かがなべて 3 少し前に、二車線の道路の向こう側の歩道を雨の中、透明のビニール傘を差して早足で行く仕事中の尾形の姿を見掛けた。スマートフォンを耳に当て話をしながら歩いていて頻りに頷き、先にある信号の点滅を見て歩速を上げるところまで見て、そこで見つめるのを止めた。尾形はよくある色のスーツを着て歩いていて、自分でもよく気付いたと驚いた。
ってことがあってさ。
悪いが全く覚えがない。
いやぁあれはお前の方からは無理だと思う。逆だったら俺も気付かないと思う。
台所の中からリビングにいる尾形に向かって話し掛けながら手を動かし、苦笑して首を横に振る。今日は俺の部屋で食事会で四月の初回から結局五週空いた。約束どおり海鮮祭りを開催するべく、午前中に買い出しを済ませて、掃除機もかけた。
でも確かにその道は通った。
だろ、凄いよね、俺。
凄いな、お前。
寛いだ様子で両手を後ろについて床座のリビングで胡座をかいている尾形が同意した後に堪えきれなかったのか、すっと俯いて噴くように、ふぐっと笑う。
あ、やっぱ、気持ち悪かった?
いや違う、そうじゃない。あ、なあ、料理、俺もそっちへ行って手伝おうか。
いい、いい。今日はお前はお客さんだから、そこ座っててよ。
立ち上がろうとした尾形に手のひらを向けて制止してて、ぐりぐりと片腕ずつ袖を肘上まで捲り上げていく。
なるほど、お客さんか。だから俺は今回白米とビールしか持ってきていないんだな。
だけっつうけど、お前の炊く白米凄え旨いから食いたかったんだって。だからそれをリクエストした。
ふん。
それに、と心の中で、あの日のあの豚汁って俺のために作ってくれたんだろ、と続ける。白米は蒸らしは今これからと炊き立てを土鍋ごと鍋つかみを手に填めて持ってきてくれて、台所の端の鍋敷きの上で出番が来るのを待っている。
尾形は用意されていたグラスと缶ビールには手をつけず左手で頬杖をついて、で、今日はどういう段取りなんだ? とこちらの様子を伺ってくる。
今から揚げ始めます。
解った。
ピースサインを送り、尾形が二三度頷いたのを見届けてから手元に視線を戻した。
換気扇をつけ焜炉の上にやや高さのある小ぶりのフライパンを置き、そこに適量の油を注いで火を点ける。普段は中華鍋の方が出番の方が多く、五徳もそれ専用のものを焜炉の一口に常設していて、鶏の唐揚げなんかは中華鍋で揚げて作るが、今日は衣に生パン粉を使いたかったのでこっちの方を選んだ。大きさも直径二十センチくらいだから揚げ油の深さを求めても思っているより少量で済む。それ以外だとフライパンは専ら朝ごはん作りに使い、あと持っているのは小さな片手鍋で、それは袋ラーメンを含む汁物作り専用だ。
尾形ぁ、悪いけどビール、たたききゅうりで先に呑み始めてて。
食台の上、箸とグラスと取り皿と千切りキャベツだけを載せた大皿と一緒に、予め作って出しておいたつまみに手をつけるよう促してやっと、かしゅっ、と尾形が缶ビールを開ける音が換気扇の音に混じって聴こえてくる。 パン粉を一つまみし揚げ油の中に落として、浮きか上がってくる様子を見ていると、尾形がゆっくりとグラスを両手に持って立ち上がってこちらを見るのが見えた。ん、とビールの注がれたグラスをカウンター越しに一つ差し出されて受け取り、ん、と俺も音を出し、グラスは打ち合わせず、軽くその場で掲げ合って台所とリビングで乾杯をした。一口飲み、ふう、とビールの喉越しの心地好さに息をつく。尾形も旨そうにひと息ついて、カウンターにグラスを持った手を置き、芝居臭く背伸びをして置かれているバットの中を覗く仕草をする。
でっかい海老だな。
そう嬉しそうに感想も述べてくる。その顔を見てから、小麦粉をまぶして溶き卵にくぐらせてたっぷりの生パン粉を纏わせた海老をまずは二尾、適温になった揚げ油の中に入れていく。海老はしっぽの先を切り落として刃先で中を綺麗にし、背わたを取って、腹側にも切り込みを入れ、予め下味をつけておき、小麦粉も余分についた分は払い落としたりと下拵えを丁寧に行った。揚げ始めたら早いが、尾形と一緒に飯を食う時はいつもよりもずっと丁寧に料理をしていると思う。今日のためにタルタルソースもレモンも買ってきてある。エビフライは俺も好きだ。曲がるなよ、真っ直ぐ揚がれ、と二尾の海老に念を送る。
お待ちかねのやつな、揚って油切ったらそっち持っていくし、座って待ってて。
おう、と返事をして尾形がグラスと一緒に元いた席に戻っていく。いい天婦羅屋のように揚がったものから順に大皿の上に置いてきてやるつもりをしていて、そうしたら常に熱々が食える。揚げ油の中、海老の周りで上がっていた気泡の爆ぜる音が高く軽やかになり、黄金色に衣も変わったのを見て、一つずつ菜箸で摘み上げて金網を敷いたバットの上に置いていく。香ばしい美味しそうな馨りが換気扇に吸い込まれつつも台所中に広がって、よしよし、と思いながら次の海老を鍋の中へ入れ、形好く揚がった第一弾のエビフライを尾形の元へバットを片手に運んだ。千切りキャベツの脇に二本置かれた出来立てのエビフライを見て、尾形が拍手して、お前と一本ずつだな、と俺の顔を見上げて確認をする。
いいよ、その二本、お前が食っちゃって。俺もあっちで揚げながら食うし。
解ったというふうに尾形が頷いて手を合わせ、エビフライを箸で口元に運び、数回息を吹きかけてから噛りつく。さくっと良い音がして、中の海老は熱かったのか、はふはふと口の中で冷ますように転がしながら食べる尾形を見て、どう? と訊く。
最高だな、旨い、熱い。
口元を手で覆って尾形が答えて、よし、じゃんじゃん揚げていくからな、と伝えて台所へ戻った。そうこうしているうちに第二弾のエビフライも良い具合に揚がり、取り出して、海老は一旦休んで今度は別のバットに並べて用意してきた烏賊を揚げていく。同じ衣で玉葱も揚げる。さっきのエビフライには卵液を使ったが、イカリングフライには卵液にビールを加えて生じゃない普通のパン粉を纏わせた。烏賊は丸々一杯、鮮魚コーナーの人に頼んで内臓を取り除いてもらって買って帰ってきていて、ミミを含む胴部分は輪切りにし、ゲソも食べやすい大きさに切って衣をつけた。玉葱も烏賊の胴体と同じくらいの幅に輪切りして衣をつけ、イカリングと一緒に出したら、尾形どう思うかな、と思いついて用意した。烏賊と玉葱を揚げながら、そろそろ米を欲しがる頃かなと思い声を掛ける。
尾形ぁ、米要る?
要る、欲しい。
間髪をいれず返事がきて、菜箸を金網の上に置き、蒸らし終わった白米を一人分茶碗に装う。素早く焜炉の前に戻って烏賊と玉葱をひっくり返し、それから尾形の元に、ほら、と茶碗を置いた。もう烏賊も揚がるし、と伝えて台所に戻り、金網の上のエビフライを指で摘まんで噛りつく。旨い。火から離れた場所に置いておいたビールのグラスを手に取って、一口呑み、頷きながら揚がったイカリングもオニオンリングを金網の上に置いていく。
なあ、杉元。
呼ばれて金網の上から視線を上げると尾形がまた立ち上がってカウンター越しにこっちを見ていた。
何? もうイカリングも食えるよ。
持ってきた米で握り飯を作ってもいいか?
うん? いいけど。
じゃあ作る。茶碗とラップとスプーンと塩と載せる皿を用意してくれ。
揚がったイカリングとオニオンリングの第一弾を金網の上に載せて、云われたものを用意してやる。ビールの入ったグラス片手に尾形が台所に入ってきてきょろきょろと見渡した後にグラスをカウンターの上に置いて流しで手を洗い、軽く一杯分茶碗の中に白米を装って塩を振りスプーンで混ぜて、広げて置いたラップの上に空けて、両手の中で優しく転がすように握り飯を作り始めた。ラップ越しに三角ではなく俵型に丸められていくのを見ながら、イカリング食う? と訊いて、無言で口を開けた尾形に油の切れたばかりの端っこのミミのついたイカリングを顔の前に差し出してやる。ふうふうと吹き冷ましたのに合わせて口の中にそっと放り込んでやると、もぐもぐと噛んで、旨い、と口角を上げてくれた。
ん。杉元、お前、握り飯に海苔は欲しいか?
皿の上に二つ、作った握り飯を載せて差し出しながら尾形に訊かれて、へ? と声が出た。
えっ、それ俺になの?
揚げ物をしながらだと茶碗の飯は食いにくいかなと思って。逆に塩は要らなかったか?
ううん、食う、めっちゃ食う、塩握り好き。
良かった。
尾形、もういっこ食べる?
握り飯を受け取り、そう訊いて今度はオニオンリングの小さいのを摘まんで口元に運んでやる。食べた尾形が笑うのを見て釣られて笑い、具材の入ったバットの横に下ろした皿から握り飯を掴んで食べる。絶妙の握り加減に自然と笑みが溢れてくる。
玉葱も旨い。
だろ。
取り皿と箸取ってくる。俺もこっちで食う。
えっ。
尾形がラップを丸めて屑籠に放り込み、リビングに行って取り皿茶碗箸をカウンター端に置き、大皿をカウンター越しに渡されて苦笑する。
お客様、そんなっ困ります、厨房の中に入られては立ち食いになってしまいます。
一応ふざけてそう言ってみるが、尾形は首を横に振って出しておいたタルタルソースやウスターソースのボトルもカウンターの上に置いていく。
立ち食いでいい。こっちでひとり食っているより、そっちでグラスをかち合わせた方がお前と乾杯したって気にもなるし。
そう云ってたたききゅうりの皿を手に、ぐるり移動して再びキッチンの中に入ってきた尾形にグラスを手渡して自分もグラスを持ち、乾杯に誘うと嬉しそうに、かちん、と傾けたグラス小さくぶつけてきてくれて二人で、乾杯、と言い直し残っていたビールを飲み切った。
でもここ来られたらネタ全部バレちゃうな。
他にもまだ用意しているのか。
まあね。
オニオンリング、気に入った。衣がなんか違うな。
気付いたか? 烏賊と玉葱のはビール入れてる。
へぇ。あ、海老まだあるな。
あるよ。揚げようか。
うん、欲しいな。
オニオンリングとイカリングを取り皿に載せてやり、海老を再び揚げ油の中へ入れる。尾形に作ってもらった塩握りを頬張り、油の中を注視しながら、さっとたたききゅうりを食べ、続いてイカリング、オニオンリングと食べたつもりがオニオンリング、オニオンリングと連続してしまって苦笑し、間違いのないゲソを揚げる。尾形がその隣でイカリングを食べて、ビール、冷蔵庫から出していいか、と訊く。出して出して、お前が持ってきてくれたやつでも、俺が買っておいたやつでもいいし、と返して、海老の揚がり具合を確認する。グラス二つに綺麗に半分ずつビールが注がれて呑み、エビフライを金網に移した。尾形がビールを呑み、グラスを見つめて微笑んだ気配がする。
旨いな。
旨いね。
ごうごうと音を立てる換気扇の下に立っているので、いつもより大きめの声を意識して尾形が喋ってきてくれていると解って何故だか嬉しくなってしまう。寂しかったのだろうか。からりと黄金色になったゲソを菜箸で摘み上げて取り出す。
なあ、さっき寂しかった?
エビフライを取り皿の上に置いてやりながら訊いてみる。
そうだな、せっかく食いに来たんだからな。邪魔だったら向こうに戻る。
ううん、ここにいて。
ん。エビフライ、何もつけなくても旨いな。かけていないのに檸檬の馨りが仄かにする。
下味つける時に塩コショウと一緒に檸檬果汁も少し使った。
今日もお手間入りだな。
うん、誰かがいると作り甲斐があるよな。
それは解る。次は二週間後くらいに開くか?
うん、次はお前ん家ね。
リクエスト考えておいてくれ。
穴、開けちまおうか、天井。
梯子も買ってくるか。
冗談を言い合い、ふふっと笑ってビールを呷り、残りの海老を揚げ油の中へ入れてから、フィッシュアンドチップスも作るから、と海老を並べておいたバットと布巾をかけておいたバットとボウルの位置を入れ替えると、尾形が空いたバットを洗い始める。
洗わなくていいって。
洗っておいた方が楽だろ。
さっさと洗い終えて流し台の端に伏せて置き、手を拭くとビールを呑んで尾形が千切りキャベツを皿に取りウスターソースをかけて食べる。あ、俺も食いたい、と声を掛けて皿にキャベツを装ってもらい、マヨかソースか、と訊かれ無しでと伝える。ん、と手元に置かれたそれをさっと口の中に掻き込み、さっぱりとした口で、オニオンリングを食べる。軽やかな衣と共に玉葱の甘味が口の中に広がってやっぱり旨い。尾形も金網の上からオニオンリングを取って口に運ぶ。頭の中では夜眠る前にいつも見ている天井の映像がうっすらと流れて見えた。
尾形。
ん。
返事をしてこちらを向かれて瞬きをする。飯のこととは別のことを言いそうになって、更に別のことを考えて伝える。
フィッシュアンドチップスの衣作り手伝って。俺まだ揚げたりするし。
ああ、手伝う。
その前に袖捲ってやるよ。汚れる。
さっきバットを洗う時に濡らしていた袖口を一度折上げてから、いつも自分がしているように肘上まで捲り上げてやり、もう片方の袖も同じように捲り上げてやる。露になった腕を見て、肌、俺よりずっと白いんだなと思った。
有難う、杉元。
尾形にそう云われて我に返り顔を上げて目を見る。
一回先に折ってから捲ると落ちにくいんだな。
うん。
魚は鱈か? 旨いよな、鱈。鍋にしてよく食う。確かに海鮮祭りだな。フライドポテトも家でじゃがいもから揚げるのも初めてだ。結構太く切ってるんだな。ああ、茹でてあるのか。お前は芋は蒸すんだっけ。
鍋もいいな、鍋も一緒に食いたいな。
鍋は寒くなったらな。
うん、お前ん家の炬燵で。
次、出したその時にしような。
うん、早く冬になんねえかな。
ははっ、もう冬の話か。炬燵仕舞ったばかりだぞ。俺は夏も愉しみだけどな。夏もまだお前と一緒に過ごしてないもんな。
尾形がそう云ってイカリングを一つ口の中に放り込む。ぼんやりと口が半開きになっていたのか、気を効かせた振りをして、ゲソのフライを俺の口の中に押し込んできて一頻りひとり失笑する。
杉元、顔。食事会、二週に一回は必ず守るから、そんな顔するなよ。穴、開けちまうぞ。
穴、開けてえな。
ちょっとずつ、開けていこうぜ。
うん。
砂の山にトンネルを作るみたいに慎重に。
うん、夏になったら海もお前と行きたい。
な。
尾形の云わんとすることが伝わってきて、もう一回、目を見る。開けていいんだな。開いてっていいんだな。少し安心してメモをして冷蔵庫に貼っておいたバッター液の作り方を一つずつ確認した。