ナゴジュクバトル後旧知「獄……」
「寂雷……ちょっといいか?」
部屋の扉を開ければそこに立っていたのは他ならぬ獄だった。一体どうしたというのだろう。しかし普段の彼からは感じない、どことなく申し訳なさそうでしおらしい姿に思わず中へと招き入れてしまう。
先程まで此処で話し合いをしていた独歩くんと一二三くんは気を利かせ席を立ってくれた。彼らの気遣いに再び心の中で感謝する。
ディビジョンバトルで割り当てられた部屋は幾分か殺風景だが、それでも、必要なものは清潔かつ整然と備えられている。椅子を勧めれば獄はそれに座り、暫く考え込んだ。先程まで全力をぶつけ合い、互いに汗と血と涙でぐちゃぐちゃに乱れた様は適度に整えられ、互いに見る影もない。急かさないよう、じっと黙って口が開くのを待つ。
「寂雷。俺はお前のことを誤解していたようだ」
「誤解……?」
「俺はお前が、俺のことをずっと見下してると思っていた。サシで戦おうとしないのも、様子がおかしいと尋ねても何も話してくれないのも、お前が俺のことを見下して、取るに足らない存在だと思っていたからだと。全力で向き合うに値しないからなのだと」
「っ」
「だが今回のバトル、お前はボロボロの姿で、それこそ立っているのもやっとな姿で俺の前にいた。どちらが倒れてもおかしくない状態で、それでも尚俺の正面に立っていた──全身全霊でぶつかり合えた。向き合いたいと願ってくれていた。恥ずかしながら俺は、この事実があって初めてそれに気付いたんだ」
「獄……」
「すまなかった。お前はいつも──俺の傍にいたんだ」
その言葉に、何かが決壊した。自分の中で、何かとてつもなく大きなものが揺り動かされ、震え、熱く熱をもって込み上げてくるのを感じた。
「寂雷?」
瞼の裏に熱いものが込み上げる。これまで重ねてきた歳月、すれ違った日々。あの日獄が部屋を出てしまってから、ずっと胸につかえつづけていた得体の知れない棘が、その熱で溶かされ、緩く形を変え、姿を消していくのが分かった。
「泣くなよ寂雷……」
「ごめん、ごめんね、つい……」
誰にも打ち明けられなかった。話す資格などないと思っていた。自分へ向けられた冷たい眼差し、鋭い闘争心、無関心、いつしかそれが、確かに在ったはずの力強く温かい彼自身をも飲み尽くしてしまうような気がして怖かった。切なかった。苦しかった。
悲しみが大きい分、人は得られた時の喜びを噛み締めるのには時間がかかる。ああ、これは夢だろうか。「夢でない」ことを願ったのは、いつぶりだろうか──。
「寂雷……」
気付けば彼は立ち上がり、あの頃と同じ逞しい腕で私を包み込んでいた。鼻腔を擽る、彼の胸の香り。
「獄……」
「いや、すまないその、これは……」
自身の勢いにビックリしたように、獄が戸惑う。
「いいんだ。いつかの日も、君はこうして慰めてくれたね……」
ああ、心が夢ではないと叫んでいる。
「獄……」
自分と獄の間にほんの少しのゆとりをつくり、両手でそっと彼の顔を引き寄せる。
「──っ」
触れた唇は、薄く、少しだけ乾いて柔らかく、ほんのり微かに煙草の味がした。
「寂雷……」
僅かに戸惑いを見せた獄がそれに応える。私の顎を引き上げ、緩く開けた口の中に舌を滑り込ませる。煙草と彼の唾液の混じった香りが口内を満たす。後頭部から流れるように髪を撫でられ目を閉じて感じ入る。
ひとしきり交わった後、どちらかともなくそっと顔をひけば、細い銀の糸が名残惜しそうに2人の間を繋ぎ、やがてふつりと身を離した。
「相変わらず下手だな」
「君に言われたくはないさ」
「俺もお前には負けたくない」
「またそんなこと……」
思わずぷっと笑い合ったその顔は、学生時代のようでありながら、それでも紛れもなく今を生きる獄そのものだった。
「突然すまなかった」
「……獄、」
立ち上がった獄を反射的に制する。
「なんだ?」
「今夜、もしよかったら、その……」
「明日決勝だろ」
「分かってる。でも、」
今を、此処に刻みたいから。
言葉につまっていると、獄がこちらを一瞥してふと笑った。
「肝心なことを言えないのも、昔のままだな」
「獄……」
「十数年ぶりだ。覚悟しろよ」
「お互いにね」
遠くの空で、夜が弾ける音がした。
(完)