手を繋ぐアルハイゼンは頭を抱えた。秘境の宝で借金返済してやると意気込んで出て行ったルームメイトは五、六歳の子供に成り果てた挙句記憶もなくして帰って来た。同行した旅人曰く、時間が経てば元に戻るという。「お前のとこに居るのが安全そうだからな!」と元気よくのたまった空飛ぶ非常食には言いたいことがあり過ぎて逆に何も言えなかった。
初めこそきょとんとして大人しくしていたカーヴェだったが、現在家の床を画用紙で占拠している。パステルと紙を与えておけば大人しく座っているだろうというアテは外れこそしなかったものの、ものの数時間で部屋をアトリエにされた。これならまだ、元気よく走り回ってくれたほうがマシだったと思う。騒音は耳栓で防げる。
「カーヴェ」
「……」
「描き終わった紙はしまえとあれ程言っただろう」
「……」
「カーヴェ!」
「……!」
三度目の呼びかけで、少年は漸く顔料塗れの指を止めた。製図も知らない幼児のくせに、並々ならぬ集中力は既にその身に宿っており、間違いなく天性であった。唯一の救いは彼がまだ小生意気な反骨精神を持ち合わせていないこと。呼びかけに答えたカーヴェは嫌味も文句も吐かず、素直に散らばった画用紙を拾っている。床にはみ出した顔料については後で何とかしよう。
「あるはいぜん、緑がもうない」
「もう使い尽くしたのか?」
うん、と首を縦に振る少年。机の上には豆粒のようになった緑色のパステルが落ちている。他の色も概ね半分近く削れていた。
「後で買ってくるから君は家で……」
待っていろ、と言いかけた唇が止まる。これはカーヴェだ。頭の中で繰り返す。奇跡的にこちらの言うことを聞いているが、目を離したら絶対にやらかす。画材が切れた状態で放置したらなにをされるか分かったものではない。ルームメイトのことを嫌でもよく知るアルハイゼンには確信があった。
「(どのみち夕飯の買い出しも必要だが……目立ちたくはないな)」
あの男をそのまま小さくしたような見た目なので、連れ歩きでもすれば嫌でも目を引いてしまう。家に残すか、悪目立ち覚悟で外に出るか。天秤にかけた結果、アルハイゼンは後者を選択した。
「外に出るからこれを被るように。言うことを聞けたら、夕飯は君の好きな食べ物を選んでいい」
彼が使っていたフード付きの砂除けを被せる。明らかにサイズは合っていないものの、ぎりぎり床を引きずらない程度の丈である。夕闇に紛れて買い出しに行けば、そう目立つまい。
「君は俺の後ろをついて……いや」
繰り返すがこれはカーヴェである。大人になった彼ですら興味を持ったものにつられ、花の蜜に集る蝶々のように道を外れていく阿呆である。好奇心の塊である子供時代の彼が大人しく後ろをついてこれるだろうか。到底不可能である。
「……?」
「ほら」
悩んだ末、ぎこちなく手を差し出すと、少年は何の迷いもなく握り返した。子供体温なのか、握った掌は仄かに温かい。細くて柔らかな指、その爪先は洗いきれなかった顔料の色が残っている。
「……手を、離さないように」
その言葉を絞り出すのには時間を要した。我ながら、歯の浮くような台詞だと思った。少年はとても素直に、首を縦に振る。彼は知らない。大人になった自分がたった今手を繋いだ男と身体を重ねていることを。そのくせ、恋仲となってからも寝台以外で手を繋いだことが無いことを。
「時間とは残酷なものだな」
「え?」
「君は知らなくていい。早くしないと画材屋が閉まるぞ」
複雑な思いに苛まれながら、夕方のマーケットに繰り出した。こんな思いをさせた同居人には、大人に戻った後たっぷり小言を言ってやろうと心に誓った。
しかし、アルハイゼンが小言を言う機会は結局訪れなかった。童心のままアルハイゼン膝の上に座り、手を繋ぎ、遊んでほしいと強請った挙句、その記憶を保ったまま元に戻ってしまったカーヴェが羞恥のあまり家を飛び出してしまったからである。