サンダルフォン、と穏やかに低い男の声が呼ぶ。
事後の気怠い身体を草地に横たえ、うとうとと微睡んでいた俺は短く応えを返した——つもりだが、実際にきちんと音にできていたかは定かではない。
もう一度、今度は微かに笑みを含んだ声音で呼ばれて、次いで唇に柔らかく濡れた感触が触れる。驚いて目蓋を持ち上げると、俺の傍らに片膝を立てて腰を下ろしている男の蒼い瞳が見えた。陽の光を受けて美しく透き通っているそれは、涼しげな眦をごく僅かに撓めている。
「喉が渇いただろう?」
男の手には淡い灰紫色をした楕円形の果実があって、俺の唇にあてがわれているのはおそらくその果肉だ。薄く開いた隙間からそっと押し込まれた実はよく熟していて、喉に滴った果汁は甘く、男の言う通りひどく渇いていたそこを潤してくれた。
「…あんたは?」
身体を起こしながらの問いに、男が薄く微笑む。
「もう食べたよ」
それが嘘だと、俺には簡単に知れた。
背の高い樹木に巻きついているあけびの蔓にぶら下がっていた果実はいくつかあったが、実が割れるほど熟していたのは、他の蕾に先駆けて咲いた一番花から実ったひとつだけだった。他の実はまだ青く、食せるほどには熟れていないことを知っている。
男はいつもこうだった。小さな島に驚くほど多種多様に実る果実の、一番に大きく甘い最初のひとつを必ず俺に与えようとする。
軽く吐息を吐いて、俺は男が差し出した残りの果実を受け取った。綺麗にふたつに割れている果皮の中の、乳白色の果肉を指先に摘む。黙って男の口元へと運ぶと、彼は微かに眉を上げて瞳を瞬かせた。
「あんたが用意したものなのに、俺だけというのはあまり気持ちのいいものじゃないんだ」
男の唇にそっと果肉を押し当てる。つい先刻の自らの行動をなぞられて、ようやく俺の意図を察した男は小さく苦笑した。知っていたのか、と問う声はほのかに甘い。俺は否とも応とも答えなかった。
薄く形良い唇が開いて、甘い果実を食んでいく。咀嚼して飲み下す男の喉に浮いた骨が軽く上下する様を眺めて、ふいに何故だか落ち着かない心地になった。ぞわりと、焦燥にも似た不快感が背筋を逆撫でる。
気付いた時には、小さく隆起したそこに触れていた。
「……サンダルフォン」
驚きを露わにした男の声で、はっと我に返る。喉元の白い肌に這わせていた指先を、俺は弾かれたように引いた。
「あ、…すまない、その、」
自分自身の行動に動揺するあまり、咄嗟に言葉が出てこない。じっと見つめられていることに耐えられず、俺はうろうろと視線を彷徨わせた。
星の獣は人間のように首を掻かれた程度で即座に死に繋がるようなことはないが、急所のひとつであることに違いはない。そんな場所に断りもなく触れられて、いい気はしないだろう。不用意な行動を詫びようとしたところで、伸びてきた男の指先に頬を擽られた。
「初めて、触れてくれたな」
結ばれた視線の先で、男はふわりと微笑んだ。梢を抜けて零れ落ちてきた光がやわらかく揺蕩うような、けぶるように美しい笑みだった。疑いようもないほどに、それは歓びにあふれている。
俺は急激に覚えた居た堪れなさに、再び男のそれから目を逸らした。じわりと頬が熱くなって、それにもまた動揺する。
「今更だろう。散々好きに抱いておいて、こんなことくらいで」
「そうだな。だが、とても嬉しい」
サンダルフォン、と優しく低められた男の声が呼ぶ。どうしてか、俺は応えを返せなかった。
遠慮がちに触れていた指がするりと肌を撫でて、温かく大きな手のひら全部で頬を包まれる。男の顔がゆっくりと近付いてきて、俺はひそかに息を飲んだ。唇を小さく引き結ぶ。
「……サンダルフォン」
頭を過った予感は外れて、俺に触れたのは男の頬だった。俺の僅かに熱を持っているそれに自らの頬をそっと擦り寄せ、男は俺を両腕で抱き締める。軽く引き寄せられ傾いだ身体を、俺は草の上に手をついて支えた。
ほう、と深く吐き出された男の嘆息が耳元を擽る。後頭部を包んだ手のひらが、ゆっくりと髪を撫でた。繰り返し、何度も。
俺に触れる男の手は優しく、広く逞しいその胸は温かかった。
長くそうされていて、傾かないよう突っ張っている腕が疲れたから。
そう言い訳をして、俺は自らの身体を支えていた腕を折り、男の胸元に畳んだ。背を抱く腕に一層の力が篭る。
それからは、身体を重ねる以外の目的で触れられる機会が増えていった。
その後に押し倒されることはなくとも男の腕は俺の身体を抱いたし、手のひらは髪や頬、背や腕を撫で、唇は至る所に触れた。恭しささえ感じるような、羽根が落とされるように軽く色を含まない口付けは、ただ一点、俺の唇だけを避けて繰り返される。
擽るように肌を掠めるやわらかく乾いた男の唇の感触に、少しだけ鼓動を早めてしまうようになったのは、いつの頃からだったろう。行為の最中のそれとは違う、激しさも熱も伴わないただひたすらに優しい口付けは、いつも俺を落ち着かなくさせた。
今もまた。
あぐらをかいた膝に群がるうさぎを適当にあしらっていた俺の隣に腰を下ろした男の手が、唇が、俺の身体のどこに触れるのかと気になってしまう。
「君は本当によく懐かれる。餌を与えているでもないのに」
俺の胸に前足をかけ立ち上がって、鼻を高く上げてふんふんと匂いを嗅いでいた一羽のうさぎが、横から伸びてきた手に抱き上げられる。ふわふわと柔らかな被毛に覆われたそれを片腕に収めて、男は空いているもう一方の手でその背を撫で下ろした。
ついさっきまで俺の唇に残った果実の香りにご執心だったうさぎは、軽く体勢を整えた後は身動ぎひとつせず、大きな手のひらに優しく撫でられる心地良さに目を細めている。いくらかの個体が男に纏わりつき、その腕を鼻先でつついているのを見遣って、何故だか妙に物足りないような、面白くないような心地になった。
「あんたもだろう。撫でてくれと催促されてるじゃないか」
「ふふ、愛らしいものだ。最初に君が彼らとの関わり方を教えてくれたおかげだな」
甘えて太腿によじ登ってくるうさぎの額を指先で撫でてやりながら、男が小さく笑み零す。蒼い瞳はやわらかく細められていて、小さく無垢な命を慈しむような眼差しをしているのだろうと、横顔からでも簡単に想像できた。
「……どうだろうな」
立ち上がって、一度小さく羽を震わせる。驚かさないよう気を遣わなくとも、慣れきったうさぎたちは大きな鳶色のそれを気にする様子もなかった。
この島にいるうち、いつの間にか身体が軽く楽になった。みすぼらしい有り様になっていた羽の傷みもだいぶ癒えて、背にずしりと重く感じていたそれの存在も、顕現させていることを失念しかねないほどにまで回復している。気付けば随分と長いこと顕現させっ放しだったそれを解いて、俺は呼びかける男の声には答えず小さな湖の中へと足を進めた。
冷たい水が足先を濡らす。踏みしめた水の底は、柔らかな土と草に覆われていた。腰まで浸るほどに進んだところで、男がまた俺を呼ぶ。
振り返ると、ちょうど腰を上げた男が腕に抱えていた一羽を放すところだった。
「あんたも来るか? 冷たくて気持ちが良いぞ」
男は足元に群がるうさぎたちを岸辺に残して、少しの躊躇いも見せずこちらへと歩み寄ってくる。水を捌くようにしてゆっくりと近付いてくるその顔は、どことなく楽しげだった。
「君は時折、私の予想もつかないことをする。こういったことをする場合、普通は服を脱ぐのでは?」
「濡れたところで構わないだろう。それで身体が冷えたとして、俺たちが体調を崩すことはないし、そもそもこんなに晴れていればすぐに乾くさ」
男を見上げたまま、後ろ向きに更に奥へと後ずさる。少し困ったように微笑って追いかけてきた男に、俺は小さく首を傾げて笑った。
「それとも、脱がすか? あんたになら簡単にできるはずだが」
「…それは」
戸惑いに揺れる男の眼差しが、ほんの僅かに曇る。
最初の時の、男の手によって砕かれ解かれた鎧と内着を指しての言葉ではあった。揶揄する意図であえて口にしたものだったが、美しい蒼色を苦悩に染める男を見ていると、無体を働かれてきたのは俺だというのに、まるで俺の方こそが彼にひどい屈辱を強いているような心地になる。
理不尽な罪悪感だ。そんなものに流されるなんて愚かだと思う。己の身を蔑ろにするつもりもない。けれどもう、誤魔化すことにも飲み下すことにも、疲れてしまった。
「サンダルフォン」
あと半歩で手が届く。そんな場所で立ち止まっている男に、俺は自ら一歩を踏み出した。
きらきらと光を反射する湖面の下、蒼にも碧にも映る水の中で、男の手を取る。
「言っただろう。好きにしていい。……嫌じゃないから」
意識してゆるめた口元に諦念が滲んでしまったのはどうしようもなかった。けれどそれだけではないと、確かに伝わったのだと思う。正面から包み込むように回された男の腕は、小さな水音しか立てないほどに優しい仕草で、けれど苦しいくらいに力強かったから。
頭に頬を擦り寄せられて、全身をすっぽりとその懐に仕舞うようにして抱き締められる。言葉はなかった。けれどそれ以上に、きつく絡みつく腕と熱く耳元を濡らす吐息は雄弁だった。
男の体温に温められた肌がじわりと熱を宿す。そうなると、心地良くさえ感じていたはずの水の冷たさが途端に厭わしく思えてくる。僅かにゆるんだ腕の隙間から入り込んでくるそれが嫌で、俺は自分から男の広い背中に腕を回して身体を寄せた。
そうと認めてしまえば、坂道を転がり落ちる雪玉のように、それはあっという間に大きく膨らんでいった。
俺をさも大切なもののように抱き寄せ包み込む男の腕はいつも優しく、その温かさにいつまでも寄り添っていたくなる。何にも隔てられず触れ合う心地良さは格別で、俺は、否、俺たちは交わる行為にすっかり溺れて繰り返し肌を合わせた。
昼も夜もなく、気が済むまで触れ合ったら少しだけ眠って、目覚めたらまた手を伸ばす。
男の腕の中にいれば、俺はまるで揺籃に抱かれる赤子のように安心して眠ることができた。そうして心地良い眠りの果て、男の穏やかで耳障りの良い声で名を呼ばれ揺り起こされるのが、とても好きだった。
満ち足りた怠惰な日々の中、時折ふと何かが心を過ぎる。
————何か。
大切ななにかを忘れているような。
焦燥に似た不安を覚えるたび、俺は男にそれを問うた。男の答えは決まって同じ言葉だった。
「大丈夫。君が案ずることは何もないよ。君を苦しめるすべてのものから、私が君を守ろう。…だからどうか、私と共に」
けぶるように美しい微笑みで俺を抱き締め、眦に頬に額に、丁寧な口付けをくれる。そうされるとそれ以上はもう何も訊ねることができず、俺はただ彼の手に身を委ねた。
そしてまた、優しい手に身体を開かれ、温かな腕の中で微睡みに沈む。
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