唯一保てていた男としての矜持は、いとも簡単に壊されてしまった。
狩りをする者が失敗した時は、その失敗の報いを受けるのが常である。
だからもし、自分が失敗した時に受ける報いには素直に受け入れて目を瞑るつもりではあった。
「……」
それでも、男としての矜持だけは捨てきれなかった。
鎖が外され首輪の鍵も外された今、外へ出るのは簡単な事である。
出張がどれ位なのかは言われていないが、逃げるのには絶好の機会である事には変わらない。
ベッドを降りて息を殺しながら、無駄に長い廊下を壁を伝って歩く。
人の気配がない所を見れば、本当に武市先生は出て行ったらしい。
服も着せられているし荷物もあるし、玄関には俺の靴も隠される事なく置かれている。
唯一の難点を上げるならば、空腹で仕方がない事だけ。
「家まで帰れば、残りの食料があるから大丈夫だ」
自分に言い聞かせる様に呟きながら、やっとの思いで玄関まで向かい靴を履いた。
扉に掛けられた鍵を開ければ、直ぐにでも出られると言うのに手が止まって動かない。
頭の中をぐるぐると、戻ったとしても監禁される前の生活を送れるのか。
あの日の事をネタに何かされるのではないか、そもそもここで逃げたら何をされるか分からない。
もっと酷い事になるのではないのか、それなら逃げない方がいいのかもしれない。
大学が一緒であるなら俺の実家も知っている筈だし、裏の事も詳しい。
ここから逃げ出した時、俺は逃げ切れるのかと何度も頭の中で反芻される。
意を決して鍵を回し、ガチャンと鍵が外れる音が響き渡ったと同時に目が回り気付けば叫び出していた。
「っー!!ちが、うこれは、違う!」
何が違うのか分からないまま、俺は二つあるうちの鍵の一つだけを開けて逃げ戻ったのだ。
君の部屋だと言われて監禁され、君を性的に食したいと言われて襲われたあの部屋にだ。
何時ものようにベッドに戻り、毛布を頭まで掛けて潜り込む。
嫌な事があると毛布にくるまって、落ち着くまでこうやって隠れる。
落ち着きたい、何も考えなたくない、此処から出たいか分からない。
分からない、分からない。
分からないから、早く帰ってきて欲しい。
ぐるぐると回っていく思考が袋小路から抜け出そうとしたのか、何とも人間らしい欲求を弾き出す。
「……腹が減った」
ろくに食べていないのだから、腹が減って当たり前なのだ。
ふらりとベッドから降りて、キッチンを探すと広いリビングの先に似つかわしくない冷蔵庫があった。
扉を開くと、そこには肉が多いスープが鍋ごと鎮座している。
何の肉なのか考えるよりも先に、鍋を手に取りコンロに掛けて温め始めた。
コトコトと温まっていくスープに、自然と唾液が垂れていく。
食べたくて食べたくて仕方がなくて、でもちゃんと温めないと食べられない。
漸く食べれる位に温まったスープを皿へと流し込み、スプーンと一緒に持ちながらテーブルへと置いた。
腹が減っているせいもあってか、スープを食べ始めてからの記憶がほぼ無かった。
ただただ無心に食べて、空っぽになったらまた注ぎ直すを繰り返す。
ひたすらに食べて食べて、食べて足りなくて。
冷蔵庫に入っていた食材を調理して食べて、空っぽだった胃に食べ物を詰め込んだ。
◆ ◆ ◆
頭の中から逃げると言う選択肢が消えていく感覚に、危機感を覚えているのに体は言うことを聞かない。
リビングやキッチンにあった時計を見れば良かったのに、それすら怖くて目を逸らしてしまった。
窓から射す光だけは見たが、それでも何時だかは分からなかった。
「ただいま、田中君。鎖も外していたから、出て行ったものだと思っていたよ。でも、残っていてくれたんだね」
戻ってきた武市先生は、俺が出て行くと思っていない様な口調で話す。
何度か出て行こうとはしていたが、途中でどうしようもない恐怖が襲ってきて手が止まってしまうのだ。
だから逃げられなくて、逃げる選択肢がどんどん自分の中から消えていく。
気付けば監禁されていた部屋に入って、ベッドの上で丸くなるしかなかった。
何も言わない俺の事は気にしていないのか、武市先生は尚も話続けている。
「それでね、君の為にお土産を買ってきたんだ。食欲があるようなら温めるが……」
何かの料理を持ってきたのか、冷えていても微かに薫る匂いが鼻腔を擽った。
顔を上げると、先生はがさっと音を立てながら料理が入っている袋を揺らす。
「覚えているかな、君が初めて肉を食べたレストランのシェフが作った料理なんだ。あれから、君は行けていないだろと思って特別に作って貰ったんだ」
食べるかい?と聞かれ、俺は気付けば首を縦に振っていた。
すると武市先生は、いそいそとキッチンへと向かって行く。
キッチンは使った後、ちゃんと片付けたから大丈夫だとは思う。
だが人によっては、他人にいじられるのを嫌う。
それについて謝罪しようと思って、ベッドを降りて先生の後を付いて行く。
リビングのテーブルに、ビニール袋を置いて中からタッパーを取り出している先生は特に気にした様子もなかった。
「あの留守の間に、キッチン使って」
「あぁ、そんな事か!君が餓死しなかったなら良かった。私の料理は口に合ったかな?」
「……はい」
俺に言われて気付いたらしい先生は、本当に気にしていなかった様だった。
俺と会話をしながら、レンジにタッパーを入れて設定してからスイッチを入れている。
「座っていていいよ。私が後はやるから」
言われるまま椅子に座り、目の前にあの日と同じ様にフォークとスプーンが用意される。
違うとすればここは先生の家で、先生はベールで顔を隠していない事。
レンジが終わった音が響き、先生が鍋掴みを手に付けてタッパーを取り出す。
皿に盛り付けると崩れると言われ、そのままテーブルへと置かれた。
蓋を開けられると、ふわりとあの日と同じ食欲がそそられる匂いがする。
俺の目の前に座った先生は、にこっと笑いながら俺に食べるようにと勧めてきた。
折角温めてくれたのだから、冷める前に食べるのが礼儀だろう。
出されたフォークで、肉を刺して口へと運ぶ。
今回の肉の部位は、モツなのか歯応えがあって何度か歯を立てて噛む。
「どうかな」
先生から感想を聞かれたが、まだ口の中に入ったままで答えられない。
もう少し噛みたかったが、答えなければと思って肉を飲み込む。
「美味しいです、とても」
あの日食べた肉より、いや自分が狩った人間より美味しく感じて素直に言葉が漏れた。
すると先生の表情が変わり、この上なく幸せそうに。
至極幸せそうに笑う顔に、一瞬で全てを悟った。
その後の行動は自分でも驚く位に早くて、椅子に座っている先生に手を伸ばして。
高そうなワイシャツを力任せに引き千切って、その下に見えた包帯に目を見開く。
「何を……何をしてるんですか!?」
「言っただろ、私は君に食べられたいと」
そっと伸ばされる手を振り払えず、シャツを掴んだまま先生を睨む。
「ほら、料理が冷める前に食べきらないとシェフにも悪い。早くその胃袋に納めてくれないかな、私の内臓を」
きっとこれは、最初に喰われたのは俺の方だ。
胃袋に落しても尚、食されたいと願う肉食獣は、その胃袋を食い千切って獲物が自分を喰すのを待っているのだ。
終