20220723 学生時代、友人から直接誕生日を祝われた記憶はほとんどなかった。当日に祝われたことはまったくと言っていいほどなく、直近に祝われることもまた少なく。低学年の頃はそれを寂しく思ったものだったが、夏休みを迎えた子どもたちに他人の誕生日を気にする余裕もなければ、わざわざ家を訪ねてまで祝う気などあるはずがない。夏休み中の誕生日なんてそんなものだと、一紗は早々に理解した。
付け加えると、小、中学生の頃は両親から直接祝われることも少なかった。共働きの両親に「心配だから」と言われるがまま、一紗と二葉は決まって祖母の家にあずけられていた。夏休みが始まってから一斉登校の日が来るまで、ずっと。電話越しの「誕生日おめでとう」はどこか空っぽに聞こえてあまり祝われた気がしなかったのだが、それはわがままだと飲み込んだ。
だから、一紗の誕生日をその日に直接祝ってくれるのは二葉と祖母のふたりだけだった。いつもより少し豪勢なごはん、近くの店で買ってきた小ぶりなワンホールのケーキ。家のあちこちにぶら下がっている風鈴がちりんちりんと鳴るのを聞きながら、三人ぽっちのささやかな誕生日会をした。傍から見れば、物悲しい誕生日だと言われるかもしれない。けれど、一紗本人はその静かな誕生日が嬉しくて、好きだったのだ。たくさんの人に祝われなくとも、派手なパーティが開かれなくとも。自分事のように一日中にこにこして「うれしいね」「おめでとう」と繰り返す二葉と、それを笑顔で見ている祖母がいれば十分だったのだ。
遠く、遠くで鈴の音が聞こえる。かたく瞑った瞼の奥に届く陽の光がまぶしくて仕方ない。朝なのか、と霞がかった頭で考えて目を開こうとしたが、素直に起きられるほどすっきりした目覚めではなかった。光に背を向けるように寝返りをうち、微睡んでいるうちにもう一度眠ろうとする。しかし、感覚は次第に冴えていき、ぢりんぢりんと鳴り止まない音が輪郭をもっていく。同時に先程まで聞こえなかった小さな声まで聞こえてきて、これはもうだめだと諦めることにした。
「なにやってんだよ」
「わぁ!」
窓から軽く身を乗り出して何かをしていた二葉がびくりと飛び上がる。起きてからしばらく経っているのか、身支度はすべて整っていた。その場から二葉が一歩退くと、陽光がさらに突き刺さる。
「まぶしい」
「ごめんごめん。カーテン全部閉める?」
「いや……。それより、そっち」
曖昧な返事をした一紗の興味はすでに別のものに移っていた。昨晩まではこの部屋になかったはずの、睡眠を妨害したそれである。
「ああ、これね、そうだよね」
そう言いながら苦笑いをした二葉は、指先でつんと風鈴をつついた。軽やかで涼やかな、夏を報せる音。祖母の家で毎日のように聞いていた音が部屋を駆けめぐる。
「兄さん好きだったかなと思ってつけようとしたんだけど、思ったよりうるさくて」
「まあうるさかったな」
「うーん、だよね。これで起きちゃったんでしょ?」
「ああ……」
事実のみを伝えるとあからさまにがっかりした顔をした。
「外すかあ……」
続けて溜め息混じりに発せられたひとことを聞いて、反射的に二葉の腕を掴む。誰も外せなんて言っていない、と制するように。
「待て」
「え、外さなくていいの?」
たった二文字を聞いただけでそう判断できる物わかりの良さに、毎度驚かされる。確かにこうなるように仕向けた、もといしつけたのは自分だとわかっている一紗だが、それにしても、である。
「……おまえの部屋なんだから好きにしろ」
すべて見透かされていることは、どうにも認めがたい。「外すな」とは言えず、「なんでもない」とも言えなかった末の返答だった。
「ふふ、好きにしまーす」
だが、いたずらっぽい調子で微笑む様子を見るに、この考えすらも見透かされているのだろう。そう思うとさらにばつが悪くなってきて「はいはい、どうぞご勝手に」と素っ気ないふりをしながら、再びベッドに横になった。
「また寝ちゃうの?」
「べつに」
「なんで突然風鈴つけたのかって、聞かないの?」
「はあ?」
確かに気になったことは認める。先ほど言っていた「好きだったかなと思って」も気になった。気になったが、聞いたところで理由も意味もないのかと思って聞かなかったのだ。それなのにこう言い出したということは、何かしら言いたいことがあるのだろう。
「……聞いてやるよ」
「やったあ」
言うや否や、結局ぶら下げたままになった風鈴が微かに鳴る。ちょっと前まで騒がしかったくせに、タイミングのいいやつめ、と思ったことは口にも表情にも出さなかった。
「おばあちゃんの家にいたときに、兄さんがよく眺めてたなって思ったんだよね」
「そうだったか?」
身に覚えがないことを言われ、さて何のことかと不思議に思う。音を聞いていた記憶はあるのに、眺めていた記憶はほとんどないのだ。果たしてどちらの記憶が正しいのか、確かめる方法はないのだから考えても意味はないが。
「そうだよ。だから好きなのかなあと思って……本日ひとつめのプレゼントってところかな」
「ああ、そういう」
「そういうことです!」
どうしてこいつは毎年俺より嬉しそうなのか、と一紗が呆れたように笑う。その反応を気に留めることもなく、二葉は目線を合わせようと隣に寝転んだ。
「兄さん、誕生日おめでとう」
「寝る前も聞いた」
「一年に一日しかないんだもん、いっぱい言わせてよ」
「言うごとにプレゼントよこせ」
「えー」
屈託のない、心底嬉しそうな表情をする二葉は昔と全く変わらない。こうして今日という日が終わるまでに何回の「おめでとう」を繰り返せば気が済むのだろう。あと何回、こんな誕生日を繰り返すのだろう。途方もない問いの答えはわかるわけもなく、一紗はゆるやかに目を閉じる。
直後、呼吸の準備もない唇を啄まれて小さく声が漏れ出た。急にするなという文句を込め、肩をつかんで引き離すと元より揶揄いのつもりだったのかと思うほど素直に引き下がる。
「ふたつめのプレゼント……ってことにはならない?」
ささやくような甘ったるい声にくすぐったさこそ覚えたが、言い方に趣向をこらしてどうにかしようなんて百年早い。
「なるか、バカ」
ニヒルな笑みを浮かべてそう返せば、いつもの調子で「やっぱりだめかあ」と頬をかく。
甘やかとはほど遠い、しかし確かにあたたかな空気が漂う部屋のなかで、鈴がちりりと楽しげに鳴った。