、レティシアが友人と楽しく過ごす様子に心乱されたりはしないのに、会話の内容が気になって仕方がない。
「あなたはこれから大佐の元に報告に行くんでしょ?」
「あ、ああ……」
「帝国への慰問の件で内容を詰めたいから、レティシア姫はしばらくお借りするわ。この後の公務は予定にはないけど、きちんと部屋まで送り届けるから安心して」
帝国と良好な関係を保つことは、王国にとっても有益であるのに。
帝国にいつの間にか忍び寄られているような、忌まわしいとすら思える気分だった。