甘やかな褒美 しゃんと伸びた背筋。革靴が床を叩く音がコツコツと天井の高い廊下に響き、彼が一步踏み出す度にひらりとマントが宙で踊る。情熱的に燃えさかる炎のような髪をサモナーはちらりと見やった。
かっこいい、と素直に思う。
池袋の町を歩くクロードの姿はまさに一国を統べる王と呼ぶに相応しい佇まいだった。姿格好だけではない。交渉の場では時に情熱的に、時に懐広く思慮深く、そして時に冷徹に。クロードの内に潜む様々な面を見事なまでに使い分け、言葉巧みに自分に有利な状況を作り上げていく。他にやらなければならない用事があるからとクロードの側を離れるスノウの代わりを務めるのは今日が初めてではない。しかし、仕事中のクロードを決して見慣れることはなく何度見てもその格好良さに惚れ直す。
上質な赤い絨毯の上を優雅に歩く革靴が、一枚の豪勢な扉の前でその歩みを止めた。サモナーはすかさずクロードの眼前を遮る扉を大きく開いて、王の姿を部屋の中に閉じ込める。
パタリ、と最小限の音を立てて閉まる扉。そこはクロードの部屋。一人分にしては随分と広いベッドに、見るからに高級そうなソファ。音楽室に飾られた音楽家たちの肖像画の中に見つけられるようなくるりんと可愛らしいカーブにそっくりの足のローテーブル。
「今日はご苦労であったな」
ぴんと張り詰めた空気を彼の低い声が切り裂いた。大きく逞しい背中がくるりと反転し、クロードの二つの瞳がサモナーを捕らえる。分厚い唇が緩やかに弧を描き、サモナーの名を呼んだ。その途端、どっと押し寄せる疲労感と安心感。それから。
「クロード」
ああ、ようやく。
そんな嘆きを音に乗せる一瞬さえも惜しんで、サモナーは一步、また一歩とクロードに近付いて行く。まっすぐとこちらを見つめたままその場に静かに佇む彼が決して逃げることはないと分かっているのに、逸る気持ちを抑えきれずに彼を抱き締めんと数歩前から腕を伸ばす。クロードはやはりその場に立ったまま。堂々と、余裕ありげに日雇いの従者が自分の元へ来るのを待っている。そんな姿にほんの少しだけ腹が立つ。これではまるで自分だけが彼を求めているようだ。けれど、たとえそれが事実であったとしても、自分にはもうなす術がない。できるのはただこの腕に愛おしき彼を閉じ込めるだけ。また一歩と歩を進め、それからクロードとの間の距離をゼロにすべく、ぎゅうと思い切り彼を抱き締める。
「なんだ、ずっと側に居たであろう」
まるで久方ぶりに会った時のような熱い抱擁を受け、クロードが満更でもなさそうにくつくつと喉奥で笑う。
「そうだけど」
イジケた子どものような声で応えれば、それをまたクロードが笑った。
「なんだ、仕事中の私は嫌いか?」
「そんなわけないじゃん、むしろ」
続きを言いかけてけれど一度口を閉じる。今日一日中見てきた仕事中のクロードの姿を思い出すのに、目を閉じて意識を集中させる必要などない。
「むしろ?」
「強くて、かっこよくて、自分なんかには勿体ないと思うぐらい」
一息で言い切ったその言葉は尻すぼみになって、最後はほとんど聞き取れないほどの声量だった。けれどそんな空に消えていこうとする気持ちは見逃されることはなかった。ほう、とクロードが唸る。
「じゃあ己は王の隣に立つべきではないと、指を咥えて諦めるのか」
クロードが煽る。全くもって優しくない言葉が、鋭く心に刺さる。けれど何より刺さるのは薄い怒気を孕んだその声色。仕事中の彼が操る、挑発や威圧とは異なる、もっと深く重くそれでいてどことなく、その先に脆さを感じさせるもの。
「少しぐらい甘やかしてくれたって良いのに」
しかし、負けじと弱音を吐く。
「分かりきったことで悩むことほど無駄なことはない」
凛と言い返してくれたクロードはきっと褒めてくれているのだろう。クロードの側に自分がいることは相応しいのだと言ってくれているのだろう。しかし、残念ながら、クロードが思うほど自分は強者ではないし、それを恥とも思わない。誰に何を求められようとも所詮はただの一人の人間。
「クロードが弱音を吐きたくなった時にうんと甘やかしてあげるから、だから今はうんと甘やかしてくれないかなぁ」
弱音を吐くのは弱さではない。これは己が強くなるための一つの儀式。自分は一人では強者になれないから、自分が強者であるためにはクロードが必要だった。
「まったく……仕方ない」
クロードはやれやれと呆れたようにため息を一つ吐いてから、そのしっかりとした腕の中に自分をぎゅむと閉じ込めてくれた。
「今日の褒美だ」
「ありがとう」
自分の背を撫でる彼の手の形を目を閉じて感じる。太い指が織りなす繊細な動きを、彼が自分に注いでくれる強さと優しさを。けれども人間は悲しいくらいに強欲なもので、その先を求めてしまう。あわよくば彼の弱さと儚さをも。
「ねぇ、クロード」
「どうした」
「ご褒美はクロードの全部がほしいって言ったら怒る?」
背を撫でていたクロードの手がピタリと止まる。
「まったく、強欲な花婿なことよ」
わざとらしい溜息の終わりに滲んだのは別の感情。
「許す。今宵は我の全てを好きにするがいい」
サモナーは我慢できぬと、にんまりと弧を描く大きな唇に喰らいつく。
主と従者から、恋人へ。一人二役の役者のように。
舞台はベッドへ。スポットライトは必要ないと、帷を下ろす指先をも我慢できずに掴まえて、シーツの上に縫い付けた。