キニシテナイ見知らぬ土地で起きた出来事を振り返り、言語化する作業は何度繰り返しても大変な労力を消耗する。カルデアの優秀なサポートツールは自分の拙い英語力を卒なく補ってくれるが、表現の部分に関してはどうにもならない。自分の目で見て感じたことを感情を客観的に書き起こすのが苦手なのは、きっと自ら体験した出来事を感情と切り離すことを無意識に拒んでいるからなのかもしれないと思った。
白紙化した地球を探索しかつて切り捨てた筈の線を再び断ち切るような任務に苦痛を感じなかったと言えば嘘になる。それでもこの目で見聞きしたことを記録するのは、カルデアのマスターの大切な役目の一つだ。マシュが同行している時は彼女もレポートを作成してくれるので多少は肩の荷が下りるが、今書いているこれはどうにかして自力で書くしかないのだと、何度目かの溜息を零す。
オルテナウスのメンテナンスのため同行できなかったマシュの代わりにサポート役に就いてくれたのは、元クリプターのカドックだった。初めの頃こそ警戒していたものの、一緒に任務をこなし彼の言動を見ているうちに、警戒心は興味へと変わっていた。
永久凍土の上で邂逅した彼の態度は敵愾心に漲り、吐き出す言葉も敵意に充ちていた。今思えば自分を殺すつもりがあったというよりも、とにかく自分のことが目障りで排除したいだけだったのだと分かる。それでも隠すことなく向けられた敵意は、カドックを警戒すべき人物だと認定するのに充分だった筈なのに、少しづつ分かってきた彼の人となりを知るにつれ今や軽口を言える程度には信頼していた。
久しく同年代の同性が傍にいない環境に置かれていたせいか、カドックの新しい一面を知る度に警戒は薄れてゆき、またそんな自分の態度を心の底から嫌がる顔が面白くて余計に興味を持ってしまう。
それでも廊下ですれ違った時に名前を呼べば、あからさまに嫌な顔をしながらもちゃんと振り返ってくれる律儀な性格が立香にはとても好ましいものに見えた。
個人的感情よりも任務や責務を優先する。魔術師だからというよりも、結局はカドック自身が真面目で誰よりも努力家なのだろうと言うのが、今抱いている印象だった。
だからこそカドック自身が感じていることを蔑ろにしたくない。
任務や責任に何度も挫けそうになった自分を支えてくれたのは、周りの人々のそういう思いだったと思う。だから自分も、カドックに対してそう在りたいと思うのは、傲慢なのだろうか。
うまく言葉にできないレポートは、記憶の中の吹雪の世界と同じように立香の思考回路を時間とともに鈍らせる。
よりによって、と正直思った。幻影とは言え、再現されていたのは紛れもないあのシベリアの大地だった。かつて排除すべき侵入者として戦った大地で、今度は自分と肩を並べて戦うことを、彼は一体どう思っているのだろう。ディスプレイに映し出したレポートは、そんな気掛かりを抱えたまま戦闘指揮をとっていたせいか、なかなか進まなかった。
口数は多くは無いが、言うべきことは言うカドックの言葉は時に容赦なく立香の触れられたくない部分を傷付ける。それでも言いたいことを言い合える距離感は、自分にもいたかもしれない学友を髣髴とさせて立香をこそばゆい気持ちにさせる。
それ程長くはない時間を経て、ここまで感情が変化していった自分に対し、カドックは一体どう思っているのか。そう思ってしまった途端、キーボードを打つ手は自然に止まり、タブレットを手に取り立香は椅子から立ちあがっていた。
静まり返った廊下を足早に歩いていると、曲がり角でキャスターとぶつかりかけた。
「わ、ごめん、キャスター」
「いんや、俺の方こそ油断してた。悪いな、坊主」
上機嫌に笑ってぐしゃりと髪を掻き混ぜる手は大きく、今も変わらずに立香のことを子ども扱いするキャスターとは大分長い付き合いになる。
「また飲んでたの?」
「おう。柳生のおっさんがとっておきを持ってきてくれてな。お陰でいい夜になったわ」
普段は薬草のような香りのするキャスターの身体から漂ってくる酒精は、その匂いだけでも酔いそうな濃さだった。一体どれだけ飲めばこうなるのかと呆れる視線を気にすることもなく、キャスターの視線が落ちる。
「そういうおまえさんこそ、こんな遅くにどうした?夜這いか?」
「よ…っ⁈なんでケルトってすぐそういう発想になるの⁉」
「嬢ちゃんのところに行くんじゃないのか」
手にしたタブレットを見ていた紅い双眸が悪戯っぽい笑みを浮かべているのを見て、いつもの質の悪い冗談だと分かりながらも何故か驚いて跳ねた鼓動は落ち着かないままだった。
「こんな時間に女性の部屋を訪ねるなんて、マナー違反だよ」
「そうかそうか、男なら構わないってことか。よーし、それなら坊主も一緒に付き合え」
抗議の声を意に介することもなく、キャスターの見かけよりも逞しい腕が首に絡みついて今歩いてきたばかりの廊下へと強引に歩き出そうとする。
「ちょっと!キャスター、離して!俺まだレポートが終わってないんだから!」
「レポート?そんなもん明日でもいいだろ」
「俺だけ提出遅れるわけにはいかないよ」
「……なるほどねぇ、そういうことか」
不意に緩められた腕から抜け出すと、にやにやとしたり顔をしたキャスターが目に入る。こういう表情をしたキャスターは、大抵下世話なことを考えていることを経験上理解していた。キャスターに限らず、ランサーのクー・フーリン達も酒が入るとよく浮かべるこの表情は、大抵ロクな結果を呼ばない。一体何に気が付いたのか気になる気持ちを押し遣り、また明日、と駆けだそうとしたところで手を捕まれる。
「ちょいと待ちな」
「キャスター、いい加減に…っ、えっ」
振り向いた瞬間、すぐ傍にあるキャスターの顔に驚いて反射的に目を閉じる。閉じた視界の中、額に触れた感触が一体何だったのか気が付いて驚きに目を見開いた。
「いいねぇ、その顔であのスカした態度を引っぺがしてこいや」
額へのキスなんて、子供の時以来だった。古今東西の英雄達に揉まれて大分コミュニケーションの差を克服したつもりでいたが、今のような意表を突いた接触にはどうにも対処が出来ない。落ち着きかけていた鼓動が再び早くなるのを感じながら、熱くなった顔を誤魔化すようにキャスターを邪険に追い払う。
「あーもう、酔っ払いはさっさとどっか行って!いい加減にしないとエミヤに言いつけるよ」
「へぇへぇ、小姑に見付かる前に言われなくとも退散するよ」
来た時同様に上機嫌な笑い声をあげて、大きな手がひらりと翻る。
「結果、明日教えろよー」
酔っていることを感じさせない足取りで、廊下を歩いていくキャスターの背中を見送り、立香は大人げない大人の一言に小さく鼻を鳴らした。
途中ちょっとした面倒に遭遇したものの、その後は誰に会う事もなく立香は目的の扉の前に辿り着くことができた。インターフォンを鳴らし、暫し待つこと数分。何の応答も無い扉を前に、もう一度インターフォンを鳴らしてみる。
「もう寝てるのかな?」
タブレットの画面を確認すると0時前ではあったが、夕食を終えて数時間経つ今、既に眠っていても不思議はない。それでもこうして扉の前で粘っているのは、以前にも同じような時刻に押し掛けたことがあるからだった。
あの時はメディアに出された魔術の課題をすっかり忘れていて、なりふり構っていられなかったという事情があった。扉を開けた途端これでもかという程嫌な顔をしたものの、必死に拝み倒した立香の勢いに根負けし、結局部屋の中へ招き入れてくれた。間違える度に隣から聞こえる舌打ちは正直精神衛生上とてもよろしくなかったが、それでも課題を終えるまで寝ないでつきあってくれたのだから、なんだかんだ人がいいのだと思う。
三度鳴らしても反応の無いインターフォンを前に、不在なのかな、と思い至り扉に手をかけ、次の瞬間はっとする。扉に触れた左手は、マスター権限としてどの部屋の扉も開くことが出来る。意図せずして触れてしまった扉から慌てて手を離すと解錠の音が聞こえ、開いた扉の中から爆音が溢れかえった。
反射的に耳を押さえた拍子にタブレットが足元に落ちる。慌てて拾い上げたタブレットに傷が無いことに胸を撫で下ろし、立香はようやく室内へと視線を向ける。
部屋の中の照明はまだ点いているものの、机の前には部屋の主はおらずその上に置かれたスピーカーの上から大音量の音楽が流れていた。限られた空間の中で可能な限りのプライバシーを確保する為、ストームボーダーの居住空間の壁は防音性に優れていたことを思い出す。部屋の中に入ると自動的に閉まった扉の音にすら気が付いていない部屋の主は、爆音を全身で堪能しているのか、ベッドの上で分厚い本を読みふけっていた。
「カドック」
「……」
一瞬、本当は気が付いているのにわざと気付かぬふりをしているのだろうかと訝った。対魔獣魔術を得意とするカドックは、その生業故なのか気配というものに敏い。例え自室で寛いでいるとしても、ここまで油断するという姿が彼にしっくりこない。
「カドック!」
「……」
そもそも、声を張り上げても掻き消される程の爆音の中で読書というちぐはぐな行動が意外だった。激しいドラムに合わせてスピードアップしていくギターのリフは確かに気分を高揚させる激しさがあるのに、ベッドに横たわるカドックはピクリとも動かない。
ボーカルのシャウトを合図にしたようにページが捲られたのに、その顔が一向に自分を見ようともしない事実に何故かむっとした。
考えるより先に身体が動いていた。ずかずかと大股で近寄り、ベッドに乗り上げて問答無用で分厚い書物を掴み取る。
「カドックってば!」
「…う、わっ…?」
書物を押し退けて顔を覗き込むと、驚きに見開かれた金色の瞳がようやく見えた。戸惑うような声が、本当に何も気が付いていなかったのだと伝えてくる。
緩慢な瞬きを繰り返すこと二度、事態を呑み込めていない様子は普段のカドックからは想像できない姿だ。あまりに物珍しく、覗き込んだ姿勢のまま立香はまじまじとその顔を眺めてしまう。こうして驚いた表情を見ていると、大人びて見えていた雰囲気は成りを潜めて、ロックが好きな年相応の青年に見える。
ふとキャスターが言っていた言葉を思い出し、なるほどこういうことか、と納得した立香の下で、事態を呑み込んだカドックの顔がみるみる不機嫌になっていく。
「退け」
「え?」
「重い。早く退け」
勢いで乗り上げたベッドは狭く、自然カドックの身体の上に乗りかかるような姿勢になっていた。話さえ出来ればいいので、馬乗りになる必要はこれっぽっちも無い。拒絶する言葉とは裏腹に、鳴り響いていた音楽もいつのまにか止んでいた。むしろこのままカドックの機嫌が下降していくのを防ぐために素直に退いてもよかったのだが、不意に逸らされた視線がそれを許さなかった。
「嫌だ」
「……は?」
「気が付かないカドックが悪い。だから、このまま話す」
開き直って浮かしかけていた腰を落として見下ろすと、呆気にとられた金眼が見上げてくる。今退いたら、このまま部屋から追い出される。そんな予感が、立香の行動を後押しした。
「カドック、俺に何か言いたいことは無い?」
「……」
自尊心の強いカドックのことだ。マウントをとられた状態で問い詰められれば反発して以前のように本音を口にするだろうと思っていた。それなのに、立香の予想に反して端整な顔を歪めたのみで、口を開くどころかカドックは押し黙ってしまう。
「きみがどう思っているかは分からないけど、俺はカドックのこと、仲間だと思ってる。だから、思っていることはちゃんと口にして欲しい」
シベリアに同行するのはカドックである必要は無かった筈だ。マシュという理由があったにしても、あまりにも出来過ぎているタイミングに何の意図も無いとは流石に立香も思えなかった。
カドックはきっと試されたのだ。この先も行動を共にするメンバーとして見做していいのかどうかを。マシュの他に、マスターのサポートを託すことが出来る人物であるのかを。
もし自分が彼と同じ立場だったなら、きっと何も感じないなんてことは出来ない。きっと、生き延びる為に色々な感情を呑み込んでその選択をした筈だ。
「嫌なことは、嫌だと教えて欲しいんだ」
プライドの高いカドックが素直に差し伸べられた手をとるとは考えていない。それでも、伝えることもなく、行動に移すこともしないのは立香には出来なかった。
下手に言葉を選ぶのは逆効果だろうと思い伝えた言葉が一体どこまで伝わったのか、見極める為に沈黙したままのカドックを見下ろす。
頭の回転の早いカドックが何の機転を利かせることもなく、ただ押し黙っている。つい先ほど呆気にとられていた金色の瞳が、やがて苛立ちを滲ませて鈍く光る。
「夜中に強引に押し掛けて言うことがそれかよ…」
「…え?」
低く押し殺した声が呟いたのは聞いた事のない言葉で、それが彼の母国語なのかもしれない、と遅れて気付く。
「人を馬鹿にするのも、大概にしろよ」
怒らせた、と気付いた時にはあっという間に体勢を入れ替えられ、目の前に目を据わらせたカドックの顔があった。
「…う、わ…っ、ちょ…ッ、ン、ん…ぅ⁈」
間近に迫った金色の瞳に驚きの声をあげた唇が、何かに塞がれ、ぬるりと口の中に滑り込んできたものがカドックの舌だと気付いて身体が固まる。
「ンん、…っ、ん、…ン…っ!」
絡まり上顎を擽る舌先の巧な動きに容易に理性を溶かされてしまいそうだった。敏感な粘膜を弄られる心地良さに、緊張した身体から力が抜けていく。息継ぎする間も無く与えられる口唇の愛撫はいっそ情熱的とも思えるのに、カドックの利き手は立香の喉笛にかけられていた。
目的の見えない粘膜の接触に混乱した頭が、それでもこの行為を止めるべきだと咄嗟に判断していた。
他人の身体に直接傷をつけるのは、何度経験しても好きになれない。
柔らかな肉を傷付ける感触の後、僅かに怯んだ目の前の身体を間髪入れずに突き飛ばし距離をとる。
あっさりと急所から手を離したその手で僅かに血が滲んだ唇を拭い、蔑むような視線が向けられる。
「……は、いい顔」
唇を歪めて笑う姿は確かに立香のことを見下している筈なのに、鈍く光る金眼から目が離せなかった。
「これに懲りたら、二度と僕に近寄るな」
口の中にじわじわと広がっていく鉄錆びた味が、酷く苦々しく感じた。