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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+雨緒紀……他
    「痛みと慈しみ」①
    ※雨緒紀の物語・完結編
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に描きました。
    ※名前付きのモブ有。
    ※途中流血・暴力描写あり。

    痛みと慈しみ①  1

     そこに眠る死者の頭を優しく撫でるように、風が吹く。冷たい風だった。その息遣いに合わせてさわと囁くように揺れるのはついこの間まで極彩色の葉を纏っていた枝々で、むき出しになった木の表皮が、秋の終わり特有の寒々しさをいっそう際立たせている。
     雨緒紀が北流魂街七十五区の山中に足を踏み入れたのは、あの一件からはじめてのことだった。渦楽作兵衛の手によって引き起こされた、瀞霊廷を揺るがす数々の騒動。憎悪という、それまで生きるよすがとなっていた感情に衝き動かされた作兵衛は元柳斎の暗殺を企て、そしてこの地で長次郎の手によって粛清され、葬られた。
     あれからまだひと月も経たないというのに、作兵衛の墓――墓と言っても墓標どころか目印すらもない、土が盛り上がっただけの場所――の上には水分が抜け、色彩を失った枯れ葉がいくつも重なっており、雨緒紀には、それがまるで葬られている人間の存在自体を覆い隠しているように見えた。雨緒紀自身も同情をするつもりは微塵もない。全てがあるべき結果へと帰結した、ただそれだけのこと。
     それでも、土へと還ろうとしている枯れ葉の数々を払おうと無意識のうちに手を伸ばしたのは、自分の心情の変化の現れかもしれない。長次郎の泣きはらした目を見て胸が鋭く痛んだのも、ゆるく震えた喉がなんとも情けない声を出したのも、長年貫いてきた戒めが根底から揺らぎ、王途川雨緒紀という男の輪郭が崩れてしまっている……浮かんでは沈むを繰り返す思考は、しかし誰にも打ち明けることなどできず、胸に絡みついたまま消えることがなかった。
     いつからこんなに弱くなったのか、私は。口の中に呟いた雨緒紀は、ゆるく首を振ると伸ばした手を引っ込める。こんなに甘い人間ではなかったはずだ……そう思っていた時、寂寞とした山の中に再び風が吹き、体を包み込んだ。
     女の呻きにも似た、ひゅうひゅうという高い音が鼓膜を震わせ、脳内で漂っていた雑念をかき乱す。錆の匂いを纏わせた風を大きく吸えば、肺の温度がわずかに下がり、喉元まで競り上がった澱みが中和されて少しだけ楽になったような気がした雨緒紀は、臓腑の芯まで染み込んだ冷気がいっそのこと心までも凍り付かせてくれと願った。自戒を重ねて裡なる声から目を背け続けた結果水も漏らさぬ怜悧な人間となった、あの頃の自分のように。無数の自分を殺しながら歩んできた人間が、これからもそう在ることができるように。
     自分は、変わるはずもない。変わってはいけないのだ……諦めを滲ませながら、そう言い聞かせていた時だった。かさ、と背後から枯れ葉を踏む微かな音が聞こえ、雨緒紀は振り返った。
     立っていたのは長次郎だった。今日は非番だったのか普段の死覇装ではなく、髪の色に合わせるような白藍色の着流し姿で、斬魄刀は所持していない。それは長次郎が、護廷十三隊は任務以外での斬魄刀の携帯を基本的には認めていないという規則を律義に守っている証拠だった。基本的にというのは、あくまで揉め事を起こさないためのおためごかしに過ぎず、実際は各個人の判断に任せているというのが大きい。つまりは破ったところでお咎めはないのが現状だ。事実、隊長のほとんどは非番で町に繰り出す時も斬魄刀を持ち歩いている。それは総隊長である元柳斎も例外ではないというのが、規則の形骸化を如実に物語っている。誰よりも尊敬し、永遠の忠誠を誓った主に追従しないのは、長次郎の底に貼り付く頑固さと、若者が併せ持つ生真面目さの表れなのだろうか。そう思いながら雨緒紀は、半ば微笑ましい気持ちで自分の後ろで立ち尽くす青年の目を見返した。
     だが、微笑ましさはすぐに腹の底に落ちてゆく。こちらを見た長次郎の瞳に一瞬の怯えが灯ったのを読み取ったからだ。会いたくない人間に会ってしまったと言わんばかりの表情……それがそのまま自分への拒絶に思えた雨緒紀は、胸の奥がちくりと痛むのを感じると何も言えなくなり、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
     見つめ合ったまま流れる、張り詰めた沈黙。数瞬の後、最初に口を開いたのは長次郎だった。
    「申し訳ありません」
    「……何故謝る」
    「自分が始末した人間の、墓参りに来るなど……」
     言いながら目を伏せるそのしぐさは、悪戯が露見し、母親の雷が落ちる瞬間を恐れる子どものそれのように見え、雨緒紀は短く息を吐いた。やはり恐れられているか。その考えに腹の底で鉛の重さを感じたのは、心のどこかでは拒絶されたくないという思いがあったのかもしれない。
    「別に良い。ほら、来い。渦楽に会いに来たのだろう」
     決して逃れることのできない懊悩を少しでもやわらげるために投げかけた声は、思った以上にそっけないものとなってしまった。長次郎は、そんな雨緒紀の考えを読み取るようにしばらく見つめてきたかと思うと、やがておずおずとこちらに歩み寄って隣にしゃがみこみ、静かに手を合わせはじめる。
     長次郎は供物となるようなものを何一つ持ち合わせていなかった。花も線香も手向けないのは、自分がここに来ていることを誰にも悟らせないようにするためだろうか。そこにはお咎めを恐れるというよりも、この場所を隠し通すことで死者に安らかに眠って欲しいという願いが込められているのではないかと勝手に感じた雨緒紀は、長次郎に倣って両の手を合わせると、そっと目を閉じる。
     瞼の裏に広がるまばゆい闇を凝視していると、不意に足元から声が聞こえた。
    「王途川殿は、何故ここに?」
    「たまたま近くを通っただけだ」
     今日の任務がこの近くで、ふと長次郎が作兵衛の命を散らした場所を見てみたいと思い、立ち寄ったに過ぎない。それは知っておいた方が良いだろうという、義務感のような感情からのものだった。もしかしたらあの一件の後、元柳斎が作兵衛の墓の場所をあっさりと教えてくれたのも、雨緒紀の心情をおもんばかってのものかもしれない。
     いずれにせよ、知ることで少しでも迷いが払拭されればという思いからの行動であったが、かえって抜け出せなくなってしまったように思えてしまい、雨緒紀は薄く開いた目を長次郎に引き移した。
     長次郎はすでに手を合わせるのを止め、目の前の盛り土を眺めていた。
    「お前は、ここには何度か来ているのか?」
     低く放った問いかけに、長次郎は目を据えたまま「今日で三度目です」と明瞭に答えた。
    「もっとも、本当は来ない方が作兵衛のためなんでしょうけど、居ても立っても居られなくて」
     続けられた声は自嘲の色を帯びていた。自分なんかがいくら手を合わせたところで、永遠の旅路に出てしまった死人は恨みも許しも語らぬまま黙するのみ。弔いと名のついたこの行為は自身への気休めの他には何の意味も持たないと悔いるように拳を握りしめた長次郎に、雨緒紀は胸の中に何とも言えない虚無感が広がるのを感じた。
    「お前は、私の顔など見たくないだろう」
     言ってしまってから、何故自分はこんな言い方しかできないのだろうと内心で吐き捨てる。しかし放たれた言葉は率直な問いかけだった。もし長次郎が王途川雨緒紀という人間を信じていたのなら、その人間に汚れ仕事をするよう仕向けられて何も感じないはずもない。血の通った人間なのだから、きっと思うところはあるはずだ。例えば、作兵衛がずっと抱いていた……憎悪という、相手への負の執着を。
     考えながら、雨緒紀は答えを待った。しばらくして長次郎は、いいえ、と首を横に振って見せた。
    「此度の件は、仕方のないことでした」
     こちらを一直線に向いた目に、もう怯えはなかった。唇を引き結び、凛然とした顔をした長次郎は、雨緒紀だけでなく自分にも言い聞かせるように、決然と言い放つ。
    「作兵衛が元柳斎殿に害をなそうとしたことは紛れもない事実。それを看過するなどできるはずもありません。遅かれ早かれ、誰かがやらなければならないことだったでしょう」
     割り切ったというよりは、受け入れたという口ぶりに、雨緒紀の脳内にただ一言「何故」という疑問が浮かび上がった。
    「お前にあえて汚れ仕事をやらせたのは私だ。渦楽を嵌めるように仕向け、動かし、そうして追い詰めたのだ。何も思わないわけではないだろう」
    「王途川殿は、私を立派な右腕にしようとしてくださっているのです。今の私に足りないものを、必要なものを教えてくださる……そしてそれを受け取る選択をしたのは他ならぬ私自身。私が自らの意思で選び、行ったことなのです」
     選択をした。それは本当にそうなのだろうか。乃武綱が言っていたように、長次郎自身が道を選んだと思い込んでいただけで、実際はそう進むように追い詰めたのは自分なのかもしれない。次々と這い上がってくる不穏に思考回路が汚染されかけた時、雨緒紀は長次郎の目の底に清冽な光が閃いたのを見た。それは若者の滾りと呼ぶにはあまりにも切迫した輝き。事件を忘れ去るわけでも、なかったことにするわけでもなく、ただ起こってしまった過去を抱えて生きていく人間の、覚悟が滲んだ瞳だった。
    「だから、いつまでもふさぎ込んでいるわけにはいきません。前を向いて……自らの足りぬ部分を補うため、精進せねば」
     立ち上がった長次郎の横顔を見つめながら、雨緒紀は口の中に苦いものが広がるのを感じた。私を恨むと言ってくれたなら、どっちつかずの心はどれだけ救われただろうか。あの溌剌とした声を刃に変えて一生許さないと罵ってくれたならば、私は迷いなど持たずに生きてゆけるのに、と。
     この青年がそんなことをするはずがないというのに、そう思わずにはいられなかった。
    「……そうか、ならばいい」
     思ってもいない言葉を口にするのはこれで何度目だろうか。今日何度目かの自己嫌悪の渦に嵌り込もうとした時、長次郎が心もとなげに墓の周りを見回すのが見えた。先ほどまでの透徹さとは打って変った戸惑いが伝わってきたために思わず「どうした」と尋ねれば、長次郎はいえ、あのと口ごもりながら言う。
    「王途川殿、作兵衛の墓……来た時からこうでしたか?」
    「ああ、何もいじっていないぞ」
     すると長次郎は、顔に明確な困惑を乗せたまま顎に手を当て、何かを逡巡するそぶりをみせる。何かあったのか? 作兵衛の墓も、その隣の権兵衛の墓も獣に荒らされているわけでもないし、悪戯の類がされた形跡もない。もっとも、今日はじめてこの場所を訪れた雨緒紀には何がどう変化したかなど判断のしようがなく、「どうした」と訊くことしかできなかった。「いえ、なんでもありません」取り繕うように返って来た声。長次郎の青白くなった顔と相まって、雨緒紀は釈然としないものを感じた。
     不審が顔に出ていたのだろう。長次郎はこちらを一瞥するとあらたまったように背を伸ばし、わざとらしく口の端を上げ、ぎこちない笑みを貼り付けた。
    「私はもう少しここにいようと思います。王途川殿は先に戻っていてください」
     雨緒紀をこの場所から遠ざけたいという意図が透けて見える言葉に、散らばっていた疑念が頭の中で色濃くなっていくのを知覚する。すっきりとしない心持ちだった。だがそれ以上踏み込むことはせず、雨緒紀は物分かりのよい大人の顔で「分かった」と答えると、山を下りるべく墓に背を向けた。
     すると、数歩歩いたところで思い出したように名前を呼ばれ、再び振り向くこととなる。
    「……私がここに来ていること、他の方には言わないでください」
     予想もしていなかった頼みごとに、雨緒紀は何と言っていいのかわからなくなり、目をしばたかせることしかできなかった。が、こちらを射抜く必死な視線で現実に立ち返ると、平静を装って答える。
    「お前の行動を咎める人間などいない」
     知ったところで元柳斎も、乃武綱も、他の隊長たちも、長次郎がここに来ていることに関してとやかく言うことはない。だからこそこそと人目を避けるのではなく、もっと堂々としていればいいではないか。長次郎に向ける目にそんな訴えを込めた雨緒紀だったが、相手が恐れているのはどうやらお咎めではないようだ。
    「いいえ、元柳斎殿の右腕が始末した人間を気にかけているなど、許されることではありません。お願いです」
     絞り出される懇願からは、自分よりも元柳斎の立場を重んじるという意思があった。なるほど、長次郎らしい考え方だ。一人納得した雨緒紀は頷きながら「分かった」とはっきり言葉にすると、今度こそその場所を後にした。
     辺りには染み入るような澄んだ静寂が漂っていた。歩くたびに枯れ葉や小枝を踏む感触が足の裏から伝わり、乾いた音がやけに大きく響く。一歩一歩、足を動かすたびに耳へと届くその音は空疎となった胸へと落ち、最奥で疼くかさぶたを包み込むようにやわらかく降り積もってゆく。
     このやり場のない虚しさを、どうすれば晴らすことができる。苛立ちにも似た焦燥感に煽られ、無意識に早足となっていた雨緒紀は地面を蹴とばすように荒々しく踏み鳴らすと、逃げるように山を出る。ここに来るんじゃなかった。変な義務感に背中を押されて来たところで自分の不甲斐なさを掘り下げ、惨めな気持ちを再確認しただけで何も変わらなかったではないか。俯き、不作の大地に目を落としてぎりと奥歯を噛み締めたところでうなじに誰かの視線が刺さるのを感じ、雨緒紀は周囲に神経を張り巡らせた。
     立ち止まって見ると、少しばかり離れた民家に人の影があった。男が数人、格子窓からこちらをじっと見ているのだ。山に入る人間がそんなに珍しいのか。そんな疑問を抱いた雨緒紀だったが、自分の足を見て答えはすぐに見つかった。
     足袋に草鞋は、履くものはおろか着るものすらもろくに手に入らない流魂街の下層地区では、身に着けているものはほとんどいない代物だ。加えて今の雨緒紀は死覇装に斬魄刀といういでたち。恰好からして死神だと喧伝しているようなものだ。目立つのは無理もない。
     それにしても、嫌な視線だった。話し掛けてくるわけでも、物を投げてくるわけでもなく。ただじっと絡みつくような視線を受けるだけというのは、これほどまでに気分の悪いものか。うっとおしさを通り越して不快を感じた雨緒紀は、自分の一挙手一投足を探るような男たちの目の届かぬ場所まで離れようと、瞬歩を使って北流魂街七十五区から抜け出した。

      *

     一人になった長次郎は目を凝らして渦楽親子の墓の周辺をぐるりと見回すと、次には背後に伸びるクヌギの木の根元に視線をやる。時折重なった枯れ葉を払いのけながら目的の物を探したものの、指先に触れるのはひやりと湿った土とかさついた葉っぱのみ。どくり、と心臓が一つ大きく鳴ったのをきっかけに着流しの下の毛穴という毛穴が広がり、汗が噴き出るのを感じた。
    「ない……作兵衛の斬魄刀が……!」
     見つからないという事実をようやく現実のものとして認識できた時、長次郎の思考に浮かんだのは失態という、自らの迂闊さを恥じる文字だった。あの時――作兵衛を葬った時に、せめて最後までともにあった斬魄刀だけは傍にという思いから回収しなかったものの、いくら山中とは言え不用心だったと今更ながら後悔した。持ち主でなければ本来の力を発揮しないとはいえ、刀は刀。治安の悪い下層地区では何が起こるか分からない。質屋に持ち込まれて金になるならばまだ良い方で、最悪の場合犯罪の手段となってしまう可能性も考えられる。
     早く見つけなければ。でもどこに? 当てがないものの気持ちだけが逸り、動いていなければ気が済まないとばかりに落ち着かなくなった長次郎は、急ぎ山を下りようと自分が来た方角を見た。
     すると、その目が遠くで動くいくつかの人影を捉え、足が止まった。数えてみると人影は四つ。男のようだ。こちらを目指す足取りを不思議に思うよりも先に、首筋に走った戦慄に自分の足から力が抜けてゆくのが分かると、長次郎は男たちが歩み寄って来るのを待っていることしかできなかった。
    「兄ちゃん、権兵衛さんの知り合いかい?」
     前にいた男がおもむろに口を開いた。頬から顎の出っ張りが印象的な四角い顔の男だった。答えに窮していると「そこ、権兵衛さんの墓だよな」という声が続き、長次郎は「え、ええ」とだけ答えた。
     もしかすると権兵衛の仲間か? そう考えながら男たち一人一人の顔を見る。最初に声を掛けてきた四角い顔の男の隣にはずんぐりと太った丸顔の男が立っており、にっと開いた口には上の前歯がなかった。その後ろにいるのは右目が潰れてとりわけ人相の悪い男と自信なげに目を泳がす男という対称的な二人で、いかにも弱気そうな男は仕方なくついてきたという感じがした。弱気な男以外の三人が向けてくる目には人が怪しい人間を見つけた時に見せる警戒感がありありと浮かんでおり、長次郎のほうも自分の顔に怪訝さと困惑が滲むのが分かった。
     長次郎の顔を見た四角顔の男が言う。
    「兄ちゃんみたいな若くてきれいな人間が、こんなところにいるのが不思議でね。山から出てきた髪の長い兄ちゃんは死神だろ。身なりが死神のものだったから」
    「死神って言うなら、権兵衛さんの倅を知らないかい? 作兵衛っていう子なんだけど。なんでもあの子の父親を殺した男が死神だから、仇討ちのために死神になるって言ってこの地区を出たんだ」
     前歯がないせいで話しづらいのか、丸顔の男がたどたどしく話を続ける。不明瞭な響きだったが、その内容は長次郎の心臓を大きく鳴らすには十分なものだった。自分の後ろでただじっとやりとりを見つめているそれの存在に背筋が凍る気分となった。
     ──作兵衛の墓は、確かにそこにある。
    「なあ、作兵衛は知らないかい?」
     腕を組んだ男は長次郎の心中を読み取ったかのように断定的な口調で畳みかけてくる。わずかに細められた目が知っているんだろ? と言っているように思え、その無言の圧力になすすべもない長次郎は、震える足を何とか奮い立たせているといった感じで相手を見つめることしかできなかった。作兵衛は、死にました。私が殺しました。喉元で停滞している言葉を、口内に溜まった唾液とともに無理矢理飲み干したその時、男たちの後ろで静観していた右目が潰れた男が一歩前へ進み出て、口を開いた。
    「兄ちゃんも死神かい?」
    「何故……」
     言いかけたところで男の視線が自分の足元に注がれていることに気付き、長次郎も下を見る。自分の足と、男たちの足がいっぺんに目に入ったところではっとした。
    「この辺で足袋を履いて草鞋を使う人間なんていないんだよ……そんなもの、手に入らないから。そういったものを使えるのは上層地区の人間か、死神……しかし育ちはいい連中がこんな辺鄙な場所まで来ない……と考えると、死神しかない。さっきの兄ちゃんの仲間だな?」
     距離を詰めた男は顔を近づけ、残された左目だけで長次郎の目を覗き込んだ。欺瞞と悪意、そして苛酷さ。文字通り泥水を啜って生きてきた人間が見せる闇色の瞳に、鈍い光が閃いたかと思うと、男は自分の背中に手をやり、隠し持っていたものを突き出した。
    「それは、作兵衛の斬魄刀……!」
     思わず声を上げた長次郎だったが、それを失言だと認識したのは言ってしまった直後のことだった。「やっぱり死神か……作兵衛はどこだ」昂った獣の唸りを思わせる低い声に追い詰められ、逃げ道がなくなったのを感じたが、体は思うように動いてくれない。
    「分かりやすく聞いてやるよ……権兵衛さんの隣の盛り土、墓だろ。この刀が置いてあったんだが……誰の墓だ?」
     作兵衛を牢から逃がしたこと、自らの手で始末したこと、そしてその亡骸を葬ったこと。このひと月の間、夜を迎えるたびに向き合ってきたあの日の記憶が走馬灯のごとく脳裏に駆け巡り、思考の限界を超えた長次郎は大声で叫び出したくなった。信義と罪悪、その両方に苛まれ疲弊した精神には、男たちの詰問は確かな痛みとなって臓腑の奥へと差し込まれてゆく。
     どうすればいい。震える唇を引き結んで考えを巡らせていると背中に鋭い殺意を感じ、反射的に顔を向けようとする。しかしこちらが動くよりも脳天に振り下ろされた衝撃の方が早かった。長次郎は揺さぶられるという表現そのままの、頭蓋に響く嫌な振動に耐え切れず地面に倒れ込んだ。
     何が起きた? 状況を判断しようと首を動かそうとするが、真っ暗になった視界は使いものにならなかった。かろうじて機能している聴覚が真横をすり抜ける足音を捉える。もう一人仲間がいたのか? だとすれば、その気配に気付けなかった自分はとんだ笑いものだ。護廷十三隊の総隊長の右腕たる人間が、こんなにあっさりと地に伏すなんて……。
     「連れていけ」という声を最後に、長次郎の意識は深い所へ落ちてゆく。

      2

     淡く色づいていた空が、一層濃い夜色に染まりきった頃のことだった。平素ならば一日を終えて眠りに向かうはずの瀞霊廷も今日は穏やかさを失い、ぴりと緊迫した空気が肌に触れるのを感じた。まるで戦闘時だ。けれども敵のいない今の状況は見えない何かに翻弄されていることによる未知への恐怖と表現した方が正しいのかもしれない。そんなことを思いながら一番隊舎を出た卯ノ花は、門の手前で厳然と立ち続ける人影に近寄った。
    「あの子はまだ戻らないのですか」
     静かに声を掛ければ、〝一〟の文字が書かれた隊長羽織が頭だけ動かしてこちらを向いた。元柳斎は緩く首を横に振る。
    「いくらなんでも遅すぎる。長次郎が日没までに戻らぬことなど今までなかった」
    「何かあったとしか考えられませんね」
     視線を前方に引き戻した元柳斎は、神妙な面持ちを保ったまま滞留する闇を睨みつけている。一般隊士が見れば普段と変わらぬ峻厳な佇まいだが、眉の下の双眸に未だ戻らぬ右腕への憂慮を見て取った卯ノ花は、気を抜けば悪い方向へと転がりかねない思考を紛らわせるため「長次郎の行き先に心当たりは」と訊いた。「ない」腹の底に響く声が、間髪を入れずに返ってくる。
    「あやつは遊び歩くような人間でもないし、一体何をやっておるのだ」
     そこまで言って長い溜息を吐いた時、外から複数の足音が聞こえ、二人はそちらを見た。
     小走りで門をくぐってきたのは乃武綱と弾児郎だった。その後ろに知霧と金勒、不老不死、有嬪が続き、最後に雨緒紀が入ってくるのが見える。どの顔にも何が起こっているのか分からない不安と、事態の究明を求める真剣さを見た卯ノ花は、元柳斎の前に立ちふさがった長躯を見た。先頭にいた乃武綱は、まくしたてるという表現そのままにせき切った声を上げた。
    「長次郎が帰って来ないだと?」
     元柳斎が一度頷くと、乃武綱は焦りを隠しもせず「あいつ、今日非番だったんだろ? 行き先は?」と尋ねて来た。「分からぬ」と答えた声に、乃武綱の顔は苦々しいものに変化する。
    「山本の旦那にも行き先を告げないなんて、どこに……」
     知霧が独り言のように零した声が聞こえると、途端に雰囲気が重くなる。それぞれが裡に秘していた動揺が表出された結果空気を伝播し、広がっていくようだった。これは良くない。自然と眉間の皺が深くなった卯ノ花は、同じく硬い表情の元柳斎を一瞥すると、次には他の隊長たちの顔を見回した。
     その視線が一番後ろに立っていた雨緒紀で留まる。そういえば、と思い出した卯ノ花は、
    「王途川殿、あなたは今日流魂街の方で任務だったのでしょう? どこかで長次郎を見ていませんか?」
     考えるよりも先に声が出ていた。卯ノ花のよく通る声に他の面々が一斉に振り向き、雨緒紀を見る。顔を上げた雨緒紀は自分に向けられた視線に瞠目して見せると低く「いや、見ていない」とだけ返し、目を逸らしてしまった。何故か釈然としない。この違和感は、一体……疑念が卯ノ花の中で明確な形になろうとした瞬間「儂、近くを探しに行ってくる!」という決然とした声が耳に飛び込み、考えは霧散してしまった。不老不死の声だ。踵を返そうとした不老不死を追うように、「俺も」と乃武綱も足を踏み出す。
     しかしその勢いは、すぐに挫かれることとなる。
    「待てって。どこに行ったかもわからねえんだろ?やみくもに探しても無駄足踏むだけだ」
     有嬪の声に動きを止めた二人は、納得できない様子で顔を見合わせる。「でも、もしあいつに何かあったら」乃武綱の言葉は不老不死の心情の代弁でもあったのだろう。不老不死が固唾を飲んで見つめているのを確かめた有嬪は、その不安を少しでも払拭しようと、努めて穏やかな声を作った。
    「だとしても、だ。もうすっかり日も落ちて辺りは真っ暗闇。千日みてえに慣れた人間じゃないと今度は俺たちが危険だ。日が昇るまで待て」
    「そんな悠長なこと言ってられるか! 俺は探しに行く!」
    「行くなと言っているのが分からないのか」
     有嬪の言葉を遮るように叫んだ乃武綱が身を翻したが、今度は鋭い声が放たれ、薄い背中に突き刺さった。あからさまに神経を逆なでする言い方が癇に障ったのか、振り返った乃武綱の顔には不快が滲み、薄い唇の向こうでは折れんばかりに歯を食いしばっているのが見えた。
     悠然と歩み寄った雨緒紀は乃武綱を冷たくねめつけると、追い打ちとばかりに言葉を重ねる。
    「善定寺の言う通りだ。夜目の訊く四楓院ならばまだしも、慣れていないお前が行ってどうする。迷って余計な手間を増やすのが関の山だ」
    「なんだと……!」
     苛立ちを爆発させた乃武綱は、目の奥に殺意を閃かせると掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出し、雨緒紀に詰め寄った。一発触発。一瞬でひっくり返った場の空気にそんな言葉が浮かんだ刹那、それまで状況を見守っていた弾児郎が慌てながら二人の間に割り込んだ。
    「雨緒紀、そんな言い方するなって。乃武綱も。ここは下手に動くよりも朝まで待とうぜ。長次郎のことだから、そのうちひょっこり戻ってくるかもよ」
     な? となだめながら愛想笑いを向けられると、乃武綱はむき出しにしていた憤怒を引っ込め、握っていた拳から力を抜いた。だが腹の底まで冷静になったわけではなく、その顔には燻っている不満がありありと浮かんでいた。
    「……齋藤、任務に出られるよう支度をしておけ」
     そんな乃武綱を横目に、今度は金勒が声を落とす。突然名前を呼ばれた不老不死は「えっ?」と頓狂な声とともに顔を上げ、相手を見返す。
    「明け方まで待つ。もし長次郎が戻らないようならば現世で任務中の四楓院をこちらに戻し、捜索に当たらせる。その場合は代わりを六番隊に頼みたい。だから……」
     なるほど、二番隊と六番隊を入れ替わらせるつもりか。今回の現世任務は街中に発生した虚退治と聞く。たまたま予定が空いていた二番隊に白羽の矢が立っただけであって、六番隊が変わることには何の問題もない。現世任務を中断することなく、なおかつ捜索に長ける千日を迅速に戻すための最適解を滞りなくはじき出した金勒に関心しながら、卯ノ花は不老不死を見た。
    「分かった、任せろ」
     失われていた平静さを取り戻した不老不死は、見開いた右目をまっすぐに金勒に向けていた。硝子を思わせる澄んだ瞳は、与えられた使命を全力で全うするという滾りで燦然と輝いていた。その光に眼鏡の向こうの目の鋭さを少しだけ緩めた金勒は、押し黙ったままの元柳斎の横顔に向かって「山本、いいな」と投げかける。元柳斎から異論はなかった。
     今はただ、長い夜が明けるのを待つしかない。競り上がるもどかしさを喉の奥に呑み込んだ卯ノ花は、自分の隊舎に戻ってゆく面々の背中を見送ると肺の中の不穏さを抜くようにふうと小さく息を吐く。
     もとの静謐さを取り戻した一番隊舎はついさっきまでの騒ぎをものともせず闇に聳え、こちらを見下ろしている。漆喰の壁に穿たれた窓のいくつかからはひっそりとした燭台の明かりが漏れ出て、未だ幾人もの隊士が活動をしていることを示している。しかしそれもあと少しのことで、隊士たちは決められた時間になれば自室に戻り、眠りにつくのだろう。
     それでもこの男は眠らないだろう。眠れないと言った方がいいか。足元に目を落とす元柳斎に視線を移した卯ノ花は、その心情を乱さない程度の柔らかな声色で、ずっと気になっていたことを尋ねた。
    「あの子は……長次郎はあれからどうですか?」
     『あれ』が何を示すのか、元柳斎はすぐに分かったようだ。
    「どうもせぬ。相変わらず儂の後を付いて回って……何事もなかったかのように振る舞っておる」
     ひと月前のできごとを顧みたのか、その目が遠くを眺めるように細められる。そうして何度か瞬きをし、思いつめた様子で手元に視線を落とすそのさまは総隊長としての威厳とは程遠いもので、例えるなら子の帰りを待つ父親の姿とよく似ていると思った。自分にはなにもできないという無力感に苛まれ、途方に暮れる父親が生み出す、虚無的なまなざし。陰鬱な思考に炙られ、闇へと引きずり込まれた思考が紡ぐ底なしの嘆きに、卯ノ花は静かに耳を傾けている。
    「長次郎が儂へと抱く忠義はゆるぎない。そして真っすぐじゃ。儂自身もそれが分かっているからこそ、もどかしい。いっそ恨みでも向けてくれれば良いものを……」
    「長次郎があなたを恨むことなどあり得ませんよ」
    「分かっておる。分かっておるのだが……」
     元柳斎は下ろしていた手をそっと持ち上げると、指先で十字の傷を撫でた。
    「……ノ字斎と呼ばれていた頃に比べて、随分と腑向けたものじゃ」
    「腑抜けたのではありません。大切なものができたということでしょう。それを失いたくないという気持ちも……」
     元柳斎は変わった。出会った頃の、猛る獣を思わせる苛烈さと荒々しさは精悍な体の下にひた隠し、上に立つ物の厳格さを纏うようになったのはいつからだろうか。目の奥に赫々と燃える炎は、今やこの世界を焼き尽くすためではなく護るために在るということも、卯ノ花は知っている。
    「心配せずとも、長次郎は無事ですよ」
    「……何故言い切れる」
    「あの子のしつこさはあなたが一番理解しているでしょう? 何度追い払われてもあなたの右腕になりたいと付き纏ってきた長次郎のことです。きっとあなたのもとへ帰ってきます」
     長次郎が元字塾に入り浸るようになった時のことを思い出したのだろうか。こちらを見た元柳斎はこわばっていた頬を弛緩させ、口の端を上げると、ふっと短く息を吐いた。笑ったのだ。その顔からはもう自らを押しつぶさんとばかりに膨張していた不安は跡形もなく消えており、あるのは長次郎の無事を一心に信じる主の顔だけだった。
    「……戻ってきたら真っ先に叱りつけてやる」
     子どもの負け惜しみの響きをした言葉が、耳に流れ込む。
    「きっと喜びますよ、あの子」
     長次郎が目を輝かせて元柳斎の説教を聞く姿を思い浮かべ、卯ノ花は小さく声を上げて笑った。

      *

     一番隊舎から離れて一人になった雨緒紀は、敷地を囲繞する塀に右肩を預けると、雲に隠れた月が放つ、光と呼ぶには頼りない光を受けて闇に映える白壁に目を据える。
     間違いない、長次郎は北流魂街七十五区で消息を絶った。その確信があったものの、だからといって千日のように夜目が利くわけでもない今の自分にできることはないという諦めのような思いもあった。長次郎との約束を守るとは言え、他の隊長の前で偽りを述べてしまったことも引っかかっている。少しの糸のよれが二度とほどけない複雑な絡みになるような、後戻りのできない状況に自ら嵌っていく感覚に鬱屈としていると背後から名前を呼ばれ、雨緒紀は意識を現実に引き戻す。
     呼んだのは有嬪だった。有嬪はにいっと笑いながら軽く手を振ると、もたれかかっていた塀から身を離した雨緒紀に歩み寄って来た。
    「乃武綱を引き留めてくれて助かったぜ。あいつ、あのまま飛び出しちまったら長次郎を見つけるまで走り続けるぜ」
    「あいつは長次郎がからむと途端にうるさくなる……全く、あれで本当に隊長が務まるのか」
     そうは言ったもの、一方では乃武綱がいなければどうなっていたか分からないと考える自分もいる。乃武綱が飛び出さなければ元柳斎自ら長次郎の捜索に出てしまうおそれもあったし、そうなれば立場的にも実力的にも止めることのできる人間などいない。金勒が現世から千日を戻す判断をしたのも事の重大さよりも乃武綱の行動を受けてそう進めざるを得なかった、とも取れる。思いに打たれたと言うといささか買い被り過ぎるとは思うが、それでも乃武綱は、あの悪辣然とした顔の下に人を動かす何かを持っている……。
    「でもそんな無鉄砲に助けられることもあるじゃねえか」
     有嬪の指摘に、頭の隅で確かに、と呟く声を聞いた。打ち消すように軽く頭を振り「それは認める……認めたくないが」と呟いた声は、言葉とは裏腹に不満げなものになっていた。
     すると上からししし、と歯列から息を漏らす笑い声が聞こえる。見ると有嬪の目は、雨緒紀の心を覗き、見透かしているように愉悦に細められている。なにがおかしい。視線に込めて返すと、有嬪は腕を組み、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。
    「おめえ、そんな生き方だと疲れるだろ」
    「そんなことはない」
    「強がっちまって。おめえも素直に長次郎が心配だって言えば、そんなに苦しむことはねえと思うぜ?」
     雨緒紀の隠していた部分を引きずり出そうとするその言葉に、動揺よりも先に拒絶が膨れ上がっていった。これ以上踏み込んでくるな。そう思った雨緒紀は「苦しんでいない」とだけ短く返すと、もう話は終わりだと言わんばかりに踵を返し、部屋に戻ろうとする。だが有嬪は、引き留める言葉を口にすることなく、逆に雨緒紀の心情にあえて気付かぬふりをしているような明るい調子で言い放った。
    「この間の……渦楽だっけ? あの隊士の一件の後もそうだ。自分じゃ気付いていなかったみてえだけど、おめえ、長次郎を見かけるたびに泣きそうな顔をしてたじゃんか。雨緒紀、責任みたいなもんを感じてたんじゃねえのか……取り返しのつかないことをしちまったって」
     声の軽快さに反して、内容は瞬時に重さを増して腹の底へと沈んでいく。変わらぬ日常を送る長次郎を目にするたびに胸を締め付けたもの――裡で氾濫した痛みが、雨緒紀自身の怜悧さすらも流し去って感情を支配したことは自分でも分かっていた。渦楽作兵衛の始末も、それを長次郎の手で行うことも組織を動かすための常道であるはずなのに、一体何を苦悩しているのだろう……。「私は、間違っていたのか?」背を向けたまま放った声は、雨緒紀の苦悩を顕著に表しているものだった。
    「長次郎に渦楽を始末させたことか?」
    「そうだ。長次郎にやらせることは……いや、そもそも渦楽を生かすという道もあったのではないかと思ったのだ。もしかすれば、時間とともに考え方も変わって、まっとうな死神として生きる未来もあった……それを奪ってしまったこと自体が、私の罪だったのではないかと……」
    「もし渦楽がうちの隊だったら即座に始末してたぜ、俺は。裏切りってのはな、周りの人間がそいつに向けていた思い――期待とか、思慕とか、憧れとか、そういった全てを踏みにじる行為だ。裏切られた方だって一生苦しむことになる。
     なによりな、裏切り者が一人いるだけで、不信感っていうものはあっという間に周りに広がる。そうするとどうなるか? 組織というものにまとまりがなくなる。それはおめえも危惧してたことだろ?」
     雨緒紀が振り向いて見ると、有嬪は相変わらずの笑みを浮かべていた。その視線には優しさとぬくもりが込められており、闇に同化しそうだった雨緒紀の心をやわらかく抱きしめる。その熱を知っていた。それは有嬪だけでなく弾児郎や乃武綱、卯ノ花が自分を見る時に宿していたものと同じ熱だった。どんなに拒絶されても諦めることなく自分を見守って来た男の、目の奥に揺らめく淡い光がお前は間違っていないと言ったように聞こえた雨緒紀は、それまで燻っていた迷いを頭の端へと追いやる。
    「……裏切り者は生かしてはいけない。それは生きて来た中で痛いほど思い知らされた」
     決然と言った雨緒紀は、それでも晴れない胸中のもやを吐き出すべく、言葉を続ける。
    「だがあの時の長次郎の顔を見た時……私の中の何かが揺らいだ。長次郎が傷つくことは予想していたし、この先ずっと恨まれる覚悟もできていた。なのに……」
    「想像と実際は案外遠いもんだぜ。雨緒紀自身が気付かねえ部分で、他人を大事に思ってたってことだ。だから渦楽作兵衛を始末したんだろ。護廷十三隊が崩壊しないように。わざと汚れ役を買ったって言った方がいいか?」
     他人を大事に思っている。それこそが自分が目を背けていた、本当の姿だというのか……。思ってもいなかった言葉に何も言えなくなった雨緒紀は、唇を真一文字に結んだ。絶対の孤独と冷徹さ。その二つを併せ持っていると思っていた人間の、張り詰めていた輪郭が形を失って崩れてゆく。卑屈な自分、汚れを被っていた自分、偽りの姿を演じていた自分……その一つ一つが剥離して赤子のような脆弱な精神が剥き出しになりそうになったところで恐怖を感じ、雨緒紀は息を飲む。
     こんなことでどうする。憎まれることも、疎まれることも慣れている。だから、恐れることはない。恐れることはないはずなのに、自分というものと向き合った今、こんなにも心は波立っている……。
    「不器用すぎんだよ、おめえは。もっと周りを信じてみろよ」
     正面から歩んできた有嬪は雨緒紀の真横で止まると、肩にそっと手を置いた。分厚い手の重みがやけに心地よい。壁のように立つ巨躯を仰ぎ見ると、にやりと笑った有嬪は肩から手を離し、今度は雨緒紀の眉間を人差し指で押した。情けなく眉が下がっていたせいで皺が寄っていたと気付いたのは、指先が離れた後だった。
    「ここは一人きりで生きるにはちっとばかし騒がしい場所だ。腹割って話せるようになったほうが楽だぜ?」
     最後にもう一度目を合わせた有嬪は雨緒紀の脇を通って自分の隊舎の方へと去ってしまった。ようやく一人になった雨緒紀だが、有嬪の草履が地面を擦る音が遠ざかり、聞こえなくなっても、揺らいだ胸をどうすることもできず、その場に立ち尽くしたままだった。

    《続く》
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    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+弾児郎、源志郎
    「この拳が護るもの」③
    ※弾児郎の物語。
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※途中残虐・流血表現あり。
    この拳が護るもの③  4


     鉛のような空気に、有嬪の声が響く。深刻な面持ちで耳を傾ける隊長たちを順に見やった長次郎は、次には元柳斎の向こう隣、先ほどは座る者がいた場所へと視線を移すと、胸の辺りがじんと重くなるのを感じた。
     本日二度目となった全隊長の招集。集まった顔ぶれの中に、しかし先の当事者であったはずの源志郎の姿はない。元柳斎が自室に下がらせたのだ。
     長次郎は虚の襲撃後の源志郎を思い出す。茫然自失として佇んでいた源志郎の手には使われることのなかった斬魄刀が握られ、肝心なところで身が竦んでしまった未熟者を悔やむように、あるいは嘲るように、だらりと下がったまま揺れていた。
     戦う者であれば一度は経験したことのある、〝恐怖〟という洗礼だった。恐怖は常に人間のそばで息を潜めている。そうしていつの間にか背後から両の手を伸ばして目隠しをし、思考も、理性も、努力も、知識も、全てを無へと変貌させる、まさに魔的な存在……。その冷たさに、源志郎は身動きが取れなくなってしまったのだ。
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