吐く息は甘く「う……?」
ギシギシと痛む関節を動かして、薄く目を開ける。視界は暗いが、それがむしろちょうどいい。棺の蓋を開け、外に出るのに若干苦労しながら原因を探す。
目を開けたのは、鼻先に匂いを感じ取ったからだ。吐息を吐かねば、その匂いを感じ取ることは出来ないはずの鼻先に、人間の気配を感じとったその理由は、他でもなく誰かが呼吸をしているということ。
寝床、というより封印に近い状態の自分がいるこの場所に足を踏み入れる存在などそうそう無いはずなのに、妙だと思いながらぼんやりと考え込む。
(甘い…)
しかし、その匂いは今まで嗅いだことの無い類のものだった。認識できるということは人であることに間違いなさそうだが、そうだとしてもこの匂いはおかしい。
「…ぎ、……あぐ、」
強ばる関節を動かして、そっと匂いのする方向へ飛んでいく。トン、トン、という軽い靴音が辺りに響く。
「ひっ…?!」
怯えたような声がした。たまらず声を出したことで、匂いがムッと濃くなる。強い刺激に、ずっと前から思考を停止させていた頭がクラクラした。
「ぁ、あ……ま、て……」
「だ、誰?!何、」
「怖く、ない、から…だい、じょうぶだ」
関節が少しばかり滑らかに動くようになって、ようやく人間らしい会話を思い出す。恐怖に動けなくなっているのか、先にいるであろう人間の存在からはほのかに肌の匂いもしていた。人々が恐怖に駆られた時の、冷や汗の匂い。それすらも不快感を感じるどころか、香のように辺りに香る。
「逃げる、なら、今のうち…命は取らないから、早く逃げろ。人間は、ここにいるべきじゃない、からな」
「そんなこと言ったって……!!」
すすり泣く声が響く。ぼうっとなるような甘い香りが漂い続けている。
腰が抜けて立てない。その一言だけをようやく聞き取った耳が脳に司令を出して、また数歩、トントンと言う靴音が響く。
「い、嫌だ、来ないで……!!」
拒絶の言葉に、体が強制的に硬直する。指一本動かせないその状態のまま、声の主を探す。
「どうし、た?立てないなら、俺が助けるぞ。俺は妖怪だが、害を成すような存在じゃ、ない」
「そんなわけない…!」
信じられないという声が返ってきたが、まだ恐怖のせいで立つ気力は無いようだった。少しでもこれで恐怖が和らげばと思い、口を開く。
「俺は、キョンシーだ。名前を千秋と言う。名のある道士の特別な力で蘇ったが、その人は俺に恐れを成して、俺を封印して逃げてしまった…彼は特別だったから、俺たちは、無闇に人を襲う衝動、を、持っていないし、匂いも、しない…」
やはり少し長い話をすると、舌はもつれて顎は動かない。途切れ途切れのチアキの言葉に、人影はじっと耳を傾けていた。
「……証拠は?」
「証拠は、無い。無いが、俺は御札があるから、それを貼られている限り、絶対に命令には逆らえない。怖かったら、いくらでも命令してくれて、構わないぞ」
「……」
しばらくすると、暗がりからそっと一人の青年が現れた。そのあまりにも美しい見た目に、千秋は思わず息を飲む。一目で質の良い布だとわかる服に身を包み、自らの体を固く抱きしめるようにしていた。茶に牛乳を流し込んだようなまろやかな色合いの髪の毛に、伏せた長いまつ毛の下からは怯えた翡翠の宝石が覗いている。
「っ、ぁ……」
彼はそっと視線を上げ、千秋の姿を見て口をはくはくさせていた。それでも、彼が想像していたであろう、腐敗し、異臭を漂わせる存在ではなく、むしろ清潔感のある見目麗しい青年だと認識するや、彼は幾分落ち着きを取り戻したようだった。
「大丈夫か?」
「大丈夫、です…」
彼はまだ怯えた様子を隠そうともせずに言った。千秋は彼をじっと見る。自分から話せることはもう何も無かったからだ。
「君、は?」
「……」
言ってもいいのかどうか迷っている瞳が千秋を見つめた。それでも、彼は背中にかけているジャケットを手繰り寄せ、ありったけの勇気を振り絞ると口を開いた。
「俺は、翠……桃娘…で、売られそうに、なってました……」
「桃、娘……?」
千秋は目をぱちくりさせた。まさか女の子だったのだろうか。それにしては随分と体つきは逞しいし、背も千秋より高かった。声も高いが女性とは言い難く、何よりその服は男物だ。そんな千秋の考えを読み取ったかのように、翠は小さな声で呟いた。
「男の人でも、桃娘にはなれるんです…俺、人と違って異常に栄養を吸収しちゃう体で…だから、桃ばっかり食べても、こんな、変、なんですよ…俺の体……」
そう言って翠は唇を噛み締めた。その特異な体質がひどく重荷になっているようだ。堪えきれず目元から零れた雫は、やはり甘い匂いだった。
「それ、で…男娼、に?」
「そうです。多分、小さい頃から、そのつもり、で…俺、怖くて……!」
「君の、年、は?」
「…十七に、なりました……」
「十七…」
これから先、楽しいことに胸躍らせて生きていくはずの年月が、生まれ持った体質と恣意的な思惑によって奪われてしまった。なんて悲しいことだろう、と自分が彼とさほど変わらない年齢の時に夭逝したにも関わらず、千秋は胸が痛んだ。
「随分と、辛い人生だったな」
「……」
「初対面で、キョンシーでもある俺が、こんなことを言うのは不思議か?でも、本当だ。俺はもう死んでいるが、少なくとも…無理に人生を曲げられる様なことは、なかった」
その言葉を聞いて、翠の瞳に涙が盛り上がった。ずっと運命にさからえず、初めてその鎖を振り切った彼が見せた、安堵と哀しみの混ざった涙だった。
千秋がそっと彼の真横にやってきても、翠は逃げることなく泣いていた。その強ばった腕の中に翠を迎え入れても、それでも逃げなかった。
「あったかい…」
翠はそう言って大粒の涙を流した。その香りは依然として甘ったるいままで、きっと口に含んでもそれは消えないのだろうと千秋は思った。
千秋の体は、生者と同じように温かかった。その心臓が二度と動かず、関節は強ばり上手く動かないものであっても、紛れもなく温かくて、彼の言うとおりいい匂いがした。千秋の匂いと翠の匂いが混ざり合うと、なんとも言えず蠱惑的な香りがした。
「これから行くあては?」
「ない、です…もう、死ぬしかないのかも…」
「……」
千秋は困ったように翠を見た。羽化したばかりの蝶のように儚く、か弱い彼を見捨てることは千秋にはできなかった。しかし、ならばどうすればいいのかと言うこともまた、千秋には思いつかなかった。死者ではあるが現世に留まる存在である以上、翠の言う「死」を千秋は知らない。
翠は迂闊に触れれば壊れてしまいそうな程に脆かった。愛情に飢え、寄り添う場所を失い、ただ甘い香りだけで男を惹き付ける花のようだった。千秋はその香りを胸いっぱいに吸い込み、ずっと脳裏に浮かんでいた誘惑をハッキリと認めた。
(俺も…翠の匂いに惹かれた虫と、同じだ…)
キョンシーの本能と、千秋自身の思いとを、目の前の男にぶつけてしまいたくなる。と、小さく泣いていた翠がじっとこちらを見ていることに気がついた。
「どうした?」
「はあ…」
死への渇望と、熱とが込められた甘い息。それは額に貼り付けられた札を揺らし、千秋の耳に染み込んでいく。
「…俺、どうしたらあなたみたいになれますか?」
スルスルと千秋の肌に触れながら、翠は問う。まずい、と千秋は思った。本能が翠を襲おうとしている。その魂を、熱さを、我が物にしたがっている。それだけではない。翠は千秋に、自らの寂しさを吐き出す場所を見出している。キョンシーの脅威など、何も鑑みずに。
「逃げるなら、今のうちだぞ…」
「どうせそんなに老い先長くないですし」
「だからって、命を粗末にしようとするな」
「してません…」
翠は諦めたように息を吐いた。自らの甘さと瑞々しさを理解しているような音で。
「お前、怖いんじゃなかったのか」
「今だって怖いです。でも、一人ぼっちなのは俺だけじゃないって、教えてくれました」
あんたがね。そう言って翠は笑う。その顔が驚くほど幼くて、千秋は悲しげに眉を寄せた。
「ねえ、御札を貼られてたら、命令には従ってくれるんですよね」
「……」
千秋は答えなかったが、翠は嬉しそうに目を細めた。厭世的な目つきで首まである布をそっと摘み、捲りあげる。まだ誰にも触れられたことの無い白い首筋が顕になった。
「ねえ、」
翠は奇妙に笑う。千秋の腕の中、桃の香りがむせ返るほどに強くなる。千秋の口を真っ直ぐに指さし、翠は自らの首元をトントンと叩いた。
「…その歯で、俺の事刺して」
言われた途端、フツンと糸が切れた感覚がした。命令の言葉とは別の何かが、千秋を突き動かしたのだ。
生者の温もりが香り続けるその場所に、千秋はその歯を突き立てた。