地獄への扉を叩くな 男はタバコに火をつけた。上がる煙の向こうには、鼻筋と唇のはっきりとした女が目をつむったまま横たわっている。
(見覚えがあり過ぎる)
いつか。もう遠い、濃い思い出と自分の名前の重さの隙間。日常、と呼べるものだったかもしれない。男は親友や後輩と予定のない日は、たまにこうやって仕事の疲れか死んだように眠る女を見下ろしながらタバコを吸っていた。
理由はもう思い出せない。単純に職場から近い女の家を寝床として利用していただけかもしれないし、彼女の子と一緒にニチアサを見るのが楽しかったのかもしれないし、一流のレシピからショートカットしまくった結果形になったもののイマイチ物足りない素人料理を彼女の息子と微妙な顔をしながら食べるのがクセになっていたのかもしれないし、酒の勢いで寝たこの女が思いの外良かったのかもしれないし、単なるきまぐれが長引いただけかもしれない。でも気まぐれというにはあまりに頻繁に女の家に足を運んでいた。男にとっても、女にとっても、子にとっても、男は家を形作る一員だった。
────まあ、後のことを考えれば地獄のような光景だっただろうけれど。
覗き込んで寝息を確かめる。口元に皺が寄っていた。
(まあ、俺もこいつも年を取ったが)
彼女は眠っているぐらいがちょうどいい。だけど、一方であの強い目が男は嫌いではなかった。あの日々の中でも、男は難儀なものだと嘆息していた。彼女が眠ったままでは彼女を眺めることはできない、しかし起きてしまったらあの正義感の強い視線を浴びることもできない。
眠り続ける女を見下ろしながら、男は、上がる煙が線香を彷彿とさせ、白く冷たくなっていく、友人を見ながら吸った一本を思い出した。
────まるで、死人みたいだ。
まあ、俺も彼女も死人のようなものだけれど。男が笑う。
死んだら、その正義も目標もなくなってしまう。
男はさらに女に手を伸ばす。皺がよった首の頸動脈を確かめるとさらにほっと息を吐いた。冷たくもない。
「ん、」
その息がかかったのか、彼女の記憶よりも薄い瞼が上がって灰色の目が男を見た。焦点が合う。女が男を見る。
瞳に光と激情が灯る、眠っていたはずの女は蹴りを繰り出す。
やっぱり寝ていた方が良かったのではないかと、思った。
料理も掃除も苦手、足癖と性格が悪い、そして気が強すぎる、正義の女神にも母親にもなり損ねたただの初老の女。
(でも、)
何年経ってもイイ女だな、と。名前を背負う覚悟をした割には間違いばかりだった初老の男は思った。
「…………ッ」
「残念。俺もお前も、拳銃を所持していない」
とっさにホルターの位置に手を伸ばした菅野未守に、伊田正義は贅沢にも灰皿にタバコを押し付けると手を振って笑った。
「何?」
「大丈夫か試したんだよ。死体と一緒にされたくないからな」
ニ人が目覚めたのは正義と未守が目を覚ました場所は古い病院だった。お互い入院着のようなものを着て、お互い古びたのベッドに寝かされていた。拳銃は当然のこと、お互いが直前まで所持していたものは何もなかった。
「最悪」
菅野未守。元警察庁の参事官でありスタンドの創設にも携わるなど数々の功績を積み警察庁の正義の女神とよばれていたが、同時に世界最恐の薬物組織トランスクラブのトップでありかつ特事執行部を率いていたことを指摘されスタンドとマトリに捕捉される。
「俺の代弁か?」
伊田正義。元警視庁捜査一課の刑事だったが、名無し事件の真犯人の容疑者として追われて退職。その後名無し事件の関係者にちょっかいを出して、最終的に自分の正義を貫くための狂言だったことを証言してそのまま逃走。
どちらも法を犯し自分の正義のために沢山の人生を狂わせた極悪人だ。
お互いが目の前にいるのがお互いであるゆえにこれが夢であると二人は結論付けた。二人はかつて恋人同士だった。しかし、未守が正義の友人だった日比谷優希を名無しにした時から、いや正義が犯人になる決心をした時から、いや未守がトランスクラブに潜入した時から、いや正義が自分の名前を背負うと決めた時から、いやもうはじまりから全て。どこから道を違えたかは分からないが、少なくともお互いが死人となった名無し事件が終結したあの日から次はない。だから、これは夢なのだ。
「最悪の悪夢。人生最後の夢に出てくるのがマサヨシなんて」
そして、お互いこれが自分の夢だと思った。何故なら隣にいる人間を除いて、元いた場所に似ていたからだ。
「へぇ」
「何その顔」
「いや、俺は身体の寿命。お前は?」
「……私は法で定められた寿命」
殺伐とした空間の中で二人は笑った。
「……まあ、どちらの夢の中でもアンタに最悪な思いをさせられるならいいか」
「違いない」
「ン」
「ン?」
「持ってるんでしょ。一本頂戴」
ああ、と正義は中身の少ないソフトパックとライターを未守に投げた。未守は慣れた手つきで受け取って、火をつける。こういうこと何度もあったな、と伊田は思った。
「色々思い出して最悪」
「相変わらず口が悪いな、一本返せ」
「ン」
またそれらを受け取ると、伊田はもう一本火をつける。
「健康に悪いわよ」
「俺は肺がんじゃないが?」
「フフ、映画みたい」
「テキーラとレモンと塩でも探すか?」
「"浜辺にて、海から吹く潮風を嗅ぐ。臓腑にて完全なる自由を感じる"」
「"唇で去りし恋人のほろ苦いくちびるを味わう"」
「最悪、タバコがまずい」
「は "海を見たことがない"」
「……"ウソだろ、一度もないのか?"」
「"ああ、一度も"」
「…………」
「"天国への扉を叩いてる俺たちが酒を浴びている"」
正義が立ち上がった。足元には薄汚れたスニーカー。
「……」
「"つまり俺たちには怖いものはなし"」
「何?」
「ん? いいだろ、一回ぐらい。俺たち海なんて見たことがなかったし」
「確かに。私たち忙しかったし、天国で今海が流行っているらしいしね」
未守も立ち上がる。パンプスを履いた。足はあるらしい。
「ああ "壮絶な美しさを語り合う"」
「"そして、海によって いかに太陽がその力を失うのか語り合う"」
「"残るのは心の中の炎だけ" 優と語り合うためにいくか」
「いいわね」
二人で灰皿にタバコを押し付けた。さあ、どの車を奪おうか、ギャングを振り切ろうか、最後の夕日のない海はどこがいい?
(俺たちがいくのは地獄だろうけれど)
夜明け前、服部耀は目を覚ました。
「――――――は、」
じっとりと脂汗をかき、身体に張り付いた寝間着が気持ちが悪い。息が上がって苦しい。音をたてないように呼吸を整え、ボタンを外す。ベッドサイドに置いていた控えな飲みかけのペットボトルを手にとり、全部流し込んだ。
服部は名無し事件の終結の少し後まで、立ち止まって思考の海に沈むたびに同じ夢を見た。繰り返し繰り返し何度も何度も見た。途中から自分よりも若くなってしまった伊田正義から思わせぶりな口調でわかりづらいアドバイスをもらう夢。もう、しばらく、数年、見ていなかったけれど。「もう追うな」「もう背負うな」と何度も夢に出るマサヨシさんを振り切ったからかもしれない。
(今思えば、あのマサヨシさんは俺の想像かもしれないけれど)
服部は久しぶりにマサヨシさんの夢を見た。
伊田正義と菅野未守が病院で目を覚まし、タバコを吸い、海を見るために意気揚々と病院を抜け出して――――そこまではよかった、奪った車は薬を大量に積んでいた。きっと、プラスゼロの原料だろう。そこで二人は顔を見合わせた。そして、お互いのやったことの尻拭きとして、そのまま追手を振り払いつつ海へと車を走らせる。そして、たどり着いた赤い太陽が落ちる海で――――――いつしかの映画をなぞった台本がはちゃめちゃな逃走劇だ。あまりに彼らに都合が良過ぎるし、何より彼らもあんなやり方で自分たちの罪が雪げるとは思っていないだろう。馬鹿馬鹿しい、無駄な、夢だ。
そう、無駄、なのだ。だからこそ。
都合のいい夢なんてもう十五年以上何度も見てきた。
普段であれば、流せていただろうに今夜は頭にひっかかる。どうやら疲れていたらしい、最近は昼寝をする時間もなかった。
しかし。服部は、上に決裁を回した書類の日付を思い出す、罪に厳しい法務大臣を思いだす、最期に面会した日の控えめに言っても美しかった菅野未守の笑顔を思い出す。同時にら新堂清志が未払いの治療費を服部へ請求しにきた日(九条家にまわせばいのに)独り言のように語っていた医療費明細書の中身を思い出す。
もしかしたら、昨晩はあの日だったかもしれない、と。
そのとき、突然電話機のベルが鳴り響いた。非番であっても、帰宅後であっても、事件は待ってくれない。警視庁のそれも警視庁捜査一課長の家には本当に緊急用の電話線が引かれている。
服部は迷わず受話器をとった。
「………………はい、服部」
機嫌の悪い声に「おやすみのところすいません」と、向こう側で震える声で謝まられた。ほんとうにねえ、と返しつつ要件を尋ねると声の震えはとまった。ほう、と服部が息を吐く。
「先ほどN県の海岸にヤクを置いたと通報? 報告? がありまして」
「発信者は?」
「それが分からずじまいで」
「じゃあ裏は?」
「勿論です。近くの交番の者に行かせてます」
最初に電話に出た時は頼りない男だと思ったけれど、思いの外腹が決まると強い男らしい。すいませんの前を思い出していると、電話先の男は続けた。
「N県の海岸に乗り捨てられていた黒いベンツに大量の薬物と思わしきものが積まれていたそうです。鑑定はまだ、ですが、近くには古いスニーカーと薄汚れたパンプスが────」
久しぶりの伊田正義の夢。あの、二人にとってのエックスデー。黒いベンツ。大量の薬物。スニーカーと、パンプス。
────本当に手のかかる先輩たちだこと。
「…………ハッ」
受話器の向こうで「耀さん?」と声が聞こえる。
すぐいくといいつつ、受話器を置いた。いつものモッズコートを羽織って、古びた重いジッポをポケットに放った。
(何が、俺たちの行くところは地獄だろうけれど、だ)
死んだくらいで逃げられたらたまらないそういったのはあんただろうが、と服部耀はひとりごちる。
地獄になんて行かせない。だって優しくてマトモな優希さんがらいくのは、きっとそこじゃないから。そして、服部自身も地獄にいく気なんてさらさらなかった。でも、伊田正義を逃す気なんてない。
刑事として殺人罪は冒していなかったにしても微罪を見逃すわけにはいかないし、日比谷優希と二人であなたは馬鹿だとぶん殴らないと気が済まない。だとすれば──
俺を追うな、そう言ったマサヨシさんの顔が服部の瞼の裏に浮かぶ。
(俺が天国に送るんで、絶対に首根っこをつかんでいてくださいよ、優希さん)
参考: ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(1997)