〈プロローグ・松陰視点〉
「あ、先生。こんな所に居たのですね」
蝉が五月蠅く鳴き始め、日差しが夏に変わり始めた初夏の雑木林の中だった。
幼い僕の事を先生と呼び、何処か熱の籠った目を向ける赤髪の男。
誰と聞くよりも先に、男の腕が僕に伸びていた。
逃げる間もなく、男に抱き締められて身動きが取れなくなってしまった。
「先生。僕には時間が無いんです」
僕に質問の余地はなく、男が覆いかぶさったと同時に木漏れ日が眩しくて目を閉じる。
「実力行使なんて僕らしくないですが、許してください。松陰先生」
男の声は蝉の鳴き声と一緒に溶けて、僕の脳内にこびりついて消えなかった。
気付いた時、僕は病院に居た。
「起きたのね!もう大丈夫だから!!」
母は泣きながら僕を抱き締めていたし、父も泣きそうな顔をしていた。
何があったのか思い出そうとしても、僕は何一つとして思い出せない。
ただ体の節々が痛くて、下半身の違和感があったけど聞いてはいけない気がして口を噤んだ。
それが、僕が唯一覚えている小学生の頃の記憶だ。
高校生になった今でも、あの鮮やかな赤髪と初夏の日差しを鮮明に思い出してしまう。
大人がどんなに隠そうとしても年齢を重ねれば、僕も嫌でも過去に何があったかを理解してしまう。
男はあれから捕まったと言う話も聞いていないから、きっと今ものうのうと生きているのだろう。
「はぁ、いけない。忘れなければ」
自分の頬を抓って、思い出し掛けてしまった男の記憶を痛みで相殺する。
そう言えば、今日は新しい生物の先生が来ると聞いた。
こんな中途半端な時期に、前任の先生が辞めてしまった事が気にはなってしまう。
丁度、僕の隣を通った女生徒の会話が耳に入って来た。
「今度の生物の先生、かっこいいよね!」
「でも、逆に整い過ぎて怖くない?」
女子の情報網は侮れないなと思いながら、僕も気になっていたから耳を傾けてしまう。
「そうかな?イケメンだし、いいと思うけど。名前ってなんだっけ」
「高杉先生の事でしょ。赤髪の」
盗み聞きしていた僕の心臓が、痛い位に脈を打ち始める。
彼女達は、赤髪だと言ったのだ。
「あ、そこの君。職員室は何処かな。迷ってしまってね」
僕と赤髪の御ことだけが空間から切り取られたかの様に、周りの生徒の気配も人の声も一切僕は感じなくなっていた。