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    なすずみ

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    なすずみ

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    ラブコメにならなかった夏の不穏 未来の話か過去の話か

    ##果物

    混濁するサマー「心臓の音が煩い。身体が熱くて、痛くて、ぞわぞわとする。これが恋というやつか」
    「それは風邪だよ。しばらく安静にしな」

    風邪を引いた。
    情報の礼を言うため掛けた電話で近況を聞かれたので、報告したところDr.桃の診断が下った。
    「心配しなくても、良い仕事があれば教えてあげるから。檸檬だってこの前の怪我、まだ治りきってないだろ?いい機会だと思ってゆっくりしなよ。売れっ子もたまには休まなきゃね」
    お大事にね、という言葉を残して通話は切れ、蜜柑は通話終了画面を呆然と眺めた。
    左手では、アイスだったものがビニール袋の中で乳白色の液体に変わっている。
    「蜜柑、バニラバー持ったまま何してんだよ?」
    居間から自分を呼ぶ声が聞こえる。ツー、ツー、と断続音が静かに響く。確かに、少し頭が回っていないかもしれない。

    エアコンが、ガガガガ、と不穏な音を鳴らしながら、一生懸命に冷気を吐き出している。なんだかんだ壊れないものだな、と思いながら季節を数個見送ったが、いよいよ寿命かもしれない。今だけは壊れてくれるなよ、と吹出口を睨む。
    風邪と言われても体調を崩す心当たりなどないが、寝不足に不摂生が続く中、雨で身体を冷やしたのは、いけなかったのかもしれない。
    大人しくベッドに横になりながら、寝台脇に置かれたテレビを見つめる檸檬に目を向ける。柔らかに風を送る扇風機が、相変わらずあちこちに跳ねた髪をさらさらと揺らしていた。手元を見ないまま、器用にナイフを動かしている。
    「檸檬、しばらく夏休みだ」
    「本気かよ?やったな」
    喉が掠れて、この声で桃にばれたのかもしれない、と今更思い当たった。相手が桃とはいえ、体調不良を他人に勘付かれるのは、あまりよろしくない。注意力の低下を自覚する。
    檸檬の手の中でちらちら動く赤を、ぼんやり視界の端に捉える。洗剤のCMを見送って、よし、と檸檬が腰を上げた。そのままベッドまで歩み寄る。
    「りんご剥いてやったぞ。うさぎだぜ、うさぎ。分かるか?可愛いだろ。食って終わりなのにな。ほら、この赤い皮の部分が、耳ってわけだ。でもそういや、うさぎって大体白いよな。蜜柑おまえ、耳の赤いうさぎ、見たことあるか?」
    ガラスの器を蜜柑の眼前に突き出しながら、もう片方の手でうさぎを模したりんごを摘む。水が滴る。今から人に食わせるものを摘むなと言いたい。檸檬の人差し指と親指に挟まれたりんごうさぎは、ゆっくり持ち上げられてゆき、檸檬の口に収まった。
    「おっ、美味え」
    「おまえが先に食うのか」
    「おまえが食わねえから」
    早く食えよな、と蜜柑に器を押し付ける、その右腕には包帯が巻かれている。先日、仕事中に負った怪我だ。倒壊する建物から脱出する最中に木の柱がぶつかり、幸い骨には影響がなかったが『木は殺気がねえから困るよな。なんだよその顔、俺の不注意だって言いたいのかよ。あのな、柱が倒れてくるなんて誰が予想できるんだ?建築家か?おまえ、建築家がそう言ってるの、聞いたのかよ』という檸檬の言い訳を聞き流すのに、苦労した。
    確かに檸檬は注意力散漫だが、檸檬の身体能力からすれば避けられない事故ではなかった。そういえば暑さと、仕事続きだった。ぼんやりとした頭で掘り起こした記憶を辿る。しゃくしゃく、檸檬がりんごを齧る音に気が逸れて、そのまま思考を投げる。とりあえず夏休みは、長めに取ろう。
    小さく息を吐いて、熱を体外に逃した。食欲は無いが全部食われるのも癪なので、うさぎりんごに手を伸ばす。頭から齧ると果汁が滲んだ。
    「美味いだろ」
    檸檬が得意げに口角を上げる。
    「味は分からないが、食感は悪くない」
    「すげえ甘いぜ」
    「そうか。待て、布団に器を置くな」
    「食うだろ?」
    「布団に器を置くな」
    細けえ奴だな、とぶくつさ言いながら下げられていく器を眺める。
    熱を持った身体の節々が痛む。風邪自体久しぶりなのに、夏風邪なんて記憶になかった。嵐が過ぎるのを待つように、じっと静かに息を顰めておく以外にできることが思い当たらない。怪我をしたときの発熱と同じで、無理矢理にでも眠ればいいのかもしれないが、蜜柑はあまり眠るのが得意でなかった。夜中でも目が冴えるのに、まだ太陽が沈み切らない内に寝るなんて不可能と言って良いし、気も進まない。とはいえ読書をしようにも、身体が重く、手に力が入らない。
    「八方塞がりだな」
    蜜柑の呟きを拾った檸檬が振り返る。
    「なんだ?ハロルドがどうしたって?」
    「全く言ってない」
    「ハロルドはヘリコプターだぜ。港近くで働いててな」
    「聞いてない。なんでヘリコプターがいるんだ」
    「パトロールしてくれてるんだよ。ちょっとキザだけど、いい奴なんだよな」
    テレビでまた、洗剤のCMが流れている。それを横目に、檸檬がペットボトルの蓋を開けて、ごくんと水を嚥下する。人工光を反射して、傾いた水面がきらきらと目を突いた。飲み物の冷たさが恋しくなる。
    「檸檬、水」
    「俺は水じゃねえぞ」
    「俺は風邪を引いたらしい」
    「見りゃわかる」
    「熱い」
    「だからバニラアイス食えって言ったのに、開けもせずふらふら廊下行くんだからな。知ってるか、馬鹿は風邪に気が付かないらしいぜ」
    「なんだと、喧嘩を売っているのか」
    売ってねえよ、と肩を竦められる。腰を浮かせたので冷蔵庫まで水を取りに行くかと思えば、手に持ったペットボトルをそのまま渡された。横着するな、と言う気力もなく腕を伸ばす。
    ひやり、手に伝わる温度がほんの一瞬、心地よい。
    受け取ってから、水を飲むには身体を起こさなくてはいけないと気がついた。少し頭を持ち上げてみるが、面倒になって枕に戻してしまう。気力という気力が、蒸発しているのを感じた。にわかに部屋の湿度が上がって、全身をじっとりと押さえつけられているような気分になる。やはり風邪はろくでもない。健康管理を怠った己を恨む。


    側から様子を見ていた檸檬は、おいおい、と声を上げた。
    「おい蜜柑、水分」
    「俺は水分じゃない」
    「人もミカンも大体水分だろ。じゃなくて、水飲めよ」
    「もう良い」
    「良くはねえんだよな」
    ベッドに沈む蜜柑を前に、檸檬はどうしたもんかな、と頭を搔く。
    以前混入物があったとかで、ふだん蜜柑はペットボトルの飲み物をあまり好まない。毒でも入っていたのかと聞くと、眉根を寄せて「多分」と珍しく曖昧な答えを寄越した。
    そんな記憶を頭の片隅に、片割れの養分まで肩代わりするように、りんごを咀嚼して水を飲む。
    先ほど蜜柑が自らりんごを食べたので、よし、となんとなく安堵したのも束の間、次は水も飲みたくないらしい。
    「せっかく渡してやったのになあ」
    「どうもありがとう」
    「脱水症になるぜ」
    「喉が渇いてない。それより、身体が怠い」
    「渇いてないわけあるかよ。水分補給を舐めてやがる。しっかり飯を食って水を摂らねえとな、死んじまうぜ」
    「俺はそう簡単には死なない」
    言いながら、蜜柑は呼吸するのも億劫そうに、ゆっくりと目を瞬かせる。それを見て「あ、おい」と静止の言葉が口を衝いて出てしまう。
    「おまえが俺より先に寝たら、駄目だろ」
    「なんだ、それは」
    「いや、なんとなく」
    ほんの小さく、心がざわめく。
    「こっちは病人だ。それに心配しなくても、どうせおまえの方が先に寝る」
    「いや、病人ならおまえが先に寝ろよ」
    「なんなんだ、おまえは」
    蜜柑は怪訝そうに眉を顰めた。そんな顔をされても、檸檬だってなんなのか分からない。ただ、なんとなく浮き足立って、そわそわとしてしまう。
    「おまえが飲まないなら、残りも俺が飲む」
    落ち着かない、この妙な心地を洗い流して、頭をすっきりさせたい。水を取り返して、一息に飲み干した。
    ガタガタと鳴る、エアコンの音が耳を刺す。
    視線を彷徨わせた先、扇風機がくるくる回っている。ぐるぐる、思考を掻き回されるような気分になる。目が回りそうになってスイッチを切った。
    先日寝違えた首が痛い。


    かちり、ボタンを押下した音とともに扇風機の羽が徐々に回転速度を下げ、ぴたりと止まった。
    蜜柑から奪還したペットボトルを握りしめて、檸檬がふっと息をついたのを、耳が拾う。
    蜜柑はそっと目を細めた。落ち着きがないのはいつものことだが、どうにも態度が妙な気がする。
    檸檬の表情を伺おうと少し顔を傾ける。それだけで頭が、脳が、ぐらぐらと揺れる感覚があった。せっかく大人しくしているのに、全く回復が見られない。苛々してしまいそうだ。焦点を合わせるのも億劫になる。
    檸檬が腰を上げるのを視界に捉えると、目の霞みが酷くなった。
    ゆらゆら、ゆらゆら、景色が揺らぎ、滲む。
    「血」
    「え?」
    舌が勝手に言葉を紡いだ。
    「檸檬、血が、にじんでいる」
    どこだよ、と檸檬が右腕の包帯を確認する。そこじゃなくて、頭の──
    「蜜柑?」
    はっと我に返る。
    檸檬は困惑の色を浮かべた後、蜜柑を認めて焦ったような声を出した。
    「うわ、氷持ってきてやるよ」
    熱い。熱が上がってきたらしい。
    瞬きをした拍子に、ぽろぽろと涙が零れた。
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