狐雪の過去話独特ない草の匂いに、家に染み付いた鉄の匂い。それと、鼻が曲がりそうなほど強い金木犀の匂い。目を覚ませばいつもこの匂いたちが私を出迎えてくれた。起きて外を見る。雲ひとつない青空に、金木犀が映えていた。小さい頃に、誕生日だからと強請った金木犀。母さんは困ったように笑って、私に金木犀を贈ってくれた。あの頃の金木犀はもう枯れてしまったけれど、強かに種を残していたらしい。今も庭に美しく咲いている。
「おはよう、お母さんお父さん」
台所の方向へ声をかける。返事はない。返ってこなくなったのはいつからだったっけ。布団を片付けて服を変える。畳に残った黒ずみはもう消えそうにない。畳を変える気も起きなくてそのままだ。いつからこんな黒ずみ出来たんだっけ。確か最近だったはず。ああそうだ、父さんが死んだ時に
「…」
家を出ようと思った。荷物は既にまとめてあった。沢山のお気に入りの服たちに、沢山の装飾品。母さんがよく着てた割烹着と、父さんが最期に残した時計。ごつくて私にはとても似合わないその時計は、こっそりとポケットに入れておくことにした。家を出る理由なんて単純だ。旅をしたくなったから。ただそれだけ。ちゃんと玄関から外に出て、最後に庭にだけ寄り道する。隅の方に置かれた石の前に酒を置いた。父さんが好きでよく飲んでた酒だ。
「……いってくるね」
とりあえずは稲妻を出よう。ここにいてもきっと何も変わらない。たしか璃月という国が海上隣国だったはず。どうやってそこにいくかはわからないけど、船に乗ればきっとつくだろう。船に乗るなら離島に行くのが1番早い。からからと下駄を鳴らしながら歩く。多分、この家に帰ってくることは無い。
稲妻には妖怪がいた。他の国では妖魔と呼ばれるその存在を、稲妻人は特に警戒していた。恐ろしい存在と認識しているからこそ、名前をつけて、知識をつけて、対策を練る。その考えは確かに賢いのかもしれないけど、妖怪たちにとっては都合のいいことだった。なにせ、存在を認知されることは妖怪たちの強さに結びつくから。その関係は段々強くなっていって、いつからか、忘れ去られた妖怪は死ぬようになった。
母さんは名の知れた悪い妖怪だった。父さんと出会う前までは、毎晩人を襲い、時には喰らい、時には遊びで殺した。そんな母さんが人間の父さんに恋をして、人を襲うのを辞めたのなんて、ただの偶然だ。だけどその偶然は、母さんの人生に大きく影響した。
私が産まれてから、母さんは年々弱まっていった。人喰らいの妖怪としての母さんの認知度が低くなったからだろう。人々から忘れられていく度に、母さんは弱っていった。私が人間年齢で10の頃に、母さんは床に伏して、そして死んだ。妖怪は何も残さない。骨すら残さずに母さんの存在は消えていった。子供の私を差し置いて、父さんはわんわん泣いていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔はとても見れたものじゃなかった。私の分まで泣いてくれていたのかもしれない。産まれた頃から薄情だった私は、母さんが死んだというのに泣けなかった。だけど、あの日から体の成長は止まっている。何も感じない心の分まで、体は母さんの死を悲しんでいるみたいだった。なんだかおぞましくて、その日から自分の体が怖くなった。
母さんが死んで、父さんはやつれていった。たまに私を見て、泣いて、抱きしめてはお前だけはと呟くようになった。そんな父さんのところにも限界が来たらしくて、朝、私が起きた時には喉に包丁を刺して死んでいた。さすがにびっくりして、暫くその場にいた。落ち着いた頃に、庭に父さんの墓を作った。成仏してくれたのかはわからないけれど、ちゃんとあの世にいけていたらいい。
家族を失ってから、暫く家で1人で過ごして、けれど何か違う気がして。だから旅に出た。出た当初は何故なのか分かりもしなかったけど、きっと私は妖怪について知りたかった。ちゃんと知った上で、母さんのように消えて欲しくないと思えるように。
旅の目的も、家族のことも、まだ皆には話していない。怖かった。また否定されるかもしれなかったから。化け物って蔑まれるかもしれないから。そんな子達じゃないって分かっていても、ちょっとした不安が私を縛り付けている。
「狐雪ちゃん調子でも悪いの?さっきから食べてないけど。あ、もしかして口に合わなかった…?」
ぼぅっとしていたら璃瑞が顔を覗き込んできた。私が持っている器の中身はちっとも減ってやしない。
「ううん、大丈夫」
笑いかけてから料理に口付ける。美味しい。やっぱり璃瑞の料理は間違いがない。璃瑞も、ネーヴェも私を心配しているようだった。大丈夫、大丈夫だからって笑顔を向けてやり過ごす。いつまで誤魔化し続けるんだろう。自分の汚さには気付かないふりをした。