散り逝く5武市大尉と田中曹長は、俺から見ればお互い本音を隠し合っている仲だと思えた。
言えば良いのにと思いながらも、それを言ってしまえば俺の今の地位。
いや、命も危ういと分かっていたから黙っていた。
漸く戦乱の世が終わり、雁字搦めになっていた身分制度も幕を閉じた。
武士の家に生まれながらも貧しい暮らしをしていた俺が、人並みの生活を出来る様になったのだ。
だから、災いの元である口を固く閉ざす。
「君は田中君の部下だったかな」
「はっ!丹羽一等卒です!大尉殿、何かご用でしょうか!」
突然、一等卒の俺に武市大尉が声を掛けてきたのだ。
一介の一等卒に、士官の者が声を掛ける事はほぼない。
何かやらかしたかと思ったが、武市大尉はふっと笑い俺の肩に手を置いた。
「そんなに堅くならなくていいさ。君に、田中君。いや、田中曹長の事を任せたくて声を掛けさせて貰ったんだ」
「私に……ですか」
「あぁ、君なら任せられると思ってね」
この時、俺は漸く武市大尉が本当の意味で笑っていない事に気付いたのだ。
この人は顔は笑っているが、目が笑っていない。
田中曹長と居る場面しか見ていなかったから分からなかったが、この人は他人に向ける顔と曹長に向ける顔がある。
気付くのが遅れた事に内心焦りながらも、大尉の意図に沿わない返事をしない様しなければと気を引き締めた。
すると俺の焦りに気付いたのか、大尉はスッと目を細めて肩から手を離した。
「やはり君しか居ないな。君も分かって居ると思うが、私はそう遠くない内に失脚させられる」
「何故、でしょうか」
大尉の失脚の話は知っていたし、俺自身も身の振り方を考える時期だとは思っていた。
それを見透かしている様に話し始める大尉に、ぼろを出さない様にとすっとぼける。
上の連中は、武市大尉の能力を恐れていた。
だから、本格的に力をつける前にと大尉の処分を考えているのだ。
特に上の連中は、長州と薩摩の出が多い。
土佐の出の大尉が気に入らないのも分からなくはないが、俺自身は大尉の能力の凄さに憧れを抱いていた。
その大尉の側に居る曹長の人の良さに、俺は惚れ込んでいる。
だから失脚の話を聞いた時、どちらにつく訳でもない中立な立場を守っていた。
「……思った通り、君は明朗な人間だ。君の様な若者こそ、上に立つべきだと私は思うよ。知らない振りは続けるといい。口は災いの元だ」
「大尉、お言葉ですが何を仰られているのか私には」
「私が居なくなった後、君を田中軍曹の直属の部下として任命するつもりだ。君は一等卒に収まれる相手でもない」
皆まで語らない大尉の真意が分かり、大尉の姿が見えなくなったのを確認してから深い溜め息をつく。
昇格を約束する代わりに、曹長の面倒を見るように言われたのだ。
失脚に関わるのであれば、大尉は俺を何処かの師団に飛ばすつもりなのだろう。
脅しではあるが、大尉の能力を買っている上の人間も数名居る。
どっちにしろ、俺には選択肢がない事が確定しているのだ。
それなら、人の良い曹長の力になる事を選ぶ事にした。
それが間違えでなければいいと思いながらだ。
◆ ◆ ◆
曹長が少尉になるのは、特例中の特例だった。
驚きがあったし、俺も特例で曹長への推薦が決まった。
大尉が言った事は本当だったのかと、一人で感心しながら田中少尉の事を見る事にした。
せめてもの礼と武市大尉の意に沿う事が、俺に出来る最大の恩返しである。
少尉が兵舎を出るのを見計らって、俺は少尉の元へと近付く。
勿論、敬礼を忘れずにだ。
「少尉、遊郭に向かうならご一緒します」
「調べろと言ったと思うんだが」
「ええ、粗方調べられたのでご報告を兼ねてですよ」
頭を下げながら、周りの人間にも聞かれない程度の小声で話してから顔を上げる。
やはり少尉は、密談の知識は乏しいらしく俺を怪訝そうに見つめていた。
遊郭は、女と遊ぶだけの場所ではない。
一見さんお断りの料亭もあるが、そこに行くのは密談をするのが見え見えである。
だから、代わりとなるが遊郭だ。
ちゃんとした遊郭ならば、それなりに口の固い女が揃っている。
それに、遊郭に行ってわざわざ密談を交わす事はないと思われる確率が高いのだ。
特にこうして、部下と一緒に行くとなれば余計にだ。
「分かった。なら共に行く」
「有り難う御座います、少尉殿。見世はお任せ致します」
どの見世を選ばれたとしても、口が固い事には変わらない。
少尉は少し悩みながらも、俺を連れて花街へと向かっていた。
そしてある一画の遊郭で立ち止まり、女将へと声を掛ける。
ふと視線を感じ、顔を上げて思わず息を飲んだ。
手摺越しに俺を見つめて、ふっと笑っているのは武市大尉だったのだ。
上層部は、武市大尉を飛ばさずに遊郭へと落としたらしい。
妖艶に笑う武市大尉に、俺は上層部が選択を誤った事を察した。
大尉は何一つとして折れていない、いや、折れる処かその牙を研ぎ澄ましている。
少尉が俺に、遊郭について聞いた事の理由がこれで全て分かったのだった。