とある研究員と天才たちの出会い 俺はしがない研究員。学生時代はそれなりに評価を得ていたが、今は名前を名乗るほどのものでもない。それというのも、俺の同僚には天才がいる。恥ずかしながら、彼らのことはここへ就職してから知った。
誰もが聞いたことのある大学を卒業した、彼らの学生時代の連名の論文は、それは素晴らしかった。発想もさることながら、なによりも着眼点がすごかった。どうしたらこんなことを考えつくのか聞きたい。俺は少しでも知識を吸収しようと、親交を深めるために研究室の扉を叩いた。
「なぜこの私が、君みたいな凡人に時間を割かなきゃいけないんだい? 君と話をするくらいなら、アルヴァと話す方が有意義に決まっているじゃないか」
ぐうの音も出なかった。あんなに素晴らしい論文を読んだ後だと、なおのこと何の反論もできない。学生時代はもてはやされていたが、所詮井の中の蛙。彼らのような本物の前では、俺なんかはただの凡人だ。改めて気づかされた事実だが、正直ショックがとても大きかった。
しかし、それも今となってはいい思い出だ。
赤銅色の髪の天才、ヘルマン・ゼーマンにそう言われた後、どうやってテラスにたどり着いたのかは、全く覚えていない。だがそこで薄鈍色の髪の天才、アルヴァ・ロレンツに出会ったのは、今でもよく覚えている。
「さっきヘルマンの研究室から項垂れた様子で出てきたが、また彼は酷いことを言ったんだろうか? もしそうなら私から謝罪しよう」
ゼーマンがあれだけ傲慢な男だったので、ロレンツもきっとそうなのだろうと思っていた。なのにどうだろう。この上なく申し訳なさそうにこちらを見下ろしている彼には、傲慢さなど微塵も感じない。むしろ、完全に毒気を抜かれてしまった。
そして思ったのだが、なぜ彼のような人が、あのゼーマンと、あんな素晴らしい論文を書き上げられたのか。とても気になる。
「あ、ああ…大丈夫さ。ただ自分の知識の無さに嘆いていたところだ」
「知識が無い? 君の論文を読ませてもらったが、知識の無い者に、あれだけのものが書けるとは思わない。君は自分を過小評価している」
男にこんなことを思うのは失礼かもしれないが、彼は女神なのかもしれない。ゼーマンにあれだけバッサリ切り捨てられた後だからなのか、その言葉は私の中に深く刺さった。
「お、俺の論文を読んでくれたのかっ?」
正直、自分が卒業したのは片田舎の知名度なんてほとんどないような大学だ。情報も他よりも遅く届くせいで、学生時代に彼らのことを知ることはできなかった。
そんな彼が俺の論文を読んでいるだなんて…!
「ああ。研究資料のまとめ方もそうだが、とても丁寧で、それでいてとてもわかりやすかった」
「きっ、君がゼーマンと連名で書いた論文を読ませてもらった! 発想も素晴らしかったが、なにより着眼点に感動した!」
「あれはヘルマンが、」
「なんだ、君、なかなか見る目があるじゃないか」
急に割り込んできた第三者の声。二人して声のした方を見れば、そこには満足そうに笑いながらこちらに歩いてくるゼーマンの姿があった。当たり前のようにロレンツの隣に立つと、声高らかに話し始めた。
「あの論文は我が朋輩の力無くしては完成しなかったものだ!」
「またそうやって君は……」
「謙遜するな。事実だろう?」
恥ずかしそうに眉を下げているが、その顔は照れくさそうだ。きっとこの正反対な二人だからこそ、あれだけ素晴らしいものが書けたのだろう。何となく納得してしまった。
しかし、ロレンツはほとんど表情が動かないと聞いていたが、案外そんなことないじゃないか。いや、ゼーマンの前だからかなのかもしれない。
「まあいい。凡人君、私のところに下らない話をしに来たくらいなんだ、どうせ暇なんだろう?」
「またそんな言い方を…、」
「いいんだ。君達からすると俺なんかは全くの凡人さ」
まるでチェシャ猫のように、にんまり笑ったゼーマンは、近くにあった椅子を引いてドカリと腰を掛けた。
「自分の事を客観的に見れる人間は嫌いじゃない」
「そりゃあ光栄だね」
「さて、凡人君。私は今、気分がいいんだ」
「?」
机に肘をつき、手に顎を乗せている彼が、何を言いたいのかわからなかった。どうすればいいのか。助け舟を求めるつもりでロレンツを見た。すると、彼は無言でゼーマンの向かいの椅子を引いた。しかし、彼が座る様子はない。
なるほど。ここに座るべきは俺か。
意味を理解し、ロレンツから椅子を受け取る。そのやり取りを見ている間も、かの天才はニヤニヤと笑っている。
「君が聞きたがっていたことを話してあげようじゃないか!」
「い、いいのか!?」
「言ったろう? 今は気分がいいんだ」
嬉しさと驚きのままに身を乗り出す俺に対し、ゼーマンは不遜に背もたれに身を預けた。
「さあ、何でも聞いてくれ!」
「そっそれじゃあ! 三十六ページに書かれていた論理についてなんだが!」
「待て待て! 君はそんなに読み込んでいるのか!?」
「あんなに素晴らしい論文なんだ! 当然じゃないか!」
いつの間にか、人数分のコーヒーを持ってきたロレンツが、俺とヘルマンに隣り合う椅子を引いた。美しい所作で座った彼だが、それよりも気になったことがあった。
おかしい。立っているときは高い位置にあった顔が、今は意外と近くにあるじゃないか。
再度悲しい現実を突きつけられたが、そんなことで悲しんでいる暇はない。この天才の気が変わる前に、あの素晴らしい論文について聞かなければ!
相変わらずニヤニヤと笑う天才と、隣でコーヒーを飲んでいる天才に見守られながら、俺は生きてきた中で一番の熱量じゃないかっていう勢いで話し始めた。
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