問題と便乗「やべえな」
「そうだな」
「どうしたんだよ、これ」
「一言でいえば、火が通り過ぎた」
「俺なら四文字で言えるぜ。焦がした、な」
蜜柑宅のキッチンにて、檸檬は真っ黒な塊と対峙していた。その正体はホットケーキである。
やわらかな薄黄色とこげ茶色のふわふわした食べ物になるはずだったモノは、どこで道を間違えたか真っ黒でかちかちした塊に成り果てていた。
檸檬は、すん、と鼻を動かす。
「焦げ臭えな、換気扇付けてんのかよ」
「さっき付けた」
「焼く前に付けろって」
そんなこと書いてなかったぞ、と蜜柑が不服そうな顔をする。『まずは換気扇を回して』から始まる調理手順書など存在しないだろう。あるとすればそれを書いた者は、料理ができない人間が身近にいるに違いない。
檸檬は今日、仕事の打ち合わせのために蜜柑の家を訪れていた。昼の3時、約束の時間ぴったりに到着し、インターホンを押す。数秒後ドアを開けた蜜柑は「入れ。上がれ。鍵は閉めろよ」と言い置いてさっさとリビングに引っ込んだ。いつも通りである。異変に気がついたのはリビングに入った瞬間だ。炭のにおいがつんと鼻を刺激した。
咄嗟に、刺激臭の元を探す。キッチンに蜜柑が立っているのが目に入った。
「檸檬、昼飯は食ったか」
そう聞かれて、冒頭に至る。
「で、どうすりゃいいんだよ、これ」
「食うか」
「食わねえよ」
3時のおやつにはぴったりの時間だが、檸檬にその習慣はなく、あったとしても炭は食べたくない。
蜜柑は憂うように目を伏せる。
「捨てようかと思ったんだが」
「食べ物は粗末にしちゃいけないんだぜ」
「これは、食べ物なのか」
微妙なところだった。通常、多少焦げていたとしても、炭になってしまった部分を削れば食べられる。生焼けの食べ物よりよほど良かった。あれは腹を壊すのだ。
「食ってみて、食えたら食べ物ってところかな」と檸檬は答える。
「鳥にでも食わせるか」
「鳥だってお断りに決まってるだろ。パンくずじゃねえんだぞ」
檸檬も時々はフライパンで卵を焦がしてしまったりするが、気にせず食べるのが常だ。炭に至ってしまったホットケーキの、適切な活用方法などは知らない。
「もしかしたら、表面だけ焦げてるのかもしれねえし。非常食としてしばらく冷蔵庫に置いとけばいいんじゃねえか。そんで、続き作れよ。生地余ってるだろ」
問題の先送りとも言えるが、そう提案してみる。
「なるほど、そうだな」
軽く頷きながら、蜜柑はホットケーキのパッケージを裏返して眺めた。
「時間は守ったはずなんだがな」
「本当か?おまえのことだ、どうせ強火で一気に焼こうとしたんじゃねえのかよ。蜜柑、おまえはカップラーメンを開けるのも、いつもちょっと早いんだよ。3分って蓋に書いてあるのが見えねえのか」
「かやくを後から入れたり、液体スープを先に入れたりするおまえに、言われたくない」
*
「やべえな」
「そうだな」
「それで、何だよ?服でも持ってこいって?先に言えよな」
「今回は汚してない」
檸檬は、改めて蜜柑の姿を確認する。黒い服で分かりにくいが、確かに血の汚れは見当たらない。手には、書店名が印刷されたこれまた黒い袋を持っていた。
蜜柑から少し離れたところには、男が一人転がっている。血がコンクリートに広がっていた。うつ伏せになっているため確認はできないが、おそらく銃創がついているのだろう。
「業者か?」
「たぶんな」
蜜柑は瞼を伏せる。
いつも通り仕事を終えた午後である。檸檬がホテルでベッドに寝転がり、テレビで昼の情報番組を眺めていると、小机に置いた携帯に着信があった。見れば、書店へと出掛けた蜜柑からだ。午前の仕事は、とある要人の秘書から情報を盗み出せというもので、こそこそしていて面倒ではあるが比較的静かに終わった仕事だった。既に県を跨いで距離を取ってあるし、まさかこんな早く情報を盗られたと気づきはしまい。別件だろうと予想しつつ、それはそれで面倒そうだと少々警戒する。ベッドに腰掛け、CMに気を散らしながら着信ボタンを押すと慣れた蜜柑の声がした。
『檸檬か』
「よう、本は買えたのか」
『本は買えたが、喧嘩も買った』
「おいおい、無駄遣いすんなよ」
『セール中だったらしい。さっき通ったコンビニの2区画先、廃ビル一階だ。来れるか』
「行けるけどよお」
仕事が終わった後に、仕舞った拳銃を荷物から引っ張り出すのはいつだって気が進まない。帰りにコンビニでアイスでも奢られようと決めて、腰を上げる。
「襲われたから返り討ちにしましたと。流石じゃねえか。せっかく銃、持ってきたのによ。俺、来る意味あったか?」
到着した時には既に、その業者らしい男は床に転がっていた。見たところ相手は一人だけで、蜜柑の手に余るとも思えない。電話をしたときには既に片が付いていた可能性が高い。
「つうか、おまえの客じゃねえか。後片付けまでちゃんとおまえがしてやれよ。掃除屋呼んで終わりだろ」
「一応、同業者だ。同じ業界の人間を呼びたくない。自然に見つかるならともかく。それにこいつは『双子の殺し屋の、檸檬はおまえか』と言ったぞ」
「げえ」
余計なことを言いやがって、と地に伏している男を睨む。
「俺を探してたとは限らねえ。元々俺が蜜柑でおまえが檸檬だと思ってた可能性もある」
「どうだかな」
がさり、とおそらくは本が入っている袋を持ち上げ、男を指す。
「とにかく、こいつを埋めなきゃならない」
「面倒くせえよ、こいつから絡んできたんだろ?いいじゃねえか、放っておこうぜ」
「いいわけない」
「なんでだよ。いつもと同じだ、ここから出れば俺たちとは関係ねえことだ」
「そうか」
蜜柑は少し考えるように首を傾げ、確かめるようにもう一度、そうか、と呟いた。
「なら、このまま戻ろう」
くるりと踵を返す。
あ、本当に行くのか、と言いかけて言葉を引っ込める。蜜柑が納得したならそれでいい。まだ夏の暑さが残っているのだ、穴掘りの作業は出来るだけ避けたい。
「鳥にでも食わせるか」
「それは鳥だってお断りだろ」
最近似た会話をしたな、と記憶に引っかかる。
「喜ぶ鳥もいるかもしれない」
「おまえの読む本にそういう鳥が出てくるのか?まあいいや、それよかコンビニ寄ろうぜ」
「何か買うのか」
「アイス食いてえ。宿題やらずに食うアイスは美味いからな」
「宿題は知らないが、財布は」
「おまえのがあるからいいだろ」
蜜柑はなにか言いたげに眉を顰めたが、結局黙って歩を進める。
革靴を鳴らして廃ビルから出ると、夕日が街を黄色とオレンジ色に染めていた。
檸檬はふと思い出して口を開く。
「なあ、そういやこの前のホットケーキどうなった?」
「まだ冷蔵庫だ」
「冷凍庫入れると日持ちするらしいぜ。さっきテレビでやってたんだ。作り置きはラップに包んで冷凍しておきましょう、ってな」
「なるほど。帰ったらそうする」