9月の新刊の進捗①久しぶりに彼を見た。ただの男だった。
過ぎ去った過去は時間という波間に消え失せて、ただその鮮烈な香りを脳に植え付ける。
「服部さんが煙草を吸うときに何考えているんですか」と酔った勢いで絡んできた酔った部下が誰だったのか、「何も考えないため」と言い放った青い服部自身は何歳だったのか、そしてその言葉は真実だったのか。思い出せない。そんな会話が、言葉が、吐き出した息があった。たった、それだけなのにその事実はとても忘れられそうにもない。
でも。それは服部耀自身にとって、の話だ。
(この人も、そうだったのかもしれない)
風が吹いた。ゆるい立ち消えるタバコの煙ぐらいの、その程度の存在だったのかもしれない。
人影のない屋上。手の届かない距離。いつかのようにその人はタバコを吸っていた。
「……」
しかし、彼は何も言わなかった。語らない様は、久しぶりに一瞬の再開を果たした彼そのままだった。繰り返し見ていた服部の悪夢からは15年ほど年齢を重ねた伊田正義だった。
(この人も歳を取ったな)
整えられた妙に艶のある黒髪は伸び切って風に揺れていて、常にニヒルな笑みを浮かべていた頬は海外生活のせいかそれともずっと親友の最期を考えていたせいか痛みこけ、新入りだからネクタイぐらいちゃんとしろと言っていた嫌みのない程度の品のいいスーツやよれてあとかたもなく、タバコを支える指はシミや古傷がのぞいている。
(15年は長い)
自分にできる全てできることをやった上で願掛けのように伸ばしはじめた髪が、撃たれて宙を舞うぐらいに。
はじめて服部耀が伊田正義と会ったとき、自分も十年ぐらい経てばこうなるのだと思った。服部耀が三十歳の誕生日を迎えたとき、夢で逢った別れた日のままの伊田正義を見て意外に若いなと思った。再開を果たした今、記憶の中の年の割に若いが夢とカリスマ性と友情に溢れた青年はどこにでもいそうなさえない中年になったと思った。しかし一方で、夢の中の先輩である伊田よりも血の通った、1人の男のような印象を受けた。そんな男に瓜二つの目の前の男はいつかのように、灰が落ちることを指摘することもない、耀と呼ぶこともない、服部の思うまま服部耀の思う言葉をかけることもない、皮肉っぽく人の揚げ足を取ることもない。ただぼんやりとタバコを吸うだけ。そんな伊田を服部は眺めていた。ただ、ただ、日の落ちた、朝までの猶予の中で。
奇妙な心地だった。これは服部耀の夢で、伊田は服部の思った通りの言葉をかけることができる、しかしそれは伊田正義の言葉ではない。不毛だと思う。実際に思う通り―親友の死について真実を語った―伊田に不毛だと言って、苦笑されたこともある。馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでも繰り返した。だけど、今日は何も言わない男に何か話さないのか、と思った。最近見る夢のせいだろうか、若い頃のように不毛な願望を抱く自分にほとほと嫌な気持ちになりながら、同時にそれでもいいと思った。どうせ夢なのだ。何も話さなくても、何も言わなくても、自分のやったことを否定しなくても――刑事として失格だろうか。だけど夢の中でぐらい、伊田正義と服部耀でいたかった。あの最後と同じように。
生ぬるい悪夢の中で、服部耀は灰を落とすことなくタバコを吸っている。しかし、思い通りにならないのが悪夢というものだ。
こつ、こつ、こつ。
脳内に一つの足音が響き渡る。恐らく屋上へヒールで上がってくる音だ。ここは駐車場で、女性が一人で階段を上る音なんて珍しくもなんともない。しかし、服部耀の心は大きく急き立てられる。同時にやめてほしいと思った。
何故、何故か。その理由を探す間もなく、またそんな訴えを聞く間もなく、足音が大きくなる。物言わぬ伊田正義に向っていた意識がだんだんと、そちらに吸い寄せられていく。そうしているうちに急に──声で、腕で、唇で、爪で、引き寄せられるように、服部耀の呼吸は苦しくなった。まるで海に引きずりこまれたように、何もかもうまくいかない。
大きな波にさらわれるように意識が放り出されて、独特の香りがする深いところに沈められて、もがけばもがくほど絡めとられて、でもそこはどこかあたたかくて、もし可能であればずっとそこにいてもいいとさえ思った。認めてしまえば、受け入れてしまえば、それなりの息ができると思った。深海生物のように。でも同時にそれでいいのか、と思う。
海じゃない。タバコの香りがする。ふと意識をそこに戻すと、そこは変わらない屋上。安堵の瞬間、ガチャリとドアのぶが回る音がした。冷たいと思っていた風が頬を撫でて、いつの間にか濡れた髪の毛が額にはりつく。
キイと音を立てて開いたドア。陸での呼吸の方法なんて忘れてしまったみたいに、苦しい。だけど振り向かずにはいられなかった。だってそこにはずっと得たかった答えがあるかもしれないのだから。
しかし。
「…………」
そこには何もいなかった。そもそもいてほしくなかった。よかったと振り返る。するとそこには、タバコを吸っていたはずの伊田正義はいなかった。
“じゃあな、耀”
「正義さ、「服部さん」」
呼ばれた名前に、ふりかえる。まぶしい。そのまま手を取られる。布団に沈む。息をとられる。キスを交わす。
「……」
なんの準備もできないまま、朝を迎える。
人生とはそういうものだ。