ストックホルムの中心地目を開けると、薄暗い天井が映し出される。ああ、やっぱりかと最近見慣れた景色にうんざりした。起き上がるとじゃらりと鎖の音がして、それが更に不快にさせる。首にかけられた頑丈で重い首輪が外れる気配はない。盛大なため息をついてベッドから降りた。外へと続く扉をノックすると、ピッという音の後に扉が開かれる。随分と重たそうな扉を開いて出てきたのは、見たくもない男の顔だった。
「おはようジェミニ」
「うっさい。さっさとここから出せ」
僕をここに閉じ込めた男は、相も変わらず濁った瞳で笑うだけだった。
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朝目が覚めたら知らない部屋に閉じ込められていて、おまけに鎖付きの首輪まで付けられていた。監禁されたのかとどこか冷静な頭は判断していて、そしてその判断はまったく間違っていなかった。鎖付きの首輪は特注なのかと疑うくらい質の高いもので、恐らく元素を封じ込める技術が使われているものだ。さっきから何度も元素を使おうと試しているが、元素が答えてくれることはない。きっと常習犯の仕業だろうとアタリをつけた。神の目を持つ者を攫い人身売買の場に出すということはそこまで珍しくない。まためんどくさい事に巻き込まれたものだとジェミニは辟易した。こんな異常事態に対して至極冷静なジェミニを驚かせた唯一の事実は、実行犯が身内だったことだ。いつもと変わらぬ顔で、いつもの様に人当たりのいい笑顔を浮かべて、ネーヴェはジェミニの前に現れた。手にはカードキーが握られていて、おそらくそれがこの部屋から出るための鍵だろう。
「……お前、どういうつもりでこんなことしてんの」
「僕はジェミニに離れて行って欲しくないだけだよ」
「……はあ?」
にこにこ、ニコニコ。狂気を感じるほどにネーヴェは笑顔を崩さない。執着心たっぷりの瞳が気持ち悪くへばりつく。狂っている、と本能が告げていた。こいつは狂ってしまっている。そう感じるしかないほどに、目の前のネーヴェは異常だ。
「君はいつか僕のことを裏切って違う場所に行っちゃうでしょ?わかってる。君は絶対に僕のことを裏切る。わかってはいるんだけど、理解と許容は別物だからさ。出来るなら君に裏切られたくなんてないんだ」
「だから監禁して裏切れないようにしようって?子供みたい。監禁したところでお前は満足なんてしないだろ」
「そりゃあね。監禁したところで君が裏切ることは変わらないだろうし」
「そもそも僕のことを裏切り者って呼ぶのをやめろよ。気分が悪い」
「君は裏切る。だって君はそういう性格だろ」
確信めいたその言葉に反吐が出た。過度に裏切りを嫌うこいつは人の言葉をちっとも信用しちゃいない。信じてくれなんて死んでも言わないが、言葉を受け入れないこいつには腹が立つ。最悪媚を売って出るかと考えていたが、その手は使えそうになかった。
「ねえジェミニ、僕は君のことが好きなんだよ。だからこんなに執着してるんだ。お願いだから裏切らないって言って」
「きっしょ。お前の願いなんて聞くわけないだろ。いいからこの首輪外せよ」
「嘘でもいい。気持ちを込めろなんて言わないからさ、裏切らないって言葉だけでも頂戴」
「何乙女みたいなこと言ってんのきっしょいなぁ。それを言ってお前はどうなるの?どうもならないだろ。僕をここから出さない。言うだけ無駄なんだってば」
悲しそうな顔をしてはあ、とネーヴェはため息をついた。こいつがすること全てがイラつく。いたちごっこをするつもりは無いのか、ネーヴェは諦めて口を閉じた。僕の腕を引っ張って、ベッドに放り投げる。柔らかいベッドでも受け入れるのに限界があったのか、結構な力で投げられたせいで背中が痛い。僕の様子にお構い無しなネーヴェは毛布を乱雑に寄越した。ふわふわな所が憎らしい。こんな簡素な部屋に閉じ込めるくせに、寝具はどれも質がいい。
「お腹が空いたら扉でも叩いてよ。ご飯持ってきてあげるから」
「世話みてあげるって?母親にでもなったつもり?性別からやり直しなよ」
「元素が使えない以上僕に従った方がいいと思うけど、君って意外と頭悪いの?」
「は?今すぐ鎖で絞め殺してやろうか?」
ネーヴェは僕の言葉を無視してさっさと扉の向こうに消えてしまった。ため息をついて毛布を被る。首輪のせいで元素が使えない以上、残念だがどうすることも出来ない。自力で首輪を破壊することも、ましてや鎖を引きちぎることも不可能だろう。最悪だが、どうにかしてあいつにこの首輪を外させるしかない。じゃらりと鎖の音がした。寝返りをうつ度に音がする。こんな環境じゃ安眠すら望めない。
「……クソが」
目を瞑る。ネーヴェの笑顔が頭からこびりついて離れない。ああ、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
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目が覚めても状況は変わらなかった。舌打ちをして起き上がる。寝具の質がいいおかげで体が痛むことは無い。長い長い鎖はご親切に部屋全体を動き回ることが出来る長さだった。とはいえ、この部屋にあるのはベッドと空っぽの棚くらいで、動けたところでやれる事は何も無い。仕方がないから扉を叩いた。暫くしてピッという音がして扉が開き、ネーヴェが現れる。手にはトレーに載せられた食事があった。
「おはようジェミニ。ご飯にしよっか」
「ベッドか床で食べろって?冗談じゃない。僕はペットじゃないんだよ」
「ああ、それもそうだね。机持ってくるよ」
そう言ってネーヴェは一旦トレーを持って引き返し、食事の代わりに折りたためる机を持って帰ってきた。部屋の中央あたりに机を置き、食事の乗ったトレーを取りにまた引き返し、そしてまた部屋に帰ってくる。トレーごと机の上に置かれた食事は、トーストとサラダとスープだった。いただきますとまず言ってから、湯気の立つスープに口をつける。普通の味だった。インスタント製品なのがよくわかる。次にサラダ。レタスと紫玉ねぎとトマトをフォークで刺して口に運ぶ。ドレッシングが好みじゃない。最後にトースト。イチゴジャムが塗られたそれは、均等に塗られてないせいで味の濃さがまばらだ。
「まずい。今度からサラダはドレッシングなしにして。あとジャム塗るの下手くそ。これからは僕が塗るからジャムとバターナイフ持ってきなよ」
「君って意外と味に煩いんだね。璃瑞ちゃんの美味しいご飯に慣れちゃったからかなあ」
「お前のご飯が不味いだけだよ」
結局サラダには最初以降手をつけなかった。他のものは食べきってネーヴェにトレーごと返す。何事かを書いたメモをしまって、ネーヴェは扉の奥に消えていった。さて、暇な時間がやってきてしまった。普段なら外に出て魔物狩りでもするが、あのクズのせいで外には出られない。もう一度扉をノックしてネーヴェを呼び出した。不思議そうな顔をしてネーヴェが現れる。
「暇潰しが出来るものが欲しいんだけど。本とかないの。お前結構読書するだろ」
「ああ、そうだね。娯楽本をいくつか渡すよ。あと一応紙とペンもあげる。お絵描きでもしたらどう?」
「なんでお前ってそう腹の立つ事しか出来ないわけ?子供扱いなんて望んでないんだけど」
ネーヴェはこの部屋に小さな本棚を持ってきた。中にあるのはどれも触れてこなかったジャンルの本だ。からっぽだった棚にメモ用紙といくつかのペンを置いて、ネーヴェはまたねと去っていく。いちいち人を苛立たせる男だ。一種の才能ではないだろうか。本棚から赤い背表紙の本を抜き出した。『スライムとしての第二人生』なんていう訳の分からないタイトルの本だ。稲妻で発行された本と書いているので、中身ははちゃめちゃなファンタジー物語なのだろう。普段なら絶対に手に取らない本だが、暇潰しにはなれるだろうとページを捲った。
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五日経った。朝食は相も変わらずトーストとサラダとスープだ。スープの種類とジャムの種類は一日ごとに変わり、三日を一周としているようだった。ドレッシングはあの日から使われておらず、トーストもジャムが塗られていない状態で出てくる。楽しいのたの字もない食事だ。食べない方がマシじゃないのかとすら思えてくる。ネーヴェも相変わらずニコニコ気持ちの悪い笑みを浮かべているだけだ。何度言っても絶対に僕をここから出そうとしない。部屋には物が増えた。本にノートブックに絵の具、それからボードゲーム。暇潰しの種類が増えたのはいいものの、正直いってどれも退屈だ。本はほとんどのものを読み終えた。ネーヴェに新しい本を追加しろと言えばわかったと笑顔が返ってくる。ネーヴェは基本的に僕の命令に答えた。唯一「ここから出せ」という命令だけは答えない。
「ねえ、お前は僕をいつまでここに閉じ込めるわけ?」
「君が僕を好きになってくれたら」
毎日同じ質問をネーヴェにした。いつも返ってくるのは「君が裏切らないと言ってくれたら」だった。条件が変わったのは今日が初めてだ。ネーヴェは濁った瞳を僕に向ける。何を考えてるかなんて全然読めやしない。
「本を持ってくるよ。お腹がすいたら扉を叩いて。お昼ご飯を運んでくるから」
ネーヴェは空になった食器の載ったトレーを持って出ていく。帰ってきたネーヴェは、いくつかの本を抱えていた。本棚の空きスペースに本を置いて何も言わずに扉の向こうに消えていく。ああ、また暇な時間だ。本の追加があったけど、今日は何をしようか。とりあえず棚を漁った。空っぽだった棚のくせに、随分と物が増えたものだ。ごちゃごちゃの棚の中を漁ると、ふと身に覚えのない感触が手に伝わる。思わずそれを手に取った。ペンチだ。頼んだ覚えはない。錆びたペンチがいつの間にか棚の中に入っていた。
「……あいつ、ほんとに悪趣味」
鎖の太さとペンチの小ささを見比べて舌打ちをした。このペンチじゃ鎖は切れそうにない。ペンチを棚の中に放り投げて閉める。悪趣味もいい加減にして欲しい。監禁してくるだけで最低最悪だというのに。
一気にやる気が萎えていった。何もする気が起きずにベッドに横になる。変わらずふかふかだ。頭まで毛布を被って目を閉じた。この出来事全部が夢だったという現実が来る日はいつになるのだろう。
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寝ても醒めてもこの生活が事実なんだと思い知らされる。今が何日目なのか、一週間を超えた辺りで数えるのを辞めた。変わらない朝食はもはや味がしないただの栄養素と成り果てている。
「さっさと出せよ。いい加減うざいんだけど」
「なら出れば?」
突き放すように言ったネーヴェの言葉に眉をひそめた。出れるならとっくにそうしてる。自分の首を指さした。正確には、首につけられた首輪を。
「これつけて出ろって?ファッションにもならないだろ」
「……ああ。やっぱりペンチには気づいてたんだ」
ふふふ、と不気味な笑い声がネーヴェから漏れる。不意に立ち上がったかと思ったら、棚の方へ向かいペンチを引っ張り出してきて、ネーヴェはそれを机の上に置いた。ガチャンと音が鳴る。ネーヴェはペンチを持ってくるだけ持ってきて僕を見ていた。
「出たいならこれで鎖を切ればいい。逆に質問するよ。なんでここから出ないの?君はもう縛られてないのに」
「こんななまくらじゃこの鎖がきれるわけない。趣味が悪いんだよ。わざわざ持ってきてさ、弄んでるつもり?」
「まさか。このペンチならきれるよ。君が気づかないはずがない。本当にわからないの?」
ネーヴェに腕を掴まれた。いつかのように投げ飛ばされることはなく、ベッドへと連れていかれる。そのまま押し倒された。不透明な瞳に僕が映っていた。全て自分がやった事なのに、驚いた顔をしているネーヴェが可笑しくてたまらない。
「……君でもこんなになるんだね」
「抵抗するだけ無駄だろ。どうせお前のやりたい放題なんだし」
「受け入れてくれるんだ。どうして?君って実は相当なMだったりする?しないよね。性的嗜好は一般的だもん」
「監禁してるやつが性的嗜好だなんだって、なんの冗談だよ。笑えもしない」
僕を押し倒したまま、ネーヴェは動かない。考えるように数秒視線を逸らして、また僕を覗き込む。その度にネーヴェの顔が歪んだ。まさかありえない、なんて言葉が聞こえてきそうだ。
「まさか本当に気づいてないの?あのペンチを見つけた時点で、君はいつでもここを出れた。鎖をきってから僕を呼び出して扉を開けさせればいい」
「いつでもここを出れた?本気で言ってる?例え鎖がきれたところで首輪がはめられてる限り元素は使えない。元素が使えるお前を相手にするには分が悪すぎるんだよ。力でねじ伏せるのは確実性に欠ける。面白くもない」
「君にとっていちばん面白くないのは監禁されてる今のこの状況じゃないの」
く、と喉が詰まった。あれだけ笑顔を崩さなかったネーヴェは、ずっと真剣な顔で僕を見ている。ネーヴェの髪が頬を掠めた。くすぐったくて顔を横に向ける。
「何度でも聞くよ。君はここから出れるのにも関わらず一向に出ようとはしない。それってなんで?ねえ、僕に教えてよ」
「…さっき言っただろ。首輪がついたままじゃ出れそうにない。首輪を外して確実に出てやろうとしてるんだよ」
「首輪に触れてどうやって外すのか試した?どんな構造なのかって探ろうとした?まさか!そんな素振り一切見せなかった。なんなら君は首輪に触れることすらしていない。そして首輪よりよっぽど難易度が低いだろう鎖にも一切手をつけていない。ペンチだって、見つけただけできれるか試そうともしなかった」
僕の行動が詳細に語られる。やっぱり監視カメラがどこかにあったんだとネーヴェの言葉を聞いて確信した。だったら脱出の計画を立てようとしたところでゲームオーバーだ。ネーヴェが僕の頬を掴んで無理矢理目を合わせてきた。楽しそうな顔で笑っている。そんな笑顔、ここ最近見ていない。
「ジェミニさ、ここから出ようとしてないでしょ」
イヤな強さを持ってネーヴェの言葉が耳に入ってくる。若干の熱を孕んだその言葉がぶわりと体に熱を与えてきた。はっ、と震える喉から無意識に嘲笑が溢れてネーヴェにまで届く。
「バカじゃないの。そんなわけないだろ」
「出ようとする素振りすら見せないくせに。口先だけじゃないか」
ネーヴェの指が首輪にかかる。首輪と首の間に指を入れられて息が詰まった。ぐいと引っ張られて息が出来なくなる。
「ジェミニって僕のこと結構好きなんだ」
指が抜けて息が出来るようになった。体が酸素を勝手に吸い込む。げほ、げほと数回咳き込んでネーヴェを睨んだ。反論させないためだけに人の首を絞めてくる頭のおかしい奴は、今度は何故か寂しそうな顔で笑っている。
「ねえジェミニ、好きって言ってよ」
「お前なんて大っ嫌い」
そう、とネーヴェの呟きが落ちる。満足したのか僕の上からネーヴェが退いた。ベッドから降りて扉の前に立つネーヴェを目で追う。 元の場所に帰ろうとしているネーヴェは、一度僕の方へ振り返って、またね、と手を振った。またなんてあるもんか。ため息をついてネーヴェを見送る。バタン、と重厚な扉が音をたてて閉まった。