ただ温もりを感じたい 暖かいと思っていた布団の外が、季節にしては思いの外冷たかったこと。
返ってきたテストの点が、あまり良いとは言えなかったこと。
六時間目を終えて、部活までやっても向かう先は寮ではなくスタジオだったこと。
今日に限った話ではない。帰って宿題をしたり、自主トレーニングをしたりするどころか、それを思い描くだけでも億劫になる感覚も、心がいっぱいいっぱいで押しつぶされそうになることも、もう何度か経験している。普通であれば、その時点で少しでも休息をとることが望ましいけれど、残念なことに仕事というのはそう簡単に休めるものでもない。
どんなに些細なことでも、翠にとってはそのどれもがチクチクと心を刺す。最初は不快感を覚えるだけだったのが、やがてその感覚が取れなくなっていることに気がついて、その頃にはもう慢性的なものに変わってしまう。
どうしてもと言うときは、その度に何度も馴染んだ言葉を呟いては変身して、そんな『敵』たちに立ち向かってきたけれど、今日の翠は予想外の方向から、それらに立ち向かう気力すら削がれてしまった。
会いたい、と思うたびに泣きそうなくらい切なくなる。くすん、と小さく鼻を鳴らして、翠はその背丈を活かした大股で、早足に寮へと向かった。
共有ルームを脇目も振らずに突っ切る。誰もいなくて幸いだった。きっと、今声をかけられても翠は相手の思うような顔ができないはずだ。一歩進むたびにどんどん切なくなって、最後はもうほとんど駆け足のようになりながら、翠は寮室の扉を叩いた。
「たかみ──うおっ?!」
扉が開いて千秋の嬉しそうな顔が見えた瞬間、翠は人目もはばからずに思い切り千秋を抱きしめた。やっと会えた、という感覚に満たされて、翠は翡翠色の瞳をうっとりと潤ませる。
千秋は、翠が飛びついてきたその一瞬こそ驚いた顔をしたが、すぐに彼の気持ちを察して顔を緩めた。
「高峯、こっちだ」
「ん……」
部屋の中に入ろうとする素振りも見せず、とにかく千秋にくっついていたい翠は曖昧な返事をした。
「ほら、ここで立ってるとみんな驚くから」
諭すような口調に、ようやく歩みを進める。部屋に入ったのはいいものの、扉は開けっ放しということに気がついた千秋は、少しの格闘の末、翠の腕から抜け出して扉を閉めた。
「おいで」
そして、今度こそ正真正銘、誰にも邪魔されない二人だけの空間になったことを確信して、千秋は両腕を広げて翠を呼んだ。途端、翠はまた、言葉もなく千秋に抱きついて、肩に顔を埋めてスンスンと匂いを嗅いでいる。
「っ、はあ……」
満足したようなため息とともに、翠がようやく顔を上げた。千秋は翠の瞳をじっと見つめながら、「おかえり」と口にする。
「会いたかったぞ、高峯」
「うん、俺も……」
そう言って翠は、千秋の手に自分の手を絡ませた。華奢な指で、千秋の手を慈しむように包む。触れ合っていると安心するのだろう、翠は心底甘えたいとき、言葉よりも先に行動で示すことが多い。千秋にたくさん触れてから、ぽつりぽつりと言葉を口にする。そんな翠の甘え方は幼い子どもを彷彿とさせて、千秋はそれが好きだった。
「守沢先輩、俺……今日先輩に会えなかったら、本当にやばかったです。呼んでくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ、だ! 俺も高峯に会いたくてたまらなくてな。もしかしてと思って連絡してみた」
「助かりました……」
翠はそう言って、甘えるように千秋を見た。
ここしばらく、千秋も翠もプライベートでの付き合いはほぼ無いに等しかった。強制ではなくなったとはいえ学業も収めなければならないし、それでなくても仕事のスケジュールはパンパンに詰まっていた。休みが取れたとしても、千秋と日付が合わないなんてこともザラだ。千秋もそれは同じで、彼は彼で社会人としてのスケジューリングがされていたから、翠より遅く寮に帰って翠より早く起きて仕事に向かうことが多かった。
そんなこんなでお互い近くて遠い日々を送っていたが、今日は千秋が思い立って翠に連絡をしたのだ。『今日は部屋に俺一人しかいないから、よかったら寄っていってくれ』。その文章は、翠にのしかかっていた疲れや寂しさを、もう誤魔化さなくていいんだと言ってくれているようでもあった。だから翠は、強がりで素直になれない自分をすっかり捨てて、千秋の腕の中に飛び込んだのだ。
「守沢先輩……」
「どうした?」
翠が甘えきった声で千秋の名前を呼ぶ。自分より少し上にある柔らかい色の髪を優しく撫でると、翠の目元は更に緩んだ。
「……ほめて」
舌っ足らずなその要求に、千秋の胸は甘酸っぱく疼く。
「翠」
「ん……」
めったに呼ばない下の名前で翠を呼べば、ふにゃりと笑みを浮かべてきた。その表情にたまらなくなって、千秋は翠を褒める前に、その滑らかな頬に口付ける。チュッ、と音がして唇が離れていくと、翠は控えめに声を立てて笑った。
「いい子だな」
「うん」
「いつも頑張っていて本当に偉いぞ」
「うん」
一言伝えるたびに、健気にうん、うんと相槌を返してくる翠は本当に愛くるしかった。キュンとときめいた胸の高鳴りのまま、翠を強く抱き締めれば、翠は安心したように体中の力を抜いて、けれど腕だけはしっかりと千秋を抱きしめ返してくる。
「寂しかったな」
「……うん」
オリーブグリーンを千秋の肩にグリグリ擦りつけながら、翠は頷いた。その頭や背中に触れながら、千秋はいつもとは全く違う、滑らかで甘い声で翠を甘やかす。
「千秋さん」
顔を上げた翠は、幸せいっぱいなことをそのまま声にのせながら千秋の名前を呼んで、その後は何も言わない。こういう時は、何も言わないのが正解だと千秋は知っている。翠はただ、千秋の名前を呼びたいだけだ。誰が自分を抱きしめているのか、名前を呼んだ人が自分にとってどんな存在なのか、沈黙の中で噛み締めている。
けれど、ずっと沈黙が続けば、千秋だってとある衝動が湧き上がってくる。
「翠、キスしていいか」
翠が息をのむのがわかった。身構えてしまっただろうか。それとも。
「ん」
こくんと頷いたその動作すら子どもっぽい。二歳の年齢差が、なおのこと大きいように思えるほどに今の翠は幼かった。
だが、その幼さは彼に口付けるのを躊躇う理由にはならなかった。翠は完全に小さな子どもではないし、恋人という姿で目の前にいてくれる彼は、ただただ千秋に甘えているだけなのだから。
キスをしようとして、やめた。その気だった翠が、その気配を察知して目を開ける。
──なんで。
そんな言葉がありありと浮かんだ顔に、少し待ってほしいと軽く口付けた。
目線が少し上の恋人は、たっぷり触れ合いながらのキスには少しだけ不向きだ。だから、千秋はそっと翠をベッドの縁に座らせ、自らもその隣に腰掛けた。真正面から抱きしめ合うことはできなくなったが、リラックスして相手に触れたりするには、座っている方が向いている。
「すまないな、待っててくれていたのに」
「意地悪ですね、千秋さんは」
期待を一度すかされた翠はムッとした様子で言ったが、気を引きたくてわざと拗ねたようにしているのは千秋が一番よくわかっていた。
彼の機嫌を損ねたくはないが、そんな態度に簡単に釣られてしまうのもなんとなくしゃくだ。ウズウズと胸をくすぐるような感覚に、千秋は苦笑しないようにするのが精一杯だった。ヒーローを名乗っておきながら、好きな人には小さな意地悪をしたがるだなんて、我ながら子どもだ。
「意地悪だったか?」
「……」
千秋が翠のかまってほしい素振りを察したように、翠も千秋のイタズラ心を悟ったらしい。
「千秋さん」
「なんだ?」
「……嫌いになりますよ」
その言葉に、千秋は思わず声を立てて笑ってしまった。そう言われては、千秋の負けだ。
「すまんすまん、嫌だったな」
翠は黙って、千秋にぐいと体を押し付けてきた。自分がどれだけ愛されているかをわかっているからこその、少し大きな態度。撫でて、という雰囲気に逆らわずに柔らかな髪に手を通して、そのまま頬へ滑らせる。
「翠」
例え向けられる視線が少し上からのものであったとしても、顎を優しく掬うことはできるし、その角度を調整して、じっと目を見つめることができる。
美しい顔を真正面から見据えて、千秋は一瞬あまりの美しさに目を逸らそうとしたが、ぐっと堪えて赤銅の大きな瞳で翡翠色をのぞき込んだ。そうすれば、情熱的な色に気圧された翡翠が揺れて、伏せられて、そしてまた見つめ返してくれる。
「あ……」
小さく開いた翠の口から、吐息のような催促のような音が漏れて。そのまま二人は、吸い寄せられるように目を閉じて、唇を重ねた。
「ん、ふ……」
翠の鼻から満足げな音が抜けて、長い腕が千秋に回された。千秋もそれに応えるように、翠の背中をそっとさする。チュッチュと戯れのような音が時折悪戯に沈黙を破った。リップクリームを塗る暇もないほどに急いで帰ってきた翠の唇はほんの少しカサついていて、けれど柔らかくて、温かい。何度も何度も角度を変えて、押し付ける。翠はそのたびに小さく声を漏らして、押し当てるようにしてキスをせがんできた。
「ふぅ、ぅ……」
「ん、翠……口開けて」
しばらく唇だけの触れ合いが続いていたが、一度口を離した千秋がその先を求める。翠は一瞬ためらうような素振りを見せたが、やがて小さく小さく、赤い舌先を覗かせてくれた。
それを合図に、千秋は再び翠に口付ける。軽く戯れるような音が、確実に艶めいた音に変わる。翠が千秋を抱きしめる力が、さらに強くなる。
「ん、ぅ……ふ、ちゅっ、ん……ぁ……はっ」
「ふ……翠、翠……」
合間に名前を呼んで、舌先を絡ませる。絡んだところからさらに奥へ潜り込んで、睦み合う。
「上手だ」
「は、んんっ……!」
背中に回していた手を、形のいい耳にあてがうと、翠は甲高い声をあげて肩を震わせた。そのまま舌を逃れられないように絡めとって、じゅっ、と吸い上げるとさすがに首を降ろうとしたので、最後に濃い音をわざと立ててから、唇と手を離した。
「はぁっ、はぁ、ぅ……」
翠は耳まで赤く染めて、瞳を潤ませながら千秋を睨んでくる。対する千秋は、穏やかに微笑むだけ。しばらく無言の攻防戦が続き、折れたのは翠だった。
「長すぎ……」
そのまま胸に倒れ込んできた翠を抱きとめ、千秋は笑った。胸板の振動に、ムッとした様子の翠が大人しくなる。
「すまん。翠がかわいくて」
「かわいいって、またそういうこと言う」
「本当にそう思ったんだ。翠は世界一かわいい」
「俺にかわいいなんていうの、千秋さんくらいですよ」
翠はじと、とした目つきで千秋を見上げた。普段は上から注がれる視線が、胸に顔があることで図らずも上目遣いになっている。それがまた愛しくてたまらなくて、千秋は吸い寄せられるように翠の髪に口付けた。話をはぐらかされたと思ったのか、翠は曖昧に唸り、それでもどこか嬉しそうだ。
「それでもいいじゃないか。俺は翠のどんな所もかわいいと思っているし、心から愛しいと思っている」
「なんですか、急に」
「言葉にして伝えたくなった。翠が今日、たくさん甘えてくれたからな。大好きだぞ、翠」
「……」
翠の体温はほんのり上がって、頬は薄桃色に染まっている。生まれたての子犬のような甘えた音が、翠の鼻から抜けていった。千秋の腕の中で、翠は次の言葉を考えていた。何気なく彼の胸に手を当てて、ハッとする。
(ドキドキしてる……)
翠を優しい本音で包んで、愛してくれる千秋も、その言葉を伝えるときはこんなにもドキドキしているなんて。付き合い始めてしばらく経つのに、その胸の鼓動は付き合いたての頃に一度確かめたときのままだ。翠の胸が甘酸っぱく締め付けられる。胸の高鳴りと共に溢れる愛情が、翠の喉元まで言葉になる。
千秋と同じくらい、翠の心臓も激しく肋骨を叩いていて、けれど、言いたくてたまらなかった。
「千秋さん」
「ん?」
赤銅色の瞳が、キラキラしながら翠を見つめている。アイドルとして舞台に立つときとは違う、個人にだけ向けられる優しい光。翠はその光がとても好きだ。体も心も、全てが翠の方だけを向いてくれていることがわかる、その瞬間が。
「……俺も、大好きです」
少しだけ驚いて、恥ずかしそうに伏せられて、それから満面の笑みを浮かべる。ほんの一瞬の千秋の表情の変化が、まるでスローモーションのように見えた。
「翠……!」
ぎゅうっと抱きしめられた強さが愛しい。この感情をうまく言葉にすることができなくて、もどかしさと溢れた愛しさになんだか泣きそうになる。
「千秋さんのこと、本当に好きなんですよ」
「ああ」
「いつも上手に伝えられないけど……」
「大丈夫、ちゃんと伝わっているからな」
千秋は翠の頭を優しく撫で、空いた方の手で隙間を埋めようとするかのように翠の背や腰を抱いて引き寄せた。
「俺も、本当に本当に翠が大好きだ」
その声があまりにも優しくて、心地よくて。ふわりと涙が浮かびかけるのを、翠は必死に誤魔化した。きっと千秋にはバレてしまっているけれど、それでも泣きたくなんてなかったのだ。
この時間を手放したくなくて、けれど、また彼に大好きと伝えるのも会話が終わらない気がして、翠は必死に考えた。時刻は間もなく九時半を回ろうとしていて、この後のことを考えれば、あまりゆっくりもしていられなかった。
(部屋、戻りたくない……)
千秋にまだたくさん甘えたい。キスをして、抱きしめてもらって、他愛のない話をしながら、ゆっくりと時を過ごしたくて。
もう一度勇気を振り絞って、翠は少し大胆なお願いをする。
「あの……千秋さんは夜も一人ですか?」
「ああ」
「……一緒に寝てもいいですか?」
その顔を見たとき、千秋は自分が変な顔をしていないのではないかと心配になった。翠の今の気持ちをギュッ、と詰めたような、あまりに控えめで、かわいらしいお願い。不安に揺れ、潤んだ瞳。千秋ともっともっと一緒にいたいという、甘えた色。千秋に断る理由は無かった。
「もちろんだ」
「よかった……」
ホッとしたように胸をなでおろす翠が、目を細めて笑う。千秋はそれを見て、自らも小さく笑った。やっぱり翠には、笑顔が一番似合う。
衝動のままに、柔らかく弧を描く唇に口づけようとして、やめた。
「翠」
「なんですか?」
「翠からも、キスしてくれないか」
すうっ、と翠が息を吸い込んで思案する気配がした。ほんのり赤らんだ頬が本当に愛くるしい。
翠からの返事を待つ間、千秋はその白い耳たぶをスリスリと撫でてみたり、背中を優しく叩いたりする。
やがて、翠が結論を出したのか千秋と目線を合わせてくる。言葉を紡ぐ前に、翠の口元を見た千秋は、思わず翠をギュッと抱きしめた。
いつもキスをしたがるときのように、翠の唇はほんの少し尖っていて、小鳥のようだったから。彼の答えは、もうわかってしまった。
「うん、いいですよ」
どこか宙に浮くような、ふわふわした答え。顔どころか体重まるごと『大好き』を乗せて寄せてくる恋人に、千秋なりの情熱的で深い愛情をたっぷり込めて、唇を重ねた。