驟雨。一人行きつけのカフェで読みかけの小説を開く。店内は優しいオレンジがかったランプに照らされていて、綺麗な音楽が流れている。
一時間程前、恋人と些細な喧嘩をした。喧嘩という程大袈裟なものではないが、日頃から溜まっていたものをぶつけてしまった。発端は、デートの約束をすっぽかされたことから始まった。いつも仕事熱心な彼は、夢中になるとよく周りが見えなくなる。時間も忘れて、食事や睡眠すらも忘れて、気づけば知らない土地。なんてこともしばしば…。別にそれが悪いと言っているわけではないが、恋人との数少ない休日のデートを忘れるなんて。
朝、家を出て待ち合わせ場所に着いたのは午前十時頃の事。予定の時刻を過ぎても連絡はなく、なかなか来ない彼の家に迎えに行くことにした。彼の家は駅からそう遠くはないため歩いて向かうと、見えてきた家の窓にはまだカーテンがかかっている。
「おじゃまします。」
合鍵を使って家の中に入る。リビングのカーテンを開け、彼の部屋のドアを開けるとペンを持ったままの彼と目が合った。
「お、司〜!どうした?」
「〜っ!どうした?じゃありません!」
「え?なんでそんなに怒ってるんだ」
「レオさん、今日は私と約束していましたよね?」
「えーっと…。」
「まさか、忘れていたんですか?」
「うん…ごめん。」
「仕事熱心なのはいいですが、少々蔑ろにし過ぎではありませんか?」
「はい…。」
「もういいです。レオさんは仕事が恋人ですもんね…。」
段々と怒りよりも悲しみの方が大きくなっていって、レオさんの声を待たずに部屋のドアを閉めた。レオさんが追ってくる気配もなく、このまま帰ることもできずに行きつけのカフェに寄ることにした。カランと音を立てて入店のベルが鳴る。窓際の席に座ると、店内に設置されている本棚から小説を持ってきて続きを読み始める。前回読んだところは、ちょうど主人公が初恋に気づいたところだったはず…。ページをペラペラとめくっていると、自分のものではない栞が挟まっていた。栞には、紫色みがかった小さな花が咲いていて綺麗だ。続きから挟まっていたページまで読んでみる。
隣にあったのはいつからか。今、芽吹いたものは。気付かないふりをした次の瞬間、花が開く。
心を締め付けるのは茨。近いほど遠い距離は、瞳に映らない。掌からこぼれ落ちない幸せを選んだ。
君の瞳と同じ色。誰も見ていないことを願って、五つの花弁にキスをする。それから花弁と一緒に初恋を飲み込んだ。
驟雨。
傘も持たずに濡れた道を一人歩く。足音も掻き消される程の地面を強く叩きつける雨音だけが耳に響いている。胸を抑え立ち尽くした私の冷たい頬に流れるのは沈丁花の涙。
読み終えてから、栞の花がなんとなく似ている気がしてそっと元のページに挟んでおいた。どうかこの栞を挟んだ人の初恋が実りますように。そう思いながら、本棚へと小説を戻して店を出た。
「どうしましょう…。」
帰るにも、なんだか心が疲れてしまって足取りが重い。気晴らしにと近くの公園に行ってみることにした。公園は庭園内にある池とも隣接しており、橋がかかっている。園内の散策路は一周できるようになっているみたいだ。とぼとぼと歩きながら、たまに池の鯉を眺めたり蓮花を眺めたりして気持ちを落ち着かせた。橋まで来ると、突然ゴロゴロと雷が鳴り出し、サーッと雨の音が近づいてくる。急いで来た道を戻ろうとしたが、一番奥にある橋から屋根のある建物まではだいぶ距離がある。ザザーッと勢いよく降り注ぐ雨粒が全身を濡らす。もう、橋の上で一人立ち尽くすしかなくなってしまった。頬を雫が滴り落ちる。
「司っ!」
雨音だけの世界に大好きな人の声が聞こえる。人の気配に、俯いていた顔を上げると一番会いたかった人が目の前に立っていて、濡れた身体を強く抱きしめてくれる。
「司、ごめん、ごめんな。」
「…っ。」
「おれ、司を諦めたくないよ。」
「れおさ…っ」
「司は、おれのこと嫌いになっちゃった?」
「そんなことっ」
「もしまだ好きでいてくれるなら、もう一度おれの初恋を叶えて欲しい。おれは、みんな愛してるけど、世界で初めての恋は司なんだ。」
「つかさ、つかさはっ…レオさんとまだ一緒にいたいです…ごめ、なさっ」
「ごめんな、おれもっと大切にする。好きだよ。」
「つかさもっ…うぅ〜」
土砂降りの雨の中、抱きしめあったまま二度目の告白。少し目頭の赤くなっているレオさんの顔を見る。きっと、同じくらい泣いていたと思う。驟雨。二人、傘も持たずに手を繋いで濡れた道を歩く。胸を締めつけるのは愛の痛み。冷たい頬に流れるのは温かい恋の涙。雨上がり、花弁にはキラキラと雨粒が輝いていた。