共犯者「築!」
廊下から苗字を呼ぶ怒声が聞こえて、びくりと肩を震わせた。大きな足音とよく通る声は生徒指導の先生のものだと、半年も経てば嫌でも覚える。そして、こんな珍しい苗字にも関わらず、呼ばれているのは俺ではないということもいい加減覚えた。それでも反射的に心臓は飛び跳ねるのだからどうしようもない。
ある時は学ランの第1ボタン。またある時はインナーの色。またある時は髪の長さ。これまで違反した校則を数えたらきっとキリがない。それに反省の色が見えないことや話半分で説教を受けていることも目をつけられる原因になるのだろう。生徒指導の先生に、校内で誰よりも名前を呼ばれているのは多分兄さんだ。
「待ちなさい、聞いているのか! おい、築!」
おそらく、また何か違反をした兄さんが追いかけられている様子だ。先生の声は止むことなく廊下中に響き続けている。雨の日の昼休み、人がごった返している廊下でこの騒ぎをしているのだから驚く。
「二葉の兄ちゃん、また追いかけられてんじゃん」
一緒にいた友人が茶化すように笑った。これが非日常ならば俺も友人も焦るだろうが、残念ながらこの騒ぎは日常である。俺もやれやれと言うような顔で「そうみたいだね」と笑うしかなかった。
あれ、でもなんでこの階の廊下に兄さんが、と疑問が浮かんだ。決まり事として、他学年の廊下は用事なく通ってはいけないことになっているし、いつもなら先生の怒声は上階から聞こえるはずだ。もしかして他学年の廊下に来たから追いかけられてる? そうだとしたらどうしてこの階に。もしかして俺に何か用があったとか……いやいや、それは自惚れすぎだろう。そんな呑気なことを考えて、ちらりと視線を移すと、足早に廊下を通り過ぎる兄さんと目が合った。
「あ、」
咄嗟のことに何の反応もできないまま、衝撃だけが音になって飛び出した。随分と早足だったせいか、次の瞬間にはもう視界に兄さんはおらず、その代わりに兄さんを追いかける先生が見えた。ぱちぱちと瞬きをして、気のせいかなと首を傾げる。
「なんかあった?」
「うーん、なんでもない……かも」
曖昧な返事を返すと、友人は兄さんの話題など忘れたように別の話題を口にした。まだ廊下からは足音が響いている。数分後の予鈴が鳴るまでは続くのだろうとぼんやり考えながら、俺は友人の話題にそれらしく相槌を打った。
*
雨粒が校舎に打ちつける音、水溜まりに生徒が足を浸す音。びしゃびしゃと鳴るそれを聴きながらため息を吐いた。午前中はどんよりとした曇りというだけだったのに、午後からは雨、挙句の果てに帰る頃にはどしゃ降りなんて酷い天気だ。その上、先程リュックの中を確かめたら入れたはずの折りたたみ傘が入っていなかった。傘を探していた時間の分、他の生徒より出遅れたことも痛手だ。誰かの傘に入れてもらうことも、貸してもらうこともできそうにない。兄さんは……早いところ帰っただろう。とりあえず職員室に傘を借りに行ってみようかな、と妥当な考えが頭を過ぎった。
「おい」
立ち上がろうとしたのに合わせて、声がかかった。動作と驚きが相まって、がたんと椅子が鳴る。声の方を見ると、そこには気だるげな姿勢で扉にもたれた兄さんがいた。
「わっ、え、にいさん?」
「他に誰がいんだよ、おせえよ」
他の人かと思ったわけではなく、ただ兄さんがいたことに驚いた。大抵、兄さんはさっさと帰ってしまうのにどうして待っていたのだろう。あ、まさか兄さんも傘を持っていないとかそういうことだろうか。とりあえず、リュックを背負ってドアに駆け寄る。兄さんが傘を持っていようが持っていまいが、一緒に帰れるのだと思うと足が弾んだ。
「なんで待っててくれ、いてっ」
自然と明るい声音が出た途端に、こつんとおでこに何かが当たる。反射でつぶってしまった目をおっかなびっくり開けてみると、散々探していた折りたたみ傘がそこにあった。
「わあ、傘だ!」
まるでマジックでも見たかのような声が出る。兄さんの手からそれを受け取ると、兄さんは素早く踵を返した。声をかけたところで待ってくれないことはよくわかっているので、素直に背中を追いかける。
「ありがとう、兄さん」
「……ったく、自分で取りに来いよ」
不機嫌そうに投げられたその言葉を聞いて、昼休みにかち合った目を思い出した。わざわざ他学年の廊下を通るなんて何事かと思ったが、あれは俺のところに来るためだったのか。わかってしまえばなるほど納得だ。
「届けようとしてくれたの?」
納得はした。けれど、その口から真意が聞きたくてわざと問うてみる。目をつけられているにも関わらず、校則を破ってまで来てくれたその真意を、直接聞きたくて。
「……玄関に置きっぱなしにして学校行くようなバカを笑ってやろうと思っただけだ」
つんけんとした物言いに、気の抜けた笑い声が漏れそうになって必死にこらえた。怒鳴りながら兄さんを追いかけている先生も、こういう姿を見たらきっと見方が変わるだろうな。ああ、でもこういう姿をそう易々と見せるのは悔しいな。
「くだらねえこと言ってないで早く帰るぞ」
「ふふ、うん……って、兄さん上着は?」
「はあ? 濡れたら気持ち悪いから脱いだ」
違反だと怒られたことのあるインナーで校内を闊歩する姿はいっそ清々しい。というか、下校時は上着の着用必須だってこの前も言われていたはずなのに。
「お前も脱げば? 乾かすの面倒だし」
「え、ええ……おれは……」
俺はいいよ、と言おうとして口を閉じた。確かに外はどしゃ降りで、上着が犠牲になることは間違いない。明日も学校があるし、生乾きの上着を着るのは気が引ける。兄さんの言い分はもっともだ。それに。
「……俺も、上着脱ぐからちょっと待って!」
「二十秒だけな」
一時停止して振り返った兄さんが、楽しげに笑う。共犯者になってみたかったと言えば、大袈裟だと笑うだろうか。二人揃って「築」と怒鳴られ追いかけられるのも楽しそうだと言ったら、バカじゃねえのと呆れるだろうか。たたんだ上着をリュックに詰めながら、そんなことを考えた。先生に見つかりたいような、やっぱり見つかりたくないような。複雑な気持ちと手渡された折りたたみ傘を握りしめて、俺は歩き出した兄さんを追いかけた。