その男が生まれ落ちて六年が経った頃には花の蜜を吸う蝶にそっと手を伸ばして擦り潰すのが好きな子供に育っていた。幼い力でも簡単に砕けた翅で、手のひらがきれいになるからだ。特に隠そうともしていない息子の趣味に気づいた両親はたいそう嫌がり、怒り、不安に思い、蝶を幼虫から育てさせることにした。無垢の罪を償わせようとした。受け取った一枚の葉の上にあるという卵は、目を凝らしてようやく見つけた。とても小さいくせに、すっとまっすぐに立っていた。やがて孵った青虫は手足のない全身を必死にくねらせて脱皮を行っては体を太らせ、食って出すを繰り返すのに飽きたらぴたりと動きを止め、固い殻になった。たった一本の糸で歪と化した体を器用に支え、出てくる時にはあのうつくしい翅を持って飛ぶという。不思議だった。大抵の生き物は最初から親と同じ形で生まれてくるのに、どうやら虫だけはそれに従わない。子供の力でも容易に死ぬ軽い命が、急になにものよりも特別で神秘的なものに感じた。青虫と蝶を繋ぐ、蛹のことが気になった。青虫は祈るように天を仰いだあとに蛹になった。蛹の中身が気になった。この中で何が行われているのか気になって仕方なかった。虫かごの内側に取り憑いた蛹を剥がし取り、鋏で切断すると、クリーム色の泥が学習机の上に飛び散った。子供心に驚いた。蛹の中身が、青虫の緑色でも紋白蝶の白色でもなかったからだ。指で掻き分けてみても、黒い芯のようなものは見つけたが、やはり青虫の名残も蝶の予感も見つからない。ただ、至るところがひくひくと動いている。驚きが、面白いな、に変わった。このどろどろしたものすべてが青虫で、すべて蝶に変わるだなんて思いつかない。しかし彼らは誰かからそうなるようにと命令を受け、奇跡を起こす。もっと知りたくなった。指で集めて手のひらの上に乗せて握りしめる。優しく握ったつもりだったが、命だったものはぐちゅりと柔らかく音を立てた。
青虫が死んだことを両親に伝えるとふたりとも頭を撫でて慰めてくれたので、今度は自分で卵を見つけて育てたいと伝えた。両親は喜んだ。次の春がきたとき、幼い男は次々と卵を集めては青虫にしっかりと餌を食わせ、蛹になると中身を見た。一日目の蛹、二日目の蛹、三日目の蛹、次々と見た。日にちが経てば経つほどなり損ないの翅や脚が見つかることが楽しかった。紋白蝶より揚羽蝶のほうが卵も幼虫も大きく、子供の指の先ならば蛹の中に直接指を入れられるのではと気づいたので試してみることにした。
まるまると太った派手な幼虫は何度も身悶えながら厳めしい模様をやっと脱ぎ捨て、ついに動きを止めて蛹になった。カッターの使い方は知っていたので、早速カッターの刃で切れ目をつけて、人差し指を入れた。やはりこの蛹も、とても柔らかいものがみっしりとつまっている。つまっているものすべてが命のくせに、なんの温度も感じられないのが残念だった。男は幼いながらに命はあたたかいものと知っていた。あたたかいほうがいいな、と思いながら蛹の中身をかき回すと、こつりと固いものに触れた。指の腹に引っ掛けて取り出す。生臭いような青臭いような匂いが一層強まる。気にせず、命のスープにまみれた手のひらに載せたものを眺めた。黒く小さく、つやつやとした、幼虫が全身を溶かしても最後まで残したもの。大切なもの。ぴくぴくと動いているのを、にこにこと見守った。男が子供だった頃の春は、ずっとそうやって過ごしてきた。
「先生」
「ん、」
視界の焦点が合う。開け放した窓から差し込む光は優しく、風も穏やかだ。一度瞬きをしてからドアの方を振り返ると、ひとりの少女が男を伺っていた。艷やかにうねる紫の髪も、青白い肌の細かさも、華奢な手首と手足も、皺一つないセーラー服も、狭苦しく埃臭くべたついた生物準備室にはおおよそ相応しくないはずが、少女は幾度となくここを訪れているためか、しっくりと馴染んでいるように見えた。この少女はこの教室によく似合う。
男は背を伸ばし、笑いかける。少女はほんの少しだけ目線をずらした。
「ノックはしたんですけど、」
「ごめんね、ぼーっとしてた。いらっしゃい、こっちにおいで」
「……はい」
「ヒョウ太でいいよ。珈琲飲む?」
「うん、」
少女はまた男を見る。薄墨に囲まれた、熟れた葡萄の滴りのような目がより一層の水気を含んでいる。男は立ち上がり、諸々の薬品や器材を収納している棚からドリップコーヒーひとつと薄桃色のカップを取り出す。小さな流し台の前で電気ケトルに水を入れて電源を入れ、少女専用のドリップコーヒーを少女専用のカップのふちに引っ掛ける。その間に少女は壁に立てかけてあったパイプ椅子を組み立て、男が先程まで座っていた椅子の隣に置いた。更に男の椅子に二枚重ねて置かれたクッションのうちのひとつを取り、パイプ椅子に敷く。
座った少女は、雑然とした男のデスクの上を眺めている。目線の先には一本の枯れ枝があった。皹の入ったビーカーに差し込まれた枝に小枝の類はなく、筆でじっくりと引いたようななめらかなもので、毎年、蛹を実らせる。今年は先端に実った蛹は、濃い緑から茶色に変わり、ゆっくりと薄黄色に透けた。黒い模様も見える。揚羽蝶はこの春も無事に飛び立つだろう。
男の次にこの揚羽蝶の成長を見守ってきた少女だが、決して触ろうとはしない。今もじっと見つめているだけで指はスカートの上にあった。ただその瞳は夏の水面よりもよく輝いていた。
「…こいつ、そろそろ羽化するのか?」
「そうだよ。一緒に見れるといいね」
男の微笑みに、少女はくすぐったそうに目を細めた。口は努力して引き結んでいるが、頬は赤い。電気ケトルが機械的な音を立てて湯が沸いたことを知らせたので、男は少女に背を向けた。黒い粉へ向けて湯を注ぎながら、思わず鼻歌が出る。男はもう、蛹を殺すことはしない。指を差し入れ、掻き回し、蛹の中よりも探りがいのあるものを知っているからだ。
(20230705)