契りにいたる道の先「兄ちゃんみたいに顔も良くて強い獄族サマはよォ、契約したいってヤツも多いんだろ?」
酔った勢いで口走った言葉に、視線の先の男は鼻を鳴らした。
二年間毎日顔を出している料理屋に、毎日のようにいる獄族の男。小綺麗な顔、色気のある流し目、誰もが一度は見惚れる佇まい。初めて店に来た女たちは口を揃えて素敵だなんだと熱烈な視線を向ける。……だが、まあ。容姿も中身も非の打ち所がないなんて、そんなやつはそうそう存在しないものだ。しばらくすると、誰もが男から視線を逸らす。どことなく人を寄せ付けない雰囲気、人族を小馬鹿にするような目付き、見え隠れする粗暴な所作。綺麗な花の数だけ鋭利な棘がある。まさしく薔薇みたいな男だった。話しかけるのは分別がつかなくなった酔っぱらいか相当な阿呆か。一度、男に絡んだ阿呆が吹っ飛んだのを見たことがある。あれは阿呆に非があったのだが、それにしても人を吹っ飛ばすという行為に身震いしたものだ。だから、俺は極力舐めた口をきかないよう心がけていた。にも関わらず、俺は、俺は。
後悔した時にはすでに遅かった。鼻を鳴らした獄族の男はいつにも増して冷ややかな目で俺を見つめていた。数秒後に宙を舞う自分の姿を考えて、浅く息を吐く。四十数年生きてきた中で、数秒前の俺が一番愚かだった。謝って許されるならばいくらでも頭を下げる所存だが……きっと駄目だろうな。ああ、でも今すぐ土下座のひとつでも披露すれば平手打ちくらいで済むかもしれない。
急速に酔いが覚めていく頭で、いくつもの馬鹿らしい考えを巡らせた。巡らせたが、意味はなかった。
「そんなのが多くて何になんだよ」
「へ、ぇ……?」
話し出したことに驚いてびくりと震わせた肩や口から漏れた情けない声を気にもせず、男は続ける。
「俺が契約したいヤツがいないんじゃ、意味ねえだろ」
強気に口角を上げた男はそこまで言って、濡れたグラスを愉しそうにかたむけた。
◇
「いつもの」
たった四文字で食べたいものが出てくるくらいには通いつめている料理屋で、昨日も会った飲み仲間に軽く声をかける。どいつもこいつもすでに赤ら顔で、何時から飲んでいたのかと笑えば舌っ足らずな答えが返ってきた。こりゃだめだ、と離れた席に目星をつけると今日もまた涼しげな顔で桃まんと酒を呷る美丈夫がひとり。
「お隣いいかい」
「……勝手にしろ」
つっけんどんな反応だが、これでも常連仲間だ。遠巻きに見つめては怖い怖いと怯えていた時期もあったが、話してみればなんてことはないただの酒呑みだった。もちろん種族の差、力の差はあれど誰彼構わず殴るようなやつではない。とは言え纏うオーラの刺々しさは否めず、軽口を叩ける間柄にはなれる気配もないのだが。
「今日は何杯ほど」
「さあな」
無視こそされないものの、いつもこの調子だ。会話の応酬は続かない。気分よく話してくれるのは大抵飲みすぎた時くらいで、後はこんな反応ばかり。それでもこうして話しかけてしまう理由は……興味本位、だろうか。
「おりょうり、おもちしました!」
背後から張り上げたような声が聞こえて、口許がゆるむ。振り向くと、小さな手で持てるだけの料理を持った男の子が立っていた。二ヶ月ほど前からここで働いている子供。名前は確か、フタバくんといったか。今日も頑張っているのか、えらいもんだなあと破顔する俺の横で、男は気にも留めず酒を飲み干す。
「同じ酒、追加」
「ま、まってください! まず、おりょうりを、」
「おうおう。おじちゃんの料理だね、ありがとう」
ちんまりとした手から大きな皿を受け取ると、男の子はあわててポケットから注文用紙を取り出す。
「えっと、おさけ……ももまん、いりますか?」
「いらねえ」
常連の「いつもの」を覚えている懸命な子供に対してもこれだ。あんなに小さな体躯で汗水流して働いているのだ、もう少し優しくしてやったらどうかと思わない日はない。きっとこの様子じゃ、子供が嫌いなのだろう。だから、こうして感じ悪くするのだろう。
勝手にそんなことを思っていた俺にとって予想外の出来事が起きたのは、それから数週間が経ったある日だった。
「二葉くんが帰ってこないって?」
「そうなんだよ、買い出しに行ったまま帰ってこなくて……」
「どこか寄り道してるだけじゃないのかい」
「あの子に限ってそんなことはしないさ。それにもうずいぶん経つんだ、寄り道にしたって遅すぎるよ……」
愛くるしい看板店員だ。店内の皆が口々に心配して、店主はひどく青い顔をしていた。そんな中でがたりと席を立ったのは、今日も今日とて顔色ひとつ変わらない獄族の兄ちゃん。
「勘定」
とだけ言ってカウンターに金を置いた男は、素知らぬ顔で店を出て行った。その姿に呆気に取られながらも、あの男ならそうか、と揃って溜息を吐く。店内には悲壮感だけが漂っていた。
しかし、その数分後。店の重苦しい空気を晴らすように、ドアベルの音が響いた。からんからんと鳴った扉の前には、つい先ほど店を出たはずの男が立っている。淡い期待を裏切られ、ああ、なんだと視線を外した矢先、その後ろから「ついた……?」とか細い声が聞こえた。
「ほらよ」
そう言って男が軽くしゃがむと、擦り傷だらけの二葉くんがぴょこんと姿を見せた。予想外のことに目を白黒させている客や店主を見つめながら、二葉くんは「ごめんなさい」と力なく笑う。続けて、獄族の男の方を見て口ごもった。
「え、と……お、おにいさん、」
お礼を言おうとしたものの、名前がわからなかったらしい。無事だったことに安堵の息を吐きながら、そういえば俺も知らないなあと男を見やる。不安そうに「おにいさん」と呼んだ二葉くんを見て、男の表情がわずかに揺らいだ。
「……一紗」
「え、あ、」
「名前」
「……いっさ、さん?」
確かめるようにゆっくり、はっきり発音されたその音が、じわじわと温度を持つ。それからもう一度、名前を呼ぶ声が小さく聞こえた。
「なんだよ」
鬱陶しそうに、けれど決して嫌ではなさそうに聞こえた返事を受け止めて、幼子はふわりと笑む。
「ありがとう、ございました」
彼の身に何があったかは知る由もない。それでも様子を見るに、この男が助けたことに間違いはないようだ。冷たい男だと思っていたが、考えを改めなければいけないな……と思って少し笑えば、
「ただのついでだ」
なんて嘘くさい答えが返ってきたから苦笑してしまった。
それからというもの、二葉くんは一紗さんによく懐くようになった。他の誰が店に入ってくる時よりも嬉しそうに彼を出迎え、注文を取るのも料理を運ぶのも酒を注ぐのも見送るのも何から何まで我先にと駆けていく。一紗さんの方はといえば、最初こそ厄介だと言わんばかりの顔をしていたが、今では特に気にしていないように見える。年の離れた兄弟みたいだなあと笑う客、親鳥とヒナの間違いじゃないかとからかう客、反応はそれぞれだ。兎も角も、二葉くんのおかげで店の雰囲気は大分変わった。当然、良い意味で。一紗さんを遠巻きにする客は減ったし、彼自身の雰囲気もかなり軟化した。何より、俺と彼の会話は続くようになった。子供の力というのは偉大である。
「もうずいぶん経つけどよォ、まだいないのかい。契約したい人間は」
「毎日毎日飽きねえな。あんたに何の関係があるんだか」
「俺は見てみてえのよ。一紗さんほどの男が選ぶ人間ってヤツを」
酔っている人間にそう酷い仕打ちはしないことを学んだ俺は、飲みすぎたのをいいことに一紗さんの背中を軽く叩いた。うんざりしながらも、汗をかいたグラスをかたむけながら付き合ってくれるあたり、軟化したどころの話ではない。
「俺が死ぬまでに、見てみてえもんだよ……」
向こう三十年は生きる予定だが、獄族にとっての三十年は人族と同じではない。この調子だと拝むのは難しそうだと思ってしまうのも無理はないのだ。見てえなあ、見られねえだろうなあとぼんやりしながら、ぬるくなった酒に口をつけた。
「いっささん!」
突如、背後から大きな声が聞こえて、適当に持っていたグラスが手から滑り落ちそうになった。数年経って大きくなったが、未だ若干の幼さが残る声の主はもちろんあの子で、この溌剌さが今日もまぶしいなあと目を細める。……あ、そうだ。この子がぴったりじゃないかと冗談混じりに言おうとしたのと、少年が口を開いたのは同時だった。
「俺と、けいやくしてくれませんか!」
数秒の沈黙、硬直。そりゃまあ、これだけ懐いていたのだからありえる流れではあったが。たった今考えたことだったが。それにしても、それにしてもだ。確か二葉くんはまだ十になったばかり。契約なんて大それたことを言い出すなんて誰が思っただろうか。
「あの! 俺と、けいやくを!」
勢いで押し通すかのように同じ言葉を繰り返す。その姿を見て、一紗さんがようやく口を開く素振りを見せた。と、思ったら。
「っく、はははッ! は、ッ冗談だろ、ッはは、あーおもしれえ」
「じょうだんじゃないです! 俺は本気で、本当にっ!」
顔を真っ赤にして訴えかける二葉くんをよそに、一紗さんはゲラゲラと笑い続ける。一分、二分経っても止まらない笑い声に、次第に二葉くんが居たたまれなくなってきた。
「ふ、二葉くんさあ、いいんじゃねえの、一紗さんはほら……こんなだし」
「おい、誰がこんなだ」
挟まれた台詞は聞こえなかった振りをした。彼の契約者は見てみたい。が、それにしたって二葉くんはこの男に勿体ないほどのいい子だ。周囲の客も同じ気持ちのようで、口を揃えてやめとけやめとけとなだめる。けれど、少年の決意は揺らがなかった。
「俺はぜったいに! あきらめません!」
力強く言い切られた言葉が、店内に響き渡る。それを聞いた一紗さんは、一瞬ひどく真剣な顔をしたと思えば、またすぐに笑い転げたのだった。
◇
「もう、今日何杯目だと思ってるんですか?」
「いいじゃねえかよ、何日祝っても足りねえんだから」
「そう言ってもう一ヶ月になっちゃいますよ? 飲み過ぎはよくないですって」
「十三年分の祝い酒だ、一ヶ月じゃあ足りねえや」
ああだこうだ言いながらも、新しい酒と共にチェイサーを出してくれる。昔から気が利く子供だったが、二十三にもなると気が利きすぎるくらいだ。ついこの前まで三年も店を空けていたとは思えない。
「二葉ぁ!」
「あー、はいはい! 今行きます!」
名前を呼ばれて嬉しそうに駆けていく姿は何年経っても変わらない。十代の貴重な十年を、二十代前半の貴重な三年をまるごと貰っていった男のどこがそんなにいいのかと問いたくなるが、あの笑顔を見るにそれは野暮ってものなんだろう。
十年間、毎日懲りもせず「契約! 契約を!」と詰め寄り続けた二葉少年。そして「うるせえ」「しつこい」「そんなことより酒出せ」と突っぱね続けた一紗さん。三年ほど経過したあたりからはこりゃ時間の問題だと誰もが思っていた。根負けしたのはまあ、予想通りで。二十歳になった当日も「契約は!」と迫った二葉くんに「じゃあ悪龍の一匹くらい倒してこいよ」と告げた時は、いくつかのテーブルでグラスの割れる音がしたものだ。かく言う俺も割った。時間の問題だと思ってはいたが流石に急すぎたのだから仕方ない。
『倒してきたなら、契約してやる』
聞き間違いを正すかのように繰り返した言葉を聞いた二葉くんは「いってきます!」と半ば叫びながら、ちょっとそこまで行くみたいな様子で店を飛び出していった。それなのに帰ってきたのは三年後だったのだから、面白いというか根気強さに寒気すらしてくるというか。結果、無事契約と相成り、今に至るわけだ。
思えば長かった。このまま契約者を見られずお陀仏かと何度も思った。
『まだいないのかい。契約したい人間は』
何度も何度も飽きずに聞いた。今思えば、気難しそうなこの獄族に話しかけたのは興味本位なんかじゃない。独りで酒を飲み干すその姿がどうしようもなく寂しげに見えたからだったのだろう。だから、この男が一緒にいたいと思える人間を見つけられる日を待っていた。そんな相手を待ちわびていた。本人がどう思っていたかは知る術もないのだが。
『俺が契約したいヤツがいないんじゃ、意味ねえだろ』
何度も何度も、頭の中で繰り返した。そうか、あんたはそう思えたんだな。あの小さかった少年のことを、一途にあんたを追い続けた人間のことを。
涙ぐんだ目の奥で、オレンジ色の照明がぴかぴかとまぶしく光る。
「おい二葉、桃まんさっさと持ってこい」
「はいはいはい! ただ今ー!」
「はいは一回だろうが」
けらけらと楽しそうに笑うふたりの時間が、一分一秒長く続けばいい。なんなら終わりなんてこなくていい。
そしてあわよくば、少しでも長くこの特等席でふたりを見つめていられれば、なんて贅沢なことを考えてしまうのだ。