忘れる事以外に、対処法はない。
忘れなさい、忘れなさい。
貴方にあった何もかも、貴方を呼んだそれを忘れなさい。
何時も目が醒める時に、思い出されるナニかの記憶。
俺には子供の頃の記憶が、ごっそりと抜けている。
だからと言って困る事はないが、誰に聞いても教えてはくれなかった。
何より俺の家には、赤ん坊の頃の写真以外がない。
物心付いた時には、既にそうだったから今更不思議がる事もない筈だった。
「何を忘れたんだろ、俺」
水が滴るのも気にせずに、顔を上げるとボタボタと水が排水溝へと流れていく。
水が流れていくのを見つめながら、俺は何を必死に思い出そうとしているのか理由を考えた。
何かを忘れているが、思い出せない事にモヤモヤしているからかもしれない。
だからと言って、思い出した処でどうにも出来ない筈だ。
今日も今日で、舞台の前座をこなさねばならない。
売れない芸人なのだから、こうして呼ばれる事も有り難い。
そう言えば、呼ばれた事がある気がする。
でも、何に呼ばれたのだろうか。
「おーい、髙羽!」
「はい、ケンさん!今入りました!」
『……カ、バ』
ケンさんの声に混じって、ナニかの声が聞こえてバッと後ろを振り向く。
そこに居たのは、後輩芸人だった。
「えっと、呼んだ?」
「呼んでませんけど、髙羽の兄さん。大丈夫です?汗、凄いですけど」
「え?あー、はは。大丈夫大丈夫!」
ナニかの声が聞こえた瞬間、全身の毛穴と言う毛穴から脂汗が吹き出たのだ。
理由は分からないけど、俺は忘れているナニかが恐ろしいのかもしれない。
思い出してはいけない、それは忘れなさい。
誰が、俺にそんな言葉を掛けたのだろうか。
「髙羽、大丈夫か?次やで」
「あ、はい。今行きます」
後輩芸人が心配したらしく、ケンさんを呼んできてくれたらしい。
心配させてはいけないと思って、気丈に振る舞ってみたが内心はずっと心音が痛いくらいに脈を打っていた。
板の上に立って、何時もの様にネタを披露する。
盛大にスベっているのを自覚して、込み上げてくる胃液が途中で止また。
客席の、一番奥、見ては、いけない。
頭の中で警告音の様に響く声に、ネタをやる処ではなかった。
気付けば、ケンさんが舞台袖から時間だと書かれたスケッチブックを掲げているのが見えた。
これで逃げられると思って、ありがとうございましたと頭を下げる。
疎らな拍手の音の先に、変な拍手をしている奴が居た気がした。
「髙羽!」
「ひゃい!」
ケンさんの怒鳴りに近い声にびっくりして、舞台袖に戻ると大丈夫かと聞かれた。
何故だと思えば、一人おかしい奴がいたからだと説明される。
具体的にどんな奴なのか聞きたかったけど、俺は聞く事が出来なかった。
「ター、カバ、どコ?」
見てはいけない、後ろを見てはいけない。
ここにはケンさん達も居て、一人ではない。
一人ではない、本当に、一人じゃないのか。
分からない、分からない分からない。
「あ、あ、いや、だ……思い出したく、ない」
「何で?髙羽、酷いじゃないか。たった一人の相方だろ?」
恐怖心から逃げ出そうと顔を上げると、それは俺の目の前に居たのだ。
「捕まえた、髙羽」
ギチギチ、ギチギチ
大きなムカデが、俺の体に絡み付く。
忘れなさい、忘れなさい。
羂索さまの事は。
魅入られたなら、忘れることしか出来ないから。
「ふふ、やっと二人きりだね」
頬に触れたその手は、驚くくらいに冷たくてぬるりとしていた。