四度目の俺と一度目の君 一度目は、9つの時。
その人は、とても綺麗な目をしていた。
月と海。
初めて見る、色違いの瞳。
雨で増水した川に浮き沈みする黄色。
それが幼児の着るレインコートと気づくや川へ飛び込み、その子を何とか岸に押し上げたところで力尽きた。
濁流に揉まれながら最後の息を吐ききり、意識を手放しかけた時──ふっと身体が軽くなった。
朦朧とする視界の中に映ったのは、その瞳。
気遣わしげにこちらを見下ろす双眸に、自分が助けられたと気づく。
礼を言おうとして、咳き込んだ。
横向きに噎せる自分の背を撫でる掌の感触が優しい。
咳が治まり、まともに息ができるようになったところで改めて、礼を言おうと振り返った。
しかし、そこには誰もおらず。
ずぶ濡れの自分だけが、川から離れた空き地に独り横たわっていた。
二度目は、13の時。
混雑した駅のホームで。
ひどく疲れた顔をしたスーツ姿の男性が、吸い込まれるように線路へと落ちる。
その腕を咄嗟に掴んで位置を入れ替えるようにホームへと投げ返し、線路上に転がる。素早く立ち上がって自分もホームに戻ろうとするが、間に合わない。
次の瞬間、腕を引かれた。
ホーム下にぽっかりとくり抜かれた空間。
そこに引き込まれた刹那、背後の線路へ列車が突入してくる。
自分を抱き込む細い腕、薄い胸。
そしてこちらに向けられた、あの日と同じ、色違いの瞳。
安堵を滲ませて笑むその美しさに見惚れた一瞬後、その姿は掻き消えていた。
三度目は、17の時。
商業施設で起きた火災の場で。
子供がいないと半狂乱になる母親の代わりに探しに飛び込んだ建物。
避難誘導がうまくなされたのだろう、施設内にもう人は残っていない。
だからこそ、その気配は探りやすかった。
しかし物陰にうずくまって泣いていた子供を無事保護できたはいいが、自分がやってきた方向は既に炎に閉ざされている。
凄まじい煙に視界を奪われる中、抱き上げた子供を庇いながら別の出口を必至で探していたその時──。
こっちだ、杏寿郎!
初めて聞く声だった。
けれど、その声の主に確信があった。
煙に巻かれながらも声を頼りにそちらへ向かえば──。
やはり、あの日と同じ色違いの目が、迎えてくれた。
彼の消えた方に向かえば、その道はまだ煙も炎も来ておらず、易く脱出できた。
子どもを母親に引き渡しながら、しまった、と思う。
また、礼を言い損ねたと。
次会えたなら、必ず告げねば。
かの人が、何者であろうとも。
既に覚悟はできていた。
最初に会った時から、あの人の姿は一切変わっていない。
歳を取らず、現れては忽然と姿を消すその性質を鑑みるに、きっと、生身の人間ではないだろう。
そう、あの人が、既にこの世のものではなかろうと。
人ならざる、化性のものであろうとも。
それでも、受けた恩義に違いはない。
だから告げる。
この命を助けてくれたことへの感謝を。
一目で生じた、この恋心と共に──。
四度目は、19の時。
新緑まばゆい大学のキャンパスで。
ゴールデンウィーク明けの、誕生日に。
すれ違ったその人が持つ色に、まず身体が反応した。
振り向いた先の、翻る白衣の背に弾む、束ねられた艶やかな黒髪。
その長さこそ違えども──。
確認するより早く、確信していた。
反射的に、足が地面を蹴っていた。
どうか、どうか消えないでほしい。
自分に、これまでの感謝と想いを伝えさせてほしい。
だから、どうか──。
瞬く間に追いついた背を背後から抱きしめ、心の底より叫ぶ。
「ありがとう好きだ大好きだ!」
消えてしまう前に告げねばと端的に纏めてみたが、予想に反して彼は腕の中から消えなかった。
それどころか確かな温もりと質感といい匂いがする。
その匂いをもう少し嗅いでみたくて首筋に顔を埋めれば、ヒュッと息を飲む音が聞こえた。
同時、全身に電流が走る。比喩ではなく、実際の。
思わず崩れ落ち膝をついた自分を、バチバチと火花を散らす器具を手にした彼が憤怒の形相で見下ろしていた。
「最近卑猥な手紙やら卑猥な写真やらが紙でも電子でも届きまくる上私物がなくなるのではなく増えるしかも盗聴器と隠しカメラ入りなクソ仕様とかいい加減ハラワタが煮えくり返っていたがようやくここにきて我慢が効かなくなったとみえる公衆の面前で痴漢行為に及ぶとはこれでもう言い逃れはできんぞ観念しろこの生きる価値なし変態ゴミムシクソストーカーめが精神的社会的に徹底粉砕抹殺してくれるわ!」
よもやである。
最後の罪状以外は全くもって身に覚えがない。
1割を除いて9割は冤罪である旨を主張したいが痺れは喉にも舌にも回っている。全くもって声が出せない。
彼が手にしているのはスタンガンと思われるが、恐らく独自に改造しているのだろう。威力が半端ない。杏寿郎でなければ一瞬にして意識を刈り取られているに違いない。
杏寿郎は痺れに動きを阻害される中、目の前の青年を見上げた。
初めて出会った時は、彼の方が大きかった。
けれど今の彼はあの時のまま。青年というよりは少年といった方がしっくりくる薄い細い身体に、マスクで半分隠されていても分かる少女めいた端麗な顔立ち。
実際、火災の折にその声を聞くまでは、性別を誤解していた。
ショックを覚えなかったといえば嘘になるが、受け入れるのも早かった。
男であろうと女であろうと、かの人が己の恩人であり、想い人であることには代わりないのだから。
助けてくれた時の、情愛を秘めた優しい眼差しとは全く違い、今彼がこちらを見る目には嫌悪しか感じられないが、相変わらずその色は美しい。
金と碧、月と海の、杏寿郎が焦がれ続けた色違いの双眸──。
綺麗だ。
ゆらり、と立ち上がった杏寿郎に、彼がギョッとした顔をする。
え、これ、出力最大、え……?と狼狽える彼に、杏寿郎はガバッと両手を広げてみせた。
武器を持っていないことを示すための動作だったが、動物で言うなら己の身体を大きく見せる威嚇のポーズである。
状況的に後者にとった小柄な青年は反射的にスタンガンをバチらせた。威嚇には威嚇で返す割と好戦的な性格がうかがえる。
「君が生身というなら好都合! どうか俺と結婚してほしい!」
威嚇しているつもりなど微塵もない杏寿郎は、腕を広げたまま正々堂々とそう宣した。積年の想いを最短距離で表したらプロポーズになるのは致し方ない。杏寿郎はせっかちな性分だった。
「はぁ!? 悪質ストーカーの分際で交際すっ飛ばして求婚してくるとか何様だこの犯罪者が貴様にそんな権利があると思うか恥を知れ!」
杏寿郎の求婚をスパーンと両断する青年。その理知的な風貌どおり勢いに流されることなどない冷静さを備えているらしい。
「というかそもそも何だその派手に目立つ炎めいた髪色と太眉と鷹目とやたら太陽が似合う無駄に爽やかな笑顔は! ストーカーならストーカーらしく日陰でニチャッと粘着質に薄ら笑いながら生臭い体臭撒き散らすぐらいのことはしろ!」
いや、割と混乱しているらしかった。
「この外見は生まれつきなので申し訳ない! というか俺はそもそもストーカーではない! 善良にして初恋に一途な一市民だ!」
「病識がない奴ほど厄介というのは本当だな! ええい来るな近寄るな! ニフラムニフラム!」
「はっはっは! 残念ながら俺はそれで消えるほどの低位モンスターではないぞ! さあ早く抵抗を諦めて俺と結婚──いやまずは話をさせてほしい! どこか静かなムードのある場所で! 二人きりで!」
躙り寄る杏寿郎と後ずさる長年の想い人。
「それ諦めたらそこで俺の人生終了なやつ! くっそせめて俺のレベルがもっと高ければ……っ! こうなれば最後の手段! 不死川ー不死川ー! 俺がピンチだ不死川ー!」
と、いつの間にかできていた見物人の向こうに遠く砂煙が見えた。
次の瞬間、シィアアアアという鋭い呼吸音と共に、大柄な影が人垣を飛び越えて杏寿郎と愛しの君の間にズダンと降り立つ。
それは正に、凶暴という単語を具象化したかのような男だった。
手にしたバットを肩に担ぎこちらを睨め付ける凶相。血走り吊り上がる四白眼と捲り上げた袖口や顔や露出した肌の至る所に刻まれた傷跡。杏寿郎も体格的には恵まれている部類に入るが、彼はそれ以上に縦にも横にも大きい。
「来てくれたか不死川! 野球部の助っ人に呼ばれていたのにすまない不死川!」
「気にすんな、そんなもんダチのピンチの方が上だァ。つーか試合の方も毎打席ホームランかまして5点は入れてやったしなァ。バイト代分の仕事は果たしてきたぜェ」
着崩しすぎていて分からなかったが、よく見れば彼が着ているのは大学名の入った野球のユニフォームだった。想い人の友人が常から凶器としてバットを持ち歩く危険人物ではなくて安心した。
むしろ話を聞く限り、情に厚く身体能力に優れた見た目に反する快男児のようである。
「で、てめぇが例のクソストーカー野郎かァ?」
「いや違う! 俺は文学部史学科一年の煉獄杏寿郎という! 世田谷区桜新町で先祖代々営む剣術道場の跡取り予定にして師範代を務める者だ! なお十年前にそこの彼に恋をして今に至る! ついては良い機会なので君の名前を教えてほしい!」
不死川の背後を覗き込むようにそう告げれば、眦を吊り上げた愛しの君が顔を出した。
「はあ!? 貴様十年越しのストーカーのくせに俺の名前も知らんままとかどういうことだクソストーカー! クズストーカーならゴミストーカーらしく汚泥を這いずり回ってでも情報収集に励め! その常軌を逸した執着心が貴様らのようなカスストーカーの唯一の取り柄だろうがこのゲスストトーカー!」
「落ち着け伊黒、ストーカーがゲシュタルト崩壊してストトーカーになってんぞォ」
「そうか、君は伊黒というのか! それは名字だろうか名前だろうか! あと学部と住所と生年月日と携帯番号とSNSアカウントと好みのタイプも併せて教えていただきたい!」
「ストーカーの癖に本人から直接情報収集しようとするな! ストーカーたるもの本人に悟られぬよう周囲から真綿で首を絞めるように膨大な情報を集めてたまに本人にチラ見せして恐怖を与えてその怯える様を安全な場所から見下ろして悦に入ってこそだろうが! 怠慢は許さんぞ!」
「そうか! 俺はストーカーではないが分かった! では直接君に聞くのはやめて不死川に聞こう!」
「ハッ、不死川がそんな俺に不利な真似をするわけ──」
「理学部化学科2年の伊黒小芭内と理学部数学科2年の不死川実弥だァ」
「何で答える不死川あああああ!」
「いや、お前も俺もそこそこ学内で有名だからこの辺はどうせすぐに分かると思ってなァ」
「そうか! ありがとう不死川! よかったらこれを食べてくれ不死川!」
「先輩と知ってなおこの俺に対して呼び捨てを続けるその胆力、嫌いじゃねぇぜェ。ただ礼に剥き出しの干し芋渡してくるのはどうかと思うがなァ。あ、でもうまいなこれェ」
「食っちゃダメだろ不死川ああああああ! ストーカー印の食い物なんぞ何が入ってるか分からんぞ! 早くぺっしなさいぺっ!」
「大丈夫だ小芭内! これは俺が作ったものではなく、うちの元門下生が田舎へ戻って継いだ芋農家にて家族総出で一から手作りされている100パーセント国産の高級干し芋だ! 安心安全にして美味なる逸品だぞ!」
「なるほど道理でうめぇわけだァ。そして伊黒だけ早速下の名前呼びとか距離の詰め方がえげつねぇなァ」
「はっはっは! 君たちも俺のことを気軽に杏寿郎と呼んでくれて構わんぞ! 特に小芭内! 君にはぜひそう呼んでほしい! 1、2、3、はい!」
「誰が気安くストーカーの名前なんぞ呼ぶかくそたわけ!」
「じゃあ俺は煉獄の方が呼びやすいからそれで。あと干し芋もう一枚くれねぇか。助っ人後で小腹が空いちまってなァ」
「呼ぶな貰うな不死川あああああああ!」
快諾した杏寿郎が干し芋袋を丸々渡した結果、不死川とはその場で連絡先を交換することに成功した。
もちろん小芭内からは聞き出せなかったが、不死川に連絡を取れば大体近くにいるため接触は容易となった。
初めの頃は警戒心を剥き出しに、不死川を盾にしてしか杏寿郎と接してくれなかった小芭内だが、近頃は多少なりと心を開いてくれたのか、不死川がいない時でもそれなりに話してくれるようになった。
「──というわけで、俺は君に三度も助けられているのだが、覚えはないだろうか!」
「全くない。何度も何度もいい加減にしろこのクソストーカーが」
とは言え、悪態混じりの塩対応に変わりはない。
「なお、その際の君の髪は肩ぐらいの散切りでおかっぱめいて可愛かった! もちろん今の君の長い黒髪も美しいがな!」
「くどい! 俺は子供時代からこの髪型だ! 散切りにしたことなんぞないと言ってるだろうが! ストーカーならそれぐらい知っておけ!」
「俺はストーカーではないが、四度目に君と出会えたあの日、5/10は何を隠そう俺の誕生日だった! これは間違いなく運命だと思われる! 生涯最高のプレゼントをありがとう小芭内! 結婚しよう小芭内!」
「何も隠れてない! 毎日毎日隙あらば誕生日をアピールしてくるな! 何で俺がストーカーの誕生日を覚えねばならんのだ!」
「覚えてくれたか嬉しいぞ小芭内! 君の誕生日である9/15はとっくに覚えているので盛大に祝わせてもらうぞ任せてくれ小芭内!」
「今更ながら俺の個人情報! 嫌だ何一つ任せたくない祝いたいなら必ず不死川を間に挟め絶対にだ!」
「そう言うと思って既に不死川に話は通してある! その日はバイトを休んでくれるらしいぞ!」
「あああああ不死川すまん俺のためにしかし正直助かったありがとう!」
ここにいない友人へ感謝を捧げる小芭内を、杏寿郎はにこにこと見つめる。
杏寿郎が件のストーカーとは別人であることは割と早い段階で理解してもらえた。
杏寿郎の竹を割ったような性格とそれまでにストーカーが成してきた唾棄すべき粘着的な所業が相反するものである上、杏寿郎のアリバイが成立したからである。
小芭内は被害を受けた日付と内容とを事細かく日記に記していたのだが、その内の一つが杏寿郎がこの大学で受けた入学試験真っ最中に起こったことだったのだ。
晴れて無罪放免となった杏寿郎であるが、小芭内にしてみればそれは新たなストーカーが一人増えたことに他ならなかった。
幼少期から家業の剣術道場の後継として厳しい鍛錬に明け暮れてきた杏寿郎は無限の体力と身体能力を誇る。
そんな彼からすれば、完全に把握した小芭内のスケジュールに基づき、時間が空くたび小芭内の下へ馳せ参じるのは容易かった。
なお、小芭内のスケジュール提供者は不死川である。
ストーカーが実力行使に出ることを危ぶみ、極力小芭内の側にいるようにしていた不死川だが、彼は大家族の長男であり、家計を支える苦学生だった。
どうしてもバイトのために小芭内の側を離れざるを得ない時間が生じてしまうので、杏寿郎にその間の護衛役を託したのだ。
護衛が二名体制となったため、小芭内のストーカー被害は目に見えて減った。が、まだゼロにはなっていない。
それぞれ受ける講義が違う以上どうしても小芭内一人の時間はできてしまうし、実験中など荷を置いて席を離れざるを得ない場合もある。
そんなこんなで未だ細々とした嫌がらせは続いているものの、小芭内自身はもうあまり気にしていないようだった。
日陰の石の裏にじっとり隠れ住む小虫なストーカー1なんぞより、新たに現れた太陽の如く照り輝くストーカー2の眩しさの方が目に痛いからだそうである。
杏寿郎としてはストーカーになったつもりなどないし、彼の眼をできるだけ労ってあげたいとも思う。しかしこの髪は、黒く染めようとしても一本たりと染まってくれないのだ。ここは諦めて杏寿郎の色に慣れてもらうしかない。そして慣れてもらうためには顔を合わせる時間を増やすしかない。故に杏寿郎はせっせと彼の元に通い続ける必要があるのだ。そのためならばストーカー呼ばわりも甘んじて受け入れよう。
なお、そもそも小芭内の近くに寄らないという選択肢は杏寿郎の中に存在しない。
努力の甲斐あって最近は彼も慣れてきてくれたような気はするが、三度に一度は覗き込んだ目を逸らされるので、もっと共にいる時間を増やすべきだろう。そうすればいずれ麻痺、もとい杏寿郎の色を日常のものとして受け入れてもらえるはずだ。
そうして、杏寿郎は今日も彼の日常に溶け込むべく、側に向かうのだった。
「今日はサンドイッチか! うまそうだなうまい!」
抜けるような青空に、いつものよく通る腹式呼吸声が響く。
うるさい。うるさいが、耳を塞ぐほどではない。
この大学構内には緑が多く、あちこちにベンチが置かれている。
気がつけば、いつの間にかそのうちの一つで共に昼食を取るようになっていた。
小芭内は、傍らでサンドイッチを頬張る青年をちらりと見やる。
彼の、毛先だけ朱に染まる金の髪が、木漏れ日を反射してキラキラと光っている。
眩しい。
この派手なカラーリングが生まれつきのものだとは到底信じられないが、彼が見せてくれた家族写真に全く同じ髪と目の色をした父と弟が写っていたので信じざるを得ない。
好奇心から毛先を切ったら色はどうなるのか聞いてみたら、見た方が早いだろうと彼は小芭内の目の前で己の髪を一束掴み、朱色の部分を手刀で切った。
手刀て、と突っ込むより早く、金色のみとなった毛先にジュワッと朱色が滲む。
思わず、怖っと声を上げてしまったのは仕方がないと思う。
しかしその後理系民としての探究心に駆られてデータを集めた結果、毛先に朱が戻るのは頭皮から生えている場合のみで、切り落とした、あるいは抜けた毛では朱戻りは発生しないことが判明した。
剃った場合はどうなるのかも試してみたかったが、不死川に「やめてやれェ」と肩を掴まれ首を振られたので渋々中止した。いつか実験再開したいところである。
さておき、食の細い小芭内はそれまでパックの豆乳で昼を済ませることが多かった。
が、ある日。
杏寿郎の持参した大盛り弁当、中身のぎっしり詰まったそれを何とはなしに眺めていると、鮮やかな黄色が目に留まった。
よくよく見れば微かな焦げ目のついたそれは、卵焼きのようだ。
随分綺麗に巻かれたものだなとぼんやり見つめていたところ、食べたいのだと勘違いした杏寿郎に満面の笑みで差し出されてしまった。
母の手作りであるというそれを、いらないと断るのもさすがに失礼だろう。
気は進まないながらも、まあ一切れぐらいなら食べられるかと口へ運ぶ。
歯を立てれば、ふわりと柔らかなれど生ではない絶妙な食感があった。焼き加減が良いのだろう。ついで、咀嚼するうち昆布出汁の旨味が卵のコクと共に口一杯に広がる。
それは、食にさして興味のない小芭内が、思わず「うまいな」と呟いてしまうほど見事なものだった。
以降、小芭内は卵焼きが好きと認識したらしい杏寿郎が、毎度満面の笑みと共に分けてくれるようになったのは誤算だったが、実際うまいので断る理由もない。
しかし貰いっぱなしというのも落ち着かない。
根が生真面目で律儀な小芭内は、考えた結果、自分でも弁当を作り卵焼きとおかずを交換するという体裁を整えることにした。
それまで料理は家庭科レベルでしかしたことがなかったが、元より凝り性かつ手先は器用な方である。
あっという間に弁当作りの基礎を身につけた小芭内は、今や作ろうと思えばキャラ弁まで作れるようになった。
杏寿郎のデフォルメした顔をハムと薄焼き卵とケチャップと海苔でちまちま作成し、なかなかの出来栄えに思わずスマホで写真を撮ったのちに俺は何をしているのかと素に返ったため、今のところキャラ弁はその一つしか作ってはいないが。
なおそのキャラ弁は全面を海苔で覆い隠し、のり弁に偽装して杏寿郎に下げ渡すことで証拠隠滅に成功した。
さておき、現状の弁当交換レートは杏寿郎の卵焼き1個に対して小芭内の弁当0.9個という比率になっている。
少食の小芭内は弁当0.1個と卵焼き一個で十分腹一杯になるし、うまいうまい!と自分の作った弁当をがっつく杏寿郎を見るのも気分としては悪くない。
ちなみに今日はツナマヨ、卵、ハム野菜の三種のサンドイッチである。
そしてもらった卵焼きは今日も変わらず美味しい。小芭内も何度か挑戦してはいるのだが、なかなかこの味にならない。もう直接母君よりレシピを教えてもらいたい気もするが、そうすると何か色々な意味で後戻りできなくなる気配がする。ここはあくまでも自分一人で再現すべきだろう。
自分用に小さく作った卵サンドを片付けようと手に取った時、ふと、目の前を猫が横切るのが見えた。
この大学構内には、猫が何匹か住み着いている。学生たちが何かと餌をくれるので住みやすいのだろう。
小芭内は別に猫好きでもないし嫌いでもないので、普段その存在について特に意識することはないが、なぜか今日に限って視線が吸い寄せられた。
びちり。
意気揚々と歩く猫の口元で、何か白いものが跳ねる。
びちびちびち、びち、びち、び……。
勢いよく跳ねていたそれが段々と緩慢な動きに変わり、くったりと垂れたところで、小芭内と目が合った。
赤い、木の実のような瞳からぽろぽろと溢れる透明な雫。
それを見た瞬間、小芭内の脳内に稲妻が落ちた。
そろりとベンチから立ち上がり、ゆっくりと猫に近づいていく。驚かせてはいけない。その牙が余計に食い込んでしまうかもしれない。
この、卵サンドを差し出して、平和理に獲物の交換を願い出るのだ。そーっとそーっと、ゆっくりゆっくり……。
「どうした小芭内! 君は猫が好きなのか!」
木々で囀る鳥たちも一斉に飛び立つ腹式呼吸声に、ぼん、と猫の尻尾が破裂した。
弁当を抱えたままやってきた杏寿郎が、固まっている猫と小芭内を見下ろす。
杏寿郎の猛禽を思わせる目に天敵めいた恐怖を覚えたのか、ぺたりと耳を下げた猫は逃亡を選んだ。
猛然とダッシュするその背へ、あっと手を伸ばしかけた小芭内の横から杏寿郎が消える。
「急ぐところすまない! 少し撫でさせてもらいたい!」
シュン、とまるで瞬間移動したかのような素早さで進行方向に現れた杏寿郎に、猫が急ブレーキをかける。
猫はにげだした。しかしまわりこまれてしまった。杏寿郎からはにげられない!
小芭内の脳裏にどこかで聞いたようなテキストが浮かぶ。これはあれだ。メラがメラゾーマなやつだ。
大魔王杏寿郎による極限の恐怖に晒された猫は、その場にへたり込むと同時、ぽとりと咥えたものを落とした。
「さあ、これで話は通ったぞ小芭なななななな!」
小芭内は無言で杏寿郎の腹にスタンガンをバチらせた。あれから更に改造を重ね、小型軽量化かつ威力を増強させた改良品である。
「……怖い思いをさせてすまなかった。これはせめてものお詫びだ」
腰を抜かした猫の前に落ちた白い物体を回収し、代わりに自分の卵サンドと硬直した杏寿郎が手にしたままの弁当の中から唐揚げを奪い供える。
いずれにしてもこの男が近くにいては怖かろう。痺れ杏寿郎を猫から引き離すべく何とかベンチに引きずって戻った小芭内は、肩で息をしながら掌に視線を落とした。
そこで丸まるのは、小さな白蛇である。恐らく30センチもないだろう。
まずは傷の具合を確認しなければ。酷いようなら病院に連れて行かねばならない。一度助けると決めた以上、小芭内は最後まで責任を持つつもりだった。
ぐったりと目を閉じている白蛇を痛ましく思いながら、注意深くその全身を検分する。蛇を、しかも白い蛇をこれほど間近に見るのは初めてだが、随分と綺麗な鱗だ。真珠のような艶がある。
じっくりと観察した結果、真っ白い鱗のどこにも血の滲んだ箇所は見つからなかった。どうやら怪我はしていないようだ。あの猫はだいぶ手加減して咥えていたらしい。
なのにあんなに怯えさせてしまうとは、猫には本当に申し訳ないことをした。杏寿郎にチュールを買わせておいて、次会えたらまた詫びよう。
しかし、蛇に怪我がなくて良かった。ぐったりしているのが猫に攫われた恐怖故であるのなら、落ち着けば動けるようになるだろう。今は静かに見守って──。
「ふむ、白蛇とは珍しいな!」
痺れから回復した杏寿郎が弁当をパクつきながら手元を覗き込んでくる。
小芭内はその眼前でスタンガンをバチらせた。黙れ、の合図である。
声にびっくりしたのか、白蛇がパチリと目を開く。
赤い目を潤ませてこちらを弱々しく見上げるその姿に、小芭内は庇護欲を駆られた。
安心させるように、震える体表を優しく撫でてやる。
「もう大丈夫だぞ、怪我もない。後で安全な所に放してやるからな」
パチパチと小芭内の姿を確かめるように赤い眼を瞬かせていた白蛇は、イヤイヤをするように小芭内の手にキュウッと巻きついてきた。その可愛らしい仕草に小芭内の胸がキュンとときめく。
はて、蛇がまばたき?と隣で首を傾げる杏寿郎の姿はもはや小芭内には見えていない。
「……俺のところにいたいのか?」
そう問うと、こくこく、と頷かれた。意志の疎通が図れたわけではなく、たまたまの動作かもしれないが、この時点で既に小芭内の心は決まっていた。
「よし、なら今日からお前はうちの子だ!」
確か特定動物に指定されていない種類の蛇であれば許可を取らずとも飼ってよかったはずだ。見る感じアオダイショウに近いから大丈夫だとは思うが、後で調べておこう。
心なしか白蛇が嬉しそうな顔をして左右に揺れている。かわいい。
「そうか、君の子であるなら当然俺の子でもあるな! これからよろしく頼む!」
杏寿郎が差し出してきた手を、白蛇が尻尾でぺちりとはたいた。蛇に表情はないはずなのに、なぜか嫌がっている感がありありと伝わる。
「む、これが蛇流の握手か! なるほど!」
ポジティブがすごい。
杏寿郎を厭うてか小芭内の首元に登ってきた蛇が頬にすりすりと頭を擦り寄せてくる。かわいい。え、なんだこれ、蛇ってこんなかわいい生き物だったのかかわいい、と生まれて初めて覚える母性本能に小芭内が身悶えする中で、杏寿郎は弁当の続きをかっこみながらじっと小芭内と蛇を見つめていた。