なんでもない一日ピピッ、というアラームの最初の音で瞼をこじ開ける。体温が残る布団に一瞬全身を呑まれかけたものの、渾身の力で布団から抜け出しカーテンを開ければ、薄紫に少し桃色を混ぜたような空が見えた。
「ん……」
思い切り伸びをして、欠伸をひとつ。既に明かりの点っているリビングの扉を開ければ、シャッキリと背筋を伸ばした母が「あら、おはよう」と軽快な声で挨拶をしてきた。
「おは……ふぁ……」
「こんなに早く起きなくても学校には間に合うでしょう?」
寝ぼけ眼を擦る息子をどこか面白がる口調でいいながら、炊飯器の蓋を開けると、ほかほかと湯気が立ちのぼる。人数分の茶碗を出す母親を横目に洗面所へ向かえば、どんよりとした顔が見つめ返してきた。
目を覚ますべくバシャバシャと少し豪快なくらいに水を顔にあびせかけていると、「飛ばすなよ」と声がした。後ろを振り返ると、どうやら順番待ちしていたらしい父がいて、思わず苦笑いしてしまう。
「おはよう。ん、今変わる」
「あんまり無茶はするんじゃないぞ」
「無茶はしていないから大丈夫。それより、早く行かないと間に合わないな…」
全くお前は、とか何とかという父の声は聞かなかったフリをして、手早く制服に着替えて食卓へ戻る。既に上には三人分のご飯が並んでいて、母が最後に冷たい麦茶のグラスを隣に置いてくれたところだった。
「いただきます」
一気に掻き込まないよう、だけど手と口の動く限り早く、栄養バランスの整った食事を咀嚼していく。温かい味噌汁が、まだ寒い春の朝に優しい。
「そんなに急いで食べると胃に悪いのに…」
母の声に、ごくんと口の中のものを飲み込んで大丈夫だと笑って見せれば、母はそれ以上何も言わずに向かいに座って食事を取り始めた。
少し遅れて準備を進めていた父がようやく食卓についた頃には、もう既に緑色のネクタイを締めた姿が鞄を持ったところだった。
「もう行くのか」
「最近はずっとあの調子よねえ…張り切りすぎてまた体調を崩さないといいんだけど」
食事の手を止め、母が玄関へと息子を見送る。幾分か低い母の頭を見つめながら、すっかり目を覚ました彼は大きな声でリビングにいる父にも聞こえるように挨拶をした。
「いってきます!!」
「いってらっしゃい、千秋。気をつけてね」
その言葉に千秋はニコリと笑って頷くと、薄桃色に染まった少し明るい朝の町へと踏み出して行った。
いくら八百屋の朝が早いと言えども、この時間にはまだシャッターは空いていない。それでも千秋は躊躇うことなく、シンと静まり返った商店街に反響するような声で『八百屋 高峯』の看板に向かって叫んだ。
「高峯ー!!おはようございまーーーす!!」
反応はない。試しに住居となっているであろう2階を見たが、窓から顔が突き出すとか、上からものが降ってくるといったことは無かった。
「高峯?寝てるのかー?今日は朝練の日だぞ!!おーい、高峯くーん!!『八百屋 高峯』の高峯翠くん!!俺と一緒に学校に―」
と、暖簾を掻き分けて長身がゆらりと現れた。髪は少し乱れていて、ネクタイも曲がっている。あからさまに不機嫌な翡翠が千秋を睨めつけてきた。
「おお!おはよう、高峯。今日はきちんと起きていた上に着替えていて偉いぞ!!うん!」
「……っす」
「どうした、元気がないぞ!ほら、太陽に向かってもう一度、大きな声で…おはようございまーす!!」
ワンワンと反響する千秋の大声に、翠は本気で嫌そうな顔をしている。
「うるっさ…ほんと毎回近所迷惑になるからやめてくれませんか…大体なんであんたは毎日こんな朝っぱらから……うう、もう少し寝てても余裕で間に合うのに…鬱だ、死にたい…」
「それは当然、朝練があるからだ!今日は流星隊のレッスンもあるから、一日中一緒だな!」
「気持ち悪っ……」
どこか軽蔑すら感じられそうな冷たい目に満面の笑みを返すと、呆れたようなため息が降ってきた。「この馬鹿野郎」とでも言いたげな顔で千秋を見ている。千秋はそんな翠を見上げると、パッと手を掴んだ。
「ひゃっ?!」
「ここで話していても時間がもったいない。せっかくだから、学校まで走っていこうじゃないか!身体も温まるし一石二鳥だな!!」
「えっ?!あっ、ちょっ……!!あぶなっ、いきなり走るな馬鹿……!!」
早朝の商店街に、バタバタと二人分の足音が響く。掴んでいる翠の手は、千秋よりも少し冷たかった。それでも、それが段々と温かくなっていく感覚に、翠もきちんと付いてきてくれていることがわかる。
空が気づけばすっかり青色に変わって、そうすると見慣れた正門が見えてきて二人は立ち止まった。
「はあっ、はあっ……朝っぱらから、走るとか、最悪…」
「いい準備運動になっただろう?さあ、行くぞ!」
「はあ?!まだ走るんすか?正気じゃない、この人……」
そんな愚痴を聞きながら、しかし後ろにはしっかりと聞こえる足音がなんだか無性に嬉しくて、千秋は先程よりも一歩大きく歩幅を踏み出した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「タカミン、今だっ!!」
「え~…衣更先輩、パス……」
「お、俺?!」
ポイ、と放るような緩い曲線を描いた軌道を、パッと遮るかのように影が通る。次の瞬間には、タンっ、と乾いた音が体育館に反響した。
「高峯、パスが甘すぎるぞ!」
タン、タン、とボールが弾んでは千秋の手の中に収まる。横ではスバルが「もータカミン~!!」と悔しそうに地団駄を踏んでいた。
「仕方ないでしょ、バスケなんてわかんないし…」
「いやいや、いくらルールに詳しくなくても、相手にボールを取られたらダメだということはわかるだろう?」
「だってめんどくさい…」
せっかくバスケ向きの体格をしているというのに実にもったいないと、面倒臭いの一言を聞く度に思う。
「いや、わかるよ!ち~ちゃん先輩の面倒くささってほんっとにウザイよね!」
「明星?!さっきまで高峯にあれこれと言っていなかったか…?!」
「えーなんのことー?知らなーい。サリーも知らないよね?」
「だから…都合が悪くなったら俺に投げるなよな~?」
投げてないよ。ね?そんなわけないだろ。じゃれつき始めた2年生たちに、いつ声をかけようかと考えていると、翠がふらりと輪から外れていく。そのまま見守っていると、一人コートの隅へ歩いていって水を煽っていた。なんだかそれだけで一流雑誌の表紙を飾れそうな美しさに、千秋は思わずじっと見入ってしまう。
「守沢先輩?どうしたんですか?」
「ん?ああ、いや。ほら、高峯も勝手に休憩せずにこっちへ来い!」
「えー…この人でなし、部員に強制的な運動を強いるブラック部活……」
「まだまだ高峯も元気だろう!さあ、今度は俺一人が攻めるから、三人でディフェンスをしてくれ。これが終わったら、今日は早めに切り上げるからな」
そう言ってボールを手に取ると、翠は渋々と言った様子でコートに立った。
「いくぞ…!」
途端に、スバルが踊るように千秋に向かってやってきた。猫のように気まぐれで変則的なそれに気を取られていると、スっとボールが抜けていく感覚に襲われる。慌てて手首を捏ね、ボールに触れる位置を調整しながら振り向けば、真緒が悔しそうに笑っていた。
「やっぱ手強いっすね、守沢先輩は」
「ち~ちゃん先輩、無駄に強いからなぁ…」
「無駄にとはなんだ!!俺はしっかり強い!油断するなよ」
その様子を翠はぼんやりとゴール前で見つめていたが、2年生のふたりが同時に翠を呼んだことで我に返った。
「高峯!!」「タカミン!!」
見れば、千秋が猛然とドリブルをしながらこちらへ向かってくるところだった。腰を低く落とし、ものすごい勢いで突っ込んでくる。
「ひゃあっ?!!」
「高峯、腕、腕上げろ!」
「そうだそうだ!ち~ちゃん先輩のシュートを弾いちゃえ!」
「えっ、えっ…?!」
言われるがまま腕をあげれば、絶え間なく続いていた音が一瞬不自然にリズムを刻んだ。
「なるほど、確かに高峯の身長ならば…」
腰を落とした千秋が翠を見上げる。その顔を朝日が照らして、滲む汗を浮かび上がらせる。翠はいたたまれなくなって目を逸らした。このまま目線を合わせていたら、なんだか気まずいような、恥ずかしいような気持ちになりそうだったのだ。
その一瞬の隙が、勝敗を決めた。
翠の脇を、千秋がするりと抜けていく。コートの線上ギリギリで身体を捻って方向を変えると、そのままゴール下を抜けて翠とは反対の方向からシュートを決めた。パサリという軽い音と、千秋が着地を決めてシューズと床のこすれる音がして、あとは沈黙が満ちる。
「あー!シュート決められちゃった」
「惜しかったな、高峯」
「うん!俺もそう思うぞ。ナイスディフェンスだ、高峯。さすがに少し怯んでしまった」
やはりどこか気だるげな顔をしていた翠だったが、ナイスディフェンス、という言葉に微かに口元が綻ぶのを千秋は見逃さない。しかし、すぐにそれは引っ込められて、代わりに尖った唇から「疲れた…」という後ろ向きな言葉が飛び出す。
「皆お疲れ様!今日の朝練はこれで終わりだ。よし、解散!」
去っていくバスケ部部員の後を追いかけるように、体育館に真っ直ぐ伸びた朝の陽の光が、磨き抜かれた床を照らした。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
蜜色の光が人気のない射し込む頃、別の場所では蛍光灯の灯りが五人を照らしていた。
「ようし!流星隊のレッスンを始める!まずは点呼からいくぞ。ブルー!」
「はあい…♪」
ふわり、と宙に浮くような声がそれに応えた。心做しか、その髪は少し湿っているように思える。
「ブラック!」
「押忍!」
「イエロー!」
「はっ、はいでござる……!!」
凛とした声と、緊張で微かに震える声音がそれに続いた。まだ少しは恥じらいはあるが、それでも最初と比べれば随分と成長をしたと思う。まだ若い彼らの成長は本当に目を見張る速さだ。早くステージに立つ日が楽しみでならない。ただし、ステージに立つまでにはまだいくつかの壁がある。
「グリーン!」
「……」
「グリーン!!」
「……ん」
そう、点呼から既に「帰りたい」という意志を隠そうともしない彼。流星グリーン、高峯翠。部活でもあまり積極性は見られないが、こと流星隊の活動において翠は本当に消極的だった。自分から何かをすることはほとんど無く、覚えるようにと言ってきた歌詞や名乗り口上もなかなか覚えてくることがない。ポテンシャルは存分にあるし、やればできる子だと言うのはわかっているからこそ、どうやって翠の力を伸ばしていこうかと言うのが目下悩みの種だった。
「よし、全員揃っているな。5人でのレッスンは久々だから楽しみだな!」
うん、うんと頷き、基礎的な柔軟と発声を行う。その間も、翠から目を離すことは無い。やはり翠は沈んだ顔でメニューをこなしている。柔軟は硬すぎるほど硬いし、発声練習では恥ずかしがり屋なイエローよりも声が出ていない始末だ。本当に勿体ないと思う。きちんと磨きあげれば、翠は素晴らしいアイドルとして花開くことができるだろうに。
「いい調子だ!発声もした所で名乗り口上いくぞ。まずは俺からだ!赤い炎は正義の証!真っ赤に燃える生命の太陽!流星レッド、守沢千秋!」
「あおいほのおは、しんぴのあかし!あおいうみからやってきた~!りゅうせいぶるう、しんかいかなた!」
上級生の二人が終わってしまうと、残された三人には探るような空気が生まれた。その沈黙を破ったのは、湧き上がる様な力強い声。
「黒い炎は努力の証!泥で汚れた燃える闘魂!流星ブラック、南雲鉄虎!」
「おお……!!南雲…!」
その自主性につられたかのように、一生懸命に張り上がる声が続く。
「き、黄色い炎は希望の証!闇に差し込む…ひ、一筋の奇跡!流星イエロー、仙石忍…!」
「おおおっ……!!」
千秋は感動を禁じ得なかった。今までで一番上出来の名乗り口上だったのだ。最初は中々言いたがらず、拒まれてばかりだったこの口上が、少しずつ二人にとって馴染んできたことが嬉しかった。しかし、やはりそれも流星グリーンで途切れてしまう。
「俺も言わなきゃダメですか…?はあ……緑の炎は慈愛の証……で、えーっと…何でしたっけ…」
「『無限に育つ大自然』だぞ」
「ああ、んー……」
翠は口を開けたり閉じたりしていたが、やがて力なく首を振った。「無理っすよ…」と弱々しいつぶやきが聞こえる。
(どうしたものか……)
ここで止まっていては、練習にならない。少し考えた末、千秋は奏汰に声をかけた。
「ブルー、ブラックとイエローを頼む。音源に合わせて基本的な振り付けを一緒に覚えて言って欲しいんだ」
「はい。がんばりますね。てとら、しのぶ、いきましょう~♪」
部屋の反対側に歩いていった三人を見送り、千秋は翠に向き直る。翠は拗ねたように顔を伏せ、千秋を見ようとしない。
「高峯」
「なんすか」
「名乗りはやっぱりはずかしいか?」
「そりゃはずかしいですよ。っていうか、南雲くんも仙石くんもよくあんなの覚えたよね…俺には絶対できない……」
「そんな事ないぞ。確かに最初は恥ずかしいかもしれないが、数をこなせば絶対に慣れる。俺たちは最初の名乗りから、観に来てくれた人を俺たちの世界観に引きづり込む強みを持っているんだ。そこが弱ければ肩透かしだ。観客も一緒に盛り上がれない」
「だから…そんなの俺には……」
「いいや、できる。俺は高峯のことを信じてるぞ。やればできる子だと」
「……」
翠は何も言わずに千秋を睨んだが、その瞳には幾分か自信の無さが現れていた。自分はここにいるべきでは無いのだと、全身で訴えている。
「じゃあ、こうしよう。高峯が名乗りやすいように、口上を変えてみるんだ」
「え……?」
「少しでも、高峯の恥ずかしさや緊張が薄れるようにして、お客さんたちに名前を覚えて貰えるようにするんだ。ゆっくりでいいから、俺は流星グリーンだ、っていう気持ちを持ってもらいたい」
「だから俺は……」
「高峯」
千秋が真剣な声で言うものだから、翠は思わず口を噤んだ。その瞳は弱々しい自分を映して、強く光っているように見えた。だが、その厳しい光は瞬きをすると柔和に弧を描いていた。
「一緒に頑張ろう」
優しく背中に触れたその手に促されるように、気づけば翠は頷いていた。自分がまたとんでもない了承をしてしまったんだと気づいたのは、千秋が破顔した後だった。
「ようしよし!嬉しいなあ、高峯がようやくやる気になってくれた…!」
違いますよ、なんてその笑顔を見たら言えなくて、翠は小さくため息をついた。隣に座った千秋は、早速翠に話しかけてくる。
「突然だが、高峯が癒されるのはどんな時だ?」
「はぇ……?」
「ほら、高峯は流星グリーン、『慈愛』の役割だ。だから、高峯自身が癒されるな、幸せだなと思うことを入れれば、名乗りやすいかと思ってな」
「うーん…癒される……あっ」
翠の目の色が変わったことに気がついて、千秋は当たりだ、と思った。先程までの鬱々とした表情はどこへやら、瞳はキラキラと輝き、小さな子どものようにはしゃいだ表情を見せている。
「癒されるといったら、やっぱりゆるキャラに決まってます!!あのフォルム、外見、何をとっても癒されるんです。あんなに癒される存在を俺は他に知りません…!」
「そうかそうか、高峯は本当にゆるキャラが好きなんだなあ」
「好きなんてもんじゃないです、愛してます、ゆるキャラは俺の全てなんです……!」
普段とはうってかわって饒舌な翠に、本当にゆるキャラが好きなんだと千秋は笑みを零した。機会があれば、ゆるキャラの話で親睦を深めるのも有効だろうと思いながら、千秋は翠の話を聞き続ける。生き生きと話す翠はこの上ないほど幸せそうで、見ているこちらも幸せな気持ちになれた。
「なら、名乗りにゆるキャラを入れてみよう。ゆるキャラと癒し…どう結びつけるか…」
「えっと…『ゆるキャラとかで、みんなを癒す』っていうのはどうですか?一応戦隊?ユニットみたいだし、ヒーラーとか、いると思うんで…」
今度は千秋が目を輝かせる番だった。翠のその発想はとても理にかなっている。その上、あの翠が自分から考え、提案してくれたのだ。了承しないわけがなかった。
「いいな!すごくいい提案じゃないか…!それで行こう!緑の炎は慈愛の証、ゆるキャラとかでみんなを癒す…うんうん、最高だ!すごいな高峯!」
「大袈裟っすよ……」
そう言いながらも満更でもなさそうな翠の背中を軽く叩けば、翠は珍しく照れたように笑った。その笑顔を見て、千秋はハッとする。
(高峯が本当に笑っているところを、初めて見たかもしれない…)
笑うと意外と幼いんだな、と千秋はハッとする。大人びた顔立ちと、普段は気だるげな雰囲気が実際の年齢よりも年上に見せていたのだ。今千秋の隣で笑う翠は、好きな物に真っ直ぐで、心から笑顔を見せている年相応の男の子だった。
守らなければ、と思った。
翠がこうして笑える居場所を、彼が好きなものを好きと胸を張って言える居場所を、千秋はこれから先流星隊というユニットを通じて守っていこうと思ったのだ。いつかの千秋のように、好きなものを誰かに否定され、傷つくようなことが絶対にあってはいけない。そのためにも、まずは翠をしっかりと流星隊の一員に育て上げていくのだ。
「よし、じゃあ名乗り口上はそれでいこう!ただ、それでは慈愛とは結びついても、グリーンというイメージカラーとは結びつかないな…うーん…」
しばらく考え、千秋はひとつの名乗りを考えた。これなら、翠の名前もより人に覚えてもらいやすい。
「『名前が翠だから、流星グリーン』というのはどうだ?少し長くなるが…」
「ええ…?ダサ……」
「うぐぐ…だが、高峯はなにか考えついたか?」
「さすがに、ゆるキャラと色までは……緑のゆるキャラならいっぱいいるんですけど、それだとダメだろうし…あーあ、ケロゲコくんとかあんなに可愛いのになぁ…」
かなり気になるゆるキャラの名前に惹かれたが、そうすると話が長くなりそうだ。千秋は翠に声をかけ、最終確認をする。
「『緑の炎は慈愛の証、ゆるキャラとかでみんなを守る。名前が翠だから流星グリーン、高峯翠』…やはり、少し長い気もするな…」
「緑の炎は慈愛の証…」
翠は小さく何かを呟いている。所々に、『ゆるキャラ』や『名前が翠』と言った言葉が聞こえてくる。千秋の胸が暖かくなった。翠は今、初めて名乗りを全て言えるようにしている。千秋と翠が二人で考えた、オリジナルの、翠だけの名乗りを。
「いいんじゃないですか。ま、これ以上考えてもマシなのができるとは思えないですし…」
少し棘ある言葉があっても、それは紛れもなく翠が名乗りに納得してくれた瞬間だった。許可が降りた途端、千秋は勢いよく翠に抱きついていた。自分より少し大きな身体を、思い切り抱きしめる。翠の体はほのかに温かくて、柔らかく千秋を受け止めてくれた。
「高峯ぇ!!名乗りを受け入れてくれたんだな!嬉しい、嬉しいぞぉっ…!!」
「うわああああああっ??!!!」
悲鳴じみた声に、奏汰たちが慌ててやってくる。翠が思い切り抵抗し、千秋は勢い余って吹っ飛んだ。
「ちあき?みどりに『いじわる』しちゃだめですよ」
「意地悪ではない!少し喜び余っただけで…」
「南雲くん、仙石くん、助けて…あの人普通に抱きついてくる変質者だよ……」
「ま、マジでござるか?!」
「何かあったら、大将直伝の技をかけるしかなさそうッスね…」
「違う!!誤解だ4人とも!!そんな目で俺を見るんじゃない!」
途端に賑やかになったレッスン室で、なんだか生暖かい視線を浴びて必死に弁解しつつも、だけどどうしても、千秋は口角が上がってしまうのを止められなかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「それでな、高峯が…」
食卓の向かい側、瞳を輝かせて話す様子に、母はそっと、息子に似た赤銅を細めた。
進級してから、千秋はよく笑うようになり、学校であった出来事を嬉々として話してくれるようになった。去年、目も合わさずにほとんど会話もなかった毎日からは、想像もできないほどの変わりようだった。
あの頃、夜遅く帰ってくる千秋は、いつも疲れた顔をしていた。目元を赤く腫らしていたことも、一度や二度ではなかった。「今日は遅くなる」の連絡が、心配で仕方なかった。それが今は、全く違う。夜遅くの帰宅でも、千秋はいつも生き生きとしている。明らかに表情が明るくなって、楽しくて堪らないんだろうとわかる。早起きが苦手なのに、頑張って自力で起きては学校へ向かう。そして、そんな日に必ずと言っていいほど聞けるのは「高峯くん」という男の子の存在だ。今年入学したばかりのその彼が、千秋は可愛くて仕方がないようなのだ。
「それで、ようやく名乗りを覚えてくれたんだ…!」
その時のことを思い出したのか、千秋の瞳は心做しか潤んでいた。そのまま勢いよくご飯を食べ切り、「ごちそうさまでした!」と手を合わせる。こんなにも食欲があって、楽しそうな姿が毎日見られる。その事が母は嬉しかった。ふと千秋を見ると、彼はスマホを手に自室へと上がって行った。きっと「高峯くん」に連絡をするのだろう。息子が綺麗に食べ終えた食器を洗いながら、母は密かに顔も知らぬ彼に感謝をした。
自室の窓を開けると、空には家の灯りとは別に、ポツポツと星が瞬いている。その星を見上げながら、千秋は翠に電話をかけた。数コールしてから、面倒くさそうな声が応対する。
「っす、高峯です…」
「高峯、今日はありがとう!お前が名乗り口上を覚えてくれたこと、本当に嬉しいぞ!」
「わざわざそんなことで電話したんですか?ってか、まだ完全に覚えたわけじゃないですし」
「少しずつ覚えていけばいいんだ。ところで、明日は流星隊の朝練があるからな。忘れるなよ。まあ忘れたところで俺が迎えに行くから、待ってるんだぞ!」
「ええ~?!明日はバスケ部の朝練がないから寝坊しようと思ったのに…」
「こらこら、寝坊はダメだ。じゃあ、そういうことでよろしくな。おやすみ、高峯」
「あっ、ちょっと……!」
電話をかけ終えて、再び星を見上げる。全身がワクワクしてたまらない。また明日、翠に会えるのが楽しみで仕方ないのだ。
「ああ、楽しみだ…!!」
声に出して言いながら、千秋はそっと窓を締める。
明日もまた、朝の澄んだ空気の中で翠に会えることに胸を躍らせて。