また会う日を 気乗りしない誘いも断り続けるのも流石に限界かとようやく重い腰をあげた早朝。吹き抜ける風に微かに入り混じる香りに違和感を感じて、足を止めて束の間逡巡する。今更少し遅れたところで彼方の怒りがおさまるわけでも無い、と高をくくって暫し道行をずれることにした。
視界一面に広がる紅が、風が吹く度に揺らめいて雅な香りだけが仄かに香る。華やかな見た目とは裏腹に、この花に香りはない。ただしくは、現人には分からない。
多種多様な呼び名を持つこの花は、元はこの地にしか存在しないものだった。そのせいか、他の土地に根付いたものは全て色も香りも褪せてしまい、似て非なるものになっていることを、この地に戻ってくる度に思い出す。
この地を離れて随分と久しいが、それでもこの香りが懐かしいと感じる程度にはまだ情が残っていたことに、紅の中を歩きながら驚きを憶える。
違和感の元は、すぐに見付かった。風に揺れる紅の百合の隙間に、茶色の毛並みが蹲っていた。獣の姿をしたそれは一瞬死んでいるのだろうかと思ったが、柔らかなそうな腹がゆっくりと動いているのが見えた。
まだ尾が別れていないどころか、獣の姿で迷い込んできた小さな狐。逃げてきた獲物か、誰かの使い魔か。どちらにしても面倒事になりそうだ、と踵を返そうとした瞬間、せつない鳴き声に思わず足が止まってしまい小さく舌打ちが漏れた。
「おまえ、いい度胸だね」
振り返ると、いつの間にか閉じていた筈のつぶらな瞳がこちらを見上げていた。甘い蜜のような瞳が、怖気づくこともなく僕を見詰める。このまま置いていかれたら次が無いことに薄々気付いているのだろう。ここはそういう地だ。いつものように無慈悲に振り払えばいい。それなのに、日輪草のような瞳から何故か目が離せなくなって、言葉が滑り落ちた。
「いいよ。取引きをしよう」
言葉にひきずられるように笑みが浮かぶ。花に埋もれた小さな体を抱き上げ、柔らかな毛並みの耳にそっと囁きかける。
「その眼と、交換だよ」
里に降りるのは甘い物が食べたくなった時と、草紙を買い求める時だけ。それ以外は必要以上の接触は持ちたくないと引き籠っているせいか、時間の感覚がますます怪しくなってきた頃。持ち帰った草紙も読み終えてしまい、久方ぶりに里に降りた。気になったもの全てを持ち帰ることにして店を出た瞬間、もの凄い馬鹿力に強引に振り向かされた。
「なあ、あんた!生まれはどこだ?」
「……なんなの、おまえ」
肩を掴む手を振り払い、不機嫌に睨みつけた先にはまだ尾も別れていないような若い妖狐が立っていた。この里に僕の機嫌を損ねるような真似をする輩がまだ残っていたことにうんざりする半面、目の前の妖狐の顔を見て思わず眉根が寄る。
「おまえ、その眼は」
「あんたと互い違いだ。俺はカイン、武者修行をしていたんだが、縁あってあそこの薬種問屋の用心棒をしている。あんたは?」
首を傾げて何の疑いも無く名乗りを求めて見詰めてくる蜜色の瞳に、記憶の奥深くが刺激される。
天蓋花の中で気紛れに掬い上げた子狐。
命を救ってやる代償として、その瞳の片割れを求めた。
「……そう、憶えてないんだ」
「え?」
ぽつりと呟いた言葉に瞬きを返す顔は、あの時のまま怖気づくことをまだ知らない。
「お前みたいに失礼な奴に、教えてなんてやらない」
地を蹴って宙に浮かびあがると驚きの表情を浮かべながらも、往生際悪く片手が持ち上がる。その手に捕まれる前に、嫌悪感を上乗せした舌を見せつけてから僕は姿をくらましてやった。
それから暫くして、僕の隠れ家に遠慮のない大きな声が響かせたカインが、僕の妖術で里まで吹き飛ばされたのに懲りずに翌日顔を見せたのはまた別の話。