果物 反響人殺し、異常者が、恥ずかしくないのか、云々云々。
放たれた言葉が、冬の寒さで冷えたコンクリートに反響する。
媚びても無駄だと悟った標的に、最後の力を振り絞るかのように罵倒の限りを尽くされる。これは、特に生捕りの仕事によくあることだった。
仕事を始めてもう何年、良いのか悪いことなのか、流石にそろそろ日常風景と化している。そも人殺し、と言われて傷つく人間や、逆上する人間は殺し屋には向いていない。郵便屋に、手紙運びやがって!と言っているのと大体同じだからだ。
少なくとも、彼らには同じに聞こえていた。
本日の仕事は比較的単純なもので、裏社会に片足を突っ込んだ、ほとんど一般人に属する男を捕らえて情報を吐かせる。そしてある程度吐かせたら消しておく、というものだった。
男は死ぬ覚悟なんてしていなかった。まあそりゃそうだろうな、と檸檬は思う。目先の利益のために大手組織に手を出したとはいえ、命を賭けるほどの金銭が絡んでいたわけでもない。相手が、目障りなものは蟻一匹でもきちんと潰しておこう、というタイプだったのが、運が悪かったとしか言いようがない。
男は博識なようで、罵倒の語彙も豊かだった。すげえな、半分くらいしか何言ってんのか分かんねえ。檸檬の脳裏に、誰かさんの顔が浮かぶ。まあ怒った時のこいつよりは、ましかもしれない。
ちらりと横目で、すぐ隣に立つ誰かさんの様子を窺う。檸檬にはもう充分に思えたが、抹消の合図がまだだった。
蜜柑はその伏し目がちな二重瞼も相まって、川のせせらぎでも聞こえているのかのような表情で男の言葉を聞いていた。そろそろ状況に飽きてきた檸檬が、まだかよ、と声を掛けようとしたところで、ふと、ぴくりと反応し、顔を上げた。お、と次のアクションを待つ。蜜柑は男を一瞥し、一歩前へ出たかと思うと、ぱぁん、と軽い銃声を響かせた。
「良かったのか、殺しちまって」
実は良くなかったと言われても仕方ないが。
「必要な情報は揃った。これ以上は時間の無駄だ」
どこそこから得ていた情報、その経路、それから、と男が吐いたあれこれを読み上げるようにしながら淡々と拳銃を懐にしまう。
「ふうん」
まあ、蜜柑が言うならそうなんだろう。異論があるわけでもなかった。ダウンジャケットに両手を突っ込む。冷え込む前に、今からもう一仕事だ。
「消せ、消せって二文字で、簡単に言ってくれるよな」
「そうだな」
命は簡単に消えるが、人間というのは簡単には消せない。無情にも、消える本人が考えるよりは難しいことではないのだが、裏ではある程度の作業が必要になる。
「俺たちは魔法使いじゃねえんだ」
「違いない」
男だったものを埋めて仕事を終えた後、今更な愚痴を言い合いながら山を降りた。
乗ってきた車を横切って、街に入る。遠出したので今日はホテル泊まりだ。
まだ日の入りが早い時期、すっかり暗くなってしまった空の下を歩く。ぽつぽつと歩を進めながら、相棒の表情を横目で伺う。今朝の男が何かを言ってから、蜜柑の挙動が若干不審なことに檸檬は気が付いていた。ちょうど聞き流していたこともあって、何が、どう蜜柑の心の弦に触れたのかは分からない。
ホテルのエレベーターに乗り込むと、蜜柑は左手で片耳を塞ぎ、顔を顰めた後、忌々しそうに舌打ちをした。
不意打ちで掘り返された苦々しい思い出に、舌打ちをしたくなることは檸檬にも覚えのある感覚で、他人にどうにか出来るものでもないと分かっていた。分かっていたので、何を言うでもなく隣を歩く。歩幅をわざわざ合わせなくても、似た身長に似た速度で歩けば自然と隣同士になった。
今日の宿、一つの部屋の扉を開ける。予約などしていなかったので、一件目で空き部屋があったのはラッキーだ。
「お、なかなかいい部屋じゃねえか」
「動き回る前に上着を脱げ」
わかったわかった、と返し備え付けの水を探して歩き回る。檸檬は冬でも水分をしっかり摂る方だ。水が見当たらないので冷蔵庫に入っているのだろうと予想するが、その冷蔵庫が見当たらない。
「蜜柑、冷蔵庫どこだ」
振り返ると、コートをハンガーに掛けていた蜜柑と目が合った。数秒、凝視され身構える。何だ、めちゃくちゃ見られてる。
もしかして、すげえやばい?そうっとダウンジャケットのファスナーに手を伸ばしたところで、蜜柑が動いた。コートをクローゼットにしまい、何かを吹っ切った表情で「よし」と檸檬に身体を向けた。
「よし、抱け」
「え、何をだ」
唐突な言葉に少なからず面食らって、分かり切ったことを聞いてしまう。
「俺を」
そりゃそうだ。
「決まってるだろ」
いや、そりゃそう、なのだろうか。
たとえ奥深くに埋めたはずの記憶であっても、ふとした通りすがりの、たかが一般通過の、言葉、動作、景色に簡単に掘り返されてしまう。
大昔に放たれた言葉が今さら鼓膜に響いて、とっくに処理したはずの感情が湧き上がるのが煩わしかった。
忘れたはずの声が言葉が耳の奥でこだまする。記憶というのは声から失われるらしいが、本当なのだろうか。そんなどうでもいいことを考えて、気を逸らす。
「蜜柑」
名を呼ばれて、思い付いた。
この声で上書きしてしまえばいいんじゃないか。そうだ、思考全部こいつで埋めて仕舞えば良い、そうすれば。
これは名案だと思った。善は急げ。思いついたが吉日。布団で耳を塞いでいて何になる。本当の自由は待っていても手に入らないと、自分は知っている、はずだ。
「気は確かかよ」
「至って確かだ」
答えたが、後で思うとあまり確かでなかったかもしれない。
蜜柑はよしこい、と構えたが、檸檬は唇を尖らせた。ベッドに腰掛け、檸檬を見上げる形になる。
「蜜柑、おまえはよ、上の時は『俺が上な』って言うじゃねえか」
そうだな、と認める。
「それなのに、下の時も『俺が下な』って言うわけだ」
言ってないが、まあ言っていると言って差し支えはない。
「で、俺が『いいぜ』って言う」
仕方ねえなあ、と蜜柑を許す声は記憶に新しい。
「なんか、ずるくねえか?」
なんか、とはまた抽象的だが、言わんとすることは分かった。要するに、情事で主導権握ってねえと死ぬのかおまえは、と言いたいのだろう。
蜜柑としては、日頃自分が譲歩することが多いのだしこんなときくらい、という気持ちが無いでもなく、公私混同、と指摘する内なる声を無視している自覚も、なきにしもあらずであった。
ここぞと先日の出来事を引っ張り出す。
「この間、おまえが『なあ、今日は俺が上でいいか。いいだろ、なっ?』って言った時は、俺が『いいぞ』って言って、譲ったぞ」
譲ったというより、流されたと言った方が近かった気がするが、そこには目を瞑る。解釈によっては譲ったと言っても良いだろう。
檸檬は、そんなことあったかよ、というように斜め上方向に視線を向けていたが、思い当たるものがあったようで、きゅっと口を噤んだ。
ほらな、と無言で訴える。こちらも今更引けない。
お互い軽く睨み合ったが、ふっと檸檬が肩の力を抜いた。
「仕方ねえなあ」
始まりの合図のように、蜜柑の首元に唇を落とす。ぞわぞわと身体の芯が痺れた。
「俺は、おまえのその言い方もずるいと思うんだが」
「え、なんだよ。何か言ったか?」
「言ってない」
黙ってから、この状況に至った目的を思い出した。
「なあ、檸檬」
「なんだよ、蜜柑」
記憶は声から失うとしても、人の最期まで残るのは聴覚らしい。
じゃあたぶん、大丈夫だろうと、少し溶け始めた頭で思った。