狐と烏 授業が終わって外に出ると、校門の前に停まっている黒いリムジンが目に入った。家へ帰る生徒や学校の外へ遊びに行く生徒、部活動の一環で外周を走る運動部の生徒などがちらちらとリムジンを見やって通り過ぎていく。
すっかり見慣れたその光景にサモナーは苦笑する。これでも以前はもっと注目されていたし、不審がった生徒が先生を呼んできてちょっとした騒ぎになったこともあった。
サモナーがリムジンに近づいていくと、運転席のドアが開いて、中からショロトルが姿を現す。
「こんにちは、サモナー様」
プライベートで会う時とは違って、きちんと背筋を伸ばしてぺこりと頭を下げて挨拶をされる。
少しだけ距離を感じてしまって寂しいが、ショロトルは仕事中なので仕方がない。あと、後ろでぶんぶんと揺れている尻尾はご愛敬だ。
「お迎えありがとう」
「いいえ、仕事ですから。サモナー様も学校お疲れ様です」
礼を伝えればゴーグルの下の目が優しく笑う。本当だったら頭をぐしゃぐしゃと撫でてやりたい。けれどもショロトルにも、そしてショロトルの主人にも面子というものがあるだろうし、その衝動をぐっとこらえる。
「ハクメン様が中でお待ちです」
ショロトルが開けてくれた後ろのドアに、サモナーは再び礼を述べながら乗り込んだ。
バタンと後ろでドアが閉まる音がするのと、自分の名を呼ぶ少し高い声が車内に響いたのはほとんど同時だった。
「御屋形様! 元気にしていましたか?」
奥のシートから伸びて来たふわふわの腕がサモナーの身体を捕らえてぐっと引き寄せる。驚いたが、サモナーはすぐに力を抜いてその腕の主に身を委ねた。ふわふわと手入れされた毛並みが体を包む。
「ハクメンちゃんは」
元気そうだね、と続けようとしたサモナーはハクメンの顔を見て言い淀む。綺麗な化粧で彩られた顔は美しく、それでいて可愛らしく、見る者すべてを魅了するように彩られている。加えて、己が可愛さを把握しているだろうハクメンの魅力的な笑みは完璧だ。
「もしかして、ちょっと疲れてる?」
それでもどことなく違和感が拭えなくてサモナーは少し躊躇いがちに尋ねる。
「まあ、」
ハクメンは一瞬、驚いたように目を丸くして、それからふっと頬を緩ませた。エネルギーが溢れていた瞳がゆるりとほどけるように細められた。
「御屋形様ったら」
どうやら間違ってはいなかったらしい。緩められた腕の中で、今度はサモナーからハクメンを抱き寄せた。
「仕事熱心なのもハクメンちゃんらしいけど、ちゃんと休んで欲しいな」
頬を摺り寄せれば、ほうと細い吐息が漏れるを聞く。
「御屋形様ってば優しいんだから。もちろん分かっていますわ。自分の体調管理も立派な仕事。だからこうして、今日の取引に御屋形様を呼んだんですもの」
「詳しく聞いてなかったけど、やっぱりそういうのなんだ」
事前に貰っていた連絡では、デートとしか書かれていなかったが、中途半端な時間の指定にそうではないかと勘繰ってはいた。それにハクメンには一度前科がある。
「そんなに構えなくても大丈夫。今回の相手は一度御屋形様をご紹介したお方。それに、今回はちゃんと事前連絡もぬかりなしでしてよ」
つまりはきっと以前これまた突然に会議へと連れて行かれたときの取引相手なのだろう。ハクメンの手腕を疑うわけではないが、それでも自分の存在がハクメンのビジネスを台無しにするのではないかという心配が全くないわけではない。サモナーはハクメンの言葉を聞いて安堵する。
「じゃあそれが終わったら一緒にゆっくりしようね」
その後の詳細な予定は知らないが、ハクメンのことだからきっと煌びやかな、それでいて落ち着く場所を抑えてあるに違いない。仕事が終わったら、今日はもう何もせず、二人でゆっくりベッドの上で過ごすのもありだろう、とサモナーは考える。
「じゃあ仕事の前にちょっと休憩だね。寝なくてもいいから少し目でもつぶってたら?」
仕事の前に少しでも休んで欲しいと思うのは自分のエゴだが、ハクメンの用事にも付き合うのだからそれぐらいは許してほしい。休息の邪魔にならないようにと身体をはなすと、名残惜しいとでも言うようにハクメンが伏し目がちにサモナーを見る。
「これならいいでしょ」
サモナーがハクメンの手を握って見せれば、ハクメンは満足そうに目をつぶった。彼女の頭が控えめに肩に乗せられる。透き通った髭が耳を撫でて擽ったい。
二人を乗せたリムジンは静かに目的地へと向かう。
到着したのは六本木にある高層ビルだった。サモナーズの面々で学外に遊びに行くことはあるが、あまりこっちの方までは来ないから新鮮だ。上に昇るのかと思いきや、ハクメンはエレベーターの階下のボタンを押す。
「下にもあるんだ」
「どこぞの傲慢な竜のように高いところが好きな馬鹿もいれば、人目につかない暗いところが好きな方もいるの。誰にも見えない、二人きりになれる場所……」
ハクメンの指先がするりと揶揄うようにサモナーの顎下をなぞる。慣れない刺激にぶるりと体を震わせれば、「初心な反応も可愛らしい」と耳元で囁かれ、短い間にサモナーは二度も体を震わせることになる。
ポンと小さな機械音が天井近くのスピーカーから聞こえて扉が開くいたことでようやく「また後でねン」と解放された。長く続く廊下は薄暗く、しかし、両端に統一間隔で並んだオレンジ色のライトのおかげで自分のゆく道は見失わずに済む。
ハクメンの後ろをついて歩いていると、やがて一つの扉の前でハクメンが立ち止まった。扉の前には猫獣人のボディガードが一人、銃を携えて経っている。ちらりとサモナーを一瞥してきたその顔は、どこかで見たことがあるような顔だった。サモナーを映したその瞳の色の意味は、嫉妬か警戒か憐れみか。
コンコンとノックの音が廊下に響く。
「入れ」
扉の奥から聞こえた低い声は、聞き覚えのある声だった。
「お待たせして申し訳ないわね」
取引相手に促され、ソファに腰を落ち着けたハクメンはにこやかにそう言うが、部屋に入った瞬間に僅かに驚きの色が見て取れた。予定外のことが起きたのだろう、とサモナーは推測する。そして、その予定外のことがハクメンとサモナーの向かいに座る相手であるのだろうということもなんとなく分かる。
「まさか、貴方様が直々に来てくださるなんて予想外でしたわ。ドン・シームルグ」
名を呼ばれたシームルグは鋭く尖った嘴をにぃと愉快そうに歪ませた。
「事前連絡がなかったことは詫びよう。しかし、前回のそちらの言い分を真似るようで悪いが、こちらも大切なファミリーがここに来ると言う噂を耳にしたものでな。急な予定変更は多めに見て欲しい」
シームルグの言葉の意図を掴み切れず、小さく眉間に皺を寄せたハクメンから、シームルグが視線を外す。マフィアのドンたるに相応しい、相手に畏怖を抱かせる鋭い瞳がサモナーを捕らえる。ああ、このことだったのかと思い出すのは扉の前のガードマンの視線。
「なあ、サモナー」
「ご無沙汰してます」
名を呼ばれたサモナーは苦笑いで挨拶を返す。そういえば暫くシームルグの下に顔を出していなかったのを今更ながらに思い出す。忘れていたわけではない。ただ、彼の仕事と自分の考査や学校行事、学友とのイベントなどで都合が上手く合わなかっただけなのだが、まさかこんな形で会うとは。
「流石、妾の御屋形様。ドン・シームルグとも顔見知りなのね。それも、ただの顔見知りじゃないご様子」
「ごめんね、ハクメンちゃん」
別にシームルグとの関係が悪いわけではないし、二人とも自分との関係とビジネスを分けて考える分別はあると知っている。だから取引に直接的な影響を与えることはないだろうとは思うが、少なくとも、今日、この場には影響がないとは言い切れない。
「いいえ、御屋形様が謝ることじゃありませんわ。それに、共通点があれば取引が良い方向に転がる可能性も。どこぞのドワーフではありませんが、ビジネスチャンスはどこにでも転がっているもの」
謝るサモナーをハクメンは高らかにノープロブレムだと慰める。
「随分と仲良しじゃねえか、サモナー。元気そうで何よりだ」
二人のやりとりを見ていたシームルグが口を挟んだ。サモナーは彼へと視線を移す。久しぶりに会うのだから嬉しくない筈がない。ハクメンもだったが、ビジネスでもマフィアでも上に立つ者はサモナーの想像が至らぬほどに忙しいのだろう。少し疲労が蓄積しているようにも見えて少し心配になるが、ここは二人だけのプライベート空間ではないから、それを問うのは後でにしようと代わりの言葉を返す。
「シームルグは相変わらずかっこいいね」
こんなに薄暗い場所を選んだのはきっと、人目につかぬように、ライバルに邪魔されないようにという理由なのだろうが、虹色の彼の羽根が良く映えていてぴったりだと思う。
「嬉しいことを言ってくれるじゃねえか」
シームルグが喉の奥でくつくつと笑う。お世辞じゃないとのフォローは必要なさそうだ。
「折角会えたんだ。もう少し近くでその面を見せてくれ」
「ちょっと行ってくるね。すぐに戻ってくるから」
サモナーはハクメンにそう伝える。先約はハクメンだからハクメンを優先するのが道理だが、こう見えてシームルグは一度言い出したら譲らない頑固さがある。否、きっと、トップに立つものはそれぐらいの図太さや傲慢さが必要なのだろう。本来ならば第三者の立場である故に詳細は知らないが、この場の本来の目的は取引である。だからサモナーとしては早く軌道修正を図りたかった。ハクメンもきっとサモナーの意図を理解してくれたのだろう。サモナーの手に重ねた自分の手をすんなりと退けてくれる。指先をツーとなぞったのは「できるだけ早く帰ってこい」という言外の願いだろう。
サモナーはするりとハクメンのもとを離れて、シームルグのもとへと回りこんだ。
「ようやくか。寂しかったぞ」
「自分も会いたかったよ」
全然寂しくなさそうな声色でシームルグはそう言って、近づいてきたサモナーの腰に手を添え体を引き寄せる。そうして、そのまま首筋に顔を埋められる。薄く開いた嘴の隙間から洩れた温い息肌をなぞり、ぞわりと快感に近いものが背中を駆けていく。漏れそうになった吐息を抑えたのは、部屋にはハクメンもいるからだった。
「この先は二人の時に、ね」
自分の顔よりも下にある彼の額にそっと口付けてから、半ば逃れるようにシームルグの腕の中から離れる。ハクメンの元に戻る前にシームルグの目の下を指先でそっとなぞった。毛が黒いから分からないが、人間であればきっと酷い隈が出来ているのだろうと思われるほどに、近寄れば疲労感が見て取れる。
「また近々遊びにいくから空けといて。あと、あんまり無理しないで」
「なんだ、今日はお預けか?」
「今日は先約があるから、また今度」
「そうか、それは残念だな」
サモナーがハクメンの隣に戻れば、後はもうサモナーがすることはない。二人は本題に入り、難しい言葉が織り交ざる二人の会話をサモナーは聞き流しながら時を過ごす。途中眠気に襲われたものの、なんとか意識を持たせる努力をしている間に取引はどうやらうまく言ったようだった。
去り際にシームルグがサモナーの手の甲にそっと嘴の先を押し当てる。ちらりと見上げた瞳は約束だぞと念を押しているようだった。
案の定、ハクメンがとってくれたらしいホテルは豪華絢爛で、それでいて心落ち着けるような場所だった。きっと自分の手持ち金で泊まれることはこの先も一生ないのだろう。
夕食と風呂を終え、サモナーとハクメンは二人、同じベッドに体を横たえていた。
「エステは良かったの?」
「確かに魅力的でしたけど、御屋形様の魅力には勝てませんわ」
布団の中でハクメンの尻尾がサモナーの足に絡みつく。
「改めてだけど、今日はごめんね。まさか、シームルグとあんなところで出会うとは」
サモナーが思い出すのは、本日の取引相手。ハクメンには謝りつつも、今日はよく眠れているといいな、と願わずにはいられない。ハクメンもシームルグも、形は違えど、サモナーにとってはどちらも大切な人であって大切なファミリーなのだ。
「いいの。それよりも、今は御屋形様と妾の二人きり。それなのに他の男の名前を出すなんて、妾、妬けちゃう」
「確かに、今のは良くなかったね」
ハクメンの嫉妬を多分に含ませた声に愛おしさが零れる。例え計算だとしても、パーフェクトな可愛さには勝てるはずもない。サモナーは改めて己の横にいるハクメンを見つめる。手を伸ばせばすぐに柔らかな毛側に指先が触れる。
「ねえ、今日はこのまま眠っちゃう? それとも」
明日は土曜日だし、休む時間はまだたっぷりとある。二人きりの夜はまだ終わらない。