鱗1枚友情1つ璃月港から離れた山の頂き付近にある小さな湖。紫釉たちはたまたまそこを通りがかった。決して死体を埋める場所を探していたとかではない。ただの偶然だ。そこで、1人の少年を見つけた。水の澄んだ綺麗な湖に尾を浸して、彼は空を眺めていた。一見すればただの人間だ。その特徴的な形をした耳と、湖に浸している魚の尾さえなければ、家出をした少年だと紫釉たちは捉えただろう。魚のヒレに似た形をした耳とは、滅多にお目にかかれない人魚の特徴にぴったりと当てはまった。
「……人魚なんて珍しいのう。これはいいものを見つけたもんじゃ」
少年に聞こえるようわざと声を大きくして紫釉は言葉を発した。紫釉の言葉に少年はびくりと肩を揺らし、静かに振り返る。片方だけ見える赤い目がどこか不気味だった。静かに静かに紫釉たちを見つめていた少年は、その小さな口を開く。尖った歯がちらりと覗いた。
「鱗1枚で許してはくれませんか?」
この提案に紫釉は目をぱちくりとさせた。逃げることもせず、それどころか妥協案を示してくるとは。思っていなかったことだった。くつくつと喉の奥で笑い、紫釉は少年を逃さぬようしっかりと視界に入れる。元々商品として価値の高い彼を逃すつもりはない。
「お主も酷なことを言うのォ。1億が目の前に落ちているのに、100万で満足しろと言っているようなもんじゃよ?そんな妥協出来るわけなかろう?」
努めて穏やかに紫釉は言葉を口にした。内容は穏やかとは程遠いものだが、目的は対象に恐怖を植え付けることだ。ちぐはぐな人間というのは、恐怖を植え付けるのに丁度いい。わざとそういった人間を演じた紫釉だったが、少年は紫釉の目論見通りとはいってくれなかった。恐怖なんて知らないとでも言いたげに、それどころか紫釉のことなんて大して脅威に思っていないとでも言いたげに、少年は首を傾げて呑気に「どうしよう」なんて呟いている。
「10枚だったらどうですか?」
「……100万×10はわかるかの?」
「1000万ですね」
「1億には程遠いのォ」
更なる妥協案にも、紫釉は応じない。目の前の1億を一銭でも減らす真似をしたくなかった。段々と紫釉の連れが騒がしくなる。いい加減交渉の真似事にも飽きたのだろう。連れの1人が少年に近づいた。少年は男を見上げる。第3者からみればどちらが悪者かは一目瞭然だった。
「ボス、とりあえず逃げねぇように足の健でも切っときやしょうぜ」
「馬鹿言え。商品に傷をつける気か?価値が下がるだろうが」
「…っす。すんません」
「とりあえず錠持ってこい。手足縛るぞ」
紫釉の一言で連れの男たちが動き出す。大きな箱の中から金属で出来た重く厳つい錠が姿を現した。それが1つにととまらず、2つになる。本格的に自分を拉致しようとする存在に、少年はこれもまた恐怖を感じることなく困るだけだった。この場に似合わず呑気で、下手すれば何も考えてなさそうにさえ見える。うーんと考え込む少年は、独り言を呟きつつも、紫釉たちへの視線は外さなかった。
「どうしようかな……。狐雪さんなら上手く切り抜けそうだけど」
「……お主、今なんと言うた?」
ぴくり、紫釉の肩が動く。聞き馴染みのある名前だ。最近よく聞くようになった、紫釉にしては珍しく仕事関連で聞く訳では無い名前。名前を口にした少年は、不思議そうに紫釉を見る。
「のォお主、今誰の名前を呼んだ?」
「え、っと、狐雪さんです。私の友達の名前ですよ」
狐雪。紫釉は少年の言った名前を復唱した。少しして、紫釉の顔がぱっと笑顔に変わる。先程までの怖い雰囲気など微塵もない。そこにいるのはただ気の良さそうな青年だ。
「お主あの嬢ちゃんのお友達か!それなら話は別じゃな。わしは金より友をとるタイプじゃからのォ」
「えっと、見逃してくれるんですか?」
「そうじゃそうじゃ。いやぁ失礼なことをしたのォ。狐雪の嬢ちゃんはわしのお友達でもあるんじゃよ。お友達のお友達はわしのお友達でもある。つまりお主とわしはお友達じゃ!」
「あ、ありがとうございます?……まあ、とりあえず、これどうぞ」
少年は紫釉に1枚の鱗を渡した。太陽の光を受けてきらきらと反射するその鱗は、青緑が透けた半透明でとても綺麗だ。形も綺麗で歪んでいる部分はない。商品としての価値は計り知れない代物だ。
「……見逃してやると言うておるのに、何故自身を傷つけてまで渡すんじゃ?」
「私からしたらゴミも同然の物ですから、どうせなら価値を見つけれる人に渡そうかと思って。貴方が私を見つけたときから剥がしていた物なんですよ、それ」
笑みを浮かべながら少年は言った。ほら、と少年が指を指したところには、確かに小さな穴が空いたかのように鱗がなくなっている。
「……お主、さては最初から逃げる気じゃったな?」
「ええ。もう捕まるのは飽きたので。……1億持ってる男が何も置いていかずに逃げたら追いかけたくなるかもしれませんが、100万置いてってたらとりあえずそれで許してやろうって気になりそうじゃないですか」
あっけらかんと言い放つ少年に、紫釉はぱちぱちと目を瞬かせた。紫釉の語った例に倣った少年の話は、たしかにそうかもしれないと納得させるものだった。紫釉なら無理に追うことはせずに、置いていった鱗を最大限活用するだろう。そう考えると笑いが抑えられなかった。何も考えてなさそうに見えたが、中々面白いことを考えていたらしい。
「面白いやつじゃのォ!お主、名前はなんと言うんじゃ?」
「ミノラです。ミノラ・カインシ」
「わしは紫釉。わしらいいお友達になれそうじゃのう」
鱗を散々眺めてから、紫釉は鱗を連れに渡した。決して割れることなんてないように、丁寧にそっと渡した紫釉を見て、連れもその鱗を丁重に扱う。おお、と感嘆の声が連れから漏れた。鱗の美しさに見蕩れたからか、連れはその場を動こうとしない。
「オクに出せばいくらになると思う?」
「……恐らく300万は下らないかと」
「そうかそうか。これはいい拾い物をしたのォ」
紫釉は連れに耳打ちした。保管方法から売り捌く方法まで、1つ1つ細かく指示をして連れに「行け」と命令する。連れは言われたことを実行するためにどこかへ向かっていった。さっきから上機嫌な紫釉は少年、もといミノラに笑顔で話しかける。
「ミノラ、良かったらご飯でも食いに行かんか?わしの奢りじゃ」
「いいです。璃月港人が多くて苦手なんです」
「それじゃあわしの部下に何か作らせよう。とにかく一緒にご飯じゃご飯」
紫釉がミノラの手を取る。気がつけばミノラの尾は人間の足に変わっていた。紫釉はミノラの手を引いて歩き出す。新しく出来たお友達の存在に、紫釉はわくわくしていた。それはミノラも同じであることは、誰にもわからない事実だ。