人魚は神の血を飲み干す「これは……」
「ここがうちの自慢のワイナリーだよ」
ディルックに連れられ、馬車で移動すること数時間。ほのかなワインの香りとそよ風。あまりにも吹き抜ける風が気持ちよく自然の豊さと立地の良さから常人が近づける場所ではなく、この場所を抑えているラグウィンド家の力を思い知ることになったガイア。だからこそこんなに環境がいい場所に連れて来られたとは思うのだが、葉が揺れるトンネルを抜けた先には赤い煉瓦で造られた立派なワイナリーがあったのである。
「凄い……」
「まだまだここからだよ」
そう言うと樽が洗われている作業場を通り抜けてメインの館へ入る。ディルックの姿を見かけた途端と言わんばかりに使用人達がわらわらと出てきたのである。あまりにも沢山の人が働いているのだとガイアが唖然としていれば、いかにも代表と言わんばかりの妙齢の男性がスッとガイアに挨拶をする。
「ガイア様ですね、ワイナリー一同お待ちしておりました」
「あ……」
「ガイア、彼はこのワイナリー従業員達のトップでね。僕が不在の時仕事を任せることもある。紹介しよう。彼がガイアだ」
「本当に美しいけれど可愛らしい方ですね」
「なるほど。ぼっちゃ……オーナーが骨抜きになるわけですね」
「そこ、今なんで言い直したんだい?」
「だってあの坊ちゃんがついに女性をお連れになったんですよ!?仕事ばかりで浮いた話もなかったのに」
「ええと……俺は男なんだが……脚はちょっと怪我をしていて……」
「これは失礼しました。しかし、ご友人だとしても我々のオーナーが人を紹介するなど珍しいのですよ」
「そうなのか……」
「可愛らしいねぇ!赤くなっちゃって!」
呆れるばかりのディルックに、ついにとわく従業員。水を差すようで申し訳ないと遠慮がちになって訂正するガイア。だが皆ガイアを歓迎する空気に縮こまっていたばかりのガイアもすこし朗らかになる。そして言い直したのは何故?とディルックに聞こうとすれば、少し苦い表情をするディルックの姿である。
「……うちは従業員も職人気質な人が多いというか……先代や下手をすれば先先代から勤め上げている人も多いんだ」
「ディルック様がこんなに小さい頃から知っていますよ」
「本当にわんぱくでしたものね。元気が有り余っていたくらい」
「それが大人になったら見合いも断るくらいにずっと仕事ばかりになってしまってねぇ」
「でも良かったですよ。これでラグヴィンドもワイナリーも安泰ですなぁ」
ワイワイとホッとした空気の中、和やかかつ落ち着いたトーンになりつつある。だが、それはそれとしてガイアは挨拶をする間も無く、ご婦人方に、
「可愛いわねぇ」
「ディルック様が見つけてなかったらうちの息子にと思ったけど」
「アンタの息子じゃ無理だよ!」
「ディルック様だからこそ陸に来てくれたのだから」
と可愛がられているのか、揉みくちゃにされているのかわからない状態ですぐに囲まれてしまう。歓迎されているのはわかるのだがこれ以上は困るとばかりにアメジストと星の瞳を潤ませてディルックの方に助けを求めるのだから、ゴホン、と咳払いをして仕切り直すように態度を取れば、それまでのほんわかとした空気が、一気に仕事モードとばかりに切り替わるのだから流石地域でトップを走る企業だとガイアは察したのである。
「今日はこれからガイアにワイナリーを案内する。各自仕事は続けて欲しいが、その都度対応して欲しい」
「承知いたしました」
オーナーの鶴の一声ですぐに仕事に戻っていく従業員。かくしてガイアのディルックの職場見学は和やかな雰囲気で始まったのである。
◇◇◇
「……ワイン作りで大事なのは温度管理なんだ。だから一部の教会にはワインがビネガーになった時、カビた時、アルコールが飛んでしまった時の対処法が細かく載った文献が残されているくらいでね。大体この倉の中は大体このくらいの温度と湿度を保っているよ」
「樽がこんなに敷き詰められているなんて……俺だったら迷子になりそう……」
「君がどこに迷い込んでもすぐに助けに向かうよ。まず危ないことはさせない」
「ディルック……!他の人の目もあるんだから……!」
見学なのか逢い引きなのかわからない会話をしながら二人が歩みを進めていたのは、ディルックが管理するワイン樽の貯蔵庫。車椅子で移動しながらガイアは暗闇に横たわるワイン樽を見学させてもらっていたのである。薄暗い貯蔵庫の中にはこれでもかというくらい樽が敷き詰められており、その中から漂うワインの芳醇な香りにキラキラとした笑みを浮かべて真剣にディルックの話を聞いている姿は、ワイナリー見学が楽しみなのかワインが好きなのかどっちなのだかと思いながらも、ガイアが楽しそうだからいいかと頬を緩めているディルック。そしてそんなワイナリーの将来を見て後方から微笑んで見守る従業員達という構図が出来上がっており、今日のワイナリーは未来に向けてとても明るいとばかりの空気が流れている。そこにディルック付きの執事が仕事に戻るようにと号令をかけるのが常になっていたのである。
「よく何年ものとか聞くけど……」
「恐らく昔は偶然条件が重なってワインができていたのだろうけど、製法が完成されてからは放置しているだけじゃダメだとわかってね」
「でもそれがわかったのって何百年も前だろう?」
「昔は科学も発達していなかったから経験がものを言ったけど、大体そんなところかな」
貯蔵庫の見学はここまでとばかりに蔵を抜けると葡萄の香りとアルコール、そして木漏れ日の陽差しが降り注ぎ、思わず気持ちよくなって伸びをする人魚にそっと後ろから可愛らしいとばかりにこめかみにキスを贈るディルック。今日はなぜこんなにスキンシップが激しいのか戸惑い、慌てるガイアに照れている姿も可愛いといつもよりも頬が緩んでいるディルックのところへ、従業員が申し訳なさそうに近寄ってきた。
「ご歓談中申し訳ありません。ディルック様に急ぎ確認してもらいたいことが」
「ガイア、すぐに戻るから少し待ってもらえないか」
「ガイア様には葡萄ジュースを用意してありますのでしばしお待ちいただけますでしょうか?」
ジュースと聞いた瞬間に目を光らせるガイアに僕の心配は?と聞けば、慌てふためく人魚。もはやお決まりのパターンに気がついたガイアが揶揄うな!と一生懸命抗議するが、ニコニコと微笑む従業員に、では頼むよと責任者とディルックは書類の確認に行き、ガイアは別の従業員に連れられ、葡萄畑近くの建物へ向かう。この時ディルックはこの後まさかガイアがあのようなことになるとは思いもしなかったのである。
◇◇◇
「ディルック……」
「……」
「やっぱり変だったか?」
「そんなことはない。とてもいい。むしろずっと見ていたい」
「お前の瞳孔開いていて怖いんだが」
急ぎの用とやらを済ませて慌ててディルックが女性陣達に合流をすれば、そこで見かけたのはワイナリーの作業着をして、樽で作業をする女性達にまじって手で潰す用の樽に手を突っ込み一生懸命に葡萄を潰しているガイアの姿だった。
「これは……」
「ディルック様!いかがです?葡萄踏みは行えませんが、手でできなくもないですからね」
明るく笑う女性達に混じって一生懸命に潰していたのだろう。ガイアの手は手袋をしていたとはいえ、葡萄の紫の果汁だらけで額には玉のような汗があり、いつもは海水を煌めかせて纏っている頬には、その代わりと言わんばかりに紫色の果汁が付いていた。普通、葡萄踏みはその名の通り、昔ながらの製法でまだ機械がなかった頃に人力で果汁を絞るために行っていたものなのだが、現在収穫などもある程度機械に任せているのである。人力で収穫した手摘みの葡萄をこれまた二人くらいで樽に入った葡萄を踏んでいき果汁を搾り出す。全てにおいて労力がかかる作業でもある。ただし、ガイアに脚はない。周りに怪我をしている旨は伝えてある。だからこその今日の見学だったのだが、きっと周りが気を利かせたのだろう。従業員に囲まれてお願いをされているガイアを見て何かあると思ったのだが、まさかこんなことになるとは。唖然としているディルックをよそにチラチラ様子を伺いながらもワイナリーの仕事を手伝おうとするガイアは健気そのものである。
「そうそう、葡萄を皮ごと潰して。全体重をかけて……上手ですよ!」
「そもそもディルック様がガイア様のアドバイスで商品のテイストを劇的に変えましたからね。きっとまた美味しくなりますよ」
「俺は大したことしてないぞ」
「食品を扱うなら舌が大事なんですよ」
言外にガイアのセンスがいいと褒める従業員達に海の中で褒められることなんてなかった為か、今日はキャパオーバーだとばかりに頬を染めるガイア。そんな様子を見ているディルックに従業員にもこっそりと、
「とても可愛らしいでしょう?お似合いですよ」
と、耳打ちされ、見惚れていたことなどとっくにバレている状態なのだが、ガイアの必至の努力もあり、その場は和やかに終わり、オーナーも久々に葡萄踏みに加わったとその場は盛り上がったのである。
◇◇◇
「はぁ……」
「疲れさせてしまったね。すまない」
「いいんだ。中々ない体験をさせてもらえたし」
「……今の時代人力でワインや葡萄ジュースを作るのは、コストもかかるから貴重なんだ。普段はレストランでしか出さないんだけれどね」
「俺は構わなかったけど、いきなり作業着を着させられたからびっくりして」
ディルックと別れた後、ジュースを作る過程から行うとは誰が思うだろうか。確かに葡萄の果汁を搾り出せば葡萄ジュースを作れる。ガイアも従業員の仕事を中断している自覚はあるのでと言われるがままに手伝ったのだが、結局我慢できなくなったディルックが、
『体重をかけて絞ってごらん』
『こう?』
といちゃついていたものだからやはり周りの目はあたたかく……と言った状況だったのである。
……なんとなくディルックは察していたが、これはあれである。祖父母が可愛がっている孫の面倒を見るような生暖かい空気というか、そしてディルックに自分のワイナリーでディルックの仕事を手伝う想い人の姿を見せたいという従業員達の粋な計らいが今回の件に繋がったのである。酒を醸造するのは一つの工程だけでも大変だとヘロヘロになっている人魚は今は併設されているワイナリーのレストランで美味しい料理と葡萄ジュース、そして今日は頑張ったからと高級ワインをお出しされ、また見事に餌付けされていたのである。
「俺、お客様だし、仕事を手伝ったと言ってもあれだけの仕事でこんなに美味しいもの食べていいのか気になるところではあるんだが……」
「君のためにこの地域で飼育された子牛のロースト肉も取り寄せたんだが……」
「……美味しい……」
「素直な君が好きだよ」
遠慮しがちだったと言うのに皿が出された途端に美味しいと言ってしっかりジュースと肉とワインを堪能する人魚。この地域では家畜の内臓も食べる為に新鮮な肉が手に入りやすく、またワインも高級品が多いので人魚の舌は益々肥えるばかりなのである。ガイアはガイアで世間知らずの箱入りではあるが、美味しいものを流さない点に関してしっかりしているなとディルックが半ば呆れていると、ふとガイアはしみじみとあることを呟いたのである。
「お酒を作るって大変なんだな……」
「そうだね。いろんな工程を踏まなければいけないし、それこそ小さな工房だと家族総出で行うものだから」
「じゃあディルックも葡萄踏みを?」
「昔子どもの頃だけどね。力がなくてもやることはたくさんあるから」
それからはワイン作りを1年かけてどう作るのかガイアは丁寧に聞かせてもらったのである。
「思ってた以上に丁寧で繊細に扱わなきゃいけないんだな……」
「東方の地域になると冬の間に出稼ぎとして酒を作ることもあるらしいから、地域によって二足の草鞋としてやっているところもあるみたいだけどうちはこれが本業だからね。細部までこだわってやっているんだ」
特に冬になると霜が降りるために朝早くに篝火を焚いて苗木がダメにならないように見張らなければならない旨を伝えれば、そこまでしなければならないのかとカルチャーショックを受ける人魚の姿。
「だからワイナリーは常に葡萄畑につきっきりである必要があるんだ」
「普段ディルックは山間部にいるわけか……」
少し寂しそうな表情をしたガイアにディルックは慌てて、
「でも僕は……最近は海も良いものだと思うようになった。あの別邸も第二の家に代わりはないし、なんなら本邸にしても良いと思っているんだ」
食事をしながら己のワイナリーで真剣な表情で告白をするディルック。
「……だから、ガイアもこれからのことを考えてくれると僕は嬉しい」
「う……ん」
流石にキス以上は何もされていないが、年頃の男が女?(正確にはまた違うのだが)を自分の職場に連れて来て、食事まで一緒にして本気の告白……何も考えず、というわけにはいかない。ガイアは流石に少し時間が欲しいとディルックに告げ、ディルックもそれを承知して数日が過ぎた。
そしてガイアは忽然と消えてしまったのである。