願いは瞳に降り注ぐ「ふう、ようやく終わった…」
「……」
息を吐く青年の隣に佇む、美しい人形のような彼は、不安そうに青年を見た。本当にこれでいいのか、大丈夫なのかと見つめている。
「そんなに不安そうな顔をしなくても、ちゃんと手続きは終わってるぞ。ほら」
これが証明だと言わんばかりに書類の山を手渡され、それを受け取ればズシリとした重さがあって、たった一つの契約にこれほどまでの書類が必要なのかと、改めてこの国の制度に辟易した。
チアキはフォンテーヌの町工場で働く青年だ。決して大きくはない工場から、いつか大きな希望を送り出すことを夢見ている。「いつか、風の翼が無くても飛び立てる、そんな機械を作りたいんだ。大人数が空を飛べたら、気持ちいいだろうからな!」というのが彼の口癖だった。
川の側の廃工場のような所に小さな土地を構えて、チアキは昼夜空飛ぶ機械の開発に勤しんでいる。近所の工場に務めて部品を組み立てたり、人助けをしたりしながら資源やお金を貯め、その最中に発見した方法を自分の工場に持ち帰っては試す。チアキの毎日はその繰り返しだ。
ミドリと出会ったのは、チアキがそんな日々を送り始めて間もない頃。水も空気も、フォンテーヌの中心とは比べ物にならないほど汚れたその土地に、なぜ人がいるのだろうとミドリは首を傾げた。
ミドリは青果店を営む家の生まれで、中心地から少し離れた市場に店を構えている。煙に塗れ、産業の発達したこの土地では、ミドリの家の青果物はかなり重宝されていた。値段が手頃なことと、街の中心部と遜色ないほど安全性の高い食材を提供できる点は、かなり高い評価を受けていた。そんなミドリだから、わざわざ人が何かをする時、美しくも薄汚れた空気のこの場所を選ばないというのも知っている。だというのに、この男は目を輝かせて工場に資材を運び込んでいたのだ。「何してるんですか」と不審に思ったミドリが声をかけたところから、二人の交流は始まった。
最初は物珍しげに様子を見ては帰るだけだったのが、いつしかチアキに家の野菜や果物を持ってくるようになり、それは完成された料理へと変わり、それから用もないのに暇があれば一日中チアキの作業を見るようになった。チアキが働き先の工場に行っている時は、いつも座っている椅子の上に小さな箱が置かれていて、その中には野菜がたっぷりと入った料理が詰まっていたりする。
それを見たチアキが、「もしミドリさえ良ければ俺の助手にならないか」と誘ったことから、チアキはミドリとよく行動を共にするようになった。助手としての手続きをするためだ。
フォンテーヌは「正義」を重んじる国。針の先すら抜けられないほどの法律が国中を網羅し、仕事からプライベートまで、詳細な手続きと法の上に成り立っている。そしてそれらを疎かにすれば、神の名のもとに法で裁かれる。申請手続きとか法律とか、ミドリには重くて鬱陶しい鎖にしか思えないし、法律による恩恵だって、人生の中では無縁だった。それでも、チアキがその手続きを取るというのなら、止めはしない。沢山の書類、同意書、全部目を通してサインをした。手続きの場所にもチアキと足を運んだ。役所には幸せそうな人で溢れていて、産まれたばかりの子どもを抱えた夫婦や、指輪を光らせるカップルとすれ違いながら、淡々と手続きをするのがなんだかソワソワした。
そして今日、ミドリは晴れてチアキの助手になった。助手と言っても、大してやることは変わらない。チアキの様子を見に来て、時折食事を共にしたり、いつまでやってんの、と口を挟んだりするだけだ。今だって、手続きが終わってすぐチアキは工場に戻って、色々なパーツの数を見積りながら、ミドリが持ってきた食事を取っている。
「いつもありがとうな」
大きく口を開けてパンにかじりつきながら、チアキは礼を言う。
「別に…あんた、俺がいつ来ても作業してるし、見に来た時に野垂れ死んでたらなんか気分悪いから…」
「大丈夫だぞ、きちんと休憩はとっているから。それに、せっかく助手になってくれたお前に悲しい思いはさせたくないしな」
「違っ…!別に、悲しいとかじゃ…!!」
「はっはっは、素直じゃないなぁ。でも、俺が倒れたら悲しんでくれる人がいると言うのは、なんだか心強いな」
そう言われてしまうとミドリはなんと返したら良いのかわからなくなってしまって、黙ってパンを一口かじった。シャキシャキしたレタスの歯ごたえと、塩気のある薄切りのハムが絶妙だ。
(倒れたら、とかじゃなくてさ、倒れない努力をしろって話…)
チアキの方が年齢が2つ上だと聞いたが、とてもそうは思えない。ミドリよりも落ち着きはないし、無茶はするし、目を離したらすぐどこかに人助けとか言いながら出て行って、怪我をしたり泥まみれで帰ってきたりする。まともな料理ひとつできるか怪しいし、生活能力は絶望的と言ってもいい。だから、ミドリは"仕方なく"チアキが出来ないあれこれを一手に引き受けるのだ。
ミドリが来る前、チアキはしばしば疲労で熱を出すことがあったらしく、その事を聞いたときは呆れ返った。 だが、ミドリがここに来るようになってそういったことは一度もなく、ミドリはそれを密かに誇りに思っていた。なんだか、自分の力でチアキを救えた気がして。
チアキのその性格は、もしかすると腰に光る紅が由来しているのかもしれない。
チアキは神に選ばれた人間だ。赤く燃え盛る炎の神の目の所有者。真っ直ぐなチアキの性格に、その色はとてもよく似合っていた。
「ごちそうさまでした。美味しかったぞ」
ペロリと食事を平らげたチアキは、すぐさま機械部品に身体を向けて、真剣な瞳でそれを見つめる。そういう時だけチアキはいつも静かで真剣な瞳をするから、ミドリはドキリとしてしまう。
「ここを溶接すべきか…いや、もう少し…」
チアキが軽く様子を見て溶接を検討する度、パチパチと赤い火花が散る。チアキが神の目を使って作る炎は、とても美しい。優しくて温かみのある赤色は、透き通った純真をエネルギーにして燃えているようだった。ミドリはそれを黙って見つめている。
辺りが濃紺になるまで、チアキとミドリの静かで満ち足りた時間は続くのだ。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
ミドリが街を歩いていると、大きな声がしてドンッ、と何かがぶつかった。
「いっ……?!」
「ミドリ!元気にしていたか?」
「……」
声の主はミドリの雇い主だった。工場で作業を終えたばかりなのか、微かに機械の油の匂いをさせながらニコニコと笑っている。
「なんでここに…」
「俺だって街を歩く時くらいあるぞ!そしたら、たまたまミドリが前を歩いているのを見つけたからな、居てもたってもいられなかった!」
そう言うチアキの手や顔は黒くすすけている。都市部のご婦人方が見たら間違いなく顰蹙を買いそうである。かくいうミドリも、黒い手で触られていたことに気づいて眉をひそめた。
「汚い…街歩くならせめて風呂ぐらいは入れっての…」
「いや、普段はきちんと入っているぞ!今日もこの後はちゃんと入る!清潔を保つことも、俺たち工場勤めには欠かせないからな」
「だったら俺に会う前に綺麗にすることはなんでできなかったんですかね」
返す言葉もないのか、チアキはたはは、と困ったように笑った。ミドリの背中には少し黒い手形がついてしまったし、油の匂いを染みつかせた声のデカい男と一緒にいるなんて、それだけで注目されてしまいそうなのが多少不満だったが、だからと言ってチアキが隣にいることは嫌ではなかった。
「で?俺に会ったのはいいですけど、どうするつもりなんですか」
「特に目的はないぞ。ミドリがいたから話しかけた。それだけだ!」
「はあ…」
目的もないまま話しかけてくるなんて、やはり理解できない。チアキが本当に何の目的も持っていないことは今の言葉を聞けば十分だったので、しかたなくミドリから提案をした。
「…その辺のカフェでも行きます?」
「いいのか?!というか、ミドリは大丈夫なのか?何か用事があったんじゃ…?」
「何もないです。実家の手伝いが終わって後は帰るだけみたいな感じなんで」
「ミドリも仕事終わりか。お疲れ様」
赤銅の瞳を細めて、そっと手を伸ばしてくる。その優しい色は息を飲むほど優しくて、ミドリは一瞬立ち尽くした。が、次の瞬間目を見開いて身を引いた。
「ちょっと…!あんた、その汚い手で、しかも街中で何しようとしてるんですか?気持ち悪い…」
「ん?ああ、すまんすまん。つい小さい子にする時の癖が出てしまった!はっはっは!」
「はぁ?俺の事子どもだと思ってるってことですか」
「そういう意味じゃないぞ!ミドリも頑張っていて偉いなと思っただけだ」
「だからって、自分よりデカい男に子どもにするように接しようとしますかね、普通」
すっかりヘソを曲げてしまったミドリに、チアキはまた笑う。ムッとしたような翡翠が睨んできたが、そんなところが子どもっぽくてかわいく思えてしまうと伝えたら余計に怒られそうなので、そっと心の中に留めておいた。チアキにとって、ミドリは頼りになる助手であり、そしてまた、可愛がるべき年下の男の子だったのだ。
それでも、さすがに頭を撫でようとするのは子ども扱いが過ぎるのかもしれない。ミドリだってもう成人だし、確かに人前でこんなことをしたら嫌がられるのも無理はない。
「まあまあ、とにかく、お茶にでもしようじゃないか!」
「言っとくけど、国の中心地とかにあるようなカフェじゃないですよ。俺たちみたいな一般人が、仕事終わりとか休憩するときに使うような場所なんで」
「それでも大丈夫だ」
「じゃ、行きますか」
短く言って歩き始めたミドリの背中を追いながら、チアキは街の様子をながめる。背後にはチアキがやってきた工場地帯がどっしりとそびえながら、この街にもくもくと煙を排出している。それでも、煉瓦造りの建物の窓辺には花が揺れていて、思わずその美しさに魅入ってしまった。
「綺麗だなぁ」
「何がですか」
「ほら、あの花」
「ああ、あれ…あそこに住んでる人は、確かスメールで植物学を学んでたって言ってましたからね。花も綺麗に保てるんでしょ」
「ふむ…確かに、ここではあまり花を見ないな。空気がどうしても汚れてしまっているからなんだろうか」
「そうじゃないんですか。最近は水の質も落ちてきてるし、こっちも商売あがったりですよ」
不満そうな口調は、きっとこの辺一体に住む人間からすれば誰もが思っていることに違いなかった。フォンテーヌの産業は、革新的な工業体制と引き換えに、そこに住む人びとの豊かな生活をところどころ奪ってしまう。中心部には澄んだ水が溢れ、芸術の都と名高い国も、少し外れの方に行けば淀んだ空気と埃に塗れて働く人々の上に成り立っていることに気づくだろう。そしてチアキもまた、そんな空気の中で働く人間の一人であり、ミドリたち住民の生活を犠牲にしている役割を担う存在でもあった。
「…すまん」
「どうしてチアキさんが謝るんですか?」
「いや…俺たちのような人間が生計を立てようとすると、何の罪もないミドリたちに迷惑をかけてしまっているんだと思ってな。しかも、俺は個別に、できる保証もない乗り物を作ろうとして、余計に周りへの迷惑がかかってしまっているだろう」
ミドリは大きくため息をついた。チアキは捨てられた子犬のような顔をしてミドリを見上げる。
「あの」
「な、なんだ?」
「本当に迷惑だと思ってたら、俺だってもう少し文句くらい言うし…それに、工場で働いてる人が悪いなんて、誰も思ってないですし。被害妄想もほどほどにしてください。しかも、今のチアキさんの言い分だと、俺はできる保証もない乗り物を作るために助手にされたって認識でいいんですかね?そんなに適当言うなら最初っから一人で作れよ…」
「うう…」
ぐうの音も出ないチアキに、ミドリはもう一度ため息をついた。呆れているようにも、全然わかっちゃいないと責めるようにも聞こえる。
「…俺を助手にしたんだったら、最後まで責任取ってちゃんと完成させてくださいよ。中途半端に放り出して、逃げたり倒れるなんて許しません」
「…」
今度こそチアキは何も言えなかった。ミドリは寄せてくれた信頼に、胸を撃たれてしまったのだ。熱い塊が喉元までぐっとせり上がってきて、チアキは俯いてその熱をやり過ごした。再び口を開いたときには、チアキの声はいつものように響き渡るものではなかったが、それでも工場の中心を担う火種のように、確かに熱く、情熱にあふれていた。
「ありがとう、ミドリ。こんなにいい助手を持ったんだ。何があっても、あの機械を完成させてみせるさ」
ミドリは何も言わなかったが、ただ得意げに笑みを見せて、チアキの歩調に合わせてカフェへの道のりを歩き始めた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
街中が重苦しい空気に包まれている。その答えは、彼らが片手にしている新聞にあった。
『工場の排気ガスによる肺疾患の死亡患者数、前年度より20%増加』
その見出しを読んだ人びとは奥の工場地帯に目を向けた。そこでは今日も早朝から、機械の油と煙に塗れた埃っぽいにおいを漂わせながら労働に勤しむ人びとがいる。巨大な工場の錆びた銅色のつなぎ目から、水蒸気が埃の街にわずかに水をやっている。その水も、果たして安全なものかどうかは定かではない。
この街の考えていることは概ね同じだった。賛同と諦めの混ざったような顔で、皆新聞に目を通し、各々の仕事場へ出かけて行った。
ミドリもまた、今日は出かけ先で幾度もその話を聞かされた。議論好きなフォンテーヌの人びとは、時に白熱した議論を開きたがったが、あまりそういったことの得意ではないミドリは青果を届け、代金を受け取るとそそくさとその場を立ち去った。
普段休憩するカフェでは、口論者たちが口角泡を飛ばしながらまさしく”白熱した議論”もとい不満を爆発させていた。それを見守る工場は、依然として油の匂いをさせ、水蒸気を吐き出し続けるばかりだ。
「…」
空気がいつにも増して重苦しく感じ、翠は逃げるようにカフェに背を向けた。親に渡す売上金から、自分の利益として戻ってくる分だけをよけると、そのモラを持って街の一角へ足を向ける。道すがら買った小さなランチボックスからは、香ばしい肉の匂いが漂っていた。
「チアキさん」
「おお、なんだ。今日の仕事は終わったのか」
「午後からもう一回りしてきますよ。そんなことより、やっぱりここにいたんですね」
「ミドリこそ。よく俺の居場所がわかったな」
「あんたの考えそうなことですから」
チアキがよく座っている簡素な椅子の上には、新聞紙が畳まれて置かれていた。『20%増加』の文字だけが読み取れた。紙面がくしゃりと歪んでいる。まるで、読んでいる途中に手に力が入ったかのように。
「どうせ、機械の調子が気になって、お昼ほっぽり出して来たんでしょ」
「いや。最初はきちんとお昼も買いに行く予定だったんだぞ。ただ、改めて見直すと色々とパーツの溶接が甘かったり、削れそうな部分があると思ってな。一度確認したら止まらなくなってしまった」
「じゃあ結局同じじゃないですか」
はあ、とこれみよがしにため息をついたあと、ミドリはランチボックスを目の前に無言でさしだした。チアキは箱とミドリとの間で視線を行き来させ、食べていいのか、という表情でミドリを見る。しかしミドリはそれを無視して、自分は空いていたもう一脚の椅子に座ると、いそいそと蓋を開けて中身を食べ始めた。チアキはしばらくその様子をあっけにとられた顔で見つめていたが、やがて自分もそれに倣うとランチボックスの蓋を開ける。 質素ではあったが、どこか安心できる食事だった。
「うまいな」
「そっすね」
ランチボックスはあっという間に空になった。食べ終えてしまうと、「俺が捨てに行きます」とミドリが二人分のそれを預かって、外に捨てに行く。その様子を見ながら、チアキは申し訳なさでいっぱいになった。
フォンテーヌに住む人間なら、誰しも新聞には目を通すだろう。数あるコラムの中で一際輝きを放つ占星術の神秘に胸を躍らせ、各国のスクープを独占取材する敏腕記者の文字に目を通す。かの水神が気ままに正義の天秤を操る様に一喜一憂し、正義の名のもとに裁かれた人びとの行く末を、コーヒーの香りが立ち込める中で好き勝手に議論する。
ミドリが知らないはずはないのだ。工場によって生計を立てる人間がいる一方で、その弊害に苦しみ、喘いでいる人がいることを。そして、自分もその被害者の一人であり、しかし身近に工場勤務者がいる。その飄々とした顔の奥に、想像もできないジレンマがあることをチアキはなんとなく察していた。
(俺のやっているこの事業も、誰かを苦しめることになってしまうのだろうか…)
チアキが空に人びとを送る夢も、その実現までにたくさんの汚染物質を生み出している可能性はゼロではなかった。油の匂いが、川にのって垂れ流されるこの街に、そもそも空を飛ぼうという発想をする余裕はあるのだろうか。排ガスで曇った上には、美しい青空があるというのに、そこに目をむける余裕は今の人々にはない。
実際、そうした意見はチアキを連日のように苛んでいた。初めて計画書をしかるべきところに届け出たときから、「できるわけがない」「夢物語だ」という声と共にチアキは歩んできた。フォンテーヌの技術協会が許可を出したのも、それを行う規模が小さく、何かあってもチアキひとりが責任を負えばいいという事と、チアキが夜を徹して出した計画書が、過剰なまでの法律に違反していなかったからという理由に過ぎない。限りなく成功率の低い個人のプロジェクトに賛同するものも、まして出資する人間など誰もいなかった。たったひとりで、いつ実現するかもわからない途方もない夢を前に、チアキは日夜戦い続けた。昼間は誰よりも真面目に働き、就業時間になると自分の工場に飛んでいった。同期からのどこか白けたような視線も、理解しがたいという声も全て無視をした。それほどまでに、チアキがこの孤独なプロジェクトにかける思いは熱かった。
けれど、その決意は今、たった一人を前に揺らいでいた。ミドリが毎日この工場に通うたび、彼も同じような好奇の目に晒されてはいないかと心配でならなかったのだ。彼は地元でも歴史の長い青果店の息子。そんな彼が、こんな油と鉄に汚染されている行為を黙ってみていられるはずがないし、彼の生きる場所を知る人間からしても、「どうしてわざわざ」と首をかしげたくなるだろう。
だからこそ、チアキは嬉しくもあったが辛かった。ミドリは、本当にこれで良いのだろうか。チアキに反抗し、「環境汚染にしかならない無駄なことはやめるべきだ」と真っ向からぶつかる日が訪れるのではないか。そういわれても仕方のないことを自分がしている自覚はある一方で、ミドリだけは自分の夢に共感し、応援してくれているという信頼もあった。「本当に迷惑だと思ってたら、もう少し文句くらい言うし…」というあの言葉が嘘だとは、チアキには思えなかった。だからこそチアキは辛いのだ。チアキへの信頼と、周囲の人々の視線の板挟みになってしまって、ミドリが人知れず苦しんでいないかと思ってしまう。
「けほっ、こほっ……」
そんなことを考えていたら、ふいに吸い込む空気が埃っぽく感じられて、チアキは大きく咳き込んだ。どんなに咳をしても、心にひっかかった靄は出ていかない。水を飲んで、埃と憂いとをお腹の奥に流し込む。
「そういえば…チアキさん、休憩時間大丈夫ですか?」
いつの間にかミドリがごみを捨て終えて戻ってきている。チアキは時計を見た。休憩時間は残り少なくなっていた。
「おお、しまった!今から戻らないと午後の作業に遅れてしまう!」
「あんまり無理しちゃだめですよ」
その些細な一言が、今のチアキには嬉しかった。
「ありがとう。ミドリも仕事頑張ってな!」
「はい」
ミドリが返事をすると同時に、サッと埃っぽい風がミドリの横を吹き抜けていった。それは確かに土埃と油の匂いをさせていたけれど、その奥に清潔感のある石鹸の匂いが紛れ込んでいることに、ミドリは気づいていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
火花が飛び散り、鉄が溶ける。溶接されたパーツが、カーンカーンと高い音を立てて他のパーツと組み合わさる。別の製造ラインでは歯車が回り、カラカラと心地よい音を立てていた。
「まもなく終業時刻だ。総員、すみやかに終業準備を始めるように」
チアキは顔をあげ、垂れ落ちそうな汗を拭った。オイルの汚れが、端正な顔に黒い落書きをする。
「今日も大変だったな」
「ああ、お疲れ様」
隣の作業員と他愛も無い会話を交わしながら、チアキは最後のパーツを組み立てた。
神の目の持ち主であるからと言って、高貴な職業や裕福な暮らしができるとは限らない。チアキの実家自体はさほど貧困に喘ぐような家柄でもなく、むしろそれなりに上層に家を構えているし、むしろ幼少期から身体の弱かった自分はあの空気が無ければ生き延びるのも厳しかっただろう。けれども、フォンテーヌの上流に溢れる高貴な演劇や着飾った衣服よりも、チアキは中下層の人びとの生活に心を奪われた。そこには、身分にあぐらをかく人間など誰もいなかった。誰もが家族のように親密で、支えあい、命が燃えている様を実感させた。機械やからくりの規則正しい音は、彼らにとっての音楽だった。チアキもまた、その音に、舞い散る火花に魅せられた。それと同時に、自由に空を舞う風の翼にも惹かれた。空は平等に人びとに拓かれた場所だ。いつか多くの人が、身分に関係なく文字通りその場所で語らい、楽しむことができたら。そしてそれを実現できるとするならば、それは芸術鑑賞でなく、機械工学の方だった。
チアキが家を離れ、下層部へ移り住むと決めたとき、両親はわずかに難色を示した。身体の弱い一人息子を工業地帯へやってもいいものかと悩んでいるようだった。チアキはその表情を見てから、日夜両親の説得を試みた。日に日に願いは強くなり、多くの夜をまだ見ぬ新天地と夢に馳せた。チアキの頭の中で沢山のパーツがひっきりなしに思考を繰り返し、時にはヒートアップして熱く火照ることすらあった。
日ごと増していくチアキの熱意と説得力に、ついに両親は彼の夢を応援することに決めた。新しい場所へと荷造りを始め、最後にトランクの蓋を閉めたとき、そこから何かが転げ落ちた。紅の瞳は、太陽の光に眩く映えていた。
それが、チアキが神の目を手に入れた瞬間だ。
それはまるで、チアキを祝福するかのようだった。以降、それはチアキの腰でいつも太陽の化身のように輝いていた。
チアキにとって、この神の目は自分の誓いの表れであると同時に、戒めでもある。いつまでも初心を忘れないための、そして、わざわざ自らの出自によって得られたかもしれない沢山のものよりも、自分の気持ちを優先したことを忘れないようにと。機械の道は長く、険しい。決して金持ちの道楽のような態度で望んではいけないのだ。
工場の外に出ると、もうとっぷりと日は暮れ、濃紺の空にまばらに星が広がっていた。きっと、もっと空気の澄んだ場所に行けば星はより美しく見ることができるだろうし、実際に占星術や星を研究する専門機関ではそういった星空はフォンテーヌでも見られる。けれど、チアキはこの星空が好きだった。
「けほっ、ごほっ…」
顔を上げていると、ふいに息が詰まって思わず激しく咳き込む。息を吸おうとすると、ゴロゴロと肺の中で砂や小石が渦巻くような感覚がした。
「ごほっ、はっ……げほっ」
咳き込みすぎて視界が滲む。涙に霞んだ視界で鞄をまさぐり、水を一気に流し込んだ。激しく噎せそうになって水滴が飛び散るが、それでも飲み込めば幾分かマシになったのを感じ、ホッと胸をなでおろす。
同時に、その安堵の隙間に黒い影が忍び寄るのを防ぐことはできなかった。セピア色の新聞記事が、チアキの脳裏に蘇る。
『工場の排気ガスによる肺疾患の死亡患者数、前年度より20%増加』
なぜかその見出しの奥に、ミドリが苦々しげに顔を歪めている表情が浮かんできて、チアキは唇を強く噛みしめた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
ミドリが工場に行くと、チアキはすでにそこにいて、大きな設計図を片手にああでもないこうでもないと一人でぶつぶつ言っていた。
「おはようございます」
「おお、おはよう!珍しいな、こんな時間に」
「うげ…よく朝からそんな大声出せますね。あと、俺のお店は今日休業日なんで」
「そうだったのか。休みの日なのに俺に会いに来てくれるなんて嬉しいなぁ!」
そう言って笑うチアキに、本当に元気な人だと改めて思わずにはいられなかった。チアキだって、今日は工場の仕事は休みだろう。だというのに、チアキには休みという概念がまるで存在していない。ゆっくり休むのは俺じゃなくてあんたのほうだよ、とよっぽど言いたかったが、いざ口にしようとすると言葉が喉にひっかかかったようになってうまく言えなかった。代わりに話題をチアキの隣にある「空を飛ぶ機械」に移し、ミドリは口を開く。
「ずいぶんでっかい機械ですけど、本当に飛ぶんですか?これ。鉄の塊でしょ?」
「理論上では飛ぶはずだ。まだ試運転はできていないから、実際のところはどうなるかわからないんだが…」
そういって自分の発明品を見つめるチアキの瞳があまりに優しくて、ミドリは思わずドキッとする。まるで愛しい女性をそばに置いているかのようなその瞳は、チアキがどれだけ自分の発明に愛情を注いでいるかを物語っていて、得も言われぬ焦燥感にミドリはひとり苛まれた。
このままチアキが発明を続ければ、いつしかミドリは用無しになってしまうんじゃないかという不安が、確かにそこにはあったのだ。
日々精進を欠かさないチアキにとって、きっとこの発明すらも自分が成長するための通過点に過ぎない。この機械がたとえテイワット中に流通したとしても、そのころにはチアキはまた別の目標を見つけて、国から認められる世紀の発明家として多くの人と共に日夜研究と開発に没頭するだろう。そしてその中にきっと、ミドリはもういないのだ。
思えば、なぜチアキはミドリを助手として認めたのか。その基準は誰にでも替えの効くものだった。チアキの研究が認められるようになれば、食事の提供や雑談に付き合うだけの自分は存在価値がなくなってしまう。もっと高尚な機械工学の話に精通し、技術力も申し分ない仲間も、料理を作り、振舞うことがこの上なく得意な仲間もすぐにできるに決まっている。彼の容姿や人柄に惹かれ、求婚してくる女性もいるに違いない――
(っ、考えるだけ無駄…)
自分の存在意義があまりに曖昧で、そのことに揺らぎそうになる。こんな感情を一時でも感じた自分がひどく惨めで恥ずかしかった。そんなミドリの気持ちなど露知らず、チアキはまた黙々と作業に戻っている。真剣な赤銅の眼差しは、やっぱり魅力的だった。
「……」
その様子を眺めているのが辛くなって、ミドリは外に出た。つなぎ目の浮き出た建物たちに、水蒸気を吐き出して濁った川を進む船。今日の空はいつにもまして鈍色だ。
(雨、降るかな)
傘は持ってきていないから、もし降ったとしたら濡れ鼠になる覚悟をしないといけない。それもまた憂鬱で、ミドリはため息をついた。傘を買いに行くべきだろうかとチアキに尋ねようと後ろを向いて、チアキの手が止まっているのに気づく。
「……っ、」
「チアキさん?」
「ん?どうした」
「……雨、降りそうだから傘買ってこようかと思うんですけど」
「ああ、助かる!お願いしていいか?」
「じゃあ行ってきます」
「ありがとう。頼むな」
工場を出て、大通りに出るまでに逃げるようにミドリの歩幅が大きくなる。チアキの一瞬に何かを感じて、それがたまらなく恐ろしかったのだ。
(チアキさん、体調悪いんじゃ…)
毎日工場での肉体労働と自分の発明で身体は限界のはずだ。チアキの手が止まっていたのは本当に数秒もない。しかし、その数秒の変化がミドリにとって言いようのない不安をもたらした。ミドリの知る彼は、一秒たりとも止まることのない蒸気機関車のような人だったから。
「傘を二本、お願いします」
モラをカウンターに置いたころ、ぽつぽつと灰色の空から雨が落ちてきた。やがて霧雨のように変化したその中を、一本を頭上に掲げ、もう一本を下げながら、ミドリは来た道を戻っていく。
「おかえり。雨、降ってきてしまったな」
「ですね」
チアキの手は止まっていない。その瞳は相変わらず輝いている。そのことに安心して、ミドリはホッと胸を撫でおろした。
パーツが溶接されるたびに散る火花が、薄暗い工場に鮮やかに映えた。雨脚が強まり、工場の屋根を叩く雨粒が高く、低く唸る。スチームバード新聞がしっとりと湿り気を帯び、その湿気は二人の身体にも纏わりついた。気だるげな空気は、ミドリを少しだけ微睡みの中に引き込んだ。チアキの背中と、飛び散る火花と不規則な雨音。はあ、と零れたため息は空気に溶け切らずに湿っていく。
「チアキさん、お昼は」
「ああ、ありがとう」
だから、一瞬気が付くのが遅れた。
チアキの瞳が雨では無い何かで潤んでいたこと。
「今日はなんだ?」
「いつもと同じ、サンドイッチですよ。期待してたとこ代わり映えしなくてすみませんね」
「いやいや、ミドリの作るサンドイッチはいつもおいしいじゃないか!これなら毎日食べたって俺は平気だぞ」
ミドリからサンドイッチを受け取る手が、微かに震えて照準を見失っていたこと。
「いただきます」
「いただき、ます」
息を苦しそうに吸ったとき、ぜえっ、という明らかに通常ではない音が聞こえたこと。
チアキが椅子にもたれるように座ったこと。
座った時、チアキの頭が支えを失ったようにグラグラしていたこと。
「チアキさん?!」
手から零れ落ち、床に広がってしまったサンドイッチの具の緑がいやに鮮やかだ。
「だい、じょうぶ…少し、だけ……少し、疲れた、だけ、げほっ…!!ごほっ、」
「チアキさん、チアキさん、大丈夫、」
「げほっ、ごほっ、ごほっ……おえっ…っ、か、はっ……!」
激しい咳のせいで呼吸は曖昧になり、苦しげに嘔吐く。ミドリは泣きそうな顔でチアキを見た。水筒を押し付け、思い切って外に出る。雨はいよいよ激しさを増し、ミドリの身体中をすぐにずぶ濡れにしたが、そんなことには構っていられなかった。誰か、誰か。狂ったように辺りを見回し、遠くにぽつんと人影を見つけたミドリはそこへ駆け寄った。脚をもつれさせ、目を赤く腫らして濡れ鼠のミドリを見て、通行人は不審そうな顔をする。
「……けて、助けて、ください……!!」
「落ち着いください、どうされたんですか?」
「人が、倒れて……!あそこの、工場、咳が……!!お願い、しま……っ!!」
そこでミドリはひどく噎せた。それでも、心優しい通りすがりはすぐにしかるべき対応をしてくれた。
救護隊員たちがチアキの工場に集まるのを、ミドリは呆然とした顔で眺めていた。毛布をかけられたチアキの体は細くて、今にも折れてしまいそうに見えた。
「大丈夫だ、ミドリ。すぐ戻る、さ…げほっ、そんな顔、する、な…」
「こら、君。安静にしていなさい」
「すみま、けほっ、せ……ごほっごほっ、か、ヒ……はっ」
「だから言ったじゃないか。むやみに動くんじゃない」
工場から伸びる隊員の列が、ミドリには葬送行列のように見えて。
「君は、彼の親戚?」
「いいえ、親戚じゃありません。でも…」
助手です。そう言おうとして、隊員の目つきが変わっていることに気が付く。どこか憐れむような目だ。
「じゃあ、もうしわけないけれど君は病院に付き添うことはできない。すまないが、ここから離れるように。消毒をしないといけないんだ」
「は……?消毒…?」
「知らないのかい?工場の煙による肺疾患は、場合によっては感染力のある合併症を誘発していることもあるんだ。そうなってしまうと危険だからね、原則、親族以外は面会や付き添いは謝絶。患者のいた場所も消毒しないといけない」
「でも、」
「気持ちはよくわかる。けれど、君は家に帰りなさい」
目の前が、真っ暗になった。
「どうしてですか?!あの人が倒れたのをみたのは俺です!!俺が付き添わないと、」
「法律で制定されているんだ。守らないと罰則を受ける羽目になるぞ」
準備を終えたらしい搬送用の乗り物が、ばたんと乱雑に扉を閉める音が耳を打った。
「まってください、俺、だって…!!あの人が……!!チアキさんが頼れるのは俺だけなんです!まって、まって…!!」
「いい加減にしろ!!捕まりたいのか?!」
雷のような大声に、ミドリは肩をすくめた。それでも、ミドリはその大きな体を伸ばして、縋るように手を伸ばす。エンジンのかかる鈍い音と、油のにおいが雨に打たれて消えていく。
「まって、嫌だ、行かないで、行かないで!!チアキさん、チアキさん!!!俺が、いないと、助手なのに、俺が、だって、俺が…!!」
指先が霞む。救護車が遠くなる。まって、と喉も張り裂けんばかりに叫んで走りだそうとするミドリを、誰かが強い力で引き戻した。振り払えないその力は、チアキよりも冷酷で、痛い。
ナイフで貫かれたような痛みを感じて、ミドリは心臓の辺りを強く握った。声にならないまま泣き崩れた。あとからあとから涙が伝い、頭がぼんやりとする。
「……早くここから離れて、家に帰りなさい。我々が消毒作業をする」
抗えない力に引っ張られるようにして、ミドリは家路へつかされた。
すっかり夜も暗くなったころ、雨で濡れた草を掻きわけるようにして、ミドリはこっそりと戻ってきた。
時折、この時間でもほのかに温かい色が漏れ出していたのが、遠い昔のように思えた。
「げほっ、うえ……臭い……」
人工的な薬剤の匂い。顔を顰め、工場の中に入る。手に持っているランタンの灯りがひどく侘しい。
「……」
いつもの場所に腰かけて、ミドリは顔を手で覆った。全てが夢の中のできごとのように思えた。
(起きて……)
覚醒している体に呼びかけてみる。もちろん、そんなことでこの状況が打破できるわけもない。それでも、呼びかけずにはいられなかった。
いつから、チアキがあの不調を体に抱えていたかはわからない。早いところ病院にかかっていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
チアキが最後にミドリの前で完璧に元気な姿を見せてくれた頃にはもう、チアキは病魔に蝕まれていたのかもしれない。
誰が悪いのか、わからない。
誰も責められなかったし、全てを責めたくもあった。体の違和感を言い出さなかったチアキも、それに気づけなかった自分も大嫌いだった。
ミドリは顔をあげた。薄暗い工場の中に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。
「……」
ミドリは熱に浮かされたようにそこまで歩き、ひざまずいた。チアキがいつもそうしていたように。
初めて触れた鋼鉄の愛情は、消毒液の臭いがして、冷たくて、残酷で、けれど。
あの優しい瞳が、いつも見つめていた先だ。
ミドリはため息をついた。泣き出しそうな湿気が口から漏れて、自分だけの空間に落ちた。ため息に導かれるようにして、ミドリはチアキの創りあげた溶接の継ぎ目をなぞる。
あれほどの熱意と情熱が、一夜にして消されてしまうなんてあまりにも残酷だった。
(チアキさん……)
彼の居場所を、これから自分一人でどう守っていけばいいのだろう。動力を無くした機械はやがて動きを止め、朽ち果てていく。
(お願い、帰ってきて…)
またあの純粋な炎が見たい。無邪気に笑う声が聞きたい。真っ黒な手で、背中を叩かれたってかまわない。
(チアキさん)
この工場に息づくチアキの情熱がないと、ここは不気味で寂しい廃工場のままだ。
(お願い…)
ミドリは作りかけの片翼に触れて、じっと銀色の光を見つめていた。
握りしめた拳の中に不自然な熱を感じるまで、ミドリはそのまま動かなかった。
「……っ?なに、」
ほのかに熱を持った手のひらが、再び全てをあらわにした時、零れ落ちたのはエメラルドグリーンの微かな輝きだった。表面の色は、風に葉がそよぐ様子を思わせた。
「……なんで?」
―――神の目だ。
ミドリは黙ってそれを見つめていた。神の視線が降り注いだことを示すそれは、彼になんの喜びももたらさなかった。それは、ただミドリの選択を皮肉るかのように、淡々と輝いていた。ミドリのなかで、何か激しい感情が全身を突き刺した。
細く、長い呼吸の後に、ミドリはそれをもう一度見つめて顔を歪め、次の瞬間うまれたばかりの願いの結晶を思い切り地面に叩きつけた。神の目はただそこにあった。遠くに行った人間を救いたいという健気な主の想いに応えようと、傷つくこともなく輝いていた。
「なんで、だよぉっ……!!」
絞り出すような一言の後、ミドリの口から嗚咽が漏れた。
どうして今なんだ。神の目になにができるというのか。
チアキのそばにいたいという願いは、ずっと前から持っていたではないか。チアキを救いたいと思っていたのは、前々からじゃなかったか。
どうしてその時に寄こしてくれなかったのだろう。その時なら喜べた。祝福だと思えた。けれど、いまになってこれを手に入れても、ミドリには神々が自分を嘲笑っているようにしか思えなかった。
「なんで、なんでぇっ……!!」
気づかなかったんだろう。振り切れなかったんだろう。救護班が到着したその時に、家族だといってしまえばよかった。だってチアキは、ミドリがいないと何もできない。何をするかわからない。大丈夫だと嘘に嘘を重ねてしまうに決まっているのに。ミドリは、チアキのそばにいたいだけなのに、どうして取り返しのつかない今になってこんなものを渡してくるんだろう。
「チアキさん……会いたいよ……会いたい、会わせて…」
ミドリは大声で泣きじゃくった。チアキの温もりを求めて、鉄くずに縋るようにして泣いた。顔を埋めるように泣き続けるミドリの周りを、ゆっくりと蔦が這う。それは恋人の触れ合いのように優しく甘く機体に触れて蔓延り、やがて全てを締め付けるように強く巻きついた。
身を震わせるミドリが縋る鋼鉄の存在は、ミドリノ泣き声が慟哭から引き攣るような声に変わった頃、緑の蔦の先に血のように赤い花を咲かせて沈黙した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
感情と仕事は切り離さなければいけなくて、だからこそミドリは翌朝も、その次の日も平気な顔をして野菜を売り歩いた。老若男女、野菜を受け取る健やかな手に噛みつきそうになる自分がいた。チアキの手が優しくスパナや溶接機器を持っていた姿が脳裏に閃いて、ミドリを押しつぶしそうになる。
顔色が悪いとか、寝ていないのかだとか、常連の客たちはミドリのことを気にかけてくれていたが、ミドリにはそれに応える余裕もなかった。自分がこの程度で弱音を吐いていたら、チアキにひどく失礼な気がしたからだ。
時折、仕事が終わるとミドリは町はずれの大きな建物に歩いていく。ひとつは、チアキの生活資本となっていた工場。たとえチアキが倒れたとしても、彼の担う部分はからくりでいえばいくらでも代替えの効く部位なのだと思い当たるたびに、やり場のない怒りがミドリを襲い、やがてやるせなさに変わっていく。
「どうしたんだい。君」
「……なんでもないです。失礼します」
工場の前を守る警備員が声をかける。ミドリはただ、去っていく。鉄柵の周りにちらほら見える人影は、皆工場を見あげている。それは大抵、工場で歯車となる男たちの妻や、娘や、恋人で、その中に紛れ込む自分はチアキにとってどんな存在だったのかわからなくなる。彼女たちが忘れ物を届けにきたり、乳飲み子に父の働く場所を見せているたび、ミドリは鬱屈した気持ちを抱えてそこを離れることしかできなくなる。
油の匂いは、チアキの匂いだ。けれど、どんなに彼と同じ場所に立ってみても、ミドリは彼と同じ匂いや温もりを共有することはできない。チアキにはチアキの生活の場があって、生きている環境が違って、そこにミドリが踏み入ったことは無いからだ。
あんなにも気にかけていたはずのチアキとの繋がりは案外薄くて、少しでも誰かに深堀りされてしまえば言葉に詰まってしまう。切磋琢磨する友情でもなければ、お互い想いあう恋人でもないこの関係に無理に名前をつけようとするたび、ミドリはそこから逃げ出したくなる。
工場に背を向け、華やかな大通りを渡って、いきつく先には消毒の匂いがしている。人工的なその匂いが、ミドリはどうしても好きになれない。サイレンの音が耳に痛い。
「……」
大勢の人が出入りしている。白衣を脱がずに出てきてしまった医師も、松葉づえで全身を支えるように歩く人も、一見するとどこが悪いのかわからない人も。
その中で、何度もあの赤銅をさがした。それでも、一度も見つからない。
いっそ自分が同じ病気にかかれば彼と同じ病棟へいけるのかと己の運命を呪いかけて、いつも悲しそうなチアキの顔が脳裏に浮かんで考えるのをやめる。
だからミドリは、病院を外から眺めることしかできない。自分が頑健な身体であることを恨み、行動力もない臆病な人であることを悔みながら、チアキを想う。
「肺の調子はいかがですか」
「おかげさまで、けほっ、だいぶよくなりましたよ」
真っ白いシーツ。薬と消毒の匂い。今の自分にはひどく不相応な場所だけれど、チアキの記憶にはしっかりと染みついている。
味気のない食事と、量ばかり多い錠剤を流し込んで、もはや社交辞令のような会話を交わして。退屈な日々だが、穏やかだ。
「まだ、退院はできないんですか」
「焦らないでください。まずは咳の症状を完治させることが最優先です。それが終わったら、まだ経過観察が数日残っていますから。そこで問題が無ければ、無事に退院です」
「そうですか…けほっ、んんっ、ごほっ、ごほっ……」
「まったく…だいぶ良くなったとはいえ、その調子ではまだ退院はできそうにないですね」
「あはは、すみません……」
呆れたように笑う看護士を見送って、チアキは深いため息をついた。堪えようとしても、チアキの病魔はその意志に反して治りが遅いことを教えてしまう。チアキは立ち上がり、本を手に取った。両親がかけつけてせめてもの慰みにと渡してくれた書物の数々だ。そのページをめくりながらも、チアキの瞳が文字を追うことはない。
(痩せたな)
青白く、細い自分の手首をぼんやりと眺める。健康的に血管の浮いていた手は、いまは病的に血管を際立たせている。
入院して、最初の数日間はひどかった。日夜咳が止まらず、高熱が出て、食事も喉を通らなかった。熱に浮かされ、涙に霞んだ瞳で天井を見あげては自己嫌悪に陥る日々が続いていた。医者からは、疲労のピークが元々患っていた肺疾患の自覚症状を顕著にしたと告げられた。その疾患は、最近新聞を賑わせている類の病という事も、肺疾患以外の合併症を発生している可能性があるから家族との面会以外は原則謝絶で、その面会も実質ほとんど無いようなものだとも。
どうにか起き上がって食事が取れるようになった今も、チアキは無機質な部屋の中で、多くの事に思いを馳せては嫌悪していた。
工場の仲間たちが倒れる瞬間を、チアキは何度か見たことがあった。まさか、自分がそちら側になるとは夢にも思っていなかったが。肺は相変わらず重苦しく、思考力をチアキから奪う。この先をどう生きていくかだとか、放置してしまった工場とそこにおいてきた夢の結末を考えるたびに、チアキの頭は決まって熱暴走を起こしたように熱く火照り、時にはその熱が全身に回る。
(ミドリ…)
それでも、たとえそんな状態になってしまったとしても、チアキには考えるのをやめられない存在がいた。助手のミドリだ。彼との連絡手段は途絶えてしまって、ミドリが今どこで、何をしているのかはさっぱりわからない。
熱に侵された夢の中で、時折彼の優しい顔に出会う。見たこともないほど甘い顔で、甘い声で、何かを囁く。
(ミドリ、俺は…)
母に与えられるような慈愛を、恋人に与えるような愛情を、チアキは彼に求めていた。そのことに思い当たるたび、チアキは泣きたいような気持ちになる。彼の人生は彼のもので、自分が独り占めして良い存在ではないのだ。むしろ、これを機にチアキの馬鹿げた行為に背を向けてもらう方が、ミドリにとっても良いのかもしれないとすら思う。
チアキは沢山のものをミドリから与えてもらい、たくさんのものを求めた。それは彼に一方的な我慢を強い続けていたことに、チアキは今更気が付いたのだ。頭がクラリと揺れて、チアキは本を置いて目を閉じた。瞼の裏に銀色の光がちらちらと舞う。
「……」
『大丈夫ですか?』
チアキはうっすらと目をあけた。ミドリが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「だい、じょう…ぶ…だ」
『嘘つき』
チアキの嘘を一蹴し、ミドリは病室の中を動き回る。本棚に空きがあるせいで倒れてしまった本を慣れた手つきで元に戻し、ブックスタンドを挟みこむ。
『これ、面白いんですか?』
適当に目についたであろう背表紙を指さして、ミドリが尋ねた。
「面白いぞ。少し荒唐無稽で、書かれた年代も古いが…興味があるなら貸そうか」
『いや、いいです。俺に読書は向いてないので』
そんなことはないだろう、と思うが、あえて口には出さなかった。ミドリは色とりどりの背表紙をしばらく眺めていたが、やがてチアキの元へ戻ってくるとずれ落ちた毛布をかけなおしてくれる。
「すまん」
『別に。病人は休むのが仕事でしょ…ん、熱、大丈夫そうですね』
ミドリの体温の低い手のひらが、チアキに一瞬触れて離れていく。しばらくの沈黙の間に、チアキは雨の音を聞き取った。どうやら外の天気はぐずついているらしい。
「ミドリのおかげだ。ありがとう」
そう言うと、ミドリは照れたように顔を背けた。こういうところがいじらしいと思う。ほんのり赤く染まった耳元と白いうなじをこちらに向けながら、ミドリはぶっきらぼうに『食欲は』と聞いてきた。
「ステーキ、といいたいところだが…生憎そこまで食欲がないな。スープでいい」
『わかりました。作ってきますね』
素直にうなずいて背を向けるミドリを、思わず引き止めたくなった。行かないでくれ、とその背中に縋ってしまいたい。自分の体が以前のようになるまで、ミドリにそばにいてほしい。けれど、それを口にしようとすると喉が苦しくなって言葉を押しとどめる。
(ミドリ、待ってくれ)
ミドリの背中がどんどん遠くなる。暗闇に一人放り出されたかのような強烈な孤独感を感じて、叫びたくなった。口を大きく開けても、声が出ない。
(待ってくれ、行かないでくれ…!)
息がうまく吸えず、肺が燃え上がったかのように熱くなる。ごうごうという気味の悪い音が、自分の体の中で火が燃えている音だとわかった途端、チアキは声にならない悲鳴をあげた。
(ミドリ……!!!)
到底その叫びが届くはずもない。気づけば周囲は火に包まれていた。自分が発火の原因を作ったのだと思うとおぞましかった。ミドリが興味を示した本が炭になり、毛布だけがチアキを炎の壁から護る唯一の手立てだ。メラメラという炎が、やがてひとつの音になる。
『やるだけ無駄なのに』
『違反してないから一応通しておきますけど、責任は取りませんよ』
『あいつ、何様のつもりだよ。俺のほうが頑張ってるってアピールか?胸糞悪ぃ』
「あ、ぁ………」
全部、身に覚えがある。顔は思い出せない。名前も知らない。けれど、確かにチアキの心の奥底が知っている声。見ないようにしてきた、膿の部分。炎の壁がより一層迫ってくる。チアキは毛布を手繰り寄せ、それすらも燃えていることに気が付いて悲鳴をあげた。赤銅が怯えたように左右に走り、そのあと全てを拒絶するかのようにキツく閉じられる。
炎の中から聞こえる声は、もう判別もつかないほどに増えている。だというのに、チアキにはそれがはっきりと聞こえる。
『自分の才能買い被りすぎだよ』
『金持ちの道楽?あほくさい』
『これだから上層部あがりの人間はさぁ……』
「ぁ、あ、がっ……」
『チアキさん?』
「はっ……!!」
その一声に、チアキは弾かれたように顔を上げ、そして顔を引き攣らせた。
全身を炎に舐められ、影のようになった人影。それは亡霊のようにチアキのそばにやってきて、顔を近づける。
「み、ミド、」
助けを求めるような震え声は、チアキの耳元で囁かれた一言にかき消された。
『……くだらないことに俺を巻きこんで…あんたのやってることは、こっちじゃ無駄。迷惑だし、叶うわけないんですよ。いい加減こんなこと辞めてください』
全身が燃え盛り、心臓が氷の刃で貫かれたかのように冷たくなった。
「―――っ!!!ぅあ、あ、やめ、ろ、言うな、言うなぁああぁぁああああっ!!!」
次の瞬間、チアキは真っ白な天井を見つめていた。毛布はベッドからずり落ち、全身は汗に濡れている。吐き出す息は火炎のようだ。
「っは、はっ、はっ……」
酸素不足と高熱とで、眩暈がする。悪寒が止まらない体にどうにか毛布を纏わせて、チアキはそれに顔を埋めた。
「はっ、はっ…う、ああ……」
窒息しそうなほど強く毛布に顔を押し付けて、チアキは泣いた。夢の中であんなにも大きな声で叫べたはずの喉は、現実では熱の塊を押し込まれたように何も声を出せなくなっていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
チアキが入院して、もう何日目かを考えるのはやめた。その間に限定品を告知するポスターが更新されたのを見かけたから、少なくともひと月は経っただろうか。相変わらず、ミドリの実家の野菜はよく売れ、工場は多くの人々の労力で稼働している。
それでも、従業員が二人だけの工場に活気が戻ることはなかった。チアキのことだから、彼が退院したらすぐにこの場所に戻ってくることはわかっている。だからこそ、ミドリは毎日その場所に赴いた。仕事の合間を縫って工場と、病院と、そして二人の拠点に脚を運ぶのは辛かったが、チアキの姿さえ見られればそれでよかった。
(今日もいない…)
けれど、そんなミドリの期待はいつだって裏切られる。チアキの努力の証に巻きついた蔦は茶色く枯れて、最近のミドリはそれを払う事だけがここに来る目的だった。
神の目を手に入れても、ミドリの生活は変わらない。ただ毎日のように野菜を売り歩いて、売上を親に渡し、決まった道を辿りながらチアキを探す繰り返しだ。強い願いの表れが神の目だというけれども、それが願いを解決する手段になったことなど一度もない。
改革を叫ぶような急進派の若者なら、気まぐれな水神に宣戦布告をしたかもしれないが、そんなことは無駄に過ぎないという事はミドリ自身が一番よくわかっていた。革命が起ころうとも、そこにチアキがいなければ意味はないのだ。
ミドリはいつも、サンドイッチを二人分持ってゆく。お腹を空かせた相手に、すぐに栄養源を差し出せるようにするために。結局いつも、それはミドリだけの食事に変わる。
「ミドリ、ぼーっとしてないで早く配達に行きなさい」
「あ、うん…いってきます…」
野菜の詰まったバスケット。この材料で、ミドリはチアキに何をしてあげられるだろうと、最近はそんなことばかり考える。カフェの前を通ると、作業着を着た人びとが休憩していた。その中に、探している姿はない。鉱石類の加工を専門とした人びとの鉄を打つ音が響いてくる。その火花に、しばらく足を止めた。
(チアキさんの火のほうが…)
ずっときれいで、温かいと思うのは職人たちへの冒涜かもしれない。厳しい目がこちらを見てきたので、足早に立ち去った。
「お届けにきました」
「あら、ミドリくんいつもありがとう」
品の良い母親が、バスケットいっぱいの野菜を受け取る。背後から見つめてくる子どもの無垢な色に、目を逸らしたくなった。
野菜の代わりにモラの入ったバスケットを抱え、ミドリは来た道を辿る。途中、俯いて早足に歩く人と何人もすれ違った。極力この街に充満している空気を吸わないようにし、陰鬱さに飲まれないようにしながら。ミドリは辺りを見回した。そんな人々の中でも、しゃんと伸びた背筋を見つけようと。どんなに目を凝らしても、そんな姿勢は見当たらない。背中を丸め、或いは視線を石畳にばかり落としながら歩く人々だけだ。
「あ、すみません」
「すみません…」
道の真ん中に立っていたミドリに、誰かがぶつかる。背後からの衝撃は寒々しくて、ミドリはバスケットを抱えて平謝りした。ぶつかってきた人も、小さく頭を下げて謝罪の言葉を口にした。帽子から覗く焦げ茶色の髪が印象的な人だった。
「―――ッ?!」
ミドリは一瞬、息が止まるような思いがした。
「チアキさん?!」
往来で名前を呼ばれた彼は、黒いフレームの眼鏡の奥から驚いたようにミドリを見て、直後に顔をひきつらせた。
(えっ……?)
その顔に走る怯えの色に、ミドリは驚いた。
「まって、」
よろよろと背を向け、チアキの足が地面を蹴る。ミドリが伸ばした手をさえぎるように、ゆっくりと背中が遠ざかる。その距離が大きく離れたころに、ミドリはようやく走り出した。
「まって、ねえ……!!」
往来で声を上げながら走るミドリを、人びとは不審そうに眺める。それでも、チアキを逃がすわけにはいかない。洗いざらい吐かせなければ。体調は大丈夫なのか、どうしてこんなところにいるのか、仕事はどうなったのかも、彼自身の夢の行く先も、本人の口から聞かなければ気が済まない。
荷台いっぱいに物を積んだ作業員が、ミドリの前をゆっくりと横切る。乱れた呼吸を整えながらそれを迂回して、そしてミドリは再び呆然と佇んだ。
「どこ、に……?」
いない。広い通りのどこにも、チアキの姿はなかった。まるで陽炎のように、ミドリの目の前でチアキはいなくなってしまった。
「っ、なんだよ…」
怒りが腹のそこからこみあげてきた。あの貧弱な体を揺さぶって、思うがままに彼を責めたくなるほどに。あんな姿は、チアキらしくなかった。彼なら、ミドリに気が付いた途端すぐに飛びついてくるはずなのに、どうして逃げたりなどしたのだろう。
自分があの時、強引に手首を掴まえていたら、チアキは今頃、ミドリの隣にいたかもしれない。
「あの、馬鹿」
いつかの時を思い出して、頭がクラリと痛む。あの時も、自分に少しの判断力と行動力があれば、こんなことにはならなかったはずだ。チアキに向いていたはずの怒りは、いつの間にか慣れた自分への嫌悪感に変わってミドリをチクチクと苛む。
「いつ、戻ってくるんだよ……」
往来に落ちた言葉に返す人など誰もいない。ミドリは唇を噛みしめ、元来た道を引き返す。帰るまでの道のりは、ひどく長く感じられた。
「げほっ、こほっ」
人目がさえぎられたことを確認して、チアキは路地裏で大きく咳き込んだ。退院したとはいえ、体は本調子からはほど遠い。少し無茶をすれば肺は不吉な声で悲鳴をあげる。
ミドリに見つかったのは想定外だった。まさか、真昼の街の中心で出会うことになるとは思いもしなかった。あの瞬間、チアキを貫いたのは罪の意識だった。どのような顔でミドリに向き合えばいいのか、チアキにはわからなかった。
だから、逃げ出した。そうすることでしか、自分を保てなかった。背後から遠くから自分を呼ぶ声が怖かった。
(俺は、弱い……)
ミドリに真剣に向き合うことを恐れた自分には、尚の事夢を追いかける資格はないように思えた。チアキにとって、あれほど夢見た機械の発明は、今や一番距離を置きたいものだった。機械を見ても、チアキには夢の中で自分に冷たい視線を向けたミドリを思い出すのだ。そうすると全身に悪寒が走り、呼吸が浅くなる。
働いていた工場に、足が向かなくなってしまった。やむなく休職を願い出たが、そこに行きつくまでも一苦労だった。両親に手紙を出して助けを求めるのは、反対しながらも送り出してくれた二人に泥をかけることに思えて、できなかった。
今のチアキは孤独だった。初めてこの地に降り立った時よりも、ずっと。唯一心の支えになるかもしれなかったミドリの手を振り払ってしまえば、この地はチアキにとってなんの意味も持たない。
心のどこかで、自分はミドリに見つかることを望んでいたのかもしれなかった。あの時、声をかけられた時、自分がそれに応じていれば、結末は違ったものになったかもしれない。頭がぼんやりとしてきた。内側で、非難の声が渦巻く。あのミドリの視線が、声が、態度が。また、もう一度、自分の中で。
「はっ、はっ……」
一度、二度、大きく深呼吸をすると、パニックを起こしかけたチアキの頭はなんとか冷静さを取り戻した。それでも、チアキの体はどこもかしこも燃えたように熱い。震える体を壁に手をついて立て直しながら、チアキはメガネの奥でぎゅっと目をつむった。
何もかもが嫌になる。このまま蹲ったところで、どうにもならない。
強烈な厭世感と自己嫌悪が襲ってきて、その狭間で、チアキは藻掻いた。
また、体が熱くなる。意識が熱に乗っ取られまいと足掻いている。体が冷たくなると、不快な汗がどっと出た。
まだ、ミドリの声がしている。軽蔑、呆れ、嘲笑。全部、チアキが、体験したこと。体験して、そのたびに笑ってごまかして、澱のように奥底に溜めていた、暗くて、弱くて、ぐちゃぐちゃの、感情の絡まり。
「ああ、もう……」
嫌だ。
それは、チアキが考えに考えて、汚泥のような思考の中から生み出した本音だった。
全部溶けて無かったことにしてしまいたい。機械そのものも、ミドリと出会った事実も、全てなくしてしまいたい。
「ごほっ、はっ……もう、動ける…」
路地裏から顔を出して、ミドリの姿が全くないことを確認すると、チアキはよろめきながら歩き出した。この道を通るのも、これで最後にしようとぼんやり考える。
(……もう、こんな馬鹿なことはやめよう)
反射する水面に顔をしかめながら、橋を渡る。オイルとスクラップの匂いに吐き気がこみあげてくるのを堪えながら、チアキは歩き続けた。
しばらくぶりの工場は、主の弱さをあざ笑うようにそこにあった。熱とは別のもので足が震え、引き返したくなる。けれど、今ここでしり込みしてしまえば、チアキを蝕む憎悪は本物になってしまう。
工場の中は無人で、薄暗く、冷え切った機体がぽつんとそこにあるだけだった。
「な……?」
汚い壁に手を突きながら、チアキはその全貌を見つめ、そして目を見開いた。
チアキが最後に見た機体と、その様子は様変わりしていたからだ。
機体に絡みつく、茶色の細い線。その先にあるのは、変色した花だ。花弁が床に散らばっている。
「誰が、こんな……こと…?」
質の悪い悪戯だろうか。熱で朦朧とした自分が見せている幻覚だろうか。その真意が掴めないまま、チアキは機体の元へ歩いて行き、そっと手を伸ばした。
「痛っ…」
手に走った痛みに、この”かつて花だったかもしれないもの”は薔薇だということがわかった。喉奥に苦い感覚がこみ上げてきて、チアキは激しく咳き込んだ。行き場のない感情に叫びだしたくても、体がそれを許してくれない。
「……」
ようやく立ち上がりながら、チアキは工具箱を探る。埃っぽいにおいに絶えず咳き込みながら、かつて道具を打つために使っていた金槌を取り出す。
『こうやって少し整えてあげると、綺麗になるんだ』
『すごい…』
熱い鉄を打ちながら、チアキは言った。ミドリは決して大きな反応はしなかったが、それでも身を乗り出して目を輝かせる姿はチアキにとってとても嬉しいものだった。
『ミドリもやってみるか?ほら、こうやって…』
『や、火傷しませんよね?』
『大丈夫だ。俺がついててやるから』
カン、カン、と不慣れな音が工場内に響く。歪な形を描きながら、それでも確かにそれはパーツと呼べる変化を遂げていった。ミドリの額からぽたりと汗が流れ落ちる。息を吐きながら、一心に鉄を打つミドリの姿は綺麗だった。
『これ、使えますか?』
『大丈夫だ。少し整えれば使えるぞ』
チアキが金槌を手に取ると、凹凸は見る間に滑らかな平面に変わっていった。
『ほら、これで使える。二人で作ったパーツだ。嬉しいなぁ』
『大袈裟ですよ、まったく』
言いながらも、まんざらでもなさそうな顔をしていたミドリ。チアキの瞳に涙が滲む。
「ミドリ…」
会いたい。
会って、もう一度話をしたかった。けれど、彼の前から逃げ出した以上、もうその資格があるはずもない。チアキは機体の目の前にしゃがみこんだ。ズキズキとこめかみが痛んだが、それを無視する。金槌を振り上げる腕が鉛のように重い。
「………」
息を大きく吸って、吐き出す。自分でも、これは幼稚なことだとわかっている。わかっていて、それでもせずにはいられない。
「………すまん」
両親に、ミドリに、チアキの夢を通してくれた人に、顔向けなんてできなくて。
「…すまな、い、すま、な、ごめん……ごめん…な、さい…」
しゃくりあげるような声で、チアキは何度も謝った。棘が手に刺さっても、そのせいで血が微かに滲んでも、チアキは縋るように機体のそばを離れないまま、その場にいない誰かに向かって謝り続けた。金槌が降り下ろせない。早く、終わりにしてしまいたいのに。
耳鳴りがする。金槌が重い音を立ててチアキの手から滑り落ちた。呼吸がうまくできない。視界が揺れて、水平を保てなくなる。
(……戻りたく、無い…)
もう一度あの病室に戻るのが怖い。ミドリに会うのが怖い。戻りたくない。戻れない。チアキは口を開け、ゼェゼェと喘いだ。
「……いた。ねえ、」
突然背後から刺されたような衝撃に、チアキの体が強ばる。逃げようにも体が動かない。その声はあまりにか細く、迂闊に触れれば壊れそうな程脆かった。
「まって、チアキさん……逃げないで……探したんです」
ミドリの体が、チアキの体に触れる。熱さに驚いたように跳ねた体に、チアキの全身はもたれかかる。
「……戻ろう、チアキさん…」
すすり泣く声が聞こえた。震える指先で、ミドリはチアキの肩を抱いた。
耳鳴りが酷くなり、チアキの意識はそれに飲まれるように途切れていく。ミドリは尚も泣きながら、ぐったりとしたチアキを背負うようにして立ち上がった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
チアキが目を覚ますと、天井は淡い色をしていた。薬品の匂いはそこにはなく、ただ土や植物めいた匂いがあるばかりだ。
「……」
「おはようございます…」
うち沈んだ声が聞こえてきて、チアキは首を傾けた。目の下を真っ黒にしたミドリが、こちらを見ている。わけがわからないという顔をしていたのを見て取ったのか、ミドリは相変わらず沈んだ口調で教えてくれる。
「……倒れてました。また。いつ、退院してたんですか?」
「あ、いや……」
聞きたいことが多すぎて、言葉がうまく出てこない。どうして自分はここにいるのか、ミドリはどうしてここにいるのか、そもそもここはどこなのか。自分が倒れた後のことも知らなかった。あれほど向き合うのが怖かったミドリは、チアキを非難したり、軽蔑したりしなかった。ただそこにあるのは、深い疲労と絶望だ。
答えないチアキに業を煮やしたのか、ミドリは一方的に喋り始めた。
「退院してたんなら、なんで今まで会ってくれなかったんですか。なんで、俺を見て逃げたりなんかしたんですか」
ミドリの唇が震えている。チアキはその様子に目が離せなかった。
「俺が、あそこに行こうと思ってなかったら…今頃、どうするつもりだったんですか?死んでたかもしれないのに」
「…………すまん」
「いいです、もう。水飲んで」
差し出されたコップに手を伸ばすために、体を起こす。クラリと視界が揺れ、チアキは低く呻いた。乾ききった体に柔らかな口当たりの水が染み込んで、こんな時だと言うのにコップはすぐに空になる。空になったそこに、ミドリは何も言わず次を注いだ。
「っ、ぷは…ありがとう」
「……」
ミドリは酷くやつれていた。白い肌はくすんで、全ての色彩が失われたようだった。
「なんで、」
そこまで言いかけて、ミドリは口を噤んだ。頭の中で押し寄せる言葉の波を、やり過ごしているかのようだった。
「なんで、あの時、」
どの時期を指しているかは曖昧だったが、少なくともチアキが倒れたあとの話をしたがっているのは明白だった。その時までは、チアキとミドリは良好な関係を保てていたはずだから。
「あの時、俺から逃げたんですか……?なんで、退院したの教えてくれなかったんですか?なんで、体調悪かったの隠してたんですか」
矢継ぎ早の質問は、ミドリが一人でずっと抱えてきたものだった。それに対するチアキの答えは、たったひとつだった。
「……すまない、ミドリ。本当に」
「俺、だって、心配してたんですよ。何かあったんじゃないかって、なんでもっと早く気づけなかったんだろうって、俺、ずっと……!!」
感情が昂って、ミドリの声が途切れた。膝の上で硬く拳を握りしめながら、ミドリは堰を切ったようにまくし立てた。
「ずっと、毎日毎日、チアキさんがいなくなってから、心配でした。怖かった、情けなかった……!何も出来ない自分が嫌でした、連絡も取れない、状態も分からない、怖かったです。だって、俺なんにもしてあげられなかった。チアキさんの助手は俺なのに、何にも……」
ミドリはそこで言葉を途切れさせ、深いため息とともに顔をおおった。「でも、今更なんです」と呟いた声はひどく幼かった。
「……すまない」
チアキはその言葉を繰り返した。謝罪以外に告げるべきことが見当たらなかった。
「謝って欲しいわけじゃ、無いです」
ミドリは失望したような視線をチアキに投げかけ、それだけを告げた。
「なんでチアキさんが俺に何も言わなかったのか、俺を見て逃げたのか、ここに戻ってこなかったのか……それを知りたいだけなんですよ、俺は…謝らないでください。気が滅入る……」
鬱々とした顔で、ミドリはチアキを見た。ミドリは待っている。チアキの醜い部分が顕になるのを、待っている。
チアキはミドリを見た。虚ろな翡翠は、元の輝きを失っていた。その瞬間、チアキはミドリを逃がす最後の手段は、自分の穢い本性を見せつけることだけだということを悟った。
「ミドリ、けほっ、これから言うことを聞いて、もしも、お前が助手を辞めたいというなら、辞めてもらって、構わない……」
「…………」
「結論から言おうか。俺は……怖くなったんだ」
「は……?」
「……体の不調を感じていたのは、かなり前からのことで…ごほっ、んんっ……だが、俺はそれを一時的なものだと甘く見ていた。それに、今俺が倒れたら多くの人に迷惑がかかると思った」
ミドリの脳裏に、工場の様子を見に来ていた女性たちが浮かんだ。油まみれになりながら生きる人たちの姿も。
「入院して、考えた。俺のやっていることは、本当に正しいことなのか。俺のせいで、俺が無駄なことに資源をつぎ込んで…その時からだ、怖くなったのは」
チアキはかけられている布団のまっさらな布地を見つめながら話していた。だから、ミドリが唇を噛み締めたことに、気づかなかった。
「ミドリも知ってるだろう。スチームバード新聞の記事。肺疾患の…そのことに対して、俺も加担している意識はずっと持っていたんだが……入院を機に、少し、その思いが強くなってしまってな…」
困ったようにへらりと笑うチアキに、ミドリは奥歯をギリリと噛んだ。呑気に笑っているチアキが信じられなかった。ふつふつと込み上げてくる感情は怒りで、なのに大きな哀しみすら孕んでいる。
「夢を見たんだ。入院している時に。俺がどれほど周りの人間に迷惑をかけてきたか、その時に思い知った。その中にはな、お前もいたんだぞ」
そう言って、チアキはミドリを見つめた。諦めの混じった赤銅が、表情の読めない翡翠とぶつかる。
「なに、それ……」
口からこぼれおちたミドリの反応は、恐ろしい程に感情が抜け落ちていた。それでも、二言、三言と言葉を続けてゆくと、ミドリの声にははっきりと激情が混ざるようになった。
「なんだよ、なんだよそれ……!!全部、あんたの勝手な思い込みじゃん!!!!」
勢いよく立ち上がったミドリは、言葉を叩きつけるように言った。
「俺がいつ、あんたに迷惑だなんて言いました?!言ったじゃん、俺が助手なんだから、完成させないと許さないからって、言ったじゃん…!!」
ミドリの喉から引き絞るような嗚咽が漏れ、再び椅子に座り込む。
「逃げたり倒れたりすんのはダメだって、約束したじゃん…何があっても完成させるって、俺に約束してくれたのに…結局、一番夢を信じてないのはあんた自身だよ、なんにも分かってない……!俺が、あんたが倒れた時どんだけ怖かったかも、あんたの夢を応援したいと思ってたかも、なんにも!!わかってない、よ……」
俯いたミドリの膝に、大粒の涙がぽたぽた落ちる。
「…家族だったら、弱音も言ってくれた?俺のこと、もう少し信じてくれましたか…?俺じゃ、家族じゃないから…だから、ダメなんですか……?チアキさんを助けることも、応援することも、俺、なんにもできなかった…俺じゃ、チアキさんを助けるには十分じゃないってことですか…?」
「違うんだ、ミドリ、そうじゃな……げほっ、げほっ、頼む、から…!そんな事、言わないでくれ…ごほっ、違う、」
「何が違うって言うんですか?」
「俺は、ただ、ミドリに、迷惑を、かけたくなかった…けほっ、だけ、だ…わかってくれ」
「だって…だからって、一人で抱え込んだら結局こうなるんですよ?」
なおも食い下がろうとするミドリに、チアキは困ってしまった。どうしてわかってくれないのだろう。家族のように愛おしい存在だからこそ、ミドリをこうしたことから引き離してやりたいのだ。愛しい人間を大事にしたいというその想いの、どこが間違っているのだろう。
「ミドリ……!!何度も言わせるんじゃない…俺は、お前を守りたいんだ」
「なら、最初っから助手になんてしないでください!」
まっすぐな叫びが、チアキの耳にこだました。ミドリはくしゃくしゃに顔を歪めて、涙混じりに訴えた。
「最初から、そんなことに俺を巻き込まないでください。一人で責任が取れるっていうなら、全部完璧にできるなら、そうしてくださいよ…でも……!!チアキさんは、そういう人じゃないでしょ?!」
翡翠の海から涙が流れていくのが、目にはっきりと焼き付いた。
「俺が来る前はしょっちゅう熱を出して、倒れて、そんな危なっかしい人、放っておけっていうんですか?!お昼だって俺が声かけないとすっぽかすような人なのに、そんな人を見捨てて離れろって?無理ですよ、そんなの…無理です」
「だから、それは俺がミドリに負担を……」
「こっちの言い分も少しは聞いてください!!!!」
苦しそうな叫びに、チアキはいよいよ何も言えなかった。ただ黙って、ミドリがずっと耐えてきたであろう感情の発露を見守ることしかできなかった。
「負担じゃないんです、嫌じゃないんです……!!チアキさんがいない時のほうが、俺は何倍も嫌なんです…!!」
自分で感情に名前をつけていくその行為の中で、ミドリ自身が抱えている気持ちに戸惑い、揺れているのが見えた。それでも、ミドリは一生懸命にその断片を伝えようと努力していた。涙はとめどなく頬を伝い、目元を赤くして、声は激しく震えて時に嗚咽に飲まれてしまったが、それでも、ミドリは必死になって言葉を紡いだ。
「嫌なんです、チアキさんの隣にいたいだけ、なんです!どうして、どうしてそれを否定するような事ばっかり、言うんですか…?どうして、俺、だって……」
不安に呑まれそうなミドリが、震えながら口を開く。その一言一言が、スローモーションのようにチアキの内側に響いた。
「ただ、チアキさんのことが、好きなだけなのに……」
そう言ったきり、ミドリは顔を覆って泣き始めてしまった。それ以上何か言うわけでもなく、ただ自分の気持ちの全てを吐き出したのに身を任せて泣いていた。
「……」
嵐が過ぎ去った後のように、チアキの心の中も荒れていた。それは、一人で抱えてきた自己嫌悪や見えない声に嫌悪感を募らせていた時とはまったく異なるものだった。ただ呆然と、少し青空すら覗く空を見上げるような、不思議な感覚だ。こんなに強い感情をミドリが秘めていたことも、その感情をぶつけられたことも、チアキは初めてだった。
「すまない」
結局、チアキが言えたのはさんざん使い古したその言葉だけだった。ミドリがゆっくりと顔を上げても尚、チアキは彼の告白にどう応えるべきかを考えていた。
入院している夜に思い浮かべるのは、決まってミドリの顔だった。あの悪夢を見るまでは、ミドリがどうしているかを考えるのが精一杯だった。熱でうまく機能しない頭は、ミドリのことならいつだって、なんだって考えようと必死だった。
きちんと眠れているのか、ご飯は食べられているのか。その心配は親のような事柄ばかりだったが、チアキは時折、その先を考える。眠れないミドリの頭を撫でながら優しく何かを囁く自分も、食事に出かけて半分こしようと提案する自分も、チアキの中には確かにあった。それとは反対に、ミドリが優しく自分に触れることを望んでもいた。
今、ミドリは自分の想いを吐露してくれた。どのような形であれ、それに応えるべきだとチアキは思った。たとえ、今自分の頭の中で考えがまとまっていなかったとしても。
「…ありがとう、ミドリ」
チアキの告白は、そんな形から始まった。嘘偽りのない、まっすぐな感謝の気持ちから。
「そうか、お前は……けほっ、そんなふうに思ってくれてたんだな…」
この次にどんな言葉が飛び出すのかは、チアキ自身もわからない。
「嬉しい」
その一言に、ミドリは目を見開いてチアキの次の言葉を待った。
「嬉しい。ミドリ、俺もだ。俺もお前の事が好き…なんだ。ただ、少しお前とは考え方が違っただけで」
じんわりとした何かが体を巡るのを感じながら、チアキは手探りで言葉を探し、感じたままをミドリに伝える。「好き」という言葉が、きっとミドリと同じ物だと認識した途端、チアキの胸は甘酸っぱい疼きでいっぱいになった。
そうだった。自分はきっと、彼に長いこと惹かれていた。初めてあったその時から、その人柄に、惹かれていた。
「俺は……ミドリのことを大切にしたい。だから、俺が全ての苦労を背負うべきだと思ってた。病気のことも、夢の事も、当事者は俺だからな。大事だから、なるべく嫌なことには触れさせたくなかった」
「なにそれ、馬鹿じゃないの……」
ひっく、としゃくりあげながら、ミドリはチアキを睨めつけた。
「すまない、ミドリ。本当にすまない。ただミドリを守りたいと思ってるだけじゃ、ダメだったんだな……」
「当たり前、じゃ、ないですか……」
「かっこ悪い姿を見せたくなかったんだ。ミドリに幻滅されてしまう気がして」
「……」
「ミドリが、そういう関係は嫌だと教えてくれて、ようやく自分の間違いに気がついた。ありがとう。けほっ、こほっ……ミドリ、ありがとう。お前を、好きになれて、良かったぞ」
ミドリははらりと涙を流し、それを指の腹で拭ってから口を開く。
「……責任は?」
「えっ?」
「責任は、とってくれないんですか。俺の事、こんなにして、こんなことまで、言わせて……この後、俺をどうするつもりですか…?」
「それは……」
チアキはしばらく逡巡した。ミドリを自分の元から引き離す必要のなくなった今、チアキは何をしてあげられるだろう。
彼を助手として採用した身で、チアキができる最善の選択はなんだろうか。
チアキはミドリをじっと見た。泣き腫らしたその翡翠は、やっぱり「守りたい」という気持ちにさせる色だった。けれど、ミドリは守られてばかりいることを望まないのも知っている。
それに、チアキはミドリに求めていたものがあった。辛い時、苦しい時、その中心にいた人。弱さを見せたくなかったけれど、それでもその弱さを見せるならば。
相手は、ミドリしかいないだろう。
「ミドリさえ、良ければの話になるが……俺の元で、もう少し、手伝ってくれないか」
「いいんですか?俺じゃ、専門的なことは何も言えませんよ」
「それでいいんだ。ミドリ以外の助手を雇うつもりなんてないし、ああ、うん……そういうことじゃないな、うん…」
ミドリは何も言わなかった。ただ黙って、チアキの次の言葉を待っていた。
「………一緒に、いてほしい」
随分な沈黙の後、チアキはそれだけを告げた。ほんのりと頬を赤く染めながら、それでも顔を上げて、チアキはまっすぐにミドリに告げた。
「それだけだ。助手じゃなくてもいい。けど、もう少し、ミドリと一緒にいたい」
ミドリの顔がほころんだ。花が咲いた瞬間のようだと、チアキは思った。
「仕方のない、人ですね……」
触れた手の温かさは、これ以上ないほど優しい温もりだった。その指先を絡め取りながら、チアキは目を細める。
ミドリを、心から愛しいと思った。これからも大切にしようと思った。そうして、もしも自分に何かあったら、怯えずに彼に背中を預けてみようとも。弱さを見せることも、信頼の一つの証だからだ。
「…いいですよ」
慈しむ様にチアキの手に触れながら呟かれた言葉に、胸の底から温かい気持ちが湧き上がってきた。そっと手を伸ばすと、ミドリは体を添わせるようにして、チアキの腕の中に少しでも自分がいられるようにした。ベッドの上と、椅子の上と、少し隔たりはあったけれど、お互いの感情に隔たりはなかった。
「機械、また作ろうと思う。少し気が早いかもしれないが…」
「そうですか」
「ミドリも一緒に、だぞ」
「わかってます」
「見守っててほしい。一番近くで」
「それも、わかってます」
くすんでいても、ミドリの頬は滑らかだった。すりすりと触れるチアキの指先に、ミドリはくすぐったそうに身を捩った。
「でも」
チアキからゆっくりと体を離し、ミドリは少し厳しい口調で言う。
「今は、完治させるのが最優先です」
「ははっ、そうだな」
ミドリは安心したように笑った。垂れた目元が眠たそうに、けれど確かな愛情を持って、チアキに向けられていた。
「ミドリもきちんと休むんだぞ」
「チアキさんが言えたことじゃないでしょ」
ゆったりとしたテンポで、会話は進む。いつもの日常が、二人に戻ってこようとしていた。それでも、同じ一日が二度とこないように、チアキとミドリの関係は大きく変わって、新たな夜明けを迎えようとしている。そのことがチアキにはとても嬉しいことのように思えた。ミドリにとっても、それは同じだった。
「おやすみなさい、チアキさん」
「ああ。おやすみ、ミドリ」
ベッドに体を横たえると、すぅっと眠気が襲ってきた。ずっと忘れていた感覚だ。
それに吸い込まれるように、チアキはゆっくりと眠りについた。
夢の中で、ミドリが微笑んでいた。
チアキが手を伸ばしても、ミドリは消えない。逃げもしない。ただ嬉しそうに、その腕の中に収まっている。
『俺、今すごく疲れてるけど…幸せですよ』
ふふ、とそよ風のような笑い声をあげながら、ミドリはチアキに頬ずりする。チアキはその背中をそっとさすった。自分よりも背が高く、それでいて華奢なその背中を。かつてその背中に黒い手形をつけてしまったことさえ、今の二人には愛おしい。
「ははっ、そう言ってもらえると、俺も嬉しいな。俺もだよ、ミドリ。俺もすごく、幸せだ」
ミドリは黙ってチアキに頬ずりするばかり。その柔らかな頬が優しくて、思わず唇を伸ばすと、ミドリは笑いながらチアキの額に自分の額をコツン、と合わせた。至近距離から覗き込んでくる翡翠にドキドキする。
「大好き。愛してます、チアキさん」
「っ……!」
まっすぐな言葉に何も言えないでいるうちに、ミドリは少し顔を上げて、チアキの額にチュッ、と軽い音を落とした。
「ミドリ……?」
「早く、元気になってください。ね?」
そう言って、ミドリは背を向けた。それでも、以前のような焦燥感は感じなかった。チアキはただ、微睡みの中でその背中を見送って、そしてまた、深い深い眠りに落ちていった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「設計図、ここに置いておきますね」
「ああ、ありがとう」
そう言って手を伸ばした先に、紙の質感とは違うものを感じて、チアキは目線をあげた。白い陶器のマグカップからは湯気が上がっている。隣に置かれた皿には、こじんまりとしたサンドイッチが盛り付けられていた。チアキは時計を見て、お昼をとうに回っている時間だという事に驚く。
「もうこんな時間だったのか」
「そうですよ。お腹すきました」
「なに、食べてなかったのか?」
「俺だけ先に食べてるのはなんか嫌だったんで」
次は待ちません。そう言って、ミドリは一足先にサンドイッチを手に取った。少し遅れて、チアキもサンドイッチを口に運ぶ。レタスのみずみずしい歯ごたえ。ハムとチーズのほどよい塩気。パンの甘みを爽やかな紅茶でまとめて、遅い昼ご飯だ。
「この後は?また仕事に戻るのか」
「そうですよ。俺だって暇じゃないんですから」
「俺もついていっていいか?」
「いいですよ」
ミドリは嬉しそうに紅茶を飲み干し、おかわりを注ぐ。チアキさんは、と尋ねられたので、ありがたくおかわりをもらった。
チアキとミドリが会話をする場所は、あの工場だけでなく、その近くにある小さくも品のある家に移り変わった。毎朝焼きたてのパンの匂いで起きた後は、星が瞬くころにまた同じ場所に戻ってくる。時には、一日中その家の中で語らっていることもある。
もちろん、その許可は国からの公認だ。お互いを愛し、愛される関係として一つ屋根のしたに住むことを許された二人の日常は、いつものように穏やかで、それでいて刺激に満ちている。助手としての手続きをした時には緊張ばかりしていた幸せそうな人びとの中に、チアキとミドリも名を連ねたのだった。今ではもう、薬品の匂いは遠い記憶だ。それはきっと、二人がお互いに背中を預けながら生きているからに違いない。辛くなったらもたれかかって、元気になったら互いを支える。そんな関係の大切さを理解したからだ。
あの偶然でいて必然めいた告白から、チアキの仕事は少しばかり変化した。基本的なパーツを作る工場作業員から、機械のメンテナンスや修理を請け負う機械技士へ。彼の人柄と確かな腕は、多くの人から信頼を得ている。もちろん、再び追いかけ始めた夢も少しずつ進歩を見せ始めていた。人が乗るにはあまりにも小さいものではあったが、チアキは確かにおもちゃの機械を空に放ったのだ。最も、あまり長いこと宙には浮いていられなかったが。それでも、この浮力との因果関係を解明し、組み込むことができれば確実に目標が達成できる、というのがチアキの持論だった。
そんなチアキを、ミドリは一番そばで今日も見守る。実家の手伝いだけでなく、翠自身もまた、新しく仕事を始めた。青果や花を育てる人に、自分のできる範囲で手伝いをすることだ。緑色の神の目と共に、ミドリは今日も街を歩く。いつかこの街が、花でいっぱいになることを願いながら。
二人の身に着ける対照的な色は、お互いを吸収するように輝いている。炎の温もりは草地に恵みを分け与え、その恩恵を受けてすくすくと伸びた草は美しく花を咲き誇らせながらりんと太陽に向かって背を伸ばす。
「ごちそうさまでした」
「ん、さてと……洗い物終わったら、もう外出ちゃいますよ」
「それじゃあ俺も手伝うぞ」
二人並んで食器を洗いながら、話は自然と夕飯の話題に移る。
「今日の夕飯、何にします?帰りに買い物寄ろうかと思ってるんですけど」
「そうだな、モンド風ハッシュドポテトはどうだ?」
「ははっ、言うと思いましたよ。それ以外で」
お見通しだと笑うミドリに微かに頬を染めながら、チアキも笑い返した。洗剤の泡を洗い流して、そのままミドリの頬に触れると、ミドリはくすぐったそうに肩を竦めて身を捩った。
「ちょっと、危ない」
「すまんすまん。そうだなぁ、それ以外だろう?」
しばらく考えてみたものの、結局チアキの行き着く結論は一つだった。
「なんでもいいな。ミドリの作る料理は全部おいしいから」
「はあ、なんでもいいが一番困るって言ってんのに…」
まんざらでもなさそうな声で、ミドリはため息をつく。洗い終わった食器の水を切った手そのままに、ミドリもチアキの頬に触れた。滑らかな指先がチアキの頬をきゅっ、とつまむ。
「い、いひゃい……」
「なんでもいいなら、絶対文句言わないでくださいよ」
「いわにゃい、っ、こあ、わあうな!!」
「ふふ、だって、おかしいんですもん。ふふふ、間抜けな顔……」
言いながら手を離され、チアキは赤くなった頬をさすりながら「ひどいぞ」と文句を垂れる。それでも本気で怒れないのは、ミドリが意地悪でチアキにそんなことをしているわけではないからだ。つくづく甘いなと思いつつも、やっぱりこんな距離感が心地いい。お返しにと両の頬を挟むようにしてミドリの顔をこちらに向かせると、少し焦った顔が見つめてきた。
「な、なんですか…?」
「ふっ、なんでもないぞ」
思わせぶりに呟いてみれば、ミドリの瞳がわかりやすく左右に走る。こういうところがまたかわいい。パッと両手を離せば、どこか不満そうな顔がこちらを見つめてきた。
(ああ、かわいいなぁ)
それを言ったら怒られるのは目に見えている。こんなに愛しい気持ちが自分の中にあって、それを素直に伝えられないのは少しもどかしい。
「なんですか。言いたいことがあるなら言ってくださいよ」
急かすような声が訴えかけてくる。チアキはわざと首を傾げた。
「ほら、行かないのか?洗い物が終わったら一緒に行くんだろう?」
「っ、あんたね……」
ふいとそっぽを向いたミドリが、大股でチアキの横を通り過ぎながら準備を始める。準備を終えると、早々に玄関に行って「まだですか」なんて拗ねたような口調で呼ばれた。
「今行くぞ」
「遅いですよ」
じとっ、とした瞳で睨むような動作をされたが、チアキは軽く笑って受け流す。先に玄関のドアノブに手をかけたのはチアキだった。
「ほら、行こう」
ドアを開ける直前に、微かにミドリの方に首を伸ばす。玄関先に一瞬の沈黙とリップ音が響き、次にミドリを見あげたときには、彼は真っ赤になっていた。
「っ、何するんですか」
「なんとなく、だ」
「馬鹿じゃないの……」
今日も外に出れば、微かに油のような匂いがしている。それでも、店の前を通ればパンやコーヒーの香りがする。窓辺には鮮やかな花が咲いている。少しずつ、日常は変わっている。
「さあ、ミドリ。一緒に仕事頑張ろうな!」
「あんたは黙って隣にいるだけでいいです。しゃべらせるとまた面倒なことになりそう…」
「そんな事を言うな!俺にもっと頼ったっていいんだぞ、ほら、な!」
「はあ、ったく……」
二人分の足音が、石畳の上に規則的なリズムを刻む。曇り模様だった空から薄く日が差し込み、二人の願いの証を照らし出す。
それは、慈愛を愛する赤銅の瞳。
それは、情熱を愛する翡翠の瞳。
それぞれの視線が行き着く先は、いつも同じ場所にある。
願わくは、その道の行き着く先が明るく、そしていつまでも隣にいる相手と共に歩めることを、チアキとミドリは永久に望む。