No,No,No,…Yes!「ねぇ、もう別れた?」
まるで世間話でも始めるような軽い調子の声が聞こえて、カインはそっと溜息を漏らす。
「……別れてないし、別れるつもりも無い」
「なぁんだ。一人だからやっと別れたのかと思って期待したのに」
隣から覗き込んでくる顔には、言葉にするまでもなく、つまらなさそうな表情が浮かんでいた。
薄暗い店内には落ち着いた音楽が流れていて、漏れ聞こえる客同志の会話が心地良い雰囲気を作り出している。知人の紹介で知ったこの店に足を運ぶうちに、店主とも仲良くなり、一人で飲みたい時にふらりと立ち寄れる場所になっていた。
「俺にだって一人で飲みたい時ぐらいある」
「ふぅん」
「それよりお前、また勝手に入ってきて、大丈夫なのか?」
「へぇ、心配してくれるの?」
カウンターに頬杖をついて覗き込む顔にさらりとした銀髪が流れる様はとても優美で、笑みを浮かべた唇が蠱惑的に吊り上がる。すらりとした体躯に整った顔立ちはどこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っている半面、人目を惹く。そんな見目の整った青年、オーエンはこの店で出会った人物だった。
「またトラブルを起こすんじゃ無いかと、心配しているんだ」
「そうしたら、また騎士様が助けてくれたらいい」
「お前なぁ…」
釘をさしたつもりの言葉を意に介することもなく、猫のように瞳を眇めたオーエンの態度にカインは再び溜息を漏らす。
オーエンが性質の悪い酔っ払い客に絡まれているところを見兼ねて、助け舟を出したのが数か月前のこと。今思えばあまりに軽はずみな方法だったと反省するところはあるが、カイン自身もそれなりに酔っていたのだから仕方がない。
しつこく絡んでくる酔っ払いを押し退け、引きはがした後尚もしつこく追いかけてくる相手の目の前でただ愛を囁く真似事をするだけのつもりだった。腰を抱き寄せ、相手に見えない角度で顔を寄せると、寸でのところで止まる筈だった唇が重なっていた。首に腕が周り、驚きに目を見開くと、ぬるりと湿った感触が唇に触れて啄まれ、まるでそうするのが当然のように柔らかな愛撫が繰り返される。
ようやく唇が離れた時には、既に絡んできた客は立ち去った後で、ただ驚きと、気まずさだけがその場に残されていた。
「おせっかいな奴」
茫然とする自分を他所に、厄介な客がいなくなったのを確認したオーエンは、どこか人を小馬鹿にする表情を浮かべ、何事も無かったかのように店の奥へと消えて行った。
あまり酒癖のいいほうでは無い自覚のあるカインは、また一つ酒での失敗談が増えたと思い、その出来事を忘れるつもりでいたのに、その意志は呆気なく数日後に覆されることになる。
いつもより早い時間帯に立ち寄った店内にはまだ他の客はおらず、窓から夕暮れ時の日差しが差し込んで店内を照らしている。カウンターの中には、後ろ姿でもすぐ分かるオーナーのすらり背筋の伸びた姿が見えた。
この店のオーナーである双子の白皙の肌と美しい黒髪は、どこか冷たい北国の深雪を思わせる。白皙の肌と、極北の空のような銀灰色の髪を持つ彼を初めて見た時、どこか既視感を憶えたことを、カウンターの中で話す三人の姿を見て思い出した。
「あ、やっと来た」
「こら、オーエンちゃん。まだ我らの話は終わっとらんぞ」
「オーエンちゃん、ただでさえ目立つんじゃから、とにかく営業時間内は立ち入り禁止」
「大丈夫だって」
仁王立ちする双子の小言を煩わしそうに顔を背けていた視線とかち合ったと思った次の瞬間、カウンターの中から痩躯がするりと抜け出してきてカインの傍らに立った。
「お前、学生だったのか⁈」
すらりとした痩躯が身に着けているのは、黒い学ランで、その制服は誰もが知る進学校のものだった。
驚くカインを他所に、学生服を身に纏ったオーエンが、あの日と同じ笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
「学生だから、何?あぁ、もしかしてこの間キスしたこと、気まずくなった?」
「……」
血の気が引いていく自分の顔を眺めるオーエンの表情は憎らしいぐらいに生き生きとしていた。ただその表情は、続く双子の言葉によって一瞬にして凍り付く。
「えっ⁉オーエンちゃん、カインちゃん、それ一体どういうこと⁈」
「え?カインちゃん、彼女いたよね?」
「は?」
未成年略取の文字が頭の中をぐるぐると周り青くなっているカインと、オーエンを交互に見比べた双子の言葉に、それまで人を食ったような笑みを浮かべていた表情が途端に不機嫌に歪む。
「何それ、聞いてない」
腕組みし、淡々と話す声はとても年下とは思えない程威圧的だった。
「別れて」
何故急に不機嫌になったのか解せないが、オーエンの口から飛び出した言葉に意表を突かれて思わず無言になる。
「別れろよ。カインのくせに生意気」
「……お前、仮にも俺はお前より年上なんだぞ」
「うるさい。いいから早く別れろよ」
やっと切り出せた言葉は我ながら情けないなと思ったが、敢え無く一言で切り捨てられて流石のカインも不快感に眉根が寄った。
「人を馬鹿にするのも大概にしろ」
不快感の入り混じった言葉をストレートに誰かにぶつけたのは久しぶりだったと思う。年上を気取ってみたものの、子供の悪ふざけだと受け流すことが出来ない程度には自分もまだまだ幼かったのかもしれない。
どちらにしても酒を飲む気分はすっかり失せてしまった為、踵を返して扉に手をかけようとしたその瞬間、乱暴な足音とともに苛立つ声が聞こえた。
「馬鹿にしてるのはそっちだろ」
「……ッ、ん、ぅ――っ⁉」
強く腕を引かれ あざやかな手並みで壁に叩きつけられ、痛みに呻いた口を柔らかな唇に塞がれた。間髪入れずに忍び込んできた舌先が、口腔内を弄られる心地に、ざわりと肌が粟立つ。歯列を辿り、粘膜を擽る舌先はひどく巧みで、今迄自分がしていたキスは何だったのかと思った。
心地いい。
素直にそう感じたのが顔に出ていたのだろうか。ゆっくりと離れていった唇を見詰めていると、いつの間にか頤を捕まれ透き通る赤に睨まれる。
「……未成年相手に、そんな顔しておいて。ほんと、馬鹿にしてるよ」
「……っ」
蔑むような内容の言葉はどこか甘く、じわじわと顔に熱が集まるのが分かった。鏡を見ないでも分かるぐらい、赤くなっているだろう自分の顔を隠すように腕を振り上げ、オーエンの腕を振り払う。
思いのほかすんなりと離れた腕から逃げるように、扉の外に飛び出し、その勢いのまま駅へと走り出したのが数か月前のこと。
もう二度と潜れないと思っていた店の扉は、悲しいぐらいあっけなく開かれた。
「あ、カインだ」
「なんだ、お前ら知り合いか?」
「……ノーコメント、だ」
忘年会の三次会の後、上司に行きつけの店のひとつだと連れられてきた店の前で、どうか彼がいませんように、と祈った願いは聞き覚えのある声によって呆気なく裏切られた。
せめてオーエンの座るカウンター席から離れたいという個人的な希望はあっさりと無視されたばかりか、あろうことか上司はオーエンの隣の席に自分を座らせて、顔なじみのバーテンと話し始めてしまう。
「なに、もしかしてまだあの事を気にしてるの」
ひたすらに気まずい。
そう思って天板に置かれたショットグラスを一気に煽ると、隣から呆れた声が聞こえた。
「気になる。気にしてる。だからもう放っておいてくれ」
「イヤだね」
「……お前、性格悪いって言われないか?」
「他人の評価なんてどうでもいい」
ふん、と小さく鼻で笑うオーエンは、こうして私服姿でいるととても自分より年下には見えない。
おそらく言葉の応酬ではやりこめられてしまう予感がして、バーテンにおかわりを告げると、空のグラスの横に整った指先が置かれた。
「でも、仕方がないからお前には特別に優しくしてあげる」
ことり、と小さな音とともに鈍色を纏う丸い形状の物がグラスの傍に転がる。不思議に思い手に取ってみると、それは文字の刻み込まれた金色の釦だった。
「卒業したよ」
「……え?」
言われてようやく、それがいつだったかオーエンが身に着けていた制服の釦であることに気付いた。
「僕、今大学生。あと先月誕生日だった」
「うん?」
彼の言わんとしていることがよく分からず、無意識に首を傾げると、だから、と苛立たし気に畳みかけられる。
「早く別れて、僕のものになれよ」
硝子細工のような赤い瞳が近付いてきて、あ、と思った頃には時既に遅く、噛み付くようにオーエンに口付けられていた。
「なんだ、お前らそういう仲かよ」
隣から上司のひやかす声が聞こえ、訂正しようと身じろいだのは最初だけで、気付けば再びオーエンの口付けに翻弄されてしまった。
一体何故彼が自分に興味を持ったのかは分からない。ただそのうちこの妙な遊びも飽きるだろうと思っていた自分の予想が甘かったことに気付き始めたのは、冬の気配を感じ始めた頃だった。
「ふふ、誕生日が楽しみ」
頬杖をつくと、銀灰色の髪がさらりと流れる。一見すると冷淡にも見える赤い双眸が、三日月型に撓んで此方を見詰めている。
甘いノンアルコールカクテルばかりを口にしているその唇が、機嫌よく口にしたその言葉への返答を決心するまで、あと数日。