どれにしようかな 日本という国は色恋に関する催し事に弱く、そして好きである。
そこにかこつけて商品展開をしていけば、恋のひと押しにと、あやかりたい人々がたちまち手に取っていく算段だ。もちろん、ご褒美として個人で楽しむのも大いに有りだ。
今日はそんなイベントの当日、バレンタインデー。
例に漏れず、とあるショッピングモールの催事場では甘い甘い香りに包まれてバレンタイン向けの様々なお菓子、つまりはチョコレートを販売していた。
今はその閉店間際。ひっきりなしの荒い人波を無事超えた女性店員が一人、癖毛の黒髪を揺らして後片付けに勤しんでいる。
彼女の名は岩谷尚美。大学生のアルバイトである。
バレンタイン本番だったという事もあり、売り場のカウンターや棚は歯抜けが多い。その分、商品を一纏めにして、空いたショーケースやラックを作って布を被せている所だった。
「こういうイベント事のはけ方って、いつ見ても景気が良いというか、凄いな」
補充しても補充しても、バックヤードと売り場を往復する、それはそれはもう目まぐるしい労働時間であった。過ぎた時を思い出して、片付ける手は止めずに呟きはぽつりと漏れるが、それを聞かせるものは誰も居ない。もうほとんど客足が引いたこともあって、尚美は売り場を一人、任されていたのだ。
そのうちに他店舗の従業員も後片付けをしだすショッピングモールに、館内放送の蛍の光が流れ出す。
まだ館内に残っていた客は、そぞろと店の出入口に向かっていく。その中で、人の流れに逆らって急いで店内に入ってくる客を見つけた。
ダッダッダッ。焦りを隠そうともしない早歩きの足音は、確実に真っ直ぐ目的地へと近づいてきている。その目的地は、片付けが始まっているバレンタインの催事場だった。
(あれ、こっちに来てる?)
様子が違う客に気が付いてはいたものの、こっちに来ることは無いだろうと、あえて気にしていなかった尚美。だが間違いなく強くなってくる気配に対して、手を止めて愛想を振りまく準備をせざるを得ないと、視線をそちらへ向ける事にした。申し訳ないけど、閉店が近いし早く帰ってもらおうと愛想笑いを浮かべて、ショーケースを兼ねたカウンターへと立つ。
「いらっしゃいませ! あの、お探しのチョコはございますか? 残り物でよろしければ、ご予算にあわせてご用意いたします」
「あ、ああ。うん、ありがとう。ごめんね、もうこんな時間なのに……お願い、しようかな。えっと……どうしようかな……」
滑り込むように催事場へやってきたのは、尚美と同じ年ごろかと思われる男性であった。やはりここまでの道中も急いでいたようで、今も肩で忙しなく息をしているではないか。
なんだか歯切れが悪い返答に尚美は訝しんだ。閉店間際にやってきた男性客とあれば、まあ結局目当てのものをもらえなくて買いに来るパターンが多いかなと、経験則から偏見込みの想像はするのだが……この客の場合は、どうやらそう言う事では無さそうだと判断する。
切羽詰まった姿を思うに、予想外の贈り物をされたとかだろうか。まだショーケースに残っているチョコレートを選びきれずに決め兼ねて、急いでやってきた客は、結わえた金髪のポニーテールを右へ左へ落ち着かずに揺らしている。自分用だとしたら、こんなには迷わないはず。
「シンプルにショコラだけのビターに木の実入りも良いですが、お好みのお味がするチョコなどもおすすめですよ」
あまりにも迷いぶりに、お節介とは思いつつも尚美は男性客に声を掛けた。
チョコを買う場に来て迷うとなれば、きっとそれはフレーバーなのであろう。相手の好む味がわからない。しかしお返しをしたいがどうしようか。おそらくそんな所か。おおよその見当をつけた尚美のセールストークは、どうやら彼の核心を突けたようで、焦りの表情がみるみる晴れやかなものへと変化していった。
「好み……好み、か……そうか、そういう手もあるか! きみ、ありがとう!!」
「えっ……と? いえ、はい、恐縮です……??」
にぱっと破顔した男性客の眩しさは、尚美の愛想笑いが思わず崩れるほどに破壊力が強かった。目が潰れそうだとしぱしぱする。口元が引くつくのをなんとか我慢して再度愛想笑いを作り直すが、正直ちゃんと笑えているのかは自信が無い。
正反対に元気を取り戻した男性客は明るい様子のまま、前のめりになってぐいぐいと尚美へ話しかけてきた。
「俺さ、芋が好きなんだけどそういうのって、ある?」
「いも……さつまいもでしょうか」
「うんっそれそれ!」
「それでしたら新作のトリュフであったはず……あ、これです、お芋のトリュフ。チョコにさつまいもペーストが練り込まれていて、生チョコのなめらかさにお芋のほっくりさがプラスされて美味しいと好評なんですよ。珍しいフレーバーということもあり、数もいまここにご用意してるだけになります」
「そうなのか、じゃあまず間違いなさそうだな。一ついただけるかい?」
「ありがとうございます。梱包はいかがなさいますか?」
「手提げ袋だけでいいかな。あんまり着飾ると受け取ってくれなさそうだし……何より君の手を現に煩わせているからね」
「そう、ですか」
男性客は、言ってみれば人受けの良い端正な顔立ちであった。その顔を最大限に活かしたウインクを流すと、周りで閉店作業をしていた他店舗の従業員から色めいたため息がちらほらと次々漏れ出る。
が、ウインクを贈られた当の本人である尚美には全く効いていない。むしろ冷めているようで。
なんだ、余裕あるじゃないか。心配して損したと尚美は大層に呆れた。接客中なので顔にはもちろん一ミリも出してはいないが、この客の事を心配した自分を少し後悔するくらいには呆れてしまっていた。気持ちはもう閉店モードに入りたい一心だ。閉店作業に入りなさい。館内放送で何ループか目に入った蛍の光もそう言っているに違いない。
気障ったらしい台詞に何をいまさらと受け取りつつ、それでは袋にお入れいたしますねと商品を袋詰めしようと後ろを向くと、男性客から慌てて声を掛けられた。
「……っあの、君が好きなフレーバーのチョコも一つくれないか!」
がらんとしたショッピングモールに、低くて伸びが良い声が響く。もしかして必殺のウインクが効かなくて焦っているのか? ちょっと塩対応になってしまったのは認めるが、残念でした、私はおだてが効かない人種なんですよ。なんて答えるわけにもいかないので、あくまで店員としてにっこりと振り返る。
「私の、ですか? プレゼントされるお相手のお好みに合わせた方が、よろしいのではないでしょうか」
「それが、相手の好みはちょっと知らなくてさ……その相手、君によく似ているから、その、選んで欲しくて」
尚美の読みは当たっていたようだ。
男性客は気恥ずかしそうに笑みを作った。さきほどの格好付けた気障な態度と変わって、その表情は驚くほどに幼さがある。
どきり。不覚にも尚美の胸が高鳴った。おだては効かないが、本心から来る感情にはめっぽう弱い彼女の心がぐらりと動いたのだ。
「……それでは、こちらはいかがでしょうか?」
「これは?」
「カクテルボンボンです。チョコの中に入っているお酒の風味が大変豊かで、一粒でも満足感が高いチョコなんですよ。個人的に、ベリー風味なのも気に入っております」
そう言ってショーケースの隅にあるチョコを一つ手に取る。自分の内の一つをさらけ出すようで照れはあった。しかし店員のおすすめと言っておけば、この男性客が渡す相手が誰であっても角は立たないと思い、これもセールストークなのだと尚美は手に取ったチョコのポイントを男性客に伝えると、その男性客はきらきらととても輝かしい目をして、差し出されたチョコを宝物のごとく懸命に眺めていた。
「へえ……!」
「プレゼント、気に入って頂けると良いですね」
「ああ、きっと気に入ってもらえるはず! 君のおかげで助かったよ、本当にありがとう」
お買い上げありがとうございました、と差し出した商品袋をしっかり受け取った男性客は、警備員がまだかまだかと客の退店を待っている店の出入り口の自動ドアまで軽快な足取りで向かうと、一度催事場を振り向いてから外へと出ていき、館内最後の客が居なくなる。待ちわびた警備員は、閉店を知らせる看板を出入り口に置いて今日の営業終了を告げた。
翌朝。
「おはよう尚美ちゃん」
「おはよ、尚文くん」
じゅわあ、と食欲をそそる音と共に漂う良い匂いを嗅いで、尚美はくあ、と伸びとあくびをして返事を受け答えする。
「弟君はー?」
「朝練だからって、もう学校にいったよ」
「そっか。昨日成果を聞こうと思ってたのに残念」
今日はバレンタインデーの翌日。
尚美には男兄弟がいる。尚文と呼んだ双子の兄と、それに年下の弟。男衆の成果(父親は除く)を聞いてやろうとしたのだが、頭のよく回る弟は一足早く家を出ていたのである。残っているのは、朝ご飯の用意を任されている兄だけ。当然のようにその興味の矛先は双子の兄に向けられた。
「なーおふーみくん、チョコ何個もらったの?」
「もう毎年言ってるだろ、俺は配る方なんだって」
「でもまさかがあるかも知れないし」
「……わかる?」
「うん、わか…………えっ」
話を振っておきながら呑気にしていた尚美は、驚いて尚文を勢いよく見つめる。
この兄、尚文は面白いくらいにもてない。いや、もてる要素はいくらでもあり人には好かれてはいるのだが、所詮良い人どまり。恋仲が出来るなどは遠い話なのである。そもそも本人にその気が無いのも手伝ってはいるのだが。
まあ、それをそうだと言えるのは尚美も同じだからであった。双子は双子。どうしても変わらない根っこの部分はあるものだ。
しかし毎年恒例となっていた問答にまさか変化があるとは、とぐるぐると答えの無い謎が尚美の頭を占めていく。
「そういう尚美ちゃんは、ホワイトデーにもらう相手は出来たのかい?」
「わ、私は、お店でいーっぱい渡してるから、それでいいのッ」
兄の意味深な返事に気を取られて不自然に答えてしまった。動揺がまざまざと伝わっていくのがわかる。今、とんでもなく恥ずかしい思いをしていると尚美の頬は正直に赤くなって尚文に教えていた。
「ふふ、なんだい。兄ちゃんがチョコもらって動揺してるんだ?」
「それは、うー……そう、そうだよ。気になるし」
恥ずかしがりながらも興味に抗えない妹の様子に、兄はくすすと息を漏らして肩を控えめに揺らす。
「もらったのは本当だよ」
「じゃあとうとう尚文くんに春が?!」
「……それはまだ遠そうなんだ」
「でも、チョコ、」
もらったんでしょ? という妹の問いに、兄は妹と揃いの癖毛の黒髪を左右にふるふると振った。
「それがね、もらった相手は男の人なんだよ」
「え」
「友チョコってやつ? チョコが珍しく余ってそいつにあげたらさ、何かすごく喜んで……急いでチョコ買ってきて俺にくれたんだよ。お返しとか気にせずにもらってって言ったんだけど……」
話しているうちに朝の準備をちゃっちゃっと終わらせた尚文は、手を拭って着用していたエプロンを外す。席に着くのかと思いきや、居間のヘリにかけているカバンを探って目的のものを取り出した。もちろん話題のチョコを、だ。
「俺の好みがわからないからってさ、二つもくれちゃって。律儀なんだよなあ」
そういって目の前に差し出された開封跡のあるチョコのパッケージは、さつまいものトリュフとカクテルボンボン。どう見てもどちらとも尚美にとって見たことのあるものであった。
そう、閉店間際にやってきた男性客に勧めた組み合わせ。正にそのもの。バレンタインの催事場でアルバイトしていたとはいえ、偶然で片づけるにはあまりにも整いすぎている。
「あの、尚文くん」
「なに?」
「このチョコくれた人ってさ、ちょっと気障で金髪で顔が良かったりする?」
「……するね。あれ、俺に似た店員さんのおすすめだって言われたんだけど、もしかして」
「多分、おそらく、いやそれ私だ」
確かに私に似てるとかそんなこと言われた気がするけども!
まさか遺伝子的に似てるとは思わなかった!!
尚美は太眉を目いっぱいに寄せ、心の中で握り拳を作って盛大に叫びに叫んだ。
「あれ……封開けてるってことはチョコ食べたんだね、珍しい。すすんでチョコ食べないのに」
「まあね。でもあげた本人が欲しそうにしてたから……」
「あー……」
芋が好きだと言っていた男性客が、端正な顔立ちそっちのけで目を輝かせて、渡したさつまいものトリュフを見つめていただろう光景が目に浮かぶ。なるほど、友チョコなら並んで一緒に食べたって別におかしくは無い。
「美味しそうに食べてた?」
「うん、俺があげたチョコと一緒にね。もう一つもらったカクテルボンボンは俺が食べたよ。どこか見たことあるパッケージだなーとは思ってたけど、謎が解けた。尚美ちゃんが好きなやつだよね」
「美味しかったでしょ」
「もちろん」
今度は二人揃って笑い合う。
やっぱりこういう所は同じだよね、と言葉にしなくてもそれは通じていた。
「で。面食いの尚文くんはどうやってモテ男さんと出会ったの?」
「面食いじゃありませんー。というかそれは尚美ちゃんも同じだからね」
「むっ、そんなことないよ」
「そんなことあるよ。まあ朝ご飯食べながら話そっか。さ、席に着いて。パン焼いてくる」
その様子は余裕の一言であった。話始めこそは尚美が掴んでいた流れの主導権をこっそり手の内に隠した尚文は、勝利を背に鼻歌交じりでキッチンへいったん姿を隠していく。
「してやられた気がする……何あれ、予想通りの展開で余裕ですーって感じだった」
双子とはいえ男女の体格差はあるものの、口の勝負ではほんの少し勝っていたと思ってたのに悔しい! と小さく喚いて、尚美は食卓に突っ伏した。
タイミングよく、キッチンからトースターのタイマーがチン! と鳴る。まるで兄の機嫌に合わせて出来上がりを知らせるその音を耳にして、はあとため息をつく。
「まあでも、チョコをもらってご機嫌になる尚文くんが見られるなんてね。そこはあの男性客に感謝かなあ」
もし次の来店があるのなら、その時は時間に余裕を持って来て欲しいものだけれども。
焼きたてのパンを運んできた尚文にありがとうと言って、尚美は朝食にありつくことにした。
「ッくし!」
唐突なむず痒さに襲われて、閑散とした道端で豪快なくしゃみをする金髪の男性が一人。
「うーっ身体ちょっと冷やしたか? ま、寝込んだら尚文に面倒みてもらおーっと」
誰の目も無い中、適当にずびずびと鼻をすすって、携帯端末の電話帳を眺める。
男の電話帳はほとんど女性の名前で埋まっていたが、その中で一人だけ登録されている男性の名前がある。
その名は、岩谷尚文。
「……あの店員さんのおかげだなあ。チョコ、喜んでくれて良かった。どうしてもお返ししたかったし」
男性はその名前を見るなり、整った顔を緩ませて満足そうに微笑む。傍から見ると、それは極上のものに違いない笑みであった。目的を無事に果たせた事実が彼の心を満たしていく。
「それにしても、尚文もだけど俺の口説きが効かない不思議な子だったな……。また、会ってみたいなあ」
今のままだと再会するには手掛かりが無さすぎると、どうしたものかと男性はふと思考を巡らせていた。
この男性にとって、口説きはお願いを聞いてもらう口実だ。気持ち良くおだてておけば、事はすべて上手く進んでいく。はずだった。そう思って今までを過ごしていたのに、彼にとっての常識が通じなかったのが尚文と、昨日の店員という訳だ。
急いでいたので姿はあまり見ていなかったけれど、癖毛の黒髪にはなんとなく見覚えがある。
「まさかなー。でも聞いてみる価値はあるか」
手慣れた様子でメッセージアプリを開いて指をすいすい滑らせていく。
『お前、兄弟いたりする?』
電話帳に唯一登録されている同性の友人は、何と返してくるのだろうか。
金髪の男性――北村元康は携帯端末の画面を切って、再び帰路につく。