叡智の扉、開けてしまった――それは、学者としての単純な興味であった。
思い浮かんだ言葉に対し、アルハイゼンは心の中で首を横に振る。「学者として」という括りは正確さを欠いている。正しくは、知能を持つ存在であれば誰しも抱く欲求であろう。
例えば、子供が森の中で見たこともない花を見つけた時のような。あるいは、猫が新しいおもちゃを見つけた時のような。何が言いたいかというと、彼の背中にある謎の露出部位は、アルハイゼンが興味を抱くに値したということだ。
「……はぁ、コスト削減とはいえこれではあまりにも……いや、別の工法であればあるいは」
彼、というのはアルハイゼンの家に転がり込んできた借金まみれの建築家、カーヴェのことであった。 言い争いの絶えない仲でありながら、本日は珍しく独り言を言いながらも真面目に仕事をしている。新しい建築物のデザイン画と設計に必要な数字を計算しては眺めるの繰り返し。
「(非合理的なデザインだな)」
アルハイゼンの視線は、カーヴェの上着のうなじ部分、そして肩甲骨から背中にかけての一部に向けられていた。何故だか分からないが、二か所の露出部位から目が離せない。何故目が離せないかというと、これが自分でも説明がつかないのだった。思ったことをそのまま言葉にするなら「何故あそこだけ露出しているのかがわからない」だ。
服のデザインに関心はあまりない。ついでにカーヴェに対しても、どんな格好をしようが特に気にしてこなかった。ただ、今日は確かに彼の普段目に入らない部分が見えている。面と向かって言い争うことの多い彼が珍しく背を向けていて、殆ど目にしてこなかった背中がたまたま視界に入ってしまった。
「(やはり、気になる。)」
衣服の役目は肌の保護。スメールは比較的温暖な土地であり、森林を歩く際は虫刺されなどに気を付けなければならない。砂漠地帯に赴くのであれば話は別だか、普段生活するスメールシティ近辺において背中の露出は必要がないのである。
もっとおかしいのは、上着自体は腕までしっかり覆うデザインでありながら、無駄に背中を露出していること。涼しさを求めるのであれば、両腕ももっと涼やかであるべきだ。
「(行動に問題はあるが、彼も学者の端くれ。正真正銘の馬鹿ではない……であれば、あの不可解な露出の意味は何だ)」
考えれば考えるほど気になってきた。学者というのは考え出したら止まらない生き物なのだ。しかしながら、考えているだけでは答えは得られない。教令院の学生だってそうだ。論文を書くには様々な実験やらフィールドワークをして、データを取る。
「ああ、なるほど。これなら大丈夫だろう。僕設計技術であれば問題なく……」
幸い、観察対象は動くことなく、未だ設計図とにらめっこしている。アルハイゼンはソファから立ち上がり、迷うことなくカーヴェの背……謎の露出部位に右手を突っ込んだ。
「ぴゃんっ!?」
「!?!?!?」
その時、アルハイゼンは星空を見た。頭の中に、宇宙が広がっていた。背中の露出部位がどうの、という思考は消し飛んで、たった今目の前で起こった現象の衝撃に打ちひしがれていた。
「いきなり何をするんだ!?」
永遠にも思える数秒が過ぎると、よくよく見慣れたカーヴェの怒った顔が眼前にある。いったい何の嫌がらせだ、と彼は続けた。罵声を浴びせかけられながらも、アルハイゼンの意識は半分宇宙から帰ってきていない。
ぴゃん、という彼の悲鳴。びくんと肩を震わせる反応。たったそれだけのことが、アルハイゼンの中の決定的な何かを動かしていた。まるで真理に触れたかのような、まったく新しい感覚だった。
「っああもう、君の不意打ちのせいで間抜けな声を出してしまった……僕を鬱陶しがるくせに、随分と子供じみた悪戯をするんだな君は!」
「ああ、すまない」
「……!? 君が素直に謝るなんて……おかしい、熱でもあるのか? 今日は空からキノコンが降るんじゃないだろうな」
「空からキノコンが降る確率はそれほど低くはない。あの生き物は普段から宙に浮いているだろう。生態系が一時的に乱れれば大量発生したキノコンが降ってくることも無くは」
「そういうことを言っているんじゃない! はぁ、とにかく可笑しなちょっかいをかけるのはやめてくれ」
カーヴェはフンと鼻を鳴らした後、アルハイゼンに背を向けて設計図に視線を戻した。一分にも満たない会話であったが、アルハイゼンはひとつ確信を得ていた。学者というのは、ある日突然雷に打たれたかのように何かを閃いたり、悟ったりすることがあるらしい。今まで信じていなかったが、たった今体験した。
「(成程、扉を開ける、とはこういうことか)」
天啓が降りたのであれば、探求心を注ぐのは当然のことである。その先で彼との関係が爛れていくなどとは、想像もしていなかった。