指先を染める小瓶 アルヴァ・ロレンツは論理の考察をしていると、無意識に髪を触っているときがある。くるりと指に巻き付いた、薄鈍色の髪と緑のリボン。普段から色とりどりのリボンで髪をまとめているので、リボンには何の違和感もない。しかし、今日の彼はそのリボンを視界に入れるたびに目元を緩めている。
さて、もうひと踏ん張りか。グッと伸びをして、机に向かい直した瞬間、勢いよく研究室の扉が開いた。
「アルヴァ! 試したいことがあるんだ!」
「…人にはノックを求めるのに、君ってやつは」
「細かいことは気にするな! それよりもこれを見てくれ!」
たしなめられたヘルマンだが、そんなことお構いなしにアルヴァの正面にやってきて手に持っている物を見せつけた。小瓶の中には、粘度の高い緑の液体が入っているようだ。不思議そうにしているアルヴァに目もくれず、机を回り込みガタリと隣の椅子を引いた。
「これはマニキュア。女が爪を飾るための化粧品だ」
「…それをどうするんだ?」
「面白そうだから塗らせてくれ!」
アルヴァは大きな溜息を吐いた。目の前の男はニコニコしながら小瓶を振っている。塗らせてくれと言うことは、つまり自分の手を提供するのか。面白そうだというなら自分の手でもいいだろうに。そう考えながらジト目でヘルマンを見るが、右手を差し出したまま、全く引く様子がない。やれやれ。もう一度大きく溜息を吐いたアルヴァは、すんなり左手を出した。言い出したら聞かないのがこの男だ。
「なぁに、綺麗に塗るから安心したまえ」
「君の手先が器用なのは知っているからね。期待してるさ」
小瓶を開けると、鼻を突く匂いが広がる。アルヴァは眉を寄せたが、匂いのもとを冷静に分析した。シンナーの匂いのようだが、それだけではなさそうだ。もっと違う成分も入っているのだろう。そう考えていたアルヴァの親指に、マニキュアの刷毛が滑る。刷毛を動かしている本人はとても楽しそうだ。
時折小瓶に刷毛を戻しながら、親指から順序よく塗っていく。深みのある緑は鮮やかさには遠いが、何故か目を引く。なぜだろう。そう考えたアルヴァの目に別の緑が飛び込んできた。
「どうだ? 上手いものだろう?」
「あっ、ああ…この匂いはシンナーか?」
「正確にはトルエンだな。酢酸エチルや酢酸ブチルも成分として含まれているらしい」
「そうか」
気づいてしまった事実から目を逸らそうと、話題を提供したアルヴァだったが、目論見は失敗に終わった。いたずらっぽく細められた緑は、アルヴァの指先に視線を戻し、息を吹きかけた。アルヴァは自分の顔が熱くなるのを感じ、無意識に身を引いた。
「こらこら、塗っている途中なんだから動くんじゃない」
「す、すまない…」
「まあ、君が何を考えているかはなんとなくわかるがね」
ますます顔が熱くなるのを自覚したアルヴァは、ヘルマンから目を逸らした。
その緑は、君の色じゃないか。わかっていて、これを私に塗りに来たのか。この男は本当に、そういうところがずるい。困ったように下がる眉毛に、ヘルマンは満足そうに笑っている。
「いい色だろう? 君のリボンと同じ色だ」
「…君の、そういうところがきらいだ」
「ははっ! その顔じゃ説得力がないな!」
羞恥心を紛らわすようにヘルマンを睨むが、バッサリと切り捨てられた反論に、ますますアルヴァの眉が下がる。
なぜこの男は、いつもこう自分の心をかき乱すのだろうか。深く考えず手を差し出した自分も悪いかもしれないが、元はと言えばヘルマンがマニキュアなんて持ってこなければこんなことにはならなかったのに。悶々と考えるアルヴァの小指まで、深い緑が色を付けた。
「さあ、できた」
アルヴァの白い指先を彩る緑に目を細めたヘルマンは、自身の親指でその指をするりと撫でた。それに対してさらに顔を赤くしたアルヴァに気を良くしたのか、にんまりと笑った後にアルヴァを見据えたままウィンクをして指先にキスを贈った。
「私はアルヴァがこの色を身につけてくれているのが好きだよ」
「~っ…もう二度とこのリボンはつけてこないからな…」
「天邪鬼だなぁ…それならまた私がこの色を贈るさ!」
消え入りそうな声で反論したアルヴァに、ヘルマンは愉快そうに笑った。
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