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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+雨緒紀……他
    「痛みと慈しみ」⑤(終)
    ※雨緒紀の物語・完結編
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に描きました。
    ※名前付きのモブ有。
    ※途中流血・暴力描写あり。

    痛みと慈しみ⑤(終)  6

     流魂街で刀傷沙汰は避けるべきか。憎々しげに細められた目を見据えながら、雨緒紀は考える。亀之助を人質に取っているせいか市六たちが行動を起こすことはなく、一定の距離を保ちながらこちらを睨みつけてくるのみ。だがその全身から染み出すように放たれる殺気は、男たちの裡で燻るじれったさの表れであり、ぴりとした緊迫感を肌で感じながら雨緒紀は神経を研ぎ澄ましていた。
     少しの間そうしていたが、やがて痺れを切らした四角顔が吠えた。
    「卑怯だぞ!」
     なんとも子どもじみた台詞を、雨緒紀は鼻で笑って跳ね除ける。
    「お前たちに言われたくはない。さあ、長次郎を連れてくるのか? それとも、ここで斬られるか?」
     言いながら更に刃を押し付けると、亀之助はか細い声をあげながら体をこわばらせた。自らの命の手綱が他人に握られているという、絶対的な状況に愕然とし、恐怖のあまり混乱しているのか、脳の指令とは無関係に体を小刻みに震わせている。ねじり上げた腕から伝わってくる震えを押し込めようと指先に力を込めた時だった。痛みに呻いた亀之助が泣き言とばかりに漏らした声を聞いたのは。
    「……やっぱり、手を出すべきじゃなかったんだ」
     睨み合うことで保たれる均衡の中に落ちた声は、硬質な空気を伝播して周囲に広がってゆく。
    「山本重國は……死神は、人の命などなんとも思っちゃいねえんだ。俺たちなんていとも簡単に消されちまう……」
    「……護廷十三隊が何故十三もの部隊があるか知っているか」
     命を奪う機会はそれこそ数えきれないほどあったから泣き言は聞き慣れているし、一部では未だ死神への鬱屈が蔓延っていることも承知している。だから何を言われても聞き流すことができると思っていたはずだが、元柳斎の名前が出た途端、その心持ちは崩れた。
     権兵衛の件もそうだ。雨緒紀の関与について告げることなく、作兵衛の憎しみを一身に背負おうとした元柳斎。それは生来の頑固さだけでなく、過ちや罪といった自らの過去と向き合い、たとえ一人になっても守るべきもののため、創るべき未来のために進んでいくという胸の奥の炎の現れではないかと雨緒紀は思う。無数の怨念が生む責め苦に足をすくわれようと、その歩みを止めてはならぬという戒めのもと戦うことより耐えることの方が多い生を選んだ男の生き様を見てきた雨緒紀は、亀之助の言葉に抗おうとする衝動のまま、口を動かし続ける。
    「私たちは、一人の力ではどうにもならないものを護っているからだ。そうでなければあんなに物騒で、自分勝手で、聞きわけのない隊長を十三人も集めないし、山本もまとめ上げようとはしない。山本には、それだけの覚悟がある。自らがどれだけ謗られようと、前に進むという……」
     だからこそ、長次郎はついてゆくのだ。喜びや苦しみ、悲しみといった感情を共にしながら、元柳斎が進む未来をまっすぐに見据えて。作兵衛の墓の前で感じたあの清冽さを呼び起こし、伏せていた目を上げた雨緒紀は「理解できなくてもいい。私たちは千年後の平和のために動いている」と締めた。
    「安心しろ、大人しく長次郎を返してくれれば危害は加えない。さっさと連れてきてくれ」
     自分としては最大限の譲歩のつもりだったが、混乱の最中にある人間にとってはその声色を判別する余裕はないようだ。がちがちと奥歯が鳴る音が聞こえそうなほど狼狽えた亀之助は、こちらを刺激しないようにわずかに頭を動かし、ゆっくりと振り返ると血の気が降りた顔を雨緒紀に見せた。薄く水の膜が張った目を見た瞬間、それまで凪いでいた胸が嫌なざわつきを覚え、雨緒紀の思考は一瞬にして凍り付いた。
     未知の恐怖で見開かれた目は、受け入れ難い死にどうすることもできない人間の悔恨と、救いを求める光に揺れていた。誰もが持つ弱さと、言いようのない悲痛さは冷たい水のように雨緒紀の内部に流れ込み、四肢を巡っていた血液から温度を奪ってゆく。この目を知っている――脳裏に雑木林で作兵衛が浮かべた絶望の瞳と、真っ赤に腫れた長次郎の目が想起され、脳細胞が痺れると、自分はこの男をどうするつもりなのだ? という迷いが浮かんだ。
     ひやりとした怖気が背中を撫でたのは、その時だった。
     その正体を理解するよりも前に左脇腹に走った熱が、止まっていた思考を引き戻した。熱は激痛となって全身を駆け巡り、苦悶の声が漏れ出る。視線を落とすと腹から赤く染まった切っ先が突き出しており、刺されたと理解した瞬間、傷口からすっと力が抜けていき、握っていた斬魄刀が手から離れた。
     刀が地面に落ちる乾いた音が耳朶を打ったが、拾い上げようと思っても体が言うことを聞かなかった。這い上がる痛みをやり過ごそうと浅い呼吸を繰り返し、かろうじてその場に立っていた雨緒紀だったが、刺さっていた刀が勢いよく引き抜かれ、再び激痛に襲われた。
     その場に膝を付き、亀之助が離れていく足音を聞きながら腹を押さえる。どくどくと脈打つたびに噴き出る鮮血が染み出し、手袋を赤く濡らしてゆくのを実感しながら、そこではじめて振り返り、自分を刺した男を見やった。
     そこにいたのは白髪交じりの長髪を後ろでくくった男だった。建物の影に隠れていたのか? 霞がかる思考の中、ぼんやりとそんなことを考えながら男の手元を見ると、握られていたのは見覚えのある刀だった。
    「渦楽作兵衛の、斬魄刀か……」
     じっとりと額に汗の玉を浮かべながら呻いた雨緒紀は、頬の肉を引き攣らせ自嘲の笑みを作った。なんということだ。ひくつく喉の奥から掠れた笑い声が漏れる。感情に流されることを忌避し、変わってはいけないと戒めた自分が逃げた先にあったものが、これだ。今更何かを変えて、そうして前を向いて生きて行こうなど、どだい虫の良い話だったのだ。
     報いというものは死の間際に訪れる。だから巡りに廻った因果が、作兵衛の斬魄刀に集約されて自分に裁きを下したのだ。今までしてきたことの、その報いが……。
     なんと冷たく、寂しい最期だろう。仲間の一人にも看取られず、一人で死んでゆくなど……自分の生は、こんなにもあっけないものなのか……。
     ……ああ、可哀想に。
     体を支配する痛みにぼやけてゆく視界を拒絶するように目を閉じると、白くけぶる瞼の裏にこれから来るであろう千日と有嬪の顔が浮かぶ。あの二人なら大丈夫だろうと安堵の息を吐いたところでどういうわけか乃武綱の顔までも浮かんだ。憎々しげに笑う悪人面に嫌味の一つでも言ってやりたかったが、もうその気力も湧かなかった。そういえばあいつに言い忘れたことがある。だが、言えず仕舞いになりそうだな……。
    「四楓院、善定寺、執行……長次郎を、頼む」
     そう呟き、奈落へと沈んでゆく覚悟を決めた雨緒紀は、ぎゅっと唇を引き結び報いの時を待った。だが、来るはずの痛みはいつまで待っても来なかった。
     ごとり、と真横に何かが落ちた音が飛び込んできて、そっと目を開ける。見るとそこに転がっていたのは人間の首で、何が起こったか分からないといった呆然とした瞳が、雨緒紀の姿を映している。括られた白髪交じりの長髪が地面に流れるのを確かめてようやくその首が自分を刺したあの男のものだと分かった瞬間、今度は体が倒れ込んできて、雨緒紀の意識が強制的に戻された。
     すぐ脇を通った人物を横目で見れば、死覇装の裾から出た枯れ枝の足に、どくりと一つ心臓が鳴った。間違いない、あの男が来たのだ。その男が放つ鉛のような重厚な霊圧が場を圧倒すると、丸顔の男が悲鳴交じりに「なんだ、お前は!」と叫んだ。
    「助っ人ってところだ」
     霜のように降りてきた声が、鼓膜を揺らす。その低い響きに雨緒紀は、殴られた頬が熱を持つのを感じた。


    「雨緒紀、こいつら何者だ?」
     血に濡れた斬魄刀を肩に担いだ乃武綱が、目の前の男たちを睨みつけながら尋ねる。背中から太陽の光を受け、輝くように聳える長躯を見上げた雨緒紀は、脈動する激痛をこらえながら口を開いた。
    「長次郎をさらった連中だ。山本の首を要求してきた」
    「ほう、そうかい。なら遠慮はいらねえな」
     答えた声色には、戦闘本能が花開き、その昂ぶりに浸る時に匂わせる心からの喜悦が滲んでいた。乃武綱が刀身を鋭く閃かせ、切っ先を向けて見せると、顔を青くして固まっていた男たちがじりじりと距離を取ってゆく。その怯えっぷりを鼻で笑うと、今度は死体の手から作兵衛の斬魄刀をもぎ取り、男たちの方へ放り投げてやった。
    「さあて、誰から片付けてやろうか」
     丸腰のままか、刀を取るか。どちらにせよ死は免れない――一様に男たちの胸を占めたであろう恐怖に、最初に抗ったのは丸顔の男だった。乃武綱が放った刀を拾い上げると、歯の根が合わない奥歯を必死に噛み締めながらがむしゃらに腕を動かし、刀を振り回しはじめた。張り裂けそうなほどまで吊り上がった唇の間から見える口内は、前歯が失われているせいかぽっかりと黒い空洞を為しており、喉の奥から聞こえる呻きは獣の唸りのようにも聞こえた。
     しかしその闘争心の使い道は生きるために獲物を捕らえるというよりも、死を免れるため足掻いているものでしかない。魂の刈り取り方を心得る人間の目には、男が振るう刀は児戯にしか見えなかった。真っ向から突っ込んで行った乃武綱は、水平に滑り込んできた刃を自分の刀で受けとめると力づくで上へと弾き上げ、即座に男の懐へと一歩踏み出す。
     宙を舞う刀を目で追っていた丸顔の男だったが、乃武綱から目を離したその一瞬が無防備な隙となってしまった。気付いた時には既に乃武綱が急接近しており、反撃の余地も与えられなかった男は、直後に腹を刺された痛みに背中を仰け反らせ、絶叫を響かせることしかできなかった。
    「これは雨緒紀の分だ」
     言ってから乃武綱は、腹から刀を抜く。血を滴らせながら地面に転がった男が顔中の穴から涙と鼻水、そしてよだれを垂らしながら地獄の亡者の嘆きを思わせる不協和音を喉から絞り出しているのを目の当たりにした市六は、「死神め……やはり俺たちの命なんて塵としか思ってねえのか」と乃武綱を睨みつけた。
    「もし本当にそうだったら、俺も雨緒紀もお前たちをさっさと殺してるさ」
     市六を見返した乃武綱の視線が、男たち一人の一人の目を射抜く。怯えを隠すことのない亀之助と、競り上がる恐怖を必死に押し殺そうとしている四角顔の男、そしてこれだけ血が流れてもなお目の奥に憎悪を宿す市六。その目はかつて作兵衛が抱いていた、生のよすがにもなりうる破滅への道標と同じ色合いをしていた。
     この男の待ち受ける先にあるのは、きっと……。不穏な予感が首をもたげた時、おもむろに乃武綱が口を開いた。
    「俺は優しい死神だから選ばせてやるよ。斬られて死ぬか、それとも尻尾を撒いて無様に逃げるか」
     芋虫のように体を捩る丸顔のを顎でしゃくると、四角顔が乃武綱の前に飛び出し、虫の息になっている男を抱え上げる。しっかりしろ、と声を掛けながら体を起こした男は、そのまま乃武綱にも市六にも目を向けずに踵を返し、のろのろと歩き出す。乃武綱たちが見守る中、おい待て、逃げるのか、と市六が怒声を浴びせるが、男たちはもう振り向くこともせず、町の方へと去ってしまった。
    「いやあ、逃げられちまったなあ」
     そう話す乃武綱の声は、この状況を楽しんでいるような喜色満面の響きをしている。残る市六と亀之助を見るその目がにっと細められたのを肩越しに見た雨緒紀は、瞬間、それまで棒立ちだった亀之助が力なくその場にへたり込むのを視界の端に見た。丸顔の男が残した血溜まりが地面に染みゆくのを凝視するその姿は、腰が抜けて動くことも、何かを言うこともできないといった様子だった。
     そんな亀之助を無視し、乃武綱は市六に向き直る。
    「お前が親玉か? 長次郎をどこへやった」
    「そんなにあのガキが大事か」
    「そりゃあな。あいつはお前たちが嫌っている山本になくてはならない存在だ。こんなところで失うわけにはいかねえんだよ」
     乃武綱が言い切ったところで、市六がそれまで保っていた無表情が一瞬のうちに破綻し、獰悪な笑みが刻まれた。肋骨の下にひた隠しにしていた歓喜を抜くようにくつくつと押し殺した笑い声が聞こえたが、それは喜びと言うにはあまりにも陰惨な色を帯び、乾いた空気の中に溶けてゆく。
    「何がおかしい」
     勝者の嘲笑を思わせる態度が神経に障ったのか、動きを止めた乃武綱が苛立ちを込めながら唸った。訝しげに寄せた眉根を一瞥し、目をかっと見開いた市六は、上がりきった口角をそのままにひたり、と囁くように先を続けた。
    「あのガキの居場所を教えてやるよ……あんまりにも山本の名前を口にするもんだから目障りになって崖から棄ててやった。今頃獣の餌になってるかもな」
     我知らず息を呑んだ雨緒紀は、刺された痛みとは別の締め付けるような心の痛みが、胸の辺りで澱んでいくのを感じた。今にも沈み込みかねない体を何とか持ち直すために首の筋肉を収縮させ、血の気が引いた顔をぐっと引き上げると、目の前で刀を握る乃武綱の手が小刻みに震えているのが見えた。視線を上へと伸ばす。色を失った唇は笑みの形のまま、頬がぴくぴくと動いている。
     爆発寸前の怒りが凝縮してゆくのを肌で感じたその時、雨緒紀は乃武綱の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた気がした。まずい、と思った時には乃武綱の体は動いており、振り上げた刀を閃かせ、風を切る音とともに市六の脳天へと一直線に叩き込もうとしていた。
    「お前ら死神の好きにはさせねえよ!」
     死と引き換えに仇敵へ一矢報いようとしている男の、悪あがきとも取れる魂の咆哮が空気を揺るがす。一気に放出された霊圧の重々しさに背筋がぞわりとした雨緒紀は、咄嗟に「執行……!」と、まともに動かない喉から声を絞り出した。
     もし、乃武綱が自分のために誰かを殺めたと知ったら、長次郎はどんな顔をするのだろう。ひりついた思考の渦の中心で、ふとそんなことを考える。おそらく長次郎は悲しみとも苦しみともつかない顔で乃武綱に謝罪を告げ、そうして何事もなかったように日々を過ごすのだろう。苦悩を誰にも打ち明けることもできず、ただ一人で耐える日々を歩んでいく……。
     暗い想念を頭の隅に漂わせながら成り行きを見守っていた雨緒紀だったが、直後飛び込んできた光景に驚きのあまり呼吸を止めた。
     市六の頭蓋を破壊すると思われてた刀は最後まで振り下ろされることはなく、額の皮に触れるか触れないかの場所で止められていた。時間という概念を断ち切るかのごとく、一瞬世界の全てが凍り付いたように静止した感覚は、千切れんばかりに開かれた市六の左目から涙が溢れ、眼球がぐるりと上を向いたことにより再び動き出す。両手をだらりと下げて立ったまま気を失った市六は、次には全てを失ったとばかりに膝から崩れ落ち、うつ伏せで倒れ込んだ。ぴくりとも反応しない体をじっと見つめていた乃武綱が足で市六をひっくり返し、仰向けにすると、股間の辺りに濃い染みができていた。
    「けっ、なんだよ。口のわりには大したことねえ奴だな」
     つまらないという心情を顔に出し、石でも放る声で吐き捨てると、乃武綱は斬魄刀を鞘へと納める。鍔が鞘に当たる金属音が、おどろおどろしい霊圧が鎮まりつつある場の空気に拡散し、消える。雨緒紀も石になった体を弛緩させると、節々の表面にひびが入ったようにびりりと小さな痛みが走った。
     終わったのか――安堵の息を吐いたところで腹の筋肉が引きつり、傷口から再び痛みが這い上がる。どうやら一人では動けそうにない。思いながら乃武綱に声を掛けようと頭を上げれば、未だその場にへたり込んでいる亀之助が目に入った。
    「お前ら、他に仲間はいるのか?」
     同じように気付いた乃武綱がしゃがみこみ、視線を合わせて問えば、亀之助はぼろぼろと涙を流しながら数度、首を横に振る。
    「護廷十三隊七番隊隊長、執行乃武綱……それが俺の名だ。お前の脳みそにしっかり刻み込んでおけ」
     低く放った声には怒りも苛立ちも込められてはおらず、淡々としたものだった。
    「恨みたいなら俺を恨め。いつでも相手になってやるぜ」
     そう言うと乃武綱は、失禁して倒れている市六を指差すと「ほら、さっさと行け」と促す。その言葉で弾かれたように立ち上がった亀之助は、白藍色の着流しの袖で乱暴に涙を拭うと市六に駆け寄り、その肩をゆする。目を覚まさないと分かると糸の切れた人形さながらの市六の腕を自分の肩に回し、無理矢理立たせると、半ば引きずるようにしながらずるずるとその場から離れていった。
     二人の背中が町の方へと消えてゆくのを見届けたところで、立ち上がった乃武綱がこちらへと振り向いた。片方の口角を上げた笑い方は普段の乃武綱が良くするもので、余裕とも言える様子に思わず「何故あんなことを言った。お前が恨まれるだろう」と言った。
    「恨まれるのは慣れっこだ。あいつらが刀向けて来たらやり返すまで」
    「そうではない。お前一人が恨みを買うような真似をすることはないと言っているんだ」
    「お前だってこの間、長次郎のことで嫌な役を買って出てたじゃねえか。それと何が違う」
     間髪を入れずに返って来た言葉が鋭く思考に差し込まれ、はっとした雨緒紀は呆然と乃武綱を見た。そうだ、確かにこの男は自分と同じことをしただけ。けれども何故だろう……こうも胸を掻き毟りたい衝動に駆られるのは。やるせなさに押しつぶされそうになったところを溜息でやり過ごし、心を落ち着けてようやく「お前と一緒にするな」と答えると、乃武綱は鼻で笑った。
    「一緒だろ。そんなことより、お前どうした。あんな雑魚にやられるようなたまじゃねえだろ? 作兵衛の時のお前は……」
     そこで何かに思い至った乃武綱の笑みが凍り付く。「躊躇ったのか?」おそるおそる尋ねる声にいたたまれなくなった雨緒紀は、それ以上目を合わせ続けることができず、地面の一点を見つめることしかできなかった。
    「あの男の目を見たら、いろいろ思い出してな、動けなくなった。無様だな……」
    「なにもこんな時に躊躇うことないだろ。雑魚相手に死にかけるなんて、馬鹿じゃねえか」
     その声に、今度こそ返す言葉がない雨緒紀は、棒立ちだった乃武綱が大きな溜息を吐くのを聞いていることしかできなかった。
     どうかしている、私は。だが死にかけたというのに、最近感じていた陰鬱さはいつの間にか雨緒紀の脳内から消えてしまっていた。脈動とともに腹から流れていく血が、裡に棲みついていた汚濁までもを排出しているように、もやがかかっていた思考を少しずつ鮮明にしていく。後に残ったのは、汚濁の底に沈んでいた慈しみという、あたたかな感情だけだった。
     それが残ってくれて、良かった。泣きはらした長次郎の目を見た時に競り上がったあの痛みは、気の迷いでも、ましてや幻でもない。確かにここに存在していた、自分の心なんだ……そう実感し、目の辺りに熱が集中したところで「俺は長次郎を探しに行く。お前はここにいろ」と告げる乃武綱の声を耳にした。
    「私も行く」
    「その体で行けるわけねえだろ」
    「連れて行ってくれ、頼む」
     懇願しながら右手を伸ばすと、乃武綱は一瞬目を丸くした。驚きに塗られた双眸がしょうがねえなあと言うのを聞いた雨緒紀は、その声が本心でなく乃武綱なりの快諾の返事ということを知っている。
     がしりと力強く掴んできた手は、自分よりも一回り大きなものだった。手袋越しでも分かる細く長い指は絡みつくという表現そのままに雨緒紀の手を包み込んでおり、その感触に蛇を連想したが、掌から伝わる熱は人間の体温そのものだった。
    「執行」
    「何だよ」
    「……殴って悪かった」
     ぶっきらぼうな声に、乃武綱は「今言うのかよ、それ」と声を上げて笑ってみせた。


     乃武綱に支えられた雨緒紀は、腹の傷に障らないように一歩一歩慎重に足を動かす。管理の行き届いていない山道は、平時ならば難なく進めるものの、重傷者には修羅の道に等しい。けれども乃武綱は、亀の歩みのようなこちらを急かすことなく、辛抱強く歩調を合わせてくれていた。ろくでなしのように見えて人を見ている男。その片鱗を改めて感じ取った雨緒紀は、その厚意に存分に甘えることにした。
     木の間を縫い、獣しか歩かないような荒れた道を進んでいると何かがつま先に当たり、転びそうになる。咄嗟に伸ばされた乃武綱の手にもたれ掛かり軽く息を整えているとふと、ああこれは人間の生き様そのものだ、という感傷が頭に浮かんだ。なだらかで障害もなく、なんの憂いもなく進める道など用意されていない。突然何かにつまづくこともあれば、誰かが手を差し伸べてくれることもある。そうやって人は前を向くことができる……。
     再び歩き出した雨緒紀は、もたげていた頭をしっかりと上げて進行方向を見た。
    「この先に崖がある」
     そう言って、前を指さす。確かこの辺りのはずだ。記憶を手繰りながら足先に神経を集中させ、最後のひと踏ん張りとばかりに力を込める。
     そこだけ抉られたように切り立った崖は、通常であれば人が寄り付くような場所ではない。山の真ん中ということもあり、陽の光が当たらず湿気でうっすらと苔が生えた斜面は、地中深くまで伸びた木の根や土肌が剥き出しになっており、険しさそのままに一直線に下へと伸びている。高さは隊舎の建物と同じくらいか。とはいえ、人が立ち入るような場所ではないことに変わりはない。
     少しでも足を滑らせてしまったなら真っ逆さま。ごくりと生唾を呑み込んだ雨緒紀は、吹き付ける風にあおられないよう崖のふちまで慎重に進むと、そろそろと下を覗き込んだ。
     絶壁の底に不自然に白いものが見える。土色に浮かび上がるようにして横たわるそれが人の形をしていることに気付いた時には考えるよりも先に体が動いていた。乃武綱の制止も聞かずに平素と同じ身のこなしで崖下に降りようと飛び出したが、直後、忘れかけていた腹の痛みが内臓を鷲掴み、雨緒紀の体がぐらりと傾く。脳が何らかの指令を出す暇もなかった。背中から地面に叩きつけられ、苦悶の声を上げると、雨緒紀は少しの間呼吸をすることができなかった。
     ようやく肺に酸素が行き渡ったところで首だけ動かして見ると、すぐ傍には傷だらけの腕が見えた。亀之助のものであろう、ぼろきれのような着流しから伸びた腕は、そこだけ輝いているように白い。
    「長次郎!」
     気を失い、だらりと四肢を伸ばして倒れる長次郎に近付いた雨緒紀は、首筋に指を這わせ、太い血管を探る。指先からとくり、と弱い脈拍を感じ取ると、次には汚れた頬に触れ、呼吸を確かめる。
    「長次郎、目を覚ませ」
     そう呼びかけたところで、背後で物音がした。乃武綱が降りてきたのだ。「上に運ぶぞ」と投げかけられた声に、雨緒紀は首を横に振ってみせた。目を覚まし、声を聞くまでは気を抜けない。先ほど小屋の中を覗いて筵を被せられた人間を見た時に感じた、全身の血液が凍り付くような怖気が熾火となっていた不安を膨張させ、雨緒紀を駆り立てている。
     頬を軽く叩き、肩をゆする。何故、どうしてお前は目を覚まさない。山本に、必ず連れ戻すと誓ったのだ。それともお前は、山本を一人にするつもりか……。
     死を与えることはできても、生を操ることはできない。人間の力ではどうにもならず、指先すらも触れることができない命の領域を目の当たりにしてどうしようもない無力感に、奥歯を噛み締めた時だった。蛹のように閉じた長次郎の瞼が小さく震え、ゆっくりと開かれたのだ。
    「……おうとがわ、どの?」
     溌剌さとは程遠い掠れた声に名前を呼ばれ、雨緒紀の中でこみ上げるものがあった。一気に押し寄せてきた感傷の波に呑まれ、人目もはばからず泣き出しそうになるのを必死にこらえていると、ぼんやりとこちらに焦点を定めた長次郎の瞳に何とも弱々しい自分の顔が映っているのが見え、はっと我に返る。こんなことでどうする。泣くのは後でもできるだろう。私は、長次郎の前で情けない姿を見せるわけにはいかないのだ。例え一時の迷いだったとしても、王途川殿のようになりたいと言ってくれたただ一人の前では、理想の姿を見せていたい。怜悧で、完璧に任務を遂行し、悠然と前を見据える、王途川雨緒紀という男を……。
     その思いを再確認すると、雨緒紀は唇を引き締めて長次郎へと向き直る。その耳に「王途川殿、申し訳ありません」という謝罪が入ってきたのは、すぐ後のことだった。
    「何故謝る……謝ることなど……」
    「私は……元柳斎殿を侮辱したあの者たちを……捕らえることも、倒すこともできず……こんな姿をさらしてしまいました。感情のままに動いた結果がこれです……元柳斎殿に合わせる顔もありません……」
    「そんなことない。山本は、お前の帰りを待っている」
     元柳斎の名前を聞いた瞳が、ふるりと揺れた。元柳斎殿、と呟いた声が頭上で木々がざわめく音と混ざり、静寂へと戻ってゆく。長次郎は残った力を振り絞るように首を振ると、投げ出していた手をわずかに動かし、そっと拳を握りしめた。
    「私は……未熟なままではいけないのです。もう何かを失いたくはないのです。せめて、手を伸ばした先にあるものだけでも……そのために、もっと己を磨き上げ……元柳斎殿の隣に立つのにふさわしい人間にならなければ……」
     弱った肉体のどこにそんな力が残っていたのか、その目に宿る光には底知れない熱情が滾っていた。長次郎の裡で燃える永遠の忠節が、そのまま煌めきとなって立ち昇っているかのように。痛めつけられ、傷つき、そうして打ち棄てられてもなお失われることのない元柳斎への思いに、雨緒紀はあの夜感情の一切を排斥し、追い詰められた先に見せた虚無を灯した瞳を脳裏に呼び起こす。
     ああ、そうだ。自分はあの目を求めていた。どんな時も感情に流されてはいけない。思ったことを顔に出さず、泰然自若と元柳斎の傍で構えていられるような人間こそが、護廷十三隊の礎となる死神の姿。長次郎の心が磨かれ、その在り方が形成された時こそ、尸魂界は永遠の平穏と安寧への第一歩を踏み出すだろう……。
     だが、そのために長次郎からこの輝きを取り上げなければならないのだろうか。どこまでも透徹した、まっすぐな思いすらも。自問した雨緒紀は、違う、と呟いた。心をすり減らし、内奥から目を背けて得られるものは、自分への嫌悪と消えることのないひずみ、そして嘲笑。長次郎にも、そうやって生きて欲しいのか……?
    「長次郎……私を恨め」
     ぽつりと落とした声に、隣の乃武綱がこちらに目を向けた気配がした。らしくない言葉だとでも思ったのだろうか。
    「私を恨んで生きろ。渦楽作兵衛を死に至らしめたのも、お前をここまで苦しめたのも、全て私の咎だと。そうすれば、お前は楽になる……」
    「……楽に生きようとは思っていません。この道を選んだのは私自身。だから誰かのせいになどしたくはありません。恨みというものは苦しみしか生まないのはわかっておりまず。そこから解放されるのは、死の間際ということも。それまでずっと、私は王途川殿を憎まなければならない……そんなの嫌です。誰かを恨んで生きるのは、潔くありませんから」
     噛み締めるように言葉を発するその胸には、おそらく作兵衛の姿が蘇っているのだろう。声の端々から抑えきれない哀しみと、優しさを含ませた長次郎は、何も言えない雨緒紀をじっと見返すと、過ぎ去りし日々を懐かしんでいるのかすっと目を細めた。薄い色調の瞳には疲労が滲んでいたが、その奥からは何にも砕かれることのない強い意志を感じた。
    「それにもう決めているのです……私の命はあのお方のものだと。私は、私の生の終わりがどんなに惨たらしく、痛みにまみれたものになろうとも、恨みなんかよりもあのお方を……元柳斎殿を思いながら、元柳斎殿のために逝きたい。王途川殿や執行殿のような死神になって……」
     愚直なまでの忠誠心は、しかし何にも代えがたい光となって長次郎を導こうとしている。例えこの先、雨緒紀や乃武綱といった今の護廷十三隊を担う人間がいなくなったとしても、その思いを受け取った長次郎は自ら必要なことを選ぶことができる。元柳斎のため、尸魂界のため、魂を衝き動かす光を糧に走り続けるのだろう。考えた雨緒紀は、自らを縛り付けていた戒めが完全に消え失せ、心が軽くなるのを実感すると長次郎の手を取り、握りしめた。
    「長次郎、お前はそのままでいい。お前はもう……立派な右腕だ」
     切れた口角をわずかに上げ、長次郎は微笑を作った。その笑みが瞳に薄く張った涙でぼやけそうになったところで雨緒紀の肩が叩かれた。素早く目元を拭い見れば、乃武綱は崖の上を指さしている。
    「おーい!」
     雨緒紀が顔を上げたところで声が降って来る。木々を背に、鍋の底を見るように顔だけを出してこちらを覗き込んでいる二つの影があった。千日と有嬪だ。ひらひらと手を振った二人は、地面を蹴って軽々と飛び降り、雨緒紀たちの傍に着地すると、まず最初に腕を組んで立つ乃武綱を見て顔をしかめた。
    「執行、お前やっぱりここにいたか。厳原が顔を真っ赤にして怒ってたぞ」
     千日が言うも、乃武綱は「へへっ」と悪戯っぽく笑って見せるだけ。悪びれる様子もない態度にそれ以上何も言うまいと溜息を吐いた千日は、次には長次郎の脇で座り込む雨緒紀に視線を向けると、わずかに瞠目した。
    「ん? 王途川、お前怪我してんのか?」
    「すまない、しくじった」
     「見せてみろ」と有嬪が隣に膝を付き、指を腹に当てる。血を吸った布越しに触れ、指先の感触で未だ熱が集中する傷口を探り、その大きさを診ていたところで不意打ち的に患部からびりと電流を思わせる刺激が走り、取り繕うことのできなかった雨緒紀は顔を歪ませる。その様子を眺めていた有嬪は「痛そうだな。こりゃあ無理に動かねえほうがいいぜ」と言い、それ以上触れるのを止めた。
     千日と有嬪は顔を見合わせると、互いに何かを確かめたように軽く頷く。
    「俺が先導する。執行は長次郎を、善定寺は王途川を運んでくれ」
     ぽんと肩に手を置かれ、雨緒紀は上を見た。にっと歯を見せて笑う顔と視線がぶつかったので「世話をかける」と告げれば、有嬪はしししといつもの笑いを返してくる。直後、背中と膝裏に手を差し入れられたため、雨緒紀は思わず声を上げる。
    「おい、まさか私は女のように横抱きで運ばれるのか?」
    「おぶってもいいんだがそれだと腹に響くからな。ちょっと我慢してくれよ」
     話しながら雨緒紀を軽々と抱き上げた有嬪は、先頭を行く千日と長次郎をおぶった乃武綱に続いて地面を蹴る。崖を登り、乃武綱とともに時間を掛けて進んで来た山道があっという間に過ぎ去っていくのを眺めていると、途中で景色の端に大きなクヌギの木が映り、思わず声を上げそうになった。作兵衛の墓だ。
     出掛かった声は、前を行く長次郎の視線もそちらに向いていることに気付き、引っ込むこととなる。おそらくあの場所を知っているのは元柳斎と長次郎、そして自分だけ。ならば、そうしたままにしておこう。乃武綱たちに教える必要も、いたずらに広める必要もない。そこに眠る死者が、永遠の平穏のもとで過ごせるように。長次郎もそう願っているだろうと思っていた雨緒紀は不意に有嬪に名前を呼ばれ、景色から目を離す。作兵衛の墓はもう遥か後方へ去り、見えなくなっていた。
    「俺、やっとおめえを助けることができた」
     唐突な言葉に、一体何のことだと訝しんでいると、有嬪は視線を前に向けたまま先を続ける。
    「おめえは、痛いって、苦しいって、辛いって、ちゃんと分かる人間なんだな」
     当たり前ではないか、と言い返そうとした頭に、いつかの風呂での有嬪の言葉が浮かび、雨緒紀は胸を鋭く突かれた気分になった。悲しい時は悲しい、苦しい時は苦しい、辛い時は辛いって言ったり、そういう顔をしなければ、自分にとって何が苦しいのか分からなくなる……伝えなければならないと、必死な顔で話してくれた言葉が今更ながら自分に届いたのだと知った雨緒紀は、言いようのない切なさがさざ波となって押し寄せてくるのを知覚し、喉が詰まった。
     有嬪を見ると、いつ助ければいいのかわかんねえと嘆いていた顔には笑みが浮かんでいる。その笑みに何かを言ってやりたいと思ったものの、何と言うべきなのかが思考の内側で形になる前に目からあふれ、幻のように消えてしまうため、瀞霊廷に戻るまで雨緒紀は言葉を発することができなかった。

      7

     こうやって天井を眺め、無為な時間を過ごすなど久しいのではないか。肉の下で疼くような痛みを感じながら、雨緒紀はそんなことを考える。安静を言い渡されてからまだ一日も経っていないものの、あまりの退屈さに息が詰まりそうになる。どこかのろくでなしのように遊びに行きたいとは言わないが、せめて職務に復帰したい……そんな実直勤勉な思考が脳裏をかすめ、何度目かの溜息を吐いた時、部屋の障子戸からひょっこりと顔を出した人物がいた。今まさに頭の片隅で悪辣な笑みを浮かべていた、ろくでなしだった。
    「長次郎の様子はどうだ」
     尋ねれば、乃武綱は手近な座布団を引き寄せ、どっかりと座り込んでから答える。
    「大したことなさそうだ。さっきもガツガツと飯を食ってたし」
     長次郎のことを思い出しているのか、その声色は他の人間を相手にする時のものよりもずっと穏やかだった。
    「長次郎が戻った時の山本の顔、見たかよ」
     不意に投げかけられた言葉に、雨緒紀は昨日自分たちを迎えた元柳斎の様子を思い出す。一番隊舎の門をくぐり、戻ったぞと千日が声を上げる前に元柳斎が隊舎から飛び出して来て、満身創痍の面々の顔をぐるりと見回した。その足には何も履いていなかった。そうして乃武綱の背にいる長次郎に目を留めるなり「ばかもん」と覇気のない声で怒鳴った元柳斎は、黒々とした太眉をわずかに下げると、ふ、と口元を緩め、無骨な指で長次郎の頬を撫でた。
    「あいつが一番、長次郎の身を案じていたのだろう」
     率直な感想を述べれば、こちらに向き直った乃武綱が「だろうな。普段は厳しいこと言ってるけどよ、山本も長次郎が大事なんだろ」と同意した。
    「ま、わからんでもねえぜ。あいつはいつだって山本一筋だ。山本が生きてきた中でそんな奇特な人間、いなかったからな」
    「たいていの人間はあの顔を見て逃げるだろう」
    「長次郎も、あんな雷親父のどこがいいんだか」
     いつもの悪態を吐いているもののその顔はどこか寂しげに伏せられていた。まるで子の親離れを名残惜しんでいる人間が見せる切なさが読み取れ、言うべき言葉が浮かばなかった雨緒紀は「長次郎はな」と重ねられた声が、静かな部屋に落ちるのを聞いた。
    「頑固者で真っすぐで、一度決めたことは死んでも守り通すようなやつだ。それが山本のことならばなおさらのこと。山本のために必要なことならば、自分の感情を殺して粛々とことを進めるぜ」
     その声に、小さく頷いた。それは作兵衛の事件があった夜、雨緒紀も実感したことだった。
    「だからこうも思うんだ。いつか、あいつは山本を守るために一人で無茶をして……そうしてボロボロになりながら戦って、死んじまうのかもしれねえって……」
     そう話す乃武綱の全身からは、長次郎が右腕としての責務を全うし、華々しく散ることを手放しで喜べないものの、自分はどうするべきか分からないと考えている一人の男の懊悩が漂っていた。この男ならばきっと、その時が来てしまったら長次郎を止めようと奔走するのかもしれない。
     一方自分はどうするだろうか。長次郎が元柳斎のために散ると決意したのであれば、その背中を押す役目は自分が担うこととなる。それが乃武綱と自分の大きな違いだ。長次郎自身を守る人間と、長次郎が望む姿へと導く人間。決して交わることのない二つの思いは、これから長次郎の内面を形成するために必要な要素となってゆく。守られ、導かれ、そうして他の人間の思いを受け取りながら磨かれた青年は、持ち前の透明さを失わぬまま凛然と元柳斎の傍らで生き、この世界の礎となるのだろう。
     けれども、できることならば背中を押さないままであって欲しいという願いが存在しているのも事実。「そんな日が来ないことを願うしかないな」と漏らせば、こちらを見下ろした乃武綱が驚いたように瞠目した。
    「はじめてお前と意見が合ったな」
    「そういえばそうだ。明日は雨が降るぞ」
     すっかり重くなった空気に「雨で済めばいいな」と気楽な声が投げかけられ、雨緒紀と乃武綱は揃って声の方へと目を向けた。部屋の入口には弾児郎が立っていた。腕を組み、障子戸に背を預けた弾児郎は神妙な面持ちの二人にへらりと笑って見せると「乃武綱、やっぱりここにいたか」と声を放つ。
    「おう、お前も来たか。まあ座れ」
    「おれも雨緒紀と話したいところだけど、そうもいかないんだよなぁ」
     歯切れの悪い返事に、雨緒紀は布団の上で首を傾げる。後頭部を掻き、今度は困ったような笑みを浮かべた弾児郎は、乃武綱の目を一直線に見つめると「乃武綱、山本が呼んでるぞ」と、一番隊舎の方角を見た。
    「お、もしかして、今回活躍したから褒美があるとか……」
    「ああ、ありがたいことに、たっぷりと説教がもらえるらしいぞ」
     「なんでだよ!」と乃武綱の叫び声が、部屋の壁を小さく揺さぶる。その様子に「そりゃそうだろ」と真面目な顔で頷いた弾児郎は、
    「今回のことは本当は山本がいち早く飛び出したかった。でも総隊長の立場もあったから仕方なく雨緒紀や千日、有嬪に任せた。それなのに命令を無視して隊舎を抜け出して長次郎のところに行かれたんだ。そりゃあ腹の虫が収まらんだろうよ」
    「それってまるっきり八つ当たりじゃねえか!」
    「ああ八つ当たりだ。ま、お前だって、山本の気持ちが分からんわけじゃないだろ? それにお前のせいでおれも共犯にされちまったんだ。仲良く行こうぜ」
     真正面から突き付けられた言葉に何も言えなくなったのか、乃武綱は小さな舌打ちを返しただけだった。納得していないわけではない、けれども行きたくない。子どもの駄々を見ているような顔を浮かべていた乃武綱だったが、やがて意を決したように唇と引き締めると勢いよく立ち上がり、弾児郎とともに部屋を出て行く。その長躯がもう雨緒紀を振り返ることはなかった。
     静寂が降りると、戻って来たのは退屈な時間だった。少し眠ることにするか。隊士たちの話し声だろうか、遥か遠くの喧騒を不明瞭な音として聞きながら瞼を閉じ、薄闇を見つめていると、開け放たれたままの障子戸から冷たい風が吹き込んできた。あいつに閉めて行かせれば良かった。内心で呟きつつも枯れた匂いが鼻腔をくすぐると、悪くない、などと思ってしまった。実りの秋が終わり、木々が眠る冬が近づいているのだ。
     あの戦争から何度目の冬だろうか。この世界を舐め尽くした赫々とした炎とは対照的な絶対の白が全てを覆う、無の季節。今年も寒くなりそうだと考えていた雨緒紀は、やわらかく吹き付ける風がぴたりと止んだことに気付いた。誰かが傍に来たのだと気付いたのは、瞼の裏の薄闇が濃密さを増したからだ。
    「おい、あざになるぞ、今からでも冷やしとけ」
     左頬に冷たいものが触れ、わずかに心臓が跳ねるのを感じながらそっと目を開くと、そこには笑みを浮かべた有嬪の顔があった。指先で触れると、当てられていたのは濡らした手拭いだった。
    「……必要ない。しばらく痣と過ごすのも悪くない」
    「強がっちまって」
     笑い声を上げ、目を細めた有嬪は、自分の頬を指さしながら「痛かったか?」と訊いてきた。
    「あいつの力で殴られたところで……」
     雨緒紀は、その先の言葉を続けることができなかった。痛くなかった。そう口にしてしまえば、乃武綱がぶつけてきた思いからも目を背けているようで嫌だった。
    「……そうだな、痛かった」
     「だが、私のような冷たい人間は、殴られても仕方がない」素直に告げた言葉に気恥ずかしさを感じ、つい普段の悪態が口をつくと、有嬪は頓狂な声を上げ、手拭いを押し当てる手に力を入れた。
    「冷たい人間? はあ? なに気取ってんだよ。長次郎のために駆けずり回ったり、殴られて痛みを感じる人間が、冷たいはずがねえんだよ」
     目線を下げ、雨緒紀を見た有嬪の目にはぬくもりが宿っていた。ああ、そうだ。この目だ。いつも自分を見守っていてくれたのは。怪我をした時、自分を大事にしろと案じてくれた時、もっと周りを信じろと告げた時……破滅へひた走る自分を救い上げてくれたのは間違いない、この眼差しだ。そう悟り、喉元から熱いものがこみ上げてくるのを実感した雨緒紀は、情けなく歪んだ顔を見られないよう有嬪から目を逸らした。
     その様子に何かを察したのだろう。「じゃ、俺は行くぜ」と有嬪が席を立った。
    「ああ……善定寺」
    「ん?」
    「……すまなかった」
     ししし、と独特な笑い声が鼓膜を揺らす。
    「そこはありがとうだろ?」
     それだけ言うと、有嬪は巨体を揺らしながら部屋を出て行き、どこかへ行ってしまった。
     雨緒紀は自分の手を見る。自分の腹から流れ出た血を吸った手袋の重さ、乃武綱の手を取った時の力強さ、そして、長次郎の首筋から感じ取った脈動を、今でも鮮明に思い出すことができる。命のぬくもりだ。自分を見つめ、他人と関わらなければ知ることのなかった、優しい熱。温度だけではない。頬を冷やす手拭いを持って来た有嬪の気持ちにも、紛れもないあたたかみがある。
     その熱があるからこそ、人は前に向けるのかもしれない。ぶつかり合い、肩を並べて戦い、何かを成し遂げ……痛みと慈しみを繰り返しながら、人は生きてゆく。そうして変わってゆく世界は、きっとまばゆい光を放っているのだろう。
     そんなことを考えていると、一番隊舎の方から怒鳴り声が聞こえた。どうやらここ最近で一番の雷が落ちたようだ。
     今日の説教はいつもより長くなりそうだ。口元に笑みを刻んだ雨緒紀は、もうひと眠りすべくそっと目を閉じた。


       《了》
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    Replies from the creator

    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
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